北浦海軍航空隊跡地 [├空港]
2012年9月訪問 2021/7更新
撮影年月日1947/10/25(昭22)(USA R373 34)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県潮来市にあった「北浦海軍航空隊」。
北浦西岸に位置しており、前記事の鉾田飛行場の南約16kmにあります。
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:北浦水上基地 建設年:1941 飛行場長x幅 米:滑走台550x45コンクリート 主要機隊数:小型練5.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 其ノ他記事:水道 土地33坪(借地) 價12,617圓
また、「防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」には、
「北浦空開隊(S17.4.1)(昭16建)」とありました。
ここは水上機用の飛行場で、1947年の写真(下記リンク参照)を見ると、ビックリするほど当時の様子が残っています。
一時期ここに80機の水上機が配備され、2,000人を超える隊員たちが日夜訓練を行っていました。
赤マーカー地点
スリップ跡の背後には廃墟となったホテルが。
「国有財産」。水上機云々という説明は特にありませんでした。
青マーカー地点。「皇太子明仁殿下御行啓記念」の碑が建っていました。
左下には、「北浦海軍航空隊跡地 第二十九期飛予科練卒 元海軍航空隊員 大谷英助書」と記されています。
裏面に碑文がありました。
(全文)昭和十六年十月霞ヶ浦海軍航空隊北浦分遣隊が大生釜谷両地区の水田約五十町歩を買収し七戸の農家を移転させて航空隊建設に着工し完成致しました。昭和十七年四月北浦海軍航空隊として開隊し水上飛行機訓練場として若鷲予科練の若人育成に大きな役割を果しました。 昭和十九年五月三日、四日、皇太子殿下に?は学習院初等科第五学年で学友五十五名と共に当海軍航空隊を御訪問飛行訓練など御見学なされ御宿泊になりました。当時私達大生原国民学校生徒全員が御歓送迎の行事に参加出来ましたことは誠に意義深いものと考えここに交代し殿下御行啓の地と記し北浦海軍航空隊跡地として後世に伝えるため記念碑を建立します。平成三年十二月二十三日 碑文 委員長
茨城県・北浦海軍航空隊跡地
北浦海軍航空隊 データ設置管理者:旧海軍
種 別 :水上飛行場
所在地:茨城県潮来市大生
滑走台:550mx45m
座 標:N36°00′03″E140°33′40″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1941年10月 完成
1942年04月 1日、北浦海軍航空隊開隊
1944年05月 皇太子殿下御見学
1945年05月 練習航空隊としての機能を果たせなくなり解隊。
08月 北浦航空基地となり終戦を迎えた。
関連サイト:
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この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)より
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
鉾田(豊鹿島)飛行場跡地 [├空港]
2012年9月訪問 2022/4更新
撮影年月日1947/11/07(USA M635 2)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県鉾田市にあった陸軍の「鉾田(豊鹿島)飛行場」。
前記事の百里飛行場の東南東約14kmにあります。
現在も地割がハッキリ残っており、跡地は畑地、宅地になっています。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に 1/10,000 豊鹿島陸軍飛行場 があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。
同資料の情報を以下記させて頂きます。
位置
茨城縣鹿島郡新宮村
滑走地区
二四八五二四三平方米
大型機用
付属設備
居住施設は約一〇〇名を収容し得
本校として施設 二ピスト
周囲の状況
東方は概して低く畑地に接す 南方は大方松林にして
一部縣道横断す畑地に接す 西方は山林にして凹地多
し 北方一部畑地に接し縣道を距て凹地連続せり
気象
恒風北西風 副方向北東
最大風速 二九八米/秒
最大降雨量 二〇〇.九粍/日
交通通信 航法施設
鹿島参宮鉄道 鉾田駅 八.六粁
電話 鉾田 一三三番
汲上郵便局 南 三粁
鉾田郵便局 西 四,五粁
其の他
憲兵 茨城縣大浦市内西町
大浦分隊
警察署 鉾田警察署 西 四.五粁
■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中に当飛行場の地図があり、
先頭のグーグルマップは、この地図から作図しました。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
「鉾田陸軍飛行場 茨城県鹿島郡新宮村 36°8′6N 140°33′5E」
面積 北西-南東1,570米 北東-南西1,300米
地面の状況 概ね平坦にして植芝密生す 硬度は普通なるも降雨長期に亘る際は稍軟弱と為る
目標 霞ヶ浦(北浦)、鹿島灘、鉾田町
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(70x40米)3、(40x50米)3棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 (記載なし)
給油設備 航空用燃料補給し得
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 11月-翌年3月間は西風多く、4-9月間は南風、10月は北風なり
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 (記載なし)
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 豊鹿島
位 置 茨城県鹿島郡新宮村
規 模 要図(東西1400 南北1600)
舗 装 六〇×一二〇〇米
基礎砂利圧入
表層コンクリート(一、三、六)
一二糎
付属施設
収容施設 一八〇〇名分
格納施設 掩体 大五六ヶ所
摘 要 施設軍有
跡地南側にある球場。
そして球場の隣りには-
赤マーカー地点。
鉾田陸軍飛行学校の顕彰碑があります。
裏面に碑文がありました。
建立の記(全文)
鉾田陸軍飛行学校は、昭和十五年十二月旧上島白鳥両村約八百町歩、旧新宮村四百町歩の地域に開設され、軽爆、襲撃飛行隊幹部の教育訓練並びに研究が行われていたところである。大東亜戦争いよいよ熾烈となるや、本土防衛のため、昭和十九年六月鉾田教導飛行師団となり、翌二十年七月主力を以つて純作戦部隊として第二十六飛行団に改編された。この間、特攻隊が生まれ訓練の基地となり、我国特攻隊として最初に編成された万朶隊を始め、鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊四隊、神鷲隊十二隊、外四隊計二十四隊が編成された。うち十一隊計六十七名が、比島、沖縄及び終戦直前の鹿島灘東方洋上作戦に参加し、特攻散華されたのであつた。なお学校訓練並びに新編成部隊の昼夜を分かたぬ猛訓練のため、幾多の将兵が殉職されたところである。戦後すでに二十九年、当飛行場跡は徒らに荒廃を極め、往時を回顧すべき何物もないのは洵に痛恨の至りである。茲に於て、地元有志並びに戦友相諮り殉国の英霊を顕彰し、その鎮魂と世界平和の祈りをこめて、ここに鉾田陸軍飛行学校顕彰碑を建立した次第である。昭和四十九年十月梁瀬健吾 撰文
ここから特攻が出たのですね。
茨城県・鉾田(豊鹿島)飛行場跡地
鉾田(豊鹿島)飛行場 データ設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県鹿島郡新宮村 (現・鉾田市大竹)
座 標:36°8′6N 140°33′5E
標 高:41m
面 積:248.5ha
飛行場:1,600mx1,400m
着陸帯:1,400m×1,200m
舗装滑走路:1,500mx80m
方 位:16/34
(標高はグーグルアースから)
沿革
1940年12月 開設
1944年06月 鉾田教導飛行師団となる
10月 陸軍初の特攻隊
1945年02月 爆撃により大損害を被る
07月 第二十六飛行団に改編
08月 終戦。接収を経て入植者が入る
関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
百里飛行場(茨城空港、旧海軍百里ヶ原航空基地) [├空港]
2012年9月、2023年9月訪問 2023/10更新
撮影年月日1947/11/07(昭22)(USA M635 78)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1/50000「石岡」昭和15年二修「今昔マップ on the web」より作成
SkyVector.com
茨城県小美玉市百里にある「百里飛行場(茨城空港)」。
元は旧海軍の百里原航空基地でした。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真等から作図しました。
残念ながら付属施設の集中する西側部分の飛行場境界に関する資料が見つからないため、
航空写真から主観で引いてあります。
上に貼った今昔マップは、西側部分の飛行場境界に関してある程度判断材料になるのですが、
この地図は終戦5年前の昭和15年のものであり、終戦から2年後の航空写真と比較すると、
明らかに施設、敷地が増えています。
この頃は飛行地区周辺の誘導路、掩体壕建設もまだのようですね。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
位置;茨城県東茨城郡橘村 基地名:百里原 最寄駅よりの方位 距離粁:参宮線小川駅NNE6 建設年:1936 飛行場長x幅 米:1,600x1,300芝張 用地面積(除飛行場):560.861坪 格納庫:小型200機分 収容施設:3,000名 工場倉庫:各建物計23,149坪 教育施設:講堂 着陸演習機 主要機隊数:中小型計5.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明、魚雷同時調整8本 同格納庫72本 掩体:中型有蓋10 中型無蓋3 小型無蓋142
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「百里原空開隊(S14.12.1)(昭11建)」とありました。
戦後は農地を経て再び基地となりました。
現在は航空自衛隊百里基地の管轄する飛行場で、関東唯一の戦闘機部隊が配備された基地であり、
首都防空を担当しています。
海軍当時、付属施設は敷地西側にありましたが、現行の滑走路を挟んで反対側に移ったのですね。
2010年に滑走路を増設、ターミナルビル等整備してLCC型の茨城空港が誕生。共用化されました。
ターミナル、駐車場等の諸施設は、海軍当時の付属施設のあった場所の南側に位置しています。
広々とした展望デッキ。
デッキは非常に高いガラスで囲まれており、このガラスが非常に不思議なことになってます。
百里基地とは滑走路を挟んでお向かいさんなのですが、
当ターミナルビルは滑走路の南側に位置しており、デッキから見て百里基地施設は左側にあります。
この特殊ガラスのおかげで、デッキから基地側を見ることができないようになっているのですが…
立ち位置を右側にズラすとアラ不思議! 今まで真っ白に曇っていたガラスも、基地以外はちゃんと見えるようになります。
不思議ですね~。
ネットで調べたら案の定これが大不評^^;
空港対策課からの回答が公開されており、要約すると、
「共用空港としての特性から、基地保全のためとられているやむを得ない措置」
なのだそうです。
外周から基地は覗き放題なのですが、ここのアングルからは見て欲しくないものがあるのでしょうか。
2014/4/23追記:ブログ「馬さしのカッパ」のbasashiさんから情報頂きました■ この特殊なガラスは現在使われておりません。
Photo:basashiさん
ご覧の通りで基地方向が見えるようになりました。
ガラスを交換したのは2014年3月なのだそうです。basashiさんどうもありがとうございましたm(_ _)m
震災時、天井から部材がバラバラ落ちてきた記憶がまだ生々しい ターミナル内部。
茨城空港はLCC用に特化した造りをしており、
旅客機はエプロン内にぐーっと旋回しながら進入して駐機し、
出発準備が整ったならば、そのまま自走して滑走路に向かうことができるようになっています。
これによりボーディングブリッジ、プッシュバック、そのための機材と人員を省くことができるようになりました。
これは折り返し時間の短縮、航空会社の費用削減等、LCCにとって大きなメリットとなります。
また、ターミナルビルは出発客、到着客共に1Fに集約され、コンパクトな造りになっています。
館内は最初から費用を抑えた造りになっており、外観、内装共に凝ったつくりは当然ないのですが、
「チープ」という感じはしませんでした。
分かりやすいターミナルです。
2011年10月には、「ローコスト・エアポート・オブ・ザ・イヤー2011」を受賞しました。
受賞理由は、「茨城空港が航空会社に適した環境を提供し、LCC運航のサポートを実施することで、東京北部やその近郊への『価値あるアクセスポイント』として機能している点。また、今年3月に発生した東日本大震災の被害にもかかわらず、LCC対しに優れたサービスを継続したこと」なのだそうです。
滑走路北側から。
外周に9時から2時間ほどいたのですが、自衛隊機が盛んに離着陸を繰り返していました。
新千歳から到着したスカイマークSKY790便。
オイラが見た唯一の民間機。
(以下2023年9月)
ヒコーキ関係のガチャがあればやりたかったんですが、皆無でした。にゃー!
茨城県・百里飛行場(茨城空港)
ビュー:☆☆★★★
展望デッキ無料。広々しているが、高い特殊ガラスで覆われ、視界が限定される
撮影用小穴なし。デッキ入り口に写真と簡単な説明がある他は展示物等特になし
施設:☆☆☆☆★
キレイで分かりやすい館内。安っぽさは感じない。むしろレイアウトに配慮が感じられる
レストラン、カフェ、売店には百里基地、ブルーインパルス関連グッズあり
約1,300台分の無料駐車場
マニア度:☆☆☆★★
ターミナル横に展示機あり
外周に撮影ポイント複数(脚立があると便利)
総合:☆☆☆★★
2012年現在、国内線は神戸、新千歳2往復。沖縄1往復。いずれもスカイマークB737
国際線は上海便1往復(月・火・木・金・土・日) 春秋航空A320。仁川便は運休中
利用者数の推移は、開港したH21年度利用者数:8,506人、(以下同様)H22年度:203,070人、H23年度:293,203人
となっており増加しているが、国土交通省の当初の需要予測は807,000人であり、 690,000人に下方修正されたが、
実績はこれと程遠い。現状では国内線はスカイマーク、国際線はアシアナが運休中で中国のLCC春秋のみ
今後どれだけLCCと利用客を呼び込むことができるか
・百里原航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県東茨城郡橘村
面 積:0.19ha(除飛行場)
飛行場:1,600mx1,300m(芝)
(データは防衛研究所資料から)
・百里飛行場(茨城空港) データ
設置管理者:防衛省
3レター:IBR
4レター:RJAH
空港種別:共用空港
運用時間:24時間。(茨城空港は9:30~21:00)
所在地:茨城県小美玉市百里
座 標:N36°11′00″E140°25′14″
標 高:32.5m
面 積:460ha
滑走路:2,700m×45m(03R/21L)、2,700m×45m(03L/21R)
沿革
1936年 建設
1939年12月 1日、海軍百里ヶ原航空隊開設
1945年08月 終戦。 開拓農民が跡地に入植
1955年 地元で基地誘致運動、反対運動起こる
1956年 基地設置決定
1958年 百里分屯基地設置
1965年 百里飛行場が完成
1966年07月 百里基地として正式発足
1967年 第7航空団司令部が入間基地から移駐
1975年 偵察航空隊が入間基地から移駐
1993年05月 茨城県、百里飛行場民間共用化可能性調査実施
1995年08月 県、百里飛行場民間共用化構想発表
1996年03月 茨城県百里飛行場民間共用化推進協議会設立(県及び14市町村)。以後、運輸省・防衛庁に共用化を要望
1997年07月 茨城県百里飛行場民間共用化推進協議会の構成団体、県・22市町村・34経済団体に拡大
12月 第7次空港整備五箇年計画が閣議決定
当時の運輸省資料において、「百里飛行場の共用化について引き続き関係者と調整を行うこととし、
結論を得た上で所要の整備を図る」と記載
1998年03月 主として民航が使用する新たな滑走路を現滑走路の西側210mの位置に設置するとの基本指針確認
2000年04月 民間共用化事業として事業化
07月 空港整備法施行令の一部改正により、百里飛行場が共用飛行場として指定
2001年02月 茨城県、百里飛行場エアフロント検討委員会設置
03月 茨城県、百里飛行場ターミナルビル検討委員会設置
2003年05月 茨城県、百里飛行場利用促進検討委員会設置
2005年04月 国土交通省百里飛行場事務所開設
07月 百里飛行場民間共用化事業起工式
2006年 茨城県、空港公園、空港駐車場を事業化
2007年01月 公募の結果、愛称「茨城空港」に決定
10月 茨城県開発公社を旅客ターミナルビル営業者に選定
2008年11月 旅客ターミナルビル建設開始
12月 新滑走路完成
2009年 新滑走路完成供用開始。現滑走路の改修工事着手
02月 アシアナ航空、茨城-ソウル便の就航を表明
11月 国土交通省、航空法の規定に基づく告示。開港日平成22年3月11日に決定
2010年02月 スカイマーク、茨城-神戸線の就航を表明
03月 06日 東関東自動車道 茨城空港北IC - 茨城町JCT間開通。
11日 開港。官民共用開始。アシアナ航空、茨城-ソウル線就航
04月 スカイマーク、茨城-神戸線就航
05月 茨城空港-東京駅間に直行バス運行開始。航空機利用者は片道500円
06月 春秋航空、茨城-上海線の就航を表明。スカイマーク、茨城-神戸便の運休を発表
07月 スカイマーク、茨城-神戸便の運航再開と、札幌便・中部便の就航計画発表
春秋航空 茨城-上海間プログラムチャーター便第1便就航
09月 スカイマーク、1日~30日まで茨城-神戸線運休(基地主導の空港運用に対する抗議)
10月 スカイマーク、1日より茨城-神戸線運航再開
2011年02月 スカイマーク、茨城-新千歳線・茨城-中部線就航
03月 11日 震災発生。ターミナルビル被災。
12日 震災により13日まで全面閉鎖。14日から営業再開。アシアナ航空、春秋航空欠航
04月 春秋航空、運航再開。アシアナ航空は需要が回復するまで当面運休
05月 ターミナルビル来場者通算100万人を達成
06月 茨城-札幌(新千歳)線が1日2往復に増便。茨城-名古屋(中部)便は運航休止
10月 ローコスト・エアポート・オブ・ザ・イヤー2011受賞
2012年03月 スカイマーク、茨城-神戸線1日2往復に増便。春秋航空 上海便が週6便に増便
05月 春秋航空 上海便を利用した貨物の取扱いを開始
06月 春秋航空 上海便が定期便化
07月 スカイマーク 茨城-那覇線が季節定期便として就航
2020年03月 24日、海外向け愛称変更に関する有識者会議。ハブリックコメント募り、5月末までに絞り込みへ
2023年09月 27日 知事「1時間1着陸」ルールの弾力化、施設機能強化を要望。国交省は見直しに前向き
10月 24日 1時間1便以上着陸可能に。29日から弾力運用。プライベートジェット乗入れも可能に
関連サイト:
茨城空港公式サイト■
国土交通省東京航空局/百里飛行場■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
石岡航空基地(東の辻飛行場)跡地 [├空港]
2012年9月訪問 2021/7更新
撮影年月日1947/10/25(昭22)(USA R379 44)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県石岡市にあった「石岡航空基地(東の辻飛行場)」。
前記事の「大日本飛行協会中央滑空訓練所」の南東約5.2kmにあります。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
誘導路の一部が溶けかかっていて、完全に線が消えている箇所もあったのですが、
強引に作図してしまいました。
おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。
滑走路の地割が道路として残っていました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:石岡 建設年:1945-8 飛行場長x幅 米:1,200x300芝張 主要機隊数:小型 主任務:空廠整備 隧道竝ニ地下施設:半地下兵舎1,800平米 指揮所工事中 掩体:工事中 其ノ他記事:未使用
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」でも、当航空基地の滑走路長さについて、
1,200x300 と記されていました。
■「日本海軍航空史」では、1,300m×300mと記されていました。
赤マーカー地点。
ここから滑走路が伸びていたはずです。
2016/3/14追記:
2016年2月18日11時過ぎ、 JR石岡駅東口前の工事現場で、作業員が現場を掘っていたところ不発弾のようなものが見つかりました。このため半径50mの範囲を封鎖、土浦~友部の上下線で運転見合わせを行い、陸上自衛隊・朝霞駐屯地の不発弾処理隊により、午後3時過ぎ、隊員が物体を布にくるんで手で運び出しました。自衛隊によると発見された不発弾らしき物は6個で、直径10cm、長さ50cm程度とのことです。
現場は東の辻飛行場と直線で900m程の位置であり、飛行場が空襲を受けたという記録もあるため、もしかしたら関係あるのかもしれません。ただオイラとしては、まとまった場所に6個もあるというのが気になります。爆弾投下時の散布界がどの程度のものか知らないのですが、同じ市内の大日本飛行協会中央滑空訓練所は、昭和20年春頃から艦載機による空襲をしばしば受けたという記録があり、艦載機が低空で爆弾を落としていけば、こんなにまとまって一か所に落ちるということはあり得るのかしらん。しかもこんなに不発で。。。当時、飛行場周辺に落とされた不発弾を一旦まとめておき、そのままうっかり忘れてしまったとか、そんなことはないのでしょうか??
この情報はろっくさんから頂きました。ろっくさんありがとうございましたm(_ _)m
茨城県・石岡航空基地(東の辻飛行場)跡地
30基以上の掩体壕が建設され、現在でも周辺の林の中に無蓋掩体壕が3基残っているそうです
石岡航空基地(東の辻飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県石岡市石岡
座 標:N36°11′48″E140°17′27″
標 高:27m
滑走路:1,200mx300m
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)
沿革
1941年 開設
関連サイト:
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この記事の資料:
「日本海軍航空史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
大日本飛行協会中央滑空訓練所(石岡飛行場)跡地 [├空港]
2012年9月、2018年6月訪問 2021/7更新
撮影年月日1947/10/25(昭22)(USA R379 93)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県石岡市にあった「大日本飛行協会中央滑空訓練所」。
当飛行場は、格納庫、宿舎、講堂、事務所などの施設とともに初級から高級までの訓練機を備え、
教授陣には航空界の第一人者が当たりました。
石岡市は滑空機の製造、訓練、教育と、滑空界の一大拠点に発展した場所です。
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」に当飛行場の図があり、
先頭のグーグルマップはその地図と、1947年の航空写真、グーグルマップから作図しました。
敷地境界線がハッキリしない部分が多く、おおよそこんな感じ。という程度のものですのでご了承くださいませ。
水路部資料の地図では、上のマップの通りで敷地が四分割してありまして、
「A:稍荒地(薄紫)」、「B:離着陸不能(灰色)」、「C:飛行場(紫)」、「D:格納庫 協会建物(黄色)」、とありました。
(アルファベットは便宜上オイラが振りました)
ただし「飛行場」という文字は、紫のエリアの一番上にあり、敷地全体のほぼ中央にあります。
また他の文字と比較してかなり大きく書かれています。
そのため「飛行場」という文字は、敷地全体を指し示しているのではないかと思います。
同資料にある当飛行場の情報について、下引用させて頂きます。
第5 大日本飛行協会石岡飛行場(昭和18年3月調)
管理者 大日本飛行協会(東京市芝区田村町1丁目3番地)。
位置 茨城県新治郡石岡町大字半ノ木。
(石岡町の北北西方約5.5粁、北緯36°13′0、東経140°14′0)。
種別 非公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約39米。
広さ及形状
本場は長さ北東-南西平均1,000米、幅北西-南東750米の周辺不規則な
る四辺形地域なり・着陸可能地域は場の中央以南にして長さ東西1,000米、
幅南北400米の概ね図示の地区なり・中央以北は目下滑空場として使用中
なるも殆ど未整地の荒地にして飛行機の離着陸不可能なり、以下南半部の
地区に就き記述す(付図参照)。
地表の土質
赤土。
地面の状況
地表概ね平坦なるも中央部に幅約150米の広域に亙る凹地あり、然れども
起伏極めて緩慢にして注意せば低速度飛行機の離着陸可能なり・殆ど一面
に野芝及雑草を生ずる堅硬地にして場内を横断する道路上は禿地なり・排
水は概ね良好なるも豪雨後は前記の凹地に水溜を生ず・場内を略東西に貫
通する道路は地上滑走の支障とならず・春及夏季は雑草の刈取手入を施す
を以て地表極めて整然たり・冬季は道路上に風塵の立ち昇ることあり。
場内の障碍物
場内の道路は常時人馬の往来あるを以て着陸の際充分注意を要す。
適当なる離着陸方向
無風時は東又は西を適当と認む・如何なる風向の際も整地地域を使用せば
離着陸可能なりと言う。
離着陸上注意すべき点
北西方場周に高さ約10米の松林あり、此の方向の離着陸の際注意を要す。
施設
格納庫(間口20米、奥行26米、高さ12米、練習機約20機収容し得)1・
其の他(間口18米、奥行18米のもの)3・飛行場事務所・宿舎2・講堂
・油庫1・修理工場1・食堂・倉庫・自動車庫等あり。
昼間標識 吹流(高さ20米)1あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
山岳
東及南方は広濶なる平坦地なるも西及北方は約1.6粁にして山地となる・
南西方約2.7粁に高さ209米の龍神山、北方約2.5粁に362米山あり、其
れより遥か西方に筑波、加波山等の高山南北に縦走す。
樹林
場の周囲に高さ4-5米程度の雑木林及松林あり、特に高樹林は北西方場
周に在る高さ10米の松並木なり。
建築物
場の東側に最高20米の吹流柱、格納庫及其の他の付属建物あり・南方に
碁石沢村落の人家ある外至近に障碍となる高層建築物なし。
電線
東側格納庫付近に高さ5米の高圧電線1條あるも障碍とならず。
着目標
筑波山、石岡町、格納庫、吹流。
地方の状況
軍隊及憲兵
百里ヶ原海軍航空隊(東南東方約20粁)・土浦憲兵分隊(南南西方約20粁)。
警察署及役場
石岡警察署(石岡町)南東方約6粁・石岡町役場(石岡町)南東方約6粁。
医療
石岡町に医院12あり。
宿泊
場内に宿舎2あり・石岡町に旅館7(収容員数計250)あり。
清水
場内東側格納庫付近に水質飲料に適する井戸1、其の他電気「ポンプ」式
井戸2あり。
応急修理
場内の修理工場にて簡単なる応急修理可能なるも中破以上の修理は不可能
なり。
航空需品
場内に航空用燃料(87原)及潤滑油(カストル油)を多少常備す。
交通、運輸及通信
鐡道
羽鳥駅(常磐線)東北東方約4粁、石岡駅(常磐線)南東方約6粁。
道路
本場より石岡町及羽鳥駅に至る村道あり、自動車類の運行可能なり。
運送店
石岡町に石岡合同運送株式会社(乗合自動車5、貨物3、荷馬車30常備)
あり。
電信及電話
石岡郵便局(電信及電話取扱)南東方約6粁・場内事務所に電話あり。
気象
測候所
中央気象台筑波山測候所(筑波山頂)西方約14粁、航空気象を観測す。
地方風
流行風は夏季は概ね東又は南風、冬季は西又は北風なるも概して風向き一定
せず・各年を通じ冬季は西又は北東風強吹するを常とす。
石岡気象観測所に於ける大正11年至昭和7年11箇年間の統計次の如し。
(以下月別データ省略)
天候
6月至8月頃雷雨あり、12-翌年3月間降雪あり。
其の他
1. 本飛行場は昭和16年6月大日本飛行協会が滑空機乗員養成の目的を以て
設置せるものにして目下完備せる施設を有し練習機に依る曳航滑走訓練実
施中なり。
2. 飛行場使用条件抜粋
(1) 本飛行場に於て使用し得べき飛行機は練習機及「ソアラー」曳航用飛
行機程度に限るものとす。
(2) 本協会所属飛行機以外の飛行機に対して本場を使用せしめんとする場
合は予め海軍第11連合航空隊の同意を得るを要す。
A:稍荒地
B:離着陸不能
C:飛行場
D:格納庫、協会建物
現在は法政大学石岡総合合宿所になっています。
D:格納庫、協会建物
法政大学石岡総合合宿所入ってすぐの所に碑があります。
偲学の碑(全文)
この地は、昭和十五年財団法人大日本中央滑空訓練所が設立され、大空を夢み憧れる若人育成の大地であった。昭和二十年八月終戦と共に筑波学園工業専門学校と同筑波中学校が開校され、後に昭和二十三年法政大学付属第三中学校、高等学校となった。名声高き付属校として数多くの若人を社会に送り出したが昭和三十年三月廃校に至る。平成八年八月吉日 法政大学第三中学校、高等学校卒業生一同建之 施工(有)宇田石材工業
E:石岡市立府中中学校(上のマップの青マーカー)。
当時はここにグライダー製作所があり、主に文部省型を製作していました。
部品から完成機までの一貫生産を行い、月産十機程度だったのだそうです。
茨城県・大日本飛行協会中央滑空訓練所(石岡飛行場)跡地
大日本飛行協会中央滑空訓練所(石岡飛行場) データ設置管理者:大日本飛行協会
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:茨城県新治郡石岡町大字半ノ木(現・石岡市半ノ木)
座 標:N36°13′0″E140°14′0″
標 高:39m
沿革
1941年 6月 大日本飛行協会中央滑空訓練所開設
1944年 大日本滑空工業専門学校設立
1945年 春頃から艦載機による空襲をたびたび受ける
08月終戦。跡地には筑波学園工業専門学校と同筑波中学校が開校
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この記事の資料:
現地の碑
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」