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旧鹿児島空港(鴨池空港)跡地 [├空港]

  2009年11月、2016年5月、2024年1月訪問 2024/1更新  


無題2.png
撮影年月日1947/12/04(USA M680 43)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県の鹿児島市鴨池。

JRと港にはさまれ、県庁と大きな公園があり、団地、宅地が整然と並んでいます。

現在は整備された美しい市街地なのですが、かつてここに旧海軍の「鹿児島航空基地」があり、

新川を隔てて西側には予科練がありました。

また1972年までこの場所が、鹿児島県の空の玄関口、「鹿児島(鴨池)空港」でした。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「鹿児島空開隊(S18.4.1)(昭15建)」とありました。  

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」

の中で、当航空基地について一部次のように記載がありました。

基地名:鹿児島 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1,500x600芝張 主要機隊数:小型3.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住4,000平米、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷同時調整8本、同格納庫72本 掩体:小型有蓋10 小型無蓋16

飛行場の長さと幅について、「1,500x600」とありますね。

■「飛行場設備要図」

の中で、上のブルーのような感じで線が引かれ、「1,500m」とありました。

それで「1,500x600」とは、敷地の飛行適地を目いっぱいに使った長さなのだと思います。

上のグーグルマップは、航空写真、各サイト様掲載の地図から作図しています。

滑走路と格納庫前の駐機場、そして誘導路の地割につきましては、各資料により様々だったため、

こんな感じかなぁ。という程度のものですのでご了承くださいませ。


上の航空写真には、よーく見ると複数の格納庫(らしきもの)が確認できるんですが、

事前に調べた際、旧海軍当時の巨大な格納庫が現存しており(上に貼った航空写真で「格納庫→」とあるもの)、

しかも南国交通鹿児島営業所の車庫として現役で使用中。とのことでした。

その巨大格納庫の様子はあちこちのサイトにも載せられており、行く前から非常に楽しみにしていました。

で、2009年11月、現地に行ってみたのでした。

D20_0155.jpg

!!!!!! (@Д@) !!!!!!

D20_0157.jpg

D20_0160.jpg

…。

こっ、これはきっとオイラが調べた場所が間違ってるんだ。うん、そうに違いない。

格納庫はこの近くにある。あるんだ。ウフフ、アハハハハ!!(狂)

ということで、近くでご自宅前の掃除をしている品のいいおばあさんに尋ねてみました。

「あのー、すみません、この近くに大きな格納庫がありませんでしたか?」

「ハイ。(更地を指さして)ここに大きくて高い格納庫が、確か今年の夏頃?まであったですよ」

「あー、やっぱりそうでしたか~。突然すみません、どうもありがとうございました…」

ガーン!!

来るのが一足遅かったのです。

また1つ、貴重な遺跡が無くなりました… つД`)・゚・。・゚゚・*:.。

D20_0159.jpg

仕方なくこうして跡地の写真など撮っていると、

「余計なことですけど」と先ほどのおばあさんがわざわざ追いかけて来られました。

「(↑写真中央の白い建物を指しながら)あの建物、空港の建物をそのまま使ってるんですよ。管制塔もあってね」

「それは知りませんでした!! どうもありがとうございます!!」

「目の前が空港だったですよ。大きな格納庫もずっと残ってて」

「じゃあ、格納庫もなくなってしまって、目の前の景色が一変しましたね~(´;ω;`)ブワッ」

「ハイ~(喜)。 おかげさまで大変スッキリして見晴らしが良くなったですよ♪」

「…。 あ、…ああ、そ、そうですよね~。それは良かったですね~。アハハ~(;´Д⊂)」


追記:旧管制塔が見えてる画像が残ってました!! またまた時計さんに教えて頂きました。時計さんありがとうございました m(_ _)mm(_ _)m

戻ってからネットで地元紙などを調べてみたらこんなことでした。

この格納庫は1941年に「鹿児島海軍航空基地」 の施設として建設され、

終戦間際の度重なる空襲にも耐えた唯一の建物でした。

1957年からは鹿児島空港の施設となり、小型機の格納庫として使用。

1972年に空港が現在の霧島市に移転した後は、南国交通がバスの車庫として使っていたのでした。

格納庫の高さは4階建てビルに相当し、広さは約2600平方メートルで、大型バス27台(!)を収容できたのだそうです。

しかし建造から70年近くが経過し、雨漏りするなど老朽化。

台風時にトタン屋根などが吹き飛ばされる恐れがあり、「さび付いた外観が地域の美観を損なう」などの声も寄せられていたのだそうです。

修復には数千万円かかり、取り壊した方が安くつくことなどから、

整備工場などを含む車庫全体を移転することになりました。

南国交通によりますと、

「天井まで23,4メートルあり、屋根補修にも足場を組まねばならなかった。部分補修を繰り返してきたが、費用などを考慮した判断」

なのだそうです。

旧鹿児島空港開港の頃から近くに住む真砂町内会長さんは、

「夜、バスを掃除する水の音がうるさいなどの苦情があったと聞く。ずっとそばにあり、愛着のある建物。地域の目印にもなっていただけに、個人的には撤去は残念」

と語るなど、撤去決定の報に地域住民からは惜しむ声も聞かれたのだそうです。

また格納庫周辺には同社のバス路線がほとんどなく、

路線の起点となる鹿児島中央駅から約3km離れた場所にあるため、

燃料費も余計にかかってしまうという面もあったようです。

…こういう現実的な事情を見ると、「一民間企業の所有物」という形態ではこれが限界だったのでしょうね。

なんにしても一足遅かったです(;´Д⊂)

 

■「南国イカロス記 かごしま民間航空史」190pに、

ここが戦後空港として使用されるようになった様子が記されていました。

ここでの主役は、隼人町出身の児島秀綱という人物です。

児島氏は、初陣が真珠湾攻撃の艦攻乗りという経歴の持ち主です。

 (児島に)同郷の先輩である佐多直大から、民間航空会社を設立するから協力してくれ、とい
う手紙が届いた。考える余地はなく、即座に協力を約束した。その結果、昭和二十八年(一九五
三年)三月、南日本航空(株)が誕生した。
 飛行場は、旧海軍の鴨池飛行場を使用することになったが、八年近く放置されていたから、草
ぼうぼうの荒れ放題であった。数えるほどの社員一同で、五〇〇㍍の滑走路を整備した。
 飛行機は、アメリカ製のバイパー式PA-22型トライペーサー軽飛行機である。日本には尾翼
式のペーサーおよび三車輪式のトライペーサーがそれぞれ四機輸入された。ライカミング一五〇
馬力エンジンを搭載し、最高時速二二二㌔という可愛い飛行機だが、四人乗りである。その点、
誉一八二〇馬力を二機搭載し、最高時速五六六㌔の「銀河」に乗っていた児島秀綱にとっては、
いかにも頼りない、おもちゃのような飛行機だが、空を飛ぶことには変わりはなかった。それこ
そ「天にも昇る気持ち」で、毎日「チンドン屋」飛行が楽しくてたまらなかったという。
 チンドン屋というのは、戦後アメリカの航空法をまねてつくった航空法によると「航空機使用
事業」である。原文ではインダストリアル・フライト(産業飛行)となっていたのに、こんな変な
訳がつけられた。航空機を使用しない「定期航空運送事業」も「不定期航空運送事業」もあるわ
けがなかった。ともあれ航空関係者がチンドン屋といい合った飛行というのは、遊覧飛行だの、
ビラをまいたりマイクで空から放送したりする宣伝飛行だの、農薬散布飛行などである。たしか
に大型旅客機を運航している人たちが見ると、なるほどチンドン飛行だったかも知れない。しか
し三十四歳の児島秀綱は、浮きうきと空を駆けまわって、毎日が充実していた。彼は、ジャ
ンパー姿に白い運動貌をかぶって操縦席に座るばかりでなく、営業にも駆けまわっていた。


戦後の発足はこんな様子だったんですね~。

 

上の写真、奥に旧ターミナルの建物が写ってますけど、ついこないだまで手前にどーんと格納庫があって、

海軍時代と空港時代の建物がずっと仲良く並んでたのですね…。

まあオイラは見れませんでしたけど。

…と、悔やんでいても仕方ありません。

空港の建物が現在も使われているのは知りませんでした。

これは大収穫です。

格納庫が見れなかったのは非常に残念なのですが、建物を見学することに。


 

無題3.png

無題4.png
撮影年月日1967/09/25(MKU6710X C2 5)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも)

上の2枚は同じ写真で、滑走路延長から半年後、そして廃港の5年前のものなので、ほぼ鴨池空港の最終形態と思います。

敷地南側、滑走路延長のために埋立てたんですね。

下の写真、ターミナルビル周辺を拡大したものですが、格納庫とターミナルビルが空港施設として現役ですね。

廃港後の様子しか知らないオイラからすると、現ニシムタスカイマーケットのあった場所には、

1972年まではターミナルビルがあり、そして目の前に滑走路があり、ヒコーキが飛んでいたのだ。

なんて、想像するだけで動悸息切れ目まいを起こしそうです。

D20_0162.jpg

屋上にフェンスが張られていますね。

屋上に直接上がれる階段が取り付けられています。

D20_0163.jpg

残念ながら階段は通行止め。そして謎の階段がもう1つ隠れていました。

D20_0164.jpg

ものすごく年輪を感じる階段ですね。

D20_0165.jpg

かつては展望デッキだったのでしょうか??(2010/5/22追記:展望デッキではありませんでした。詳しくはのリンク先の記事をご覧くださいませ)

D20_0166.jpg

建物の反対側に回るとこんな感じ。

1Fは大きなスーパー、各種店舗、2Fから上は事務所などに使用されてました。

ここでの見学はこのくらいにして、ちょっと移動しますよ。=(⊃゜Д゜)⊃

 

D20_0176.jpg

=(⊃゜Д゜)⊃少し北上して「鴨池公園」という大きな公園にやってきました。

この公園の公民館入り口入ってすぐのところに「貴様と俺の碑」という非常に漢らしい碑があります。

格納庫は無くなってしまいましたが、ここに海軍時代の記念碑があります。

D20_0172.jpg

D20_0174.jpg

碑文(全文)
過ぐる日こゝに渚があった 白砂と老松と静謐とがあった
鹿児島海軍航空隊がこの地に開設されたのは太平洋戦争さなかの昭和十八年四月である
急に慌ただしくなった 
まだ童顔の残る十六、七歳の少年たちが祖国の危難を憂いて集まった
各種の飛行練習生として 短艇を漕ぎ陸戦に励み 操縦を学ぶなどの基礎訓練を重ねた
その数は最盛期七千人 敗戦まで二万人ほどである
その間米軍機の空襲に遭 また転出先からの迎撃戦や特別攻撃で戦死した基地出身者は 
千二百八十人に上った
戦後繁栄の裏側に遠のいた 彼らの犠牲を生き残った者としては いつまでも忘れないでいる

撮り損ねましたが他にも記念碑が設置されています。

D20_0170.jpg

公園内の図書館にあった「鹿児島県の旧軍飛行場」の図。

やはりというか、随分たくさんありますね。。。

当地にあった海軍鹿児島飛行場は示されてません。

「ここ以外にあった鹿児島の飛行場」ということでしょうか。

1974.png
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:鹿児島南部 編集・加工:空港探索・とり

1974年の航空写真。廃港から2年後の様子。

中央に巨大格納庫が、そしてそのすぐ右下にターミナルビルがあります。

滑走路は右側にありました。

DSC_2218_00001.jpg

赤マーカー地点(2024年1月撮影)。

旧空港滑走路南端から滑走路方向。


     鹿児島県・旧鹿児島空港(鴨池飛行場)跡地    

・鹿児島航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:水陸両用飛行場
所在地:鹿児島県鹿児島市
標 点:N31°33′21″E130°33′16″
飛行場:1,500mx600m(芝張)
滑走路:1,200m×60m
(標点はグーグルアースから)

・鹿児島空港(運用当時) データ
設置管理者:旧運輸省
空港種別:第二種空港
所在地:鹿児島県鹿児島市真砂本町
標 点:N31°33′21″E130°33′16″
滑走路:1,600mx50m
方 位:17/35
(標点はグーグルアースから)

沿革
1932年    鹿児島市鴨池地区に鹿児島市営水陸両用飛行場建設
1937年    海軍鹿児島基地として使用。特別攻撃隊の基点としては鹿屋と知覧が著名であるが、本飛行場も使用された
1943年04月 1日、 鹿児島空開隊
1945年    空襲により基地機能消失。終戦
1953年03月 南日本航空(株)設立。滑走路500m
1957年07月 旧・鹿児島空港(通称・鴨池空港)第二種空港として開港。滑走路1,080m
1967年03月 滑走路1,600mに延長
1972年03月 現在地に移転のため旧空港廃止
旧空港の跡地は日本住宅公団により鴨池ニュータウンとして開発され、1996年には県庁や県警本部がこの一角に移転した。
旧空港ビルはスーパーマーケット、旧格納庫は南国交通鹿児島営業所の車庫として利用されていた(2008年8月に鹿児島市小野町へ移転)

関連サイト:
ブログ内関連記事    
鹿児島のこういちさんからいただいた空港内部のお写真     

この記事の資料:
現地の碑文、資料
「日本海軍航空史」・終戦時
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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コメント 42

hiro78

残念でしたね~。

by hiro78 (2010-03-15 15:41) 

tooshiba

とりさん、ドンマイ。

今回は残念な記事でしたけれど、今までに取材された記事たちは後世に資料として伝わるわけですから、その瞬間その瞬間を切り取ることに注力しましょう。

とか言いながら、自分は北陸と能登を看取りませんでした。
先週水曜日から木曜日にかけて、ちょっとダウンしていたせいですが。あそこが運命の分かれ道だったんだよなあ。。。・゜・。゜(ノд`) ・。゜。・
by tooshiba (2010-03-15 17:26) 

sak

鹿児島にしょっちゅう行っていたころ
以前鴨池に空港があったって聞いてたけど
この建物、空港の建物だったのですね
この1Fのスーパーで買い物したことがあるから
知っていたらもっと違う見方できたかもって思いました
by sak (2010-03-15 20:32) 

Takashi

今回は残念でしたね。
展望デッキらしき場所、行けたらよかったですね。
by Takashi (2010-03-15 21:40) 

雅

初めまして,sakさんのところから来ました沖縄在住の雅、と申します。
過去記事も読ませていただきましたが、沖縄の各離島にも足を運ばれてるんですね。
自分は仕事で各離島を回ってますが、興味深く読ませていただきました。
また来ますね。
by (2010-03-15 22:20) 

pica

わ、わ、残念でしたね。
「鴨池」という地名はいままでに何度も耳にしたけど
空港があったことは知らなかったです。
それにしても、おばあさんの「喜」と、とりさんの「悲」が
なんとも…。
by pica (2010-03-16 00:26) 

me-co

「形あるもの、いずれなくなる」
とりさんのこの記事を通して改めて世の無情を思い知りました・・・
by me-co (2010-03-16 00:32) 

guchi

鴨池の記事、そろそろかなと期待しておりました。
まだまだターボプロップ全盛の頃の鹿児島空港ですね。
格納庫は本当に残念でしたけれど、ターミナルビル
の写真が見られて、とってもうれしかったですよ

by guchi (2010-03-16 08:57) 

コスト

移転前の旧鹿児島空港はここにあったんですね。
僕の親は高校時代を鹿児島で過ごしていて、
「前は市内の鴨池に空港があった」と話していたんですが、
鴨池ってのはここのことだったんですね^^

>大型バス27台(!) 浅草の浅草寺の裏は大型バス5,6台がせいいっぱいなので、
27台収容は驚異的ですね@@
by コスト (2010-03-16 22:09) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■hiro78さん
はい。残念でした~(泣)

■tooshibaさん
>その瞬間その瞬間
今tooshibaさんがいいこと言った!
>北陸と能登
ありゃー。残念でした~。
でも大丈夫! tooshibaさんの心の中で永遠に走り続けてますから。

■sakさん
おお、ここでお買いものしてましたか!(@Д@)
オイラもここで夕食用のお弁当買いましたよ^^

■Takashiさん
残念でした~。
>らしき場所
ちょっと上ってみたかったです。

■雅さん いらっしゃいませ~ヽ(*´ヮ`)ノ
お仕事で離島を回っておられるのですか。羨ましいです。
過去記事までご覧いただきましてありがとうございました。
よろしければまたお越しくださいませm(_ _)m

■picaさん
おお、「鴨池」ご存知でしたか。流石ですね。
>「喜」と「悲」
いやー、かみ合わないかみ合わない^^;

■me-coさん
>「いずれなくなる」
仰る通りですね~。
見たかったな~(まだ言ってる)

■guchiさん
お待たせ致しました^^
ここはguchiさんにとって思い出の場所なのですね。
お聞きしたいことが。
立ち入り禁止になっている階段は空港当時の展望デッキのものなのでしょうか???

■コストさん
>高校時代
おお、そうだったんですか。
考えてみたらものすごく便利な場所にあったんですね。
>驚異的
確かにその大きさがよく分かりますよね。
よく爆撃を受けなかったもんですね~。
by とり (2010-03-17 04:56) 

ジョルノ飛曹長

でたー このパターン。
大切な歴史的建造物を壊し、どんなに重要な施設をつくるのかと思えば駐車場・・・^^;
持ち主が変わったのはしょうがないと思うけど日本はこうしてつまらない国になっていくんですよねー^^;
by ジョルノ飛曹長 (2010-03-17 12:48) 

とり

■ジョルノ飛曹長さん
>どんなに重要な施設をつくるのかと思えば
本当ですよね~。ただの更地かよっ!ヽ(`Д´)ノプンプン
非常に貴重なものですからここは是非とも国や自治体に関与して欲しかったです。
by とり (2010-03-18 06:31) 

an-kazu

とりあえず駐車場という考え方は、全国的な現象のようですね。
ザンネンでした(^^;)
by an-kazu (2010-03-19 00:54) 

とり

■an-kazuさん
全国的ですか! Σ(゚Д゚;)
ヤな現象ですね~。
by とり (2010-03-19 21:58) 

鹿児島のこういち

自分は、真砂本町生まれの鴨池小、鴨池中出身の当時の鴨池空港を小学二年生まで見てきたものです。わざわざ鹿児島まで来ていただいたのに、格納庫見れずに残念でしたね。格納庫保存派もいたのですが、周囲の住民の早く解体してとの声には勝てなかったのは事実かもしれません。南国交通もかさむ維持費が大変だと皆、周知の事でしたので、あまり解体反対の盛り上がりはなかったです。自分は、解体前の格納庫の写メを二枚持ってますが、どのように貼るのかわかりません。携帯からこのコメントも書き込んでますので、掲載されるかもわかりませんf^_^;もし、掲載されたら写メ送りますので、送信方法を教えて下さい(^O^)海軍鴨池飛行場は、海軍鹿屋飛行場から発進した飛行隊が桜島を左に見、溝辺上空より鹿児島市上町方向へ低空飛行で進入魚雷投下訓練し鴨池飛行場へと降りる、かの真珠湾攻撃の練習拠点だった場所です。鴨池飛行場より内部側に紫原、唐湊といった高台には登記上まだ海軍と陸軍の土地が、いくつかあります。そこは鴨池飛行場を守備する高射砲の跡地と思われます。おかげで格納庫はなんとか全壊しなかったのでしょう。格納庫自体は鴨池空港となったさいに、綺麗に修復されているはずですから。また、鹿児島に来る事がありましたら、海上自衛隊鹿屋航空基地の史料館にも、お立ち寄りください。当時の事が詳しくわかりますよ。鹿児島は、陸軍の知覧基地が有名ですが、この鹿屋、鴨池も特攻基地として若者が出撃した場所です。その鴨池を、いろいろ調べてくれて大変うれしく感じました。まとまりのないことを長々と書き込んだ事をご容赦下さい。
by 鹿児島のこういち (2010-05-04 18:16) 

とり

■鹿児島のこういちさん いらっしゃいませ~ヽ(*´ヮ`)ノ
わざわざ携帯から長文打ち込みありがとうございますm(_ _)m
こうして地元の方からの書き込みを頂けると冥利に尽きます。
貴重な情報を沢山教えてくださり感謝です。
格納庫保存派の方がおられた。ということが分かっただけでも嬉しいです。
by とり (2010-05-04 22:13) 

とり

■鹿児島のこういちさん
昨晩早速お写真送って頂きましてありがとうございましたm(_ _)m
返信メールにも書かせて頂いたのですが、送って頂いたお写真、是非この記事に掲載させていただきたいのですが、いかがでしょうか?
by とり (2010-05-05 20:10) 

鹿児島のこういち

返信遅れましたf^_^;写メ、どうぞ、お使い下さい!こんなので役にたつのなら、喜んでお願いします(^0^)/
by 鹿児島のこういち (2010-05-07 01:19) 

とり

■鹿児島のこういちさん
お写真掲載させていただきました。ご親切感謝致します。ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2010-05-08 07:43) 

鹿児島のこういち

とりさんのブログ、楽しく拝見させていただいてます(^O^)県外にあまり行かない自分には、あちこち旅行出来たような不思議な気分になれますよ!
鴨池の記事で、ターミナルビルがありましたが、自分の記憶とちょっと違うなって箇所があったので見てきました。
展望デッキや階段のある箇所は、実はターミナルビルじゃないんですよ!
あれは、中のスーパーの建物であとから増築された部分なんです!謎の階段、あれ、なんだと思います?あれは、流水階段で水が流れてたんですよぉ~!どちらも廃港後に作られてます。
とりさんのブログの中のグーグルの写真と1974年の航空写真とを比べて見れば一目瞭然です(^O^)
ターミナルビルの中の写メを撮ってきましたので、また送りたいと思います。それと、自分が小2の頃に撮った、鴨池空港に向かう737の写真もありますので、見て下さい。
by 鹿児島のこういち (2010-05-15 18:57) 

とり

■鹿児島のこういちさん
>比べて見れば
確かにそうですね。スッキリしました^^
それからこの度は本当にご親切にありがとうございましたm(_ _)m
先程メール返信させて頂きましたのでどうぞ宜しくお願い致します。
by とり (2010-05-16 08:39) 

YAMATO

愛媛の43歳です。先月4月7日枕崎での戦艦「大和」以下第二艦隊戦没者追悼式に参列した翌日、朝一で鴨池小学校敷地内にある「海軍航空隊鹿児島基地跡」の碑を訪ねました。小学生が登校中でしたが、教頭先生に許可を頂き入らせてもらいました。その後、鴨池緑地公園へ移動し「赤心碑」や「鹿児島海軍航空隊隊歌」の碑を見学させて頂きました。残念ながら「貴様と俺の碑」は見つける時間がなく先を急ぎ多賀山公園に移動しました。戦前からある老舗の「山形屋デパート」は真珠湾攻撃訓練の際、雷撃機が上空をかすめて桜島目掛けて魚雷発射訓練を行っていたそうですから、当時の面影そのままの建物に郷愁を感じつつシャッターを押しました。その後、鹿屋、宮崎、大分の旧海軍関連史跡や慰霊碑を訪ね4泊5日の旅を終えました。1年前からスケジュールを立て伺いましたが、内容を詰めすぎて10ケ所ほど行けなかったので再訪する予定です。
by YAMATO (2010-05-16 16:40) 

とり

■YAMATOさん
コメントありがとうございました。
発見が遅れてしまい申し訳ありませんm(_ _)m
九州は本当に戦史関係の見所がたくさんありますね。
by とり (2011-02-26 16:03) 

鹿児島のタクシードライバーA

折角来られたのに残念でしたね
私は小学校のときから、鴨池空港には遊びに行ってましたので、ターミナルビルも展望デッキも格納庫も実際に入って遊んだ覚えがあります。
で、私も本日観光のお客様をお連れして、格納庫が無くなった事実を知りました。
そのお客様は予科練甲種13期生で鹿児島基地で練習をされたそうです
ただ、練習機はゼロ戦ではなく、赤とんぼだったようです。 貴様と俺の碑を前に涙を流されていました
神風特別攻撃隊は海軍の部隊名で陸軍は振武隊 航空機も海軍はゼロ戦
陸軍は隼が主力戦闘機 鹿児島では知覧の平和記念会館が有名ですが
知覧は陸軍特攻基地、 特攻戦死者は海軍が数十倍多かったそうです
明日は鹿屋航空基地、串良基地、地下通信司令室等を見に行ってきます
海上自衛隊鹿屋基地に隣接して資料館がありますので皆さんもこちらも行って見て下さい。なお入場料は無料です
by 鹿児島のタクシードライバーA (2011-04-17 15:02) 

とり

■鹿児島のタクシードライバーAさん
格納庫にも入られたのですか! 今となっては非常に貴重な体験をされたのですね。
鹿児島にはまたお邪魔しようと考えております。
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2011-04-18 06:39) 

湘南新宿ライン大好きっ子

とりさんこんにちは。
鹿児島生まれ、育ちは東京の湘南新宿ライン大好きっ子です。
ユーチューブで偶然見つけたのでリンク張っておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=NCA304iJyZ4&feature=related
YS11紹介の動画ですが、2:50秒あたりからですが
多分、鴨池時代の鹿児島空港だと思います。
着陸中に邪魔だっただろう体育館も映ってます。
鴨池時代のカラーの動画は初めて見ました。
他にカラー動画あれば教えて下さいね。
ではでは。
PS.サンロイヤルホテルの朝食は豪勢でウマいです。
   一度お試しあれ。
by 湘南新宿ライン大好きっ子 (2011-08-12 23:38) 

とり

■湘南新宿ライン大好きっ子さん
いらっしゃいませ^^
動画拝見しました。バッチリ写ってますね。
貴重な動画紹介ありがとうございましたm(_ _)m
サンロイヤルホテルの情報もありがとうございます。
機会があれば寄ってみますね^^
by とり (2011-08-14 19:48) 

るい

記事UPからずいぶん後になってのコメント失礼いたします。
鴨池空港の写真が見たくて検索していて、この記事をみつけました。

私は、鴨池空港のごく近くに住んでいた者です。
といっても、空港廃止後に生まれたので空港の思い出はないのですが、
旧ターミナルビル内のスーパーにはよくおつかいに行ってて、子どもながらに
不思議な建物だなぁと思っていました。
店名が「春田屋(後にスーパーハルタ)アポロ店」といい、普通なら「鴨池店」とかなのに「アポロ」という名称だったこともあり、よけい神秘性?みたいなのを感じていたのかもしれません。

流水階段付近、私が物心ついたときには既に水は流れていなく、何だこの風呂のようなものは?と思っていました。増築部分は展望デッキ跡だと誰かから聞いて、それを信じていました(ターミナルビルの反対側にビルと同じような高さのデッキがあっても離着陸は見れないのでは?と疑ってもいましたが^^;)

この記事のUPからだいぶ経ちますが、今年1月にスーパーも閉店してしまいました(今も鴨池に住む実家の母から聞いた話)。
流水階段跡といい、’70年代のものも、もう「古い」の部類に入ってしまうんだろうなあと寂しい気持ちになりました。

スーパーは閉店しましたが、まだ旧ターミナルビル自体は残っているとのこと。格納庫がなくなってしまった今、ビルは貴重な財産ですね。
空港と直接は関係ない話の上、乱筆乱文失礼いたしました。
by るい (2012-09-01 01:41) 

フィナドラ

私の、鴨池に対する思い出ですが、少しでも飛行場閉鎖後の雰囲気が伝わればと思います。鴨池小学校ー中学校卒業者のアラフォーです。
 今は無くなった格納庫は、ガラスの割れた箇所をテープで補修していたり、建物のオレンジとピンクを混ぜたような色が褪せている様子など、とても味わいのある建物でした。外から見るより中から見上げる天井の高さに驚いた記憶があります。 
昭和30年代から住んでいる父から、小学生の時、あの建物が格納庫で、あの道は滑走路だった、と聞いたとき、ここに空港があったんだと、とてもびっくりしました。 ただ、道路は直線的だし、現在県庁がたっている前には公園があり、車両立ち入り禁止エリアなのに、車線が引いてあったり、今思えば不自然な部分もありました。

ターミナルの流水階段は、1階のスーパーが完成した時、水は流れ、したにプールのような部分に魚を放流し、掴みどりに参加したことを思い出します。子供は20人くらいだったかも知れません。

中学校の敷地には、霊安室と火葬場と呼ばれる、レンガ造りの建造物がありました。 霊安室は一時遺体の安置所として利用していたと、聞いたことがあります。火葬場(のような焼却炉)の真相は分かりません。

そんな時代の背景もあり、よく軍人さんの霊が出る、と姉(50代)の時代からオカルトな話が尽きなかったようです。

今は無くなってしまった、スーパーアポロの名は不明ですが、ターミナル内にはエスカレーター(25年以上前には稼働していなかったかと・・・)がかつてあり、その脇の壁面には宇宙の絵が描かれていました。アポロの月面着陸の余韻がまだあったのかも知れませんね。

思い出は尽きません。取り留めのない話ばかりですみません。
by フィナドラ (2012-11-28 22:44) 

とり

■るいさん 
返事が遅くなってしまい、大変申し訳ありませんm(_ _)m
当時の雰囲気を知ることが出来る貴重なお話を聞かせてくださり、
ありがとうございました。
廃港した後でも地元の方の記憶の中に大切な思い出として残っていることが知れて、
とても嬉しいです。
貴重な情報、感謝です。

■フィナドラさん
返事が遅くなってしまい、大変申し訳ありませんm(_ _)m
格納庫のこと、掴みどりのこと、レンガ造りの建造物のこと、壁画のこと、
貴重なお話をありがとうございます。
かつてここに軍の飛行場があったこと、その後空港になったこと等、
徐々に形は無くなりつつありますが、
地元の方の記憶にはまだまだしっかりと残っているのですね。
本当にありがとうございました。
by とり (2012-12-03 07:22) 

おしらせ(地元民通りすがり)

取り壊しになったようですのでお知らせします。
日曜日にイベントがあるようです。急ですが間に合えば是非。

「ありがとう鴨池空港」で検索すると、何点かヒットします。

ポスター
http://6gatsudo.jp/blog/cat1246/post_24.html

内容は以下がわかりやすいです。
http://ameblo.jp/creativehanasaki/entry-11588521459.html

by おしらせ(地元民通りすがり) (2013-08-10 07:38) 

とり

■おしらせ(地元民通りすがり)さん いらっしゃいませ
リンク先確認させて頂きました。
教えて下さりありがとうございましたm(_ _)m
タイミングが合えば是非お邪魔したかったのですが。。。
これで海軍時代の巨大格納庫に続き、ターミナルビルまで。。。
地元の方にとっては見慣れた風景がなくなって行き、寂しさをお感じになるのではないでしょうか。
by とり (2013-08-12 06:28) 

しろきけんいち

鴨池基地で活躍した海軍戦闘機パイロットの記事を紹介します。
単行本「「特攻」最後の証言」アスペクト社2006年出版
戦闘303航空隊、13期学徒出身零戦搭乗員・土方敏夫大尉の戦記
鹿屋基地から出撃の特攻機援護の空戦の話などです。

by しろきけんいち (2015-05-16 19:52) 

とり

■しろきけんいちさん いらっしゃいませ
情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-05-18 03:58) 

まるヨ

滑走路端の特徴ある誘導路(ターニングパッドに相当)が写真にも写っているし、ちゃんと図示されていますね。日本の飛行場では、他に例が無かったのではないかと思います。離陸機が続行する時は、ここで飛行機が待機していました。離陸前のエンジンチェックを滑走路端で行うレシプロ機の為の誘導路でもあったのだろうと思います。かつて、北側誘導路近くのフェンス際にあった二軒長屋に住んでいました。

by まるヨ (2019-12-18 21:30) 

とり

■まるヨさん いらっしゃいませ。
非常に珍しいものなんですね!
>滑走路端の特徴ある誘導路
(ヒコーキファンからすると)特等席にお住まいだったのですね。
空港無し県埼玉在住なので非常に羨ましいです。
貴重なお話をどうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2019-12-19 05:42) 

てとらぽっと

はじめまして。 最近になって、急にこの鴨池空港が色濃く懐かしくなってしまい、此処へ辿り着きました。
俺は鹿児島を離れて三十年以上経つ、他県住まいで50代半ばの者です。
生まれは真砂本町で、幼少期は鴨池空港の飛行場と行き交う飛行機は当たり前の光景で、鴨池空港は遊び場でした。
保育園の帰り道は、自転車で迎えに来て呉れた親父の後ろに乗って、飛行場へ直行して貰い、有刺鉄線付きの金網越しに南東の方角を臨み、轟音で割れそうな空に飛び立つ、又は降り立つ飛行機を暫くの時間眺めて帰路に着くのが日課でした。
本気でパイロットに成りたいと考える子供だったんです。 

上空写真では、その2009年の夏に撤去されたとされる巨大格納庫の丁度、すぐ北東の位置に当たるクランクの部分ありますよね? その辺りこそ、上記した日課の飛行機見物地点だったんですよ。 

そう言えば、保育園の時だったか、この格納庫の前にセスナ機だかヘリコプターだかが来て、子供達にたくさんのキャンディーを撒いて配ったイベントの様なものが在った日の記憶もあります。 廃港後も、ずっと象徴的な存在で、錆びて朽ちようが、在って当たり前の建物でした、この格納庫は。西の道路側に回ると、硝子越しに中に作業手袋等が干してあった光景なども通りがてら、小学生の頃とか、よく見た日常の景色でしたね。 

俺が小学一年生の年に廃港となった訳だけど、(鴨池小に)入学した最初の頃、授業中に離陸した飛行機の轟音で先生の声が掻き消された記憶も何回かあリます。

廃港後の空港ビルは、施錠も緩くて、ウチら子供が簡単に中に入れて探検出来ました。当然電気は通って無くて、暗いんだけど、昼間は窓から明かりが入るので薄暗い程度で充分に動き回れたんです。

友達2〜3人で侵入してはよく遊んでましたが、ある時、ビル南側の階段(通路?)手摺り(それも二階か最上階)で遊んでた時に落ちそうになり、サスペンスさながら手摺りかコンクリートの縁にガッと掴まり恐怖と闘いながら何とか必死で全身の力を振り絞り、這い上がって難を逃れた事がありました。躰が軽く反射神経が優れた子供の時期だったので助かったけど、今だったら間違いなくあの世行きですね。思い出してもゾッとします。^^;

時をほぼ同じくして、我々の遊び場だったあの廃墟と化した空港ビル内とその周辺で「太陽にほえろ!」のロケが在った事もついでに思い出した!
勝野洋演じるテキサスの頃で、格納庫近くにロケバスが止まり、その中にお馴染みの刑事達の俳優陣がドーラン塗ったり化粧中の貴重な光景を目の当たりにしました。

しかし、テキサスはドラマのアイドル。 ミーハーな女達の集団にキャーキャー追いかけられてました。しかも、その先頭走ってたのは、同級生の女、何か恥ずかしかった。(ーー;)

「太陽にほえろ!」1976年頃の鹿児島ロケのDVDでも存在すれば、当時の空港跡や、その周辺の風景を少しでも垣間観る事が出来ますよ。

空港が機能してた現役時代の記憶に戻りますが、後に遊び場となる空港ビルの中には当時は親戚の誰かが飛行機に乗ってやって来る以外には子供は滅多に連れて行って貰えず、あまり完璧に隅から隅までとは行かない迄も、矢張り記憶はハッキリと残ってます。

最上階の搭乗口フロアは、天井に色んな国の国旗(たぶん、運動会や商店街などでよく見掛けるビニール製の安っぽいヤツ)がズラッと張り巡らしてあり、子供心にそれを見るのが愉しみだった憶えがあります。
コレが記憶違いで無いのは、先日昔話ついでに母親にも確認してハッキリしてます。
ちなみにウチのこの母親は、ウチら子供を産む前、(昭和30年代)空港の食堂で働いてた人で貴重な生き証人です。ww
管制塔に出前を届ける事もしょっちゅうだったらしいです。


画像の空港ビル跡の、もう一つの謎の階段ですが、アレにも思い出があります。
俺が鴨池中に入学した年の夏、昭和53年7月1日に空港ビル跡にオープンしたスーパー「アポロ」の入り口を飾る水が流れる階段でした。その日は土曜日で授業は半どん、学校の近所なので午前中からオープンで賑わう音楽やら聞こえてたから、下校途中に友達と立ち寄って様子を見に行きました。快晴の日だった。(当時の日記に書いてたから日にちも正確)

しかし、画像見て錆びれた様子に厭でも時の非情な流れを自覚しない訳にはいかなかったです。
しかも、それから更に11年経過してるんですよね、今も在るのかな?



今回、あの格納庫が11年前迄現存してた事を確認出来て嬉しかったです、記事に感謝します。

お返しに当時の記憶をもう一つ。

保育園児時代にいつも飛行機を見てた有刺鉄線金網のクランク北隣は車の廃車置き場で、ボディーが逆さまに積み重ねてゴチャゴチャしてる風景だったのですが、この逆さまボディーに雨水が溜まり、子供の俺にはすごく魅力的な場所でした。一人でもこの水溜りで遊び、また、保育園から友達を連れ出し、数人で此処へ脱走した事も一度や二度では無いです。 


思えば、子供時代、この決まった場所(位置)から決まった方角しか臨んだ事がなく、その他の方角からの風景を俺は知りません。それが心残りかな。子供だから自分の力であちこち行動出来ないから仕方無いんだけどね。

しかし、今こんなネット時代に成り、様々な記事を目に出来るにあたり、直ぐ東側は海(錦江湾)だと思い込んで居たのが、実は民家が在り、畑も拡がって居た事を初めて知りました。

北側からだけじゃなく、東側や南側からもあの飛行機達の飛び立つ、又は降り立つ光景をそれぞれの辺りの風景共々見てみたかったです。

長々としたコメントにお付き合い頂きありがとうございました。(^^)/
by てとらぽっと (2020-04-29 14:20) 

とり

■てとらぽっとさん
当時についての非常に貴重なお話を聞かせてくださり、
どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2020-05-01 07:53) 

時計

ターミナルビル、取り壊されてしまいましたが、実はGoogleEarthで場所によっては解体途中の、全日警の看板が剥がされてある日の管制塔が見えてたりします。
https://earth.app.goo.gl/Q59Pri
by 時計 (2021-02-15 20:29) 

とり

■時計さん
おお、見えますね。
記事に反映させて頂きました。
貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2021-02-18 06:10) 

時計

お久しぶりです。GoogleEarthでは更新されてしまいましたが、Googlemapでは過去の写真を選択することで閲覧できました。ご参考になれば幸いです。

https://www.google.co.jp/maps/@31.5553959,130.5539324,3a,75y,96.07h,93.59t/data=!3m7!1e1!3m5!1sVzxCQGSC7232uLL8rX5PQQ!2e0!5s20140101T000000!7i13312!8i6656?hl=ja&entry=ttu
by 時計 (2023-09-06 21:26) 

とり

■時計さん
お久しぶりです。
この機能、全然気が付きませんでした。
スゴイ瞬間が残ってるもんですね~(@Д@)
記事に反映させて頂きました。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2023-09-07 05:01) 

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