金ヶ崎(高谷野原)飛行場跡地 [├空港]
2011年9月訪問 2020/12更新
撮影年月日1947/11/01(USA M621 73)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
岩手県胆沢郡金ケ崎町。
美しい田んぼが広がり、真っ直ぐの道路が伸びていてとても長閑なところです。
かつてここに「金ヶ崎(高谷野原)飛行場」がありました。
北上平和記念展示館に当飛行場部分を囲った航空写真が展示してあり、
先頭のグーグルマップはこの展示写真から作図しました。
同展示館には当飛行場について非常に興味深い資料も展示されていました。
関係個所を以下引用させて頂きます。
岩手初の飛行場は高谷野原(金ヶ崎)にあった1928年(昭和3年)10月、岩手県下において皇族や将官を迎え、陸軍特別大演習が挙行されることになり、8月、仮設とはいえ金ヶ崎村高谷野原に県内初の飛行場が建設され一躍脚光をあびていた。
1936年(昭和11年)8月には、熊谷飛行学校生徒26名が約1ヵ月間の練習飛行のため金ヶ崎飛行場を訪れた。それを見ようと水沢、岩谷堂から団体の見物客が連日押し寄せ、自動車業者が大繁盛し列車の乗降客は前年の1.5倍に増えた。飛行場周囲には氷屋や食べ物の露店が出て活況を呈し、「金ヶ崎の飛行機景気」と呼ばれるほどの大騒ぎとなって、地元の期待はいやが上にも高まっていった。
飛行場の誘致は、表面的には県民の愛国心の発露という形を取っていたが、地元政界や経済界では飛行場を誘致すればやがては、軍民共用の飛行場として岩手の空の玄関口となり、それによって交通網が整備され、人が集まることによる経済的効果に波及するだろうとの読みがあった。それが『飛行機景気』という言葉をも生んだのである。
飛行場誘致は、土地交渉で暗礁に
7月12日、航空ペイジェントに参加するため熊谷飛行学校練習機が金ヶ崎飛行場に飛来することになっていた。その矢先の6月27日、飛行場の主要地帯2万7千坪(約9ヘクタール)がトラクターで掘り返されるという事件が起こった。
元来、金ヶ崎町高谷野原は総面積372町歩(実測369町8反1畝12歩、約370ヘクタールの皇室御料地であった。それを1923年(大正12年)に金ヶ崎村が縁故払い下げを受け、更にこれを個人菅原新蔵氏に農業経営を条件として払い下げたものであった。地代について『高谷野原耕地整理組合』代表と最後の交渉を行っていたが、1坪あたり20銭を主張する村と32銭を要求する組合側とで交渉は平行線となっていた。その時、交渉の難航に業を煮やした組合側は、飛行場の掘り返しを行ったのである。とりあえず双方の話し合いで飛行場を東部に拡張し熊谷飛行学校機の飛来に備えることになった。
同展示館の「岩手飛行場」についての資料によりますと、
満州事変後、「東北に一ヵ所飛行場を」という陸軍の意向が示され、
飛行場を誘致すれば、三陸沖地震で疲弊していた地域経済対策に絶大な効果があるとして、
各地で激しい誘致合戦が繰り広げられます。
そんな中、当金ヶ崎には既に県内初の飛行場と、陸軍大演習での実績があり、
1935年には陸軍航空本部から実地調査があり、
1936年には熊谷飛行学校の1ヵ月の訓練がありました。
「岩手飛行場」資料によれば、「陸軍側でも、金ヶ崎が最適地と見ていた」とあります。
そんな誘致合戦のさ中、最有力候補の金ヶ崎がオウンゴールを決めてしまいます。
上述の1937年6月の飛行場掘り返し事件です。
翌月の熊谷飛行学校からの飛来は受け入れることができたようですが、
こうした地主との土地交渉問題から、金ヶ崎は飛行場誘致を断念。
同年11月、後藤野に飛行場建設が正式に決定となります。
土地の単価で折り合いがつかず誘致断念とは、地名を地でいくような話ですね。
なんて言ったら地元の方は怒るかしらん。
現地図書館にあった「幻の小山飛行場-最期の秘匿特攻基地建設の謎を解く少年学徒と村人たちの証言」
という本には、1937年のゴタゴタから飛行場誘致を断念した金ヶ崎のその後について記されていました。
1938年、陸軍岩手飛行場(後藤野飛行場)が完成すると、
陸軍では続けて県内第二、第三の飛行場用地探しを行い、
その候補となったのが、丹沢郡金ヶ崎町と、丹沢郡小山村でした。
そしてこの二ヵ所で1945年3月から飛行場建設が始まっています。
(小山村の飛行場については次の記事で紹介します)
岩手県・金ヶ崎(高谷野原)飛行場跡地
当飛行場に不時着した彗星が盛岡市内の高校教育会館に保管されているのだそうです
金ヶ崎(高谷野原)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:岩手県胆沢郡金ケ崎町西根
座 標:N39°12′15″E141°02′59″
標 高:114m
滑走路:1,500m×150m 転圧舗装滑走路(展示館資料より)
方 位:12/30
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1928年08月 金ヶ崎町高谷野原に仮飛行場建設(県内初飛行場)
10月 陸軍特別大演習
1935年09月 陸軍防空本部、金ヶ崎を実地調査
1936年08月 金ヶ崎で熊谷飛行学校生徒26名 一か月間飛行訓練(金ヶ崎の飛行場景気)
1937年06月 27日、飛行場掘り返し事件。双方の話し合いで東部に拡張することに
07月 熊谷飛行学校練習機15機飛来(全国一斉航空愛国週間・航空ペイジェント参加機)
1945年03月 再着工
08月 未完成のまま終戦
関連サイト:
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この記事の資料:
「幻の小山飛行場-最期の秘匿特攻基地建設の謎を解く少年学徒と村人たちの証言」
北上平和記念展示館
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