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軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場跡地 [├空港]

    2010年05月訪問、2020/7更新   

無題2.png
1948年10月(USA M1200-A 12)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

長野県の「軽井沢72(セブンツー)ゴルフ」。

その名称は、1972年に72ホールでグランドオープンしたことに由来します。

この広大な有名ゴルフ場の一角にかつて「軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場」がありました。

その歴史は非常に古くて、大正14年(1925年)に開設され、

閉鎖の年はハッキリしないんですが、藤沢オールドボーイさんから頂いた情報から、

昭和37年(1962年)までは運用が確認できます(後述します)。

軽井沢町には過去複数の飛行場が存在したのですが、当「軽井沢飛行場」こそ軽井沢の飛行場の主役であり、

「軽井沢飛行場に始まり、軽井沢飛行場に終わる」と言っても過言ではありません。

その用途は時代の影響を色濃く映し出しており、

民間飛行場→日本陸軍飛行場→米軍専用飛行場→民間飛行場と変遷しています。

まさに波乱万丈の飛行場でした。

以下、軽井沢飛行場についてまとめてみました。

 

飛行場建設から終戦まで

大正9年(1920年)、箱根土地株式会社(現プリンスホテル)が軽井沢駅南側に広がる地蔵ヶ原を買収しました。

車が通れる道がなかったため、新軽井沢~南軽井沢にかけて幅20間(36m)、長さ20町(2,180m)の道路を建設。

この道路は大正14年(1925年)夏にほぼ完成しました。

これが72ゴルフを東西に分け、現在「プリンス通り」、「二十間道路」として知られる県道43号線です。

箱根土地株式会社はこの道路建設に合わせ、二十間道路の西側に飛行場も建設しました。

飛行場建設の頃について、こう記されていました。

「道路の両側には緑の芝が植えられ、十四年の夏に完成すると、道路の両側に別荘を建築した。この年の秋には地蔵ヶ原に南軽井沢飛行場が完成するなど、南軽井沢には新しい観光施設が生まれることになった。」(避暑地軽井沢92p)

飛行場は大正14年(1925年)秋に完成したんですね。

「軽井沢には飛行場や競馬場ができる 
 道路の西側には飛行機が発着できる滑走路をつくり、昭和二年八月十六日から東京-軽井沢間の定期連絡飛行の認可を逓信省から受けた。飛行機は十年式偵察機をつかって、一日おきに東京-南軽井沢間を往復する計画であった。
午前九時に国立飛行場を出発し、五〇分で馬越飛行場に着陸し、午後四時帰航する時刻表で、運賃は一人片道一〇円、荷物は一キロ六〇銭となっていた。」(避暑地軽井沢109p)

飛行場の名称が「馬越(まごい)飛行場」として記されていますね。

そしてナント、当時は東京の国立(くにたち)飛行場 ~軽井沢の定期便があったのですね(@Д@)

具体的に時刻表も記されていますが、これなら軽井沢に6時間滞在し、同じヒコーキで帰京することが出来ます。

現在は同じ「1日1往復」でも、地方空港に着いたら、サッサと拠点空港にトンボ返りのパターンばかりですから、

利用者にとっては非常に便利ですね。贅沢な機材運用ですけど。

ここで「十年式偵察機」として出てくるヒコーキ、「一〇式艦上偵察機 C1M」 のことだそうで、

この機材は大正13年運用開始の三菱製で、後継機が出ると民間に多く払い下げられたのだそうです。

座席が2つしかないので、大空にパイロットとお客さん2人きり (・∀・)人(・∀・)

これが東京と結ぶ定期便の機材なんですから、時代ですね~。

「戦史叢書95巻付表第一 海軍機の要目性能一覧表」によりますと、「全速110ノット、航続力 3.5時」とあり、

他の項目はWikとほぼ同一でした。

東京から軽井沢までは直線距離で100km弱。 「所要時間50分」ですから、巡航速度は150km/h位でしょうか。

 

 「また昭和三年八月には浅間遊覧飛行を行った。九月一日より二十五日まで、毎日午前一〇時より午後三時まで鈴木一等飛行士が操縦することになった。六〇〇メートル上空から浅間山やアルプスの山々を鳥瞰して、一回一人十円であった。(中信毎日 昭三・八・三〇)」(避暑地軽井沢109p) 

これは軽井沢飛行場から浅間遊覧飛行が行われたことについて触れたものです。

8月30日付の新聞記事からの引用ですから、「8月に遊覧飛行したけど9月もやるよ!」ということなんでしょうか。

先の東京定期便のスケジュールと合せますと、

9:00 国立飛行場発
9:50 軽井沢飛行場着
10:00~15:00 遊覧飛行
16:00 軽井沢飛行場発
16:50 国立飛行場着

という感じかと。

但し、東京便は1日おきの運航に対し、遊覧飛行は「毎日」実施と書かれています。

ということは、定期便とは別に軽井沢飛行場を定置場にしている機材もあったのでしょうか。

8月の遊覧飛行をどの程度の頻度で実施したか記述がなく、

9月に毎日実施と明記してあるのは、1日~25日までの"期間限定"ですから、

この期間だけ東京便が毎日あったのかも。

1日おきの東京便が始まったのが、昭和2年8月。

遊覧飛行の記述があるのが、それから1年後の昭和3年8月。

この頃には東京便が1日おきからデイリーに増便された可能性も考えられるんですが、

東京便については、「昭和2年8月開始」した以降どうなったのか、どこにも続報が見当たらないので、

ハッキリしたことは不明です。

定期便は早々廃止になっちゃって、機体が軽井沢遊覧飛行専用機になった可能性だってあるかも。

 

 「軽井沢は霧が深いことが有名で、当時の飛行機にとっては大きな障害となった。昭和九年五月、海軍の飛行機三機が碓氷峠を越えて南軽井沢にさしかかった。ところがそのうちの一機、舘山海軍航空隊の柴山栄作三等兵曹が操縦する「 報国実業学生号」が折からの濃霧のために進路をあやまり、軽井沢飛行場に着陸しようとして旋回したうえ、軽井沢競馬場へ不時着した。競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破したが、操縦者はさいわい無事であった。その後機体は分解して列車で送られていった。」(避暑地軽井沢109p) 

海軍機の不時着事故があったんですね。

余談ですが、昭和9年に海軍機が不時着した軽井沢競馬場は、昭和6年に開場式が行われたもので、

軽井沢飛行場から二十間道路をはさんで東南東約2.3kmにありました。

この競馬場も戦時中に飛行機と関わることになります(下記リンク参照)。

 

元々は寂しい湿地帯であった南軽井沢地区開発のため、二十間道路を建設した箱根土地株式会社の堤氏でしたが、

氏の目論見通り南軽井沢地区には、飛行場、競馬場、ゴルフ場といった大型施設が建設され、

別荘も立ち並んでいったのでした。

 「この飛行場は戦争がはげしくなると、昭和十八年に整備されて、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使われ、十九年には、陸軍特別航空隊学徒が使用することになって軍事色をつよめていくことになる。」(避暑地軽井沢109p)

 「昭和18年 南軽井沢飛行場を整備し、熊谷飛行学校の飛行訓練所とする。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」677p(年表)

戦時中は当飛行場も軍事色を強めていったのですね。

余談ですが、陸軍時代の軽井沢飛行場は、埼玉県の桶川飛行場(現ホンダエアポート・下記リンク参照)と同じく

熊谷陸軍飛行学校に属しており、

旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会機関紙「大空への鎮魂」第22号によりますと、

桶川飛行場の教官が「出張教育班」と称して軽井沢教育隊にも出掛けており、

軽井沢飛行場でグライダー訓練を実施している写真が残っているのだそうです。

こうして、東京便、遊覧飛行に利用された軽井沢飛行場は陸軍の飛行場となり、そして終戦を迎えたのでした。

 

終戦から飛行場の復旧まで 

終戦となり、進駐軍が初めて軽井沢に入ったのは、昭和20年(1945年)9月15日のことでした。

米軍は終戦から1ヵ月後にはもう軽井沢まで来たんですね。

この時来たのは新潟東北方面視察団の一隊で、その名の通り新潟東北方面視察の途中の立ち寄りだったのですが、

その後昭和21年4月18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将が軽井沢視察に訪れます。

そして会食の席上で中将は、「ここはいいところだ、占領軍のレストセンターにしよう」と言いました。

この中将の一言により、軽井沢は進駐軍の保養地として大規模に使用する事となり、

多くのホテル、別荘、そしてゴルフ場が接収されました。

 「旧ゴルフ場は放牧場として利用された。旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故があってから、南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場となった。」(避暑地軽井沢154p)

大勢の一般兵が列車で保養にやって来たのに対し、将校クラスは東京からセスナでやって来ました。

当然、日本陸軍が使用していた軽井沢飛行場を使用したのだろうと思ったら、

旧軽井沢ゴルフクラブ(離山の北側の麓に今もある)の6番コースを滑走路にしたんですね。

(二十間道路臨時飛行場、6番コース飛行場は、下記にリンク貼っておきます)

 「臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地(株)(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。そして占領軍の手で地面を掘り下げ排水した後、浅間山の砂利を敷き詰め、現在の72ゴルフコース西コースに「軽井沢飛行場」をオープンさせた。」(軽井沢という聖地102p)
 

 「このように公道を飛行場として使用することは本来無理なことで、米占領軍は軽井沢に対し新飛行場建設を要求してきた。米占領軍は地蔵ヶ原を適地と決定したため、軽井沢事務所では所有者である箱根土地株式会社(現国土計画)の堤康次郎社長と交渉し建設を進めた。当時、地蔵ヶ原は一部湿地帯となっていたが、米占領軍がユンボを入れて七尺ほど掘り排水をすると乾燥した。そしてそこに浅間山の砂利を三尺ほど敷きつめた。こうしてできた軽井沢飛行場(四〇〇町歩)は現72ゴルフ場西コースの位置にあたる。」 (軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

微妙に表現が異なるのですが、この2つの史料から、

米軍からの要請で新飛行場を建設することになったことが分かります。

 「米占領軍は地蔵ヶ原を適地と決定したため、軽井沢事務所では所有者である箱根土地株式会社(現国土計画)の堤康次郎社長と交渉し建設を進めた。」

とあるので、もしかしたら米軍は幾つか提示された候補地の中から地蔵ヶ原を選んだのかもしれません。

また、湿地帯であったため、米軍自ら地盤改良をした様子が記されています。

 「七尺」は2.12mですから、相当掘りましたね(@Д@)

ではこの新飛行場はドコにあったのでしょうか。

 「軽井沢飛行場。大正時代は民間機の定期飛行に利用され、戦時中は熊谷航空部隊の訓練場、戦後は米軍機着陸場となり、その後は遊覧飛行場と幾度も変転したが、現在は消滅した」(目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢133p)

堤氏が建設した軽井沢飛行場を復旧させたんですね。

軽井沢飛行場から浅間山までは直線距離で13kmも離れています。

敷地を2m以上掘り、浅間山の砂利を運んできて1m敷いて…これは相当な工事だったはずです。

ということで米軍が使用した飛行場は、「旧ゴルフ場6番コース」→「二十間道路」→「軽井沢飛行場」

と変遷したことになります。

 

湿地問題

日本陸軍が使用していた飛行場が戦後元の湿地に戻ってしまって、

米軍自ら排水のために大規模な地質改良を施してやっと使用できる状態にした。ということなんですが、

オイラはこうした資料を読んでも、(終戦まで使用していたものがそんなすぐ使用不可になるものなんだろうか)

という点がずっと引っかかっていました。

ところがその後防衛研究所にて、戦時中の国内各地の軍用、民間の各飛行場資料を目にする機会がありました。

日本各地の飛行場についての現状報告資料は、

当時如何に飛行場の排水の良し悪しが重大問題であったか、

そしてそれにどれ程悩まされ、維持管理に骨折っていたかを痛感させるものでした。

例として札幌市街地にかつてあった「札幌飛行場」と、新潟県の「新潟飛行場」の様子を以下引用します。

札幌飛行場
・着陸区域は堅硬地なるも東辺より約240米間は泥炭地なるを以て地表軟弱にして離着陸に適せず
目下使用禁止中なり・排水設備は南北に走る9條の排水暗渠及之に斜交せる小暗渠多数ありて周囲の排水溝に注ぐ排水良好なり・

新潟飛行場
地面の状況
 新飛行場 地表は転圧稍不十分なるも凸凹起伏なき平坦地なり。中央以北は地盤概ね堅硬なるも以南は稍軟弱にして2頓以上の大型機の使用に耐えず。夏季は一面に50糎内外の雑草疎に生じ特に南西側の一部地域は伸長1米に達す。排水施設は不完全にして降雨後及融雪期には諸處に水溜を生じ豪雨の際は北部は異常なきも南部は地盤著しく軟化するを以て小型機と雖も使用上注意を要す。冬季(1,2月)は積雪1米に及ぶことあり此の期間中は橇を装置せざれば飛行不能なり。

こんな感じで、暗渠を仕込んだ飛行場の例は結構出てきますし、

大雨になると泥濘化して小型機すら。という例は多いです。

軽井沢には元々湿地帯が多く、大正時代に堤氏が地蔵ヶ原の開発を始めた際も、そこは湿地帯でした。

「地理 2011年1月号・リゾート地 軽井沢の風土」によりますと、

軽井沢が湿地となった要因は、地下水の影響を受けやすい地形にあるとされています(ちょっとニュアンス違うかも)。

元来地形的に湿地になり易い土地柄であり、飛行可能な状態を維持するには排水や土質改良が必須とすれば、

それを止めてしまうとたちまち元の湿地に戻ってしまうのかも。

後述しますが、米軍による軽井沢飛行場の造成工事が航空写真で初めて確認できるのは、1948年9月です。

ということは、日本陸軍は終戦と共に飛行場を使用しなくなってから、

最長で3年間、飛行場は放置されていた可能性があります。

当然もっと前から工事を開始していた可能性は大いにあるんですが、

現在のところこれ以上は確認のしようがありません。

 

前述の通り、占領軍が軽井沢で将校用に飛行場を求めた時、当然陸軍の軽井沢飛行場の存在は把握していたはずで、

それでも6番コースを、次いで二十間道路を使用しました。

6番コースと二十間道路、どちらも使用に難がありそうのは、よそ者のオイラにも想像つくんですが、

無理を承知で敢えてその2つを選び、なかなか軽井沢飛行場に手を出そうとしなかったのは、

軽井沢飛行場を使用可能な状態にするには、大規模な工事をする羽目になるのを最初から知っていたからかも。

オイラの妄想はともかく、すったもんだを経て米軍は軽井沢飛行場を使用することになりました。

 

所要時間問題

 「占領軍は地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって、将校以上は東京から25分で飛んできた」(避暑地 軽井沢155p)

具体的な所要時間が出ていますね。

この時占領軍が東京のどの飛行場を使ったのか定かでなく、また機種も不明なんですが、

昭和2年に始まった定期便と比べると、所要時間が半分になっています(@Д@)

当時から二十数年経過しているんですが、流石米軍! 速っ!!

ところで資料に25分と明記してあるのは、軽井沢飛行場~東京間についての話なんですが、

実はオイラ、一時期「二十間道路」を使用していた時も所用25分と思い込んでました(///∇///)

そのため「二十間道路のどの箇所を滑走路に使ったか、町誌に図示されてますよ」と教えて頂いたのに、

「こんな標高が高く、しかも短い距離で離着陸するヒコーキがたった25分で東京まで飛ぶなんてあり得ない!」

とその情報を否定し、コメント欄が非常に険悪な雰囲気になってしまったのでした。

でも後になってよくよくいろんな資料を見返してみてたら、

「所用時間25分」と明記してあるのは軽井沢飛行場についてのみでした。

6番ホール、二十間道路使用時の所要時間は(オイラの知る限り)どの史料にも出てきません。

それで、6番ホール、二十間道路使用時は短距離離着陸性能の優れた(ちょっと遅い)機体、

軽井沢飛行場に移ってからは、滑走距離長くなるけど快速機に変更したとすれば説明がつきます。

あるくさん、asamaさん、その節は申し訳ございませんでしたm(_ _)m

 

いつからいつまで米軍飛行場だったのか
 
米軍が軽井沢飛行場をいつ復旧させたのかについては、明記している史料が見当たりません。
 
但し、その時期を推測する助けとなる資料はあります。
 
 「この軽井沢飛行場は、昭和二七年の講和条約締結まで約三年余り、東京~軽井沢間を僅か二五分で結ぶ米占領軍の将校専用飛行場として利用されていた。」(軽井沢という聖地102p)
 
軽井沢飛行場は「講和条約締結まで約三年余り利用されていた」とあります。
 
この昭和二七年の講和条約とは、「サンフランシスコ講和条約」を指すと思われ、

同条約は昭和27年(1952年)4月28日に発効しました。
 
1952年4月28日まで「約三年余り使用」ということですから、
 
米軍が軽井沢飛行場を復旧させ、使用したのは、
 
1949年4月頃~1952年4月28日まで。と考えられます。
 
 
軽井沢の飛行場に関して、一番最初に情報を下さったのは、さくさんでした。
 
そのさくさんから、地元出版社の雑誌からの情報として、
 
 「72ゴルフコース西コースの飛行場はS27年まで使用。※ただしS33年には遊覧飛行場との記載もあり。」  
 
という内容の情報を頂いておりました。
 
一見矛盾している感じで、情報を頂いてからしばらくの間は、これをどう解釈すれば良いのか分かりませんでした。
 
しかし情報がある程度揃ったところで頂いたコメントを改めて見直してみれば、
 
S27(1952年)とは、軽井沢飛行場が接収解除となった年なので、
 
72ゴルフコース西コースの飛行場はS27年まで使用。
 
とは、S27年まで「米軍が」使用。ということです。
 
その後軽井沢飛行場は民間飛行場に戻り、S33(1958年)に遊覧飛行の実施があったことは、他の史料でも出てきます。
 
つまり頂いた情報は、「軽井沢飛行場はS27年まで米軍が使用していた。その後返還されてS33年には遊覧飛行があった。」
 
という意味となり、全く矛盾していませんでした。 
 
さくさんには早い段階で非常に貴重な情報をいただいておりましたm(_ _)m

 

飛行場の場所問題

「軽井沢飛行場」は様々な資料に登場し、飛行場があった場所についても、

「南軽井沢」、「地蔵ヶ原」、「現72ゴルフ西コース」と具体的な地名も出てくるのですが、

ピンポイントでズバリ「ここにあった」という情報はありません。

すっかり諦めてしまっていたところ、2013年9月にあさんからコメント欄にて、

「1947年の航空写真には形がなく、1948年9月,10月には現れる黒い滑走路状のものが西コース側にある」

という情報を頂きました。

前述の通り、プリンス通りが進駐軍の飛行場として使用され始めたのは1948年5月のことで、

その後「やっぱりここじゃ不便(by米軍)」ということで、

今やすっかり湿地に戻ってしまった軽井沢飛行場の大規模な地盤改良工事が行われました。

ということは、軽井沢飛行場の工事が始まったのは、1948年5月以降。

そして前述の通り、軽井沢飛行場が復旧したのは1949年4月頃。

そんな訳で、「1947年には形がなく、1948年9月,10月には現れる」というのは非常にポイント高いです。

ということで航空写真の黒いものをグーグルマップに描いたのが先頭のものです。

長さは800m足らずでちょっと短く、またゴルフ場なのでアレなんですが、

グーグルアースで見る限り、勾配の少ない方向に造っているように見受けられます。

この周辺の航空写真は非常に限られていて、1948年撮影の次は一気に1971年まで飛んでしまいます。

その間にせめて数回でも撮影していてくれれば、黒いものがいつ頃まであったのか、

おおよそのことが分かるはずなんですが。。。

1971年の写真を見てみると、翌年には西コース側もゴルフ場としてオープンするためか、

"黒いもの"は既に影も形もありません。

無題l.png
1947年8月(USA M407 70)  無題j.png
1948年10月(USA M1200-A 12)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも) 

1947年8月、1948年10月の航空写真、72ゴルフ西コースの範囲を赤で囲ってみました(東側に南北に走っている線は二十間道路)。

おおよそのものですのでご了承くださいませ。

史料では「軽井沢飛行場は現在の西コースに建設された」と繰り返し出てくる訳ですが、

こうして西コース全体を見ると、北側の滑走路っぽい地割以外、オイラには飛行場適地は見当たりません。

「軽井沢飛行場はここに違いない」と思える点をまとめてみますと、

・資料にある通り、二十間道路の西側、72ゴルフの西コースに位置している
・出現のタイミングが進駐軍の飛行場造成の時期とタイミング合っている
・地割の形、大きさがいかにも滑走路っぽい
・西コース内には他にそれらしい地割が見当たらない
・地形的に離着陸に支障がなさそうに見える

という感じかと。

以上の点から、ここが堤氏が建設し、戦時中は日本陸軍が使用し、

戦後に進駐軍が復旧させた「軽井沢飛行場」だったのではないかと考えます。

因みに二十軒道路を挟んで「西コース」と「東コース」でオープンした72ゴルフなのですが、その後細分化したようで、

滑走路があった辺りは現在「北コース」になっており、おおよそですが、6番、7番コースの辺りと思います。 

「軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場」という、飛行場について説明した動画があり

動画内では当飛行場の位置について、1:06~の部分で、先頭のグーグルマップと同じ部分が矢印で示されていました。

ということは、「軽井沢飛行場はこの場所である」と地元図書館でも公認されているんだと思います。

ここで間違いないという前提の話なんですが、

1948年10月の航空写真で既に大掛かりな飛行場復旧工事の様子が映っています。

実際に米軍が当飛行場を使い始めたのは1949年4月頃と考えられますから、

ハッキリしている期間だけでも、飛行場復旧工事に少なくとも半年を要していることになります。

そう考えれば、米軍が当初はこの飛行場の使用を避けていたのも、日本に任せず自ら工事を行ったのも、

なんとなく納得できるような。。。

こうして大変な工事の末に復活した軽井沢飛行場でしたが、3年余りの使用で日本側に返還され、

民間飛行場に戻ったのでした。

 

「昭和24年撮影」問題 

「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」126pには、

「今とむかし-同じ場所で-」として2枚の写真(駐機する小型機の写真と、上空から捉えたゴルフ場の写真)

が掲載されていて、キャプションはそれぞれ、

「地蔵ヶ原の軽井沢飛行場。小型セスナ機やヘリコプターの離着陸場(昭和24年)」
「現在、七十二コースの国際ゴルフホール(昭和四十八年)」

とあります。

この「駐機する小型機の写真」とそのキャプション

「地蔵ヶ原の軽井沢飛行場。小型セスナ機やヘリコプターの離着陸場(昭和24年)」についていろいろ妄想してみます。

(この写真は、「軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場」 の冒頭に登場してます)

この写真とキャプションには非常に不思議な点があります。

それは、撮影年が「昭和24年」とあること。

前述の通り、軽井沢飛行場を復旧させて、米軍専用飛行場として使用するようになったのは、

1949年(昭和24年)4月頃と考えられます。

それで、昭和24年撮影の軽井沢飛行場に小型機が駐機していること自体は何もおかしくありません。

但し、その小型機は米軍機であるはずです。

敗戦後の日本には航空禁止令が課され、解除されるまでの7年間、

バルーンの研究までご法度となり、いかなる形であれ、航空機の購入、所有が禁じられました。

ところがこの(昭和24年)の写真の機体には、右翼上面にレジナンバーが映っており、

不鮮明ながら最初の文字(国籍記号)はハッキリ"JA"とありますので、これは日本国籍機ということです。

終戦から4年目の昭和24年、航空禁止令真っ最中の時期に"JA"機が存在すること自体、ちょっと考えられないです。

「このキャプションはあり得ない」と思い、スポッター歴ほぼ半世紀というOLDMAN様に問合せをしてみました。

OLDMAN様からの回答を要約しますと、

・日本のレジの国籍記号は、戦前は"J"、戦後に"JA"となった
・写真の機体は外見上の特徴から「オースター」に見える

というものでした。

機体の形状から「オースター」(オイラは初耳の機種)という機種が出てくるところがまず凄いです(@Д@)

主翼にある国籍記号は"J"ではなく"JA"ですから、

頂いた情報から、この機体はレジナンバー的にやっぱり戦後撮影ということになり、

飛行が解禁になった1952年(昭和27年)以降の撮影でないと計算が合いません。

更に頂いた情報は、

・写真のレジは非常に読み取り難いが、単発機の新生日本登録の最初は、JA3001(セスナ195(N11B)1952/8/22登録)なので、これは"JA3012"ではないか

というものでした。

レジナンバーを入力すると、その機体の登録情報がたちどころに検索できるという非常に優れモノのサイトがあり、

ここに教えて頂いた「JA3012」を入力してみました  

で、リンク先をご覧頂ければ明らかなんですが、 OLDMAN様ご推察の通り、

型式:オースターJ5F
1952年9月16日 所有者(使用者):おおとり会    備考:新規
1955年9月15日 所有者(使用者):中村正夫   備考:1956 大阪府大阪市にて不時着大破

と出ました\(^o^)/

ここで明らかになった「JA3012 オースターJ5F」で更に検索してみましたところ…

「一般財団法人 日本航空協会 航空遺産継承基金 ギャラリー 高橋正夫氏アルバムNo.1 」

に、1954年4月22日撮影の「JA3012 オースターJ5F」の鮮明な写真がヒットしました  

この写真の機体の胴体側面には、ヒコーキのマーク?に続けて「おゝとり№1」とペイントしてあります。

先程のレジナンバー検索情報では、 1952年9月16日~1955年9月14日? までおおとり会が所有者と読み取れますから、

ちゃんと辻褄合ってますね。

で、件のアルバムに掲載されている不鮮明な写真の機体の胴体側面を改めてじっくり見てみると、

同じ位置に同一のヒコーキマークがペイントしてあり、しかもそのマークの次に、「お」という文字が読み取れます。

これで、アルバムに写っていた機体が特定できました!

アルバムに写っていた機体=「JA3012 オースターJ5F」で確定です。

 

「JA3012 オースターJ5F」で画像検索をかけてみると、同機のたくさんの写真がヒットします  
 
その中に1955年11月3日撮影のもの があり、主翼に大書されているレジは"JA-3012"で間違いないんですが、
 
機体の塗装はガラリと変わっており、胴体側面にはもう「おゝとり」の文字はありません。
 

所有者が変更になって、ちゃんと塗装が変わったんですね。

ということで、「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」126pに掲載されている駐機する小型機は、

「オースターJ5F(JA3012)」であり、

おおとり会の所有であった 1952年9月16日~1955年9月14日の3年間に撮影されたものではないかと思います。
 
軽井沢飛行場が接収解除され、民間飛行場になったのが1952年で、
 
後述しますが、1962年の時点でも当飛行場は存続していますから、
 
1952年9月16日~1955年9月14日の3年間におおとり号が軽井沢に飛来した(そして撮られた)というのは、
 
軽井沢飛行場が戦後返還され、民間飛行場として存在していた時期とも合致します。
 
 
 
 
実際に当飛行場でグライダー訓練で飛んだ、藤沢オールドボーイさんからもコメント頂きました(@Д@)
 
せっかくなので、抜粋して引用させて頂きます。
 
 「1962年夏の終わり位に2泊位で軽井沢飛行場でグライダーの訓練を行った記憶があります。藤沢と違ってあまりハッキリと覚えていないのが残念ですが滑走路の長さは600メーター位?(滑走路と言っても舗装路ではなくて所謂グラスランウェイで滑走路とまわりの原っぱと境目がハッキリしていなかったと思います)又滑走路の脇30メートル位のところに小さな丘(高さ10メートル位)がありました。飛行場と言っても吹き流しが一つあるだけであまり飛行場の雰囲気はありませんでした。
 私は当時ほとんどが藤沢での訓練で藤沢飛行場についてはかなり記憶があるのですが、軽井沢は一回行っただけで当時の軽井沢飛行場の位置は記憶が曖昧で残念ながら特定出来ません。近くに公民館があり、路線バス(今のマイクロバスの大きさ)が近くを通っていてそれに乗った記憶はあります。路線バスと言っても一日の運行回数が数本レベルのものです。私がここでグライダーに乗った時は本当に吹き流しが一つだけで、事務所らしきものも見当たらず上空から見てもあまり目立つものはありませんでした。」
 
資料からあーだこーだと妄想するしかないオイラとは違い、実体験を交えたコメントはやっぱり重みがありますね。
 
そしていただいたコメントから、「1962年の夏に飛行場が存続していた」ことが明らかです。
 
接収解除後の軽井沢飛行場は再び民間の飛行場となり、その後ゴルフ場が造成されるまでの間存続していた訳ですが、
 
一体いつ閉鎖になったのか、まったく情報がなくて、
 
書籍、ネット等、様々調べても、「1958年に遊覧飛行開始」というところまでしか確認できません。
 
「1962年にグライダー訓練」というのは、現在のところ最も長く存続していたことを示す唯一の情報ですm(_ _)m
 
 
 

「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」の巻末には年表があります。

関係のある箇所だけ抜き出してみました。

昭和四年(一九二九) 南軽井沢に飛行場開設、定期便飛行機離着陸開始。
昭和一三年(一九三七) 南軽井沢の施設を利用し軍事教練開始。
昭和十八年(一九四三) 南軽井沢飛行場熊谷飛行学校の軍事訓練飛行場に使用。
昭和二七年(一九五二) 軽井沢飛行場接収解除民間機の利用に移る。
昭和三三年(一九五八) 軽井沢飛行場で遊覧飛行開始。南軽井沢ゴルフ場造成。

波乱に富んだ「軽井沢飛行場」は、こうしてゴルフ場に姿を変え、現在に至ります。

ここでプレーする方のうち、どのくらいの方がこうした数奇な運命をご存知なのでしょうか。

また同アルバムの「あとがき」164pにはこんな一節がありました。

 「昭和七年ごろまでドン底の窮乏がつづいたが、その昭和七年七月十七日、軽井沢の上空を一台の飛行機がとんだ。私たちはたがいにその戦闘機を仰いで感激した思い出がある。それは、愛国号献納機で、佐藤中尉が操縦し村人に感謝しながら、戦場に向かったのであるが、今もそのことを忘れられない。」

軽井沢といえば、今でこそ「オシャレな避暑地」というイメージですが、

戦前から戦後にかけて、ヒコーキとの関わりが非常に深かったのですね。

D20_0045.jpg

滑走路跡西側の外周道路から。ちょい先から奥に向かって滑走路だった(はず)。


       長野県・軽井沢飛行場跡地        

軽井沢飛行場 データ
使用者:箱根土地株式会社→旧陸軍→進駐軍→箱根土地株式会社?
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町発地南軽井沢
座 標:N36°18′59″E138°36′49″
滑走路:760m?
方 位:11/29?
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1920年 箱根土地株式会社(現・プリンスホテル)、地蔵ヶ原の土地買収
1925年 夏、二十間道路ほぼ完成。秋、道路西側に軽井沢飛行場完成
1927年 8月16日、東京~軽井沢間定期飛行認可
1928年 8月、9月1日~25日 浅間遊覧飛行
1932年 7月17日、軽井沢上空を1機の戦闘機(愛国号献納機)が飛ぶ
1934年 5月、海軍機が軽井沢競馬場に不時着
1937年 南軽井沢一帯が軍事教練場となる
1943年 飛行場は整備され、熊谷飛行学校訓練所となる
1944年 陸軍特別航空隊学徒が使用
1945年 9月15日、進駐軍初来軽
     11月9日 千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収
1948年 5月、二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
      9月 この頃、軽井沢飛行場の地盤改良工事
1949年 4月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる(軽井沢~東京25分)
1952年 4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。飛行場接収解除。民間機の利用に移る(アルバム年表情報)
      9月16日~1955年9月14日 この間におおとり号、軽井沢にて撮影される
1958年 軽井沢飛行場で遊覧飛行開始(アルバム年表情報)。(1957年という情報もあり)
1962年 夏にグライダー訓練実施(藤沢オールドボーイさん)
1971年 7月、72ゴルフ西ホール開業
1972年 8月、同東ホール開業

 

ブログ内関連記事
軽井沢の飛行場について 
東長倉小学校跡地
 
旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地) 
臨時飛行場跡地(二十間道路) 
軽井沢競馬場跡地 
桶川飛行学校跡地
 
ホンダエアポート
  

この記事の資料:
「グラン・ヴィネット」2000年特別号
避暑地軽井沢
軽井沢物語
軽井沢という聖地
目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢
旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会機関紙「大空への鎮魂」第22号
防衛研究所収蔵資料:航空路資料第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19.6 水路部
防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部
「地理」2011年1月号・リゾート地 軽井沢の風土
軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場


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コメント 57

koume

去年軽井沢に行ったから、もしかしたら気が付かないで
ここの通り通ってるのかも!!
そう思うといっそう興味深く読めました^^
by koume (2011-04-08 17:01) 

鹿児島のこういち

空撮の写真を拡大(携帯だけど)すると、道路がくのじに曲がってるところから、とりさんがオレンジに囲ったところよりちょっと右側によったところに、かすかに写ってるように感じるのですがぁ、勘違いf^_^;
軽井沢って別荘地のイメージ。ヒコーキじゃなくてコーヒーのイメージです(^O^)
by 鹿児島のこういち (2011-04-08 18:45) 

tooshiba

ここは、、、例の堤一家のシマじゃないすか。
(公式サイトの下端にプリンスホテ○って書いてあった)

堤一家のやりそうなことと言えば、、、跡形もなくほっくり返して、歴史遺産も何もかもごちゃ混ぜにすることだからな。
進駐軍が使っていた間に関しては、国土地理院には手も足も出ない、アンタッチャブルゾーンだったでしょうしな。
国土計画か西武建設か、とにかくグループ企業で当時建設工事に携わった人間の証言でも得られれば、多少は確度の高い資料になるでしょうが(この記事がね)。
今から40年以上前・・・関係者の多くは既に他界しているかも。

堤一家=西○の悪行は数知れずですが、また一つ、歴史が闇に葬られましたよ、と。c⌒っ゚д゚)っφ メモメモ...
by tooshiba (2011-04-08 21:21) 

まめ助の母

こんな所も飛行場だったんですか?
びっくりです!
72ゴルフ場…
727とは関係なかったんですね…残念
by まめ助の母 (2011-04-08 22:08) 

Takashi

フェアウエイでの離着陸は難しいんですかね。
きっとゴルファーにとっても難しいコースだったのでしょう^^
by Takashi (2011-04-09 05:56) 

雅

よくもまぁこんなところに、という場所に飛行場を作ったんですね。

by (2011-04-09 21:58) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■koumeさん
少しでも関係のあった場所だと親近感沸きますよね^^

■鹿児島のこういちさん
>ちょっと右側
オレンジで囲ったものより、滑走路北端がもっと北に延びていて、クッキリと白く写っている部分のことでしょうか?
オイラは、滑走路の形がハッキリ残っているように見えたので、
オレンジ部分ではないかと思ったのですが、まあ根拠はその程度のことです。
今後飛行場の正確な位置が判明したら、やっぱり鹿児島のこういちさんが正しかった。
ということになるかもしれませんね。
>別荘地、コーヒー
オイラもそんなイメージです。
軍用飛行場なんて、すごいギャップですよね。

■tooshibaさん
>堤一家のシマ
確かにこの辺りは西武王国ですね~。
遺構保存と開発。難しい問題だと思います。

■まめ助の母さん
オイラもこんな所に飛行場! とビックリでした。
>727
そんな名前の化粧品が気になってます。

■Takashiさん
>フェアウエイでの離着陸
失敗してバンカーとか池ポチャとかしたらしいです(嘘)

■雅さん
本当にですね~。
米軍も避暑したかったのかしらん。
by とり (2011-04-10 06:39) 

hiro78

ご無沙汰しています!

なかなか復活できず・・・ 忙しい日々を送っています。

軽井沢に飛行場があったとは初めて知りました!
早速リサーチしてみます!!

by hiro78 (2011-04-10 22:12) 

とり

■hiro78さん
早速のご連絡ありがとうございます^^
元気でおられるのが分かって安心しました。
このご時世、ブログができないほど忙しいのはある意味羨ましいことです。
是非日本経済を支えてください^^
オイラも「軽井沢に飛行場!!」とビックリでした。
いろいろ資料を調べたのですが、地元の方でもほとんど知られていない。とのことでした。
この飛行場に関しては不明な点が多いです。
もし何か分かりましたら、教えて頂けると嬉しいです。m(_ _)m
by とり (2011-04-11 07:06) 

takkun

お久しぶりです!!
72のゴルフ場、うちのばあちゃんちのすぐ近くです。といっても車で10分くらいですが…
小さい頃からよく遊びにいってました。(最近はもっぱらアウトレット^.^)
こんなところに軍用飛行場があったんですね。
それは知りませんでした。
しかもプリンス通りが臨時飛行場になってたとは…
私にとっては衝撃の事実ですね。
今度、うちのじいちゃん(92歳、地域の生き字引)に会った時にでも聞いてみたいと思います。
もちろん、滑走路の位置なんかは知っているはずもないと思いますが…
by takkun (2011-04-11 23:36) 

とり

■takkunさん
お久しぶりです。
馴染み深い場所ほど、こういう時はビックリですよね。
もし何か分かりましたら、是非教えてください。m(_ _)m
by とり (2011-04-12 06:50) 

さく

とりさん

軽井沢飛行場に関する記事、
地元出版社軽井沢ヴィネットの雑誌
「グラン・ヴィネット」2000年特別号によると、
①当初は旧ゴルフ場(現在の6番コース)
  →事故で②へ
②プリンス通りの南半分
  →不便な為③へ
③72ゴルフコース西コース
  →S27年まで使用
   ※ただしS33年には遊覧飛行場との記載もあり。  
by さく (2011-07-28 10:10) 

とり

■さくさん
貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m
滑走路のあった場所、そして場所を転々とした経緯はいくらネットで調べても不明な点ばかりでした。本当に感謝です。
後日記事に反映させていただきます。
一つお聞きしたいのですが、「旧ゴルフ場」というのは、
新旧18号線にはさまれた「軽井沢ゴルフ倶楽部」のことでしょうか?
by とり (2011-07-29 06:52) 

さく

とりさん

さくです
いろいろ資料を捜しておりますが、う~~ん・・・、とりさんの言われる通り
不明な点が多いです。

旧ゴルフ場=軽井沢ゴルフ倶楽部かははっきりしません。
いい資料がみつかりましたら、またご報告させて頂きますね。

by さく (2011-08-10 23:20) 

とり

■さくさん
返事おそくなりましたm(_ _)m
やはり軽井沢飛行場に関しては情報が少ないのですね。
非常に慎重な情報提供、感謝致します。
もしも何か分かりましたら、是非教えてくださいm(_ _)m
とりあえず現時点でさくさんから教えて頂いた情報で記事修正をさせていただきます。
ありがとうございました。
by とり (2011-08-14 19:56) 

再生おじさん

書籍情報です。(既出?)

「軽井沢という聖地」( 著者: 桐山秀樹、吉村祐美)のP102に記載があります。
6番コース、プリンス通り南半分を臨時飛行場、72ゴルフコース西コースに占領軍の軽井沢飛行場等々。

by 再生おじさん (2013-12-04 23:51) 

とり

■再生おじさんさん
既出ではあるのですが、ここについては本当に情報が少なくて、
さくさんから頂いた書籍情報が別資料からも裏付けられた形です。
情報ありがとうございました。m(_ _)m
by とり (2013-12-05 06:31) 

あるく

ゴルフへ行ったついでに町誌を見たら地図に臨時飛行場のあった場所が丸で囲まれていました。
上の地図でいうと二十間道路に青字のAと↓の書いてある場所の少し上の十字路から道路沿いに北上して南軽井沢交差点の表示のあるあたりまでが臨時飛行場となってました。
by あるく (2014-09-07 21:30) 

とり

■あるくさん 
オイラが考えていたのと逆の方向ですねΣ(゚Д゚;)
グーグルアースで測ったら530mしかないのが気になりますが。。。
貴重な情報ありがとうございました。
by とり (2014-09-08 05:29) 

とり

■あるくさん 
先日コメントいただいた臨時飛行場の位置についてですが、
臨時飛行場があったのは、やはり記事中のA地点より南側であるように思います。
以下そう考える理由を述べさせて頂きます。

1.諸々の情報
当コメント欄にて他の方から頂いた複数の資料でも、またネットでも、
臨時飛行場の位置は「プリンス通り南半分」となっています。
「A地点より北側が飛行場である」とするのは、現在のところあるくさんから頂いた情報が唯一です。

2.標高の問題
標高が上がるごとに(気圧が下がるごとに)離陸滑走距離が延びる、若しくは最大離陸重量が減るのはご存知と思います。
現在標高日本一は松本空港の657mですが、
以前松本から韓国へ飛んだチャーター機は、松本が高地空港であるために一旦福岡空港で給油する必要がありました。
松本空港の標高だと、離陸に必要な滑走距離は約30%増になり、標高1,500mでは約100%増になります。
これは、標高が上がるごとに必要滑走距離が加速度的に増える二次関数曲線になります。
一方あるくさんご指摘の地点の標高は940mです。
二次関数の計算の仕方を忘れてしまったので手書きでグラフを作ってみたのですが、
標高940mの場合、離陸滑走距離は約47%増になります。
離陸が厳しくなるのと同じ理由で、着陸の方も進入速度を上げねばならず、相当厳しいです。
加えて軽井沢飛行場は霧で悪名高く、現在のように便利な着陸誘導施設もなく、おまけに周辺に代替飛行場がありません。
こうしたことから燃料を余計に搭載したはずです。
余計な燃料の重さの分着陸進入速度が上がり、標高の分更に機速が上がり、制動距離は速度の二乗倍で増えます。
要するに、軽井沢飛行場は今の国内空港ではあり得ない程の厳しい条件が何重にも付いていました。

3.滑走路長の問題
あるくさんの仰る通りの場所が滑走路だとすると、上のコメントにも書きましたが、
長さは最大でも530mしかとれません。
2.の二次関数曲線に当てはめると、標高940mで長さ530mの滑走路は実質360m程度になります。
日本軍の滑走路は短くてもおおよそ600m~800m程度であり、
オイラの知る限り、日本軍の最短滑走路は父島洲崎飛行場の500mです。
父島洲崎の滑走路は実際にはもう少し長かったという資料もある(700mとか800mとかそれ以上とか)のですが、
それでもこの滑走路は零戦等、STOL性に優れる海軍機にとっても短か過ぎ、離着陸時の事故が続出しました。
父島にやってきた零戦4機のうち、3機が離着陸の失敗で水没、炎上というケースもあります。
進駐軍が軽井沢便にどんな機材を使ったのか不明なので、父島のケースを同列に論じる事は出来ませんが、
100kmの距離を25分で飛べる当時の機材、そして上述の軽井沢飛行場の厳しい諸条件を考え合わせると、
「実質360m程度」の滑走路というのは、オイラには十分な長さとは思えません。
単座の連絡機ならうんと短い滑走路でも運用可能でしょうが、
軽井沢に飛来したのは人員輸送機でしたから、やはりある程度の滑走路が必要と思います。

3.搭乗者の問題
進駐軍は列車で軽井沢にやって来たため、軽井沢駅には占領軍専用のRTOが設置されました。
そして、ヒコーキでやって来たのは将校クラス以上でした。
上述の飛行場の厳しい諸条件を考えると、せっかくすぐ南に長大な"滑走路"があるのに、
VIP機でわざわざギリギリの運用をするものでしょうか?

それでも町誌の中でご指摘の部分が飛行場とされた1つの可能性として、軽井沢の地理的要因があるかもしれません。
進駐軍が接収して改造したホテル(千ヶ滝、三笠、万平)は、軽井沢駅以北です。
進駐軍が真っ先に使用した滑走路は旧ゴルフ場であることからも、軽井沢駅以北が進駐軍の拠点であり、
進駐軍はヒコーキでできるだけ北側に乗り付けたかったはずです。
仮に記事中のA地点より南側に滑走路があったとしても、そこからプリンス通りをタキシングして北上し、
より拠点に近い北側に駐機しても不思議はないと思います。
そうだとすると、A地点より北側が地元の方から飛行場に見えたのかもしれないと思いました。
という訳で、A地点より南側に滑走路があったと考えるのが今のところ自然なのではないかと思います。
(折角情報頂いたのにすみません)
by とり (2014-09-15 07:45) 

あるく

丁寧に書いてくださいましたが町誌に「臨時」飛行場として丸で囲まれていた
部分を書いただけですので詳しい事ははわかりませんが
飛行機が来たと連絡が入ると両方に人が出て交通を止めたとも書いてありました。


by あるく (2014-09-15 09:11) 

とり

■あるくさん 
情報ありがとうございます。
成程。地元情報同士で矛盾が生じているように見えますね。
ご指摘の町誌がいつ書かれたものか存じませんが、臨時飛行場があったのは何年も昔の、
しかも陸軍飛行場を復旧させるまでの、恐らくほんの一時期のことなので、
地元の方同士でも位置情報に矛盾が生じても仕方のないことかもしれないですね。
せめてこの時進駐軍が実際に使用していた機種が分かるといいのですが。。。

こうして地元情報に二つの説が出てしまった以上、
今となっては様々な証言、資料等からあれこれと推測して判断するしかない訳です。
それを試みたのが2.以降の部分なのですが、
あるくさんご自身か、ここをご覧になるどなたかがオイラの「南説」に反論を加えて下されば、
A地点の北なのか南なのかの論議が深まると思います。
ただオイラ個人と致しましては、現段階では上述の通り状況からして
「プリンス通り南半分」という情報の方がしっくりくるように思います。
by とり (2014-09-15 10:49) 

とり

■あるくさん
臨時飛行場の位置を記している書籍がそれぞれ何年に出版されたのか調べてみました。
あるくさんがご覧になった町誌は、1988年出版のものだと思います(それ以前のものは昭和11年版)。
一方、上のコメントで「南半分」と記されている書籍はそれぞれ、2000年と2012年の出版です。
仮に「南半分」という情報が出た後で、それと異なる情報が町のオフィシャルから出たのであれば、
これは一考に値するのですが、
時系列で見ると、まず町誌で「A地点の北側」という情報が出て、その後10年も20年も後に出版された書籍ではいずれも「南半分」となっております。
ネットでも町誌の場所だったとする情報は今のところ皆無です。
書籍出版にあたり、町誌の内容は確認しているはずで、
オイラには町誌の位置情報がその後覆され、書籍もネットも「南半分」で覆い尽くされているのが現状に見えるのですが、如何でしょうか?

また、町誌の中では「飛行機が来たと連絡が入ると両方に人が出て交通を止めた」
と記されているとのことですが、「軽井沢という聖地」の中でも、
「軽井沢から南に延びる二十間道路(現プリンス通り)の南半分を”臨時飛行場〟とし、
セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行場の離発着を助けていた。」
と、同様の事が記されております。
by とり (2014-09-18 06:23) 

asama

東信の軽井沢誌にケチをつけているHPがあると聞いた為見てみました。一方的な主張ばかりなので口出しはやめようと思いましたが、
一事だけ言って退散します。
プリンス通りの解釈は2つある。
1新軽井沢交差点からから南軽井沢交差点まで
2和美峠から新軽井沢交差点まで
だが現在の主流は1の方である。現在の43号線はまっすぐプリンス通りを北上しているが以前の下仁田線は南軽井沢交差点で付近で左折していた。
だが雑誌等のいう南半分だと入山峠入口交差点から南軽井沢交差点をさすことになるのでどちらにせよ正しくはない。

それよりも町誌が臨時飛行場と言っている場所は間違っているという方が問題だ。町誌にはセスナと書いてあるので小型単発機が使用されたのであろう。
それならばこの距離でも大きな問題ではない。たとえ大変だったとしてもマヌゥーバーのSFLやSFLを使えばよい。
俺もかつてC170の様な尾翼の機体がファイナルに入ったところの写真を見たことがある。
さてこの付近のチャートを見てもらおうA地点を真直ぐ南下すると押立山が正面にある。高地でしかもランウエイ正面に山があるところを好んで使用するだろうか。まして霧も出やすい場所でもある。これではデパーチャーは片側しかできないことになる。この付近をベースにしてファイナルに入る場合は気流も考慮に入れなければならない。もし山に向かってランディングしようとした時にゴーアラウンドやオプションをしなければならなくなったら山がかなり邪魔になる。
そしてここをランウエイとした場合、ランウエイの周りやトラフィックパターンのことも考慮に入れただろうかランウエイの周りは米軍が接収した南軽井沢別荘地である。騒音や墜落のことも問題になる。
操縦面から言ってもAより下は適地とは言えない。

貴兄はいろいろご存じでアルプス越えで韓国のことまで書いておられましたが機種や燃料のことは書いてなかったが、もしC170で3時間も操縦したらかなりばててしまうよ。以上

書きたいことは書いたのでもうここへは来ません。さようなら
by asama (2014-09-18 16:53) 

とり

■asamaさん
真正面からの反論感謝です。まさかこんなに早く欲しいと思っていたご意見が頂けるとは思っていませんでした。
先のコメントにも書きましたが、ここを訪れる他の方にとっては、双方の意見を比較して、
臨時飛行場の位置について、判断材料にすることが出来ると思います。
オイラはケチをつけたり、一方的な主張をする意図はなく、町誌は間違っていると断言している訳でもありません。
直接的な証拠がないので、飽くまで「状況からしてこう考える方がしっくりくる」
ということで、表現には随分気を遣ったつもりなのですが、そう受け取られたのでしたらすみませんでした。
もうここへは来られないとのことですが、もし気が向きましたらまた是非いつでもご意見頂ければ幸いです。

>プリンス通りの解釈
「臨時飛行場はどこだったか」が問題なのですから、現在の主流がどうこうではなくて、
それぞれの書籍でどこからどこまでをプリンス通りとし、どこが臨時飛行場と述べているかを考える必要があると思うのですが、如何でしょうか。

>小型単発機が使用されたのであろう。
確かに「セスナ」と聞けばそういうイメージですよね。
ただ、今問題にしているのは、「臨時飛行場で使用されたセスナ機」ですから、
戦中、終戦直後の時期にどんなセスナ機が軍で運用されていたのかを考える必要がありますよね?
当時のセスナ社は軍用に多種多様なヒコーキを生産しており、その中にはそこそこの大きさの双発機も多くありました。
生憎当時のセスナ機のラインナップについての資料が乏しく、また軽井沢で実際に使用していた機種が不明です。
このことが判断を難しくする要因になっております。
既に書きましたが、将校クラス以上を運ぶための機材ですから、小型単発と断定するのは早計と思うのですが如何でしょうか。
小型単発機ならばこの距離でも大きな問題ではないと仰っていますが、
仮に運用していたのが小型単発だったとして、問題ないとするその根拠は何でしょうか?
実質360mの滑走路でも運用可能とすると、離陸滑走距離の数字などご存知なのでしょうか?
当時の機材のスペックは検索してもなかなか出てこないので、非常に興味があります。
また、SFLを使えばよいと仰っていますが、臨時の飛行場にわざわざSFLの設置ですか。
「SFLを使えば運用可能である」というのはasamaさんの仮定の話ですよね。そもそもSFLって、当時あったのでしょうか??

>押立山が正面にある
A地点から押立山の山裾まで1,900mあります。
臨時飛行場の後に米軍が使用した西側の飛行場は航空写真で見る限り800m弱のようですので、この800m弱を前提に以下話を進めます。
A地点から山に向かって離陸開始したとして、800mを過ぎても、山裾まで1,100mあります。
これは離陸後左右どちらかに旋回するには十分な距離だと思います。
余談ですが、A地点から800m地点を通過し、そこから押立山頂まで1,460m。
山頂との標高差は168mで、800m通過地点から山頂までの角度は約6.5°です。
800m弱の滑走路でも実際にはもっと手前で離陸しているはずで、この角度は更に浅くなります。
当時の運用機が不明なので何とも言えませんが、現代の旅客機ならそのまま飛び越せそうな角度ですね。
気流のことを挙げておられますが、これまた「この周辺は離着陸に向かない気流であるかもしれない」というasamaさんの仮定の話ですよね。
着陸に関してですが、羽田16L着陸時、風向きにより滑走路端かなり手前で90°旋回、180°旋回します。
この場合、ジャンボでも滑走路端かなり近い所でファイナルターンをしてピタリと中心線に乗せてましたから、
小型機ならば、障害物と滑走路端の間隔が1,000m以上あるのですから、好きなように回り込めると思います。
よって、A地点より南は適地ではないと断言は出来ないと思います。

>騒音や墜落
進駐軍がまず真っ先にどこを滑走路として使用したかを考えてみて下さい。

>ばててしまう
このことを引き合いに出す意図が分からないのですが、韓国のチャーター機についてはこちらの記事を参照しました
http://www.pref.nagano.lg.jp/kotsu/kurashi/kotsu/kuko/matsumoto/faq/index.html
by とり (2014-09-19 06:14) 

秋水

いつも興味深く拝見しております
鳥さんの話 大変納得いきます。結果的に反論が鳥さんの意見を引き立てていますね(笑)
突然自分の言いたいことだけ言って、「もう来ません」とは、そっちがよっぽどケチつけて一方的な主張じゃないですか(笑)

小出しに反論を試みて、ぐうの音も出なくなるとそのまま消えてしまう方もお粗末ですね。
by 秋水 (2014-09-19 13:23) 

とり

■秋水さん
繰り返しになってしまいますが、臨時飛行場の位置について二つ目の情報が出ました。
二つのうち、こちらが絶対に正しいという証拠がなく、それでも状況からして一方に説得力があるように見える。
というのがこの件についてのオイラの捉え方です。
当時の戦闘機、爆撃機についてはスペックがいくらでも調べられるのですが、連絡機等についてはほとんど情報がなくて、
もしかすると実質360mでも十分運用可能な機材があるかもしれません。
巡航速度が速くなるごとに滑走距離は伸びるのですが、
直線距離100kmを25分ということは、巡航速度は300km/h程度と思いますので尚更です。
今後臨時飛行場の場所について、決定的な情報が出て欲しいと思います。
オイラにとっては、誰の意見が正しいかなどということより、滑走路の正しい位置情報の方がずっと大事です。
オイラが長々と書いた説が完全に間違っていたということが明らかになるかもしれませんが、
その時は逃げも隠れもせず謝罪して訂正するだけです。
今回あるくさんから定説とは異なる情報を頂いたおかげで、臨時飛行場の位置についていろいろ考えることが出来ました。
asamaさんのおかげでオイラの説の信憑性を試すことが出来ました。
決着がつくまでは、ここをご覧になった方が双方の言い分を見て、ご自分で判断すればいいと思います。

asamaさんは、「軽井沢誌にケチをつけているHPがあると聞いた」のがきっかけで当ブログに来られたとのことですが、
ネットでこの記事がどこかで取り上げられたというのは、検索しても出てこないんですよね。
ネットではないとすると、一体ドコで誰から聞いたのか、ちょっと気になります(o ̄∇ ̄o)

それから1つ追加です。
A地点から山に向かって離陸開始したとした場合のことなのですが、
仮に上昇速度が180km/h とすると、
A地点から800mを過ぎて、そこから山裾に達するまで22秒あります。
離陸後ほとんど高度を上げなかったとすると、その数秒後に山に激突してしまうことになるはずですが、
離陸後22秒というのは、山回避に移るには十分な時間なのではないかと思います。
by とり (2014-09-21 08:04) 

藤沢オールドボーイ

軽井沢飛行場、私も2年くらい前に軽井沢へ行ったときに地元の人に聞いたのですが当時のことを知っている人はいませんでした。
1962年夏の終わり位に2泊位で軽井沢飛行場でグライダーの訓練を行った記憶があります。
藤沢と違ってあまりハッキリと覚えていないのが残念ですが滑走路の長さは600メーター位?(滑走路と言っても舗装路ではなくて所謂グラスランウェイで滑走路とまわりの原っぱと境目がハッキリしていなかったと思います)
又滑走路の脇30メートル位のところに小さな丘(高さ10メートル位)がありました。
飛行場と言っても吹き流しが一つあるだけであまり飛行場の雰囲気はありませんでした。
皆様の書き込みを拝見しているとほんの一部ですが当時のことが思い出されました。
by 藤沢オールドボーイ (2014-09-29 20:00) 

とり

■藤沢オールドボーイさん 
非常に貴重な情報ありがとうございます!
進駐軍が撤収してから72ゴルフが出来るまでの間は一体どうなっていたのだろうと思っていました。
少なくとも1962年夏まで飛行場は運用していたのですね。
確認させて頂きたいのですが、藤沢オールドボーイさんが使用された飛行場の位置は、
現在のプリンス通り西側、72ゴルフ場の所でしょうか?
by とり (2014-09-30 05:42) 

藤沢オールドボーイ

私は当時ほとんどが藤沢での訓練で藤沢飛行場についてはかなり記憶があるのですが、軽井沢は一回行っただけで当時の軽井沢飛行場の位置は記憶が曖昧で残念ながら特定出来ません。
近くに公民館があり、路線バス(今のマイクロバスの大きさ)が近くを通っていてそれに乗った記憶はあります。路線バスと言っても一日の運行回数が数本レベルのものです。
私がここでグライダーに乗った時は本当に吹き流しが一つだけで、事務所らしきものも見当たらず上空から見てもあまり目立つものはありませんでした。

by 藤沢オールドボーイ (2014-09-30 07:54) 

再生おじさん

そろそろ参戦しても良いですか?(笑) ポカッ(._+ )☆ヾ(-.-メ) ォィォィ

軽井沢の聖地(http://books.google.co.jp/books?id=dJXYULbDjOwC&pg=PA68&dq=%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2%E7%94%BA%E8%AA%8C&hl=ja&sa=X&ei=EJUqVJeNNoXN8gXI0IHwCw&ved=0CD4Q6AEwBw#v=onepage&q=%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4&f=false)の、P102に「軽井沢から南に延びる二十間道路(現プリンス通り)の南半分を”臨時飛行場”とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行場の離発着を助けていた。現在の軽井沢ではとても信じられないような出来事が当時は普通に行われていたのである。」とハッキリ書かれています。

①プリンス通りは何処から何処までだったのかについて
「軽井沢から南へ延びる」と書かれているので、軽井沢駅から南へ延びる二十間道路で、南端は「南軽井沢交差点」だと思います。
※この本は2012年発行ですから、現在の「プリンス通り」の範囲を指して説明していると思います。

②南半分って何処から何処までなのかについて
駅から南軽井沢交差点までが「プリンス通り」ならば、その南半分は、「入山峠入口」から「南軽井沢交差点」ですねぇ。
(-_★)キラーン!!
アーカイブ写真USA-M1200-A-12(1948.10.19)を見ると道幅が広くなっていて(出来立ての二十間道路?)、グーグルアースによる計測でも有効長さが900mあります。

③おじさんの野生の勘(笑)
おじさんが、もしも当時の進駐軍だったとしたら・・・・
飛行場を手っ取り早く手に入れたいので、出来立ての幅広な道路の1km位の直線部分を、接収じゃー と言ったに違いありません(笑)

ってな訳で、おじさんは、「入山峠入口交差点」から「南軽井沢交差点」までが「臨時飛行場」だったと思います。

(;^ω^)ヤセイオカンデスカラ、ハズレテイテモシリマセン・・・

アシカラズm(_ _;)m
by 再生おじさん (2014-09-30 21:08) 

とり

■藤沢オールドボーイさん 
半世紀以上昔の話ですからね~。
公民館と路線バス。手掛かりを頂きました。
お返事をどうもありがとうございました。

■再生おじさん
勿論参戦大歓迎ですよ\(^o^)/キター
再生おじさんのお考えでは、プリンス通りは、軽井沢駅~「南軽井沢交差点」で、
その南半分ですから、臨時飛行場は「入山峠入口交差点」~「南軽井沢交差点」ということですね。
ご指摘の部分は高低差のない平坦路で、延長線上に障害物もなさそうですし、長さも幅も滑走路として申し分ないですね。
進駐軍がまず使用したのが旧ゴルフ場でしたから、彼らにとっても都合のよさそうな場所です。

asamaさんからもご高察賜りましたが、明確な資料がないこともあり、記事内では二十間道路の範囲について踏み込んでおりませんでした。
再生おじさんへのレスと合わせてこの部分について手持ちの資料から現時点で知り得る限りの補遺をさせて頂きます。
まず、当記事内でも触れた「避暑地 軽井沢」(2000年発行)の中では、
二十間道路、臨時飛行場が造られたのは、「南軽井沢」という地域であるとし、
108pで「南軽井沢は軽井沢駅の南に広がる平地をさす」と定義付がなされています。
これは再生おじさんの「軽井沢駅南側」というお考えと一致していますね。
更に同書では二十間道路建設のいきさつについて紹介されていました。
同書では(少なくともオイラがコピーした範囲では)プリンス通りという表現がなく、「二十間道路」とだけ記されており、
二十間道路がどこからどこまでかについての明確な説明は残念ながら無いのですが、
それでも道路の範囲と臨時飛行場の位置について、手がかりになる記述があります。

119pには
「新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅二〇間長さ二〇町の道路建設に取り掛かった。この道路は南の押立山の麓まで、翌一四年夏にはほぼ完成し…」
と記されています。
続けて道路西側には飛行場(←後に陸軍が使用した飛行場)が、そして道路東側に競馬場が造られたと記されています。
この競馬場について同書では、2万の来場者があり、少なくとも1935年まではやっていたと記されています。
155pでは「二十間道路が臨時飛行場になった」と記されています。

まとめると、同書の二十間道路、臨時飛行場の場所の条件はこうなります
・道路南端は押立山の麓
・道路西に飛行場がある
・道路東に競馬場がある

http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178579&isDetail=true
↑1947年撮影の写真で再生おじさん仰る道路の範囲を確認しますと、道路西側のゴルフ場が目を引き、
一見ここに飛行場があってもおかしくないように見えるのですが、
同書では1933年に完成した当ゴルフ場(軽井沢ゴルフ倶楽部)の建設のいきさつについても説明されており、
1927年に定期便が飛び始めた飛行場とは明らかに別物件として扱われており、
「南軽井沢には広い土地を必要とする滑走路、競馬場、ゴルフ場といった大型の施設がつくられ…」と別個に数えられています。
また、道路東側部分は、撮影から少なくとも12年前に観衆数万の規模の競馬場があったようには見えません。
再生おじさんご指摘の範囲は上記の3条件があてはまっていないように見えます。

一方、押立山すぐ北側、道路東側に、東西方向の角の丸い長方形の地割があります。
そこそこの大きさもあって、コレ、競馬場のコースに見えませんか?
道路西側の飛行場については、これまた明確な資料がないのですが、あさんご高察の位置情報については既に記事に記した通りです。
ということで、上記3条件のあてはまる場所として、オイラは二十間道路は、軽井沢駅~押立山で、
その南半分ですから臨時飛行場があったのはやはり南軽井沢交差点以南、記事中のA地点から南側ではないかと思うのですが、如何でしょうか。

決定的な証拠がない中で、再生おじさんがこうして三つ目の説を出して下さったことに感謝致しますm(_ _)m
あるくさん説だと短過ぎ、オイラの説だと「真正面に押立山」になるため、
正直なトコロ、個人的には再生おじさんご指摘の箇所が滑走路の場所としては最も適しているように思います。
by とり (2014-10-01 18:48) 

再生おじさん

こんばんは~

グーグルブックスで[壁]д・)チラッっとしか「軽井沢という聖地」を読んでいないので、当時の二十間道路がどこまでだったのかは知らないのです・・
(*-゙-)ウーン…

でも、とりさんのコメの「避暑地 軽井沢」の内容(119p)は、「新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅二〇間長さ二〇町の道路建設に取り掛かった。この道路は南の押立山の麓まで、翌一四年夏にはほぼ完成し…」

長さ1町=109.09mですので、20町=2181.8m → 約2km程!
ってな事なので・・・おじさんは、20間道路とは素直に「新軽井沢交差点」から南へ2kmほどなんだなぁ~と。
でも、昭和14年には幅20間で山の麓まで全開通??・・・・
(。・_・?)ハテ? ワケワカランッ

競馬場は確かにUSA-M407-70 に写っていて、座標は 36°18'25.07"N、138°38'14.25"E の辺りですね。
(軽井沢競馬場の平面図:http://homepage2.nifty.com/keibastamp/newpage88.html )

(*-゙-)ウーン…

20間道路は「長さ20町」で、それに続く道路は山の麓まで整備され、(脳内変換(笑):その道路の)東には競馬場、西には飛行場・・・・・・
って解釈しちゃう。うん。しちゃう。(笑)・・・・・
おじさんの説も、条件に嵌っちゃう~♪♪ ポカッ(._+ )☆ヾ(-.-メ) ォィォィ 

えーっと、冗談はさておきマジメな話・・・・
1948年5月に臨時飛行場として使用開始なので、1948年10月の写真(USA-M1200-A-12)を見れば、滑走路として使用していた痕跡が何かしら写っているのではないかと考えています。

滑走路として使用する以上、白い跡が太く残っている(写っている)いて、かつ道路幅がクッキリハッキリ30mある部分、しかもそこは「仮」20間道路の南半分って事で、競馬場近くの20間道路?の地面は滑走路にしては、道路が土色過ぎだよなぁと思い、「入山峠入口交差点」から「南軽井沢交差点」までが「臨時飛行場」だったと思うのです。

(*-ω-)。O○ どうねんでしょうねぇ?

「1948年5月当時の20間道路は何処から何処までの事を指すか」を役場に聞いてみたら答えが解るかも??

(*-ω-)。O○ 現地調査に行って来ようかなぁ・・・・・

追伸・・・
USA-M1200-A-12の 36°20'4.20"N、138°37'55.20"E に写っているブツが飛行機に見えてしまうのは・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おじさんが疲れているからでしょうか?(笑) 
by 再生おじさん (2014-10-01 21:05) 

とり

■再生おじさん
おはようございます。
押立山まで道路は作られたが、軽井沢駅以南の二十町だけが二十間道路。
そう考えれば辻褄は合いますね。
前出の本の108pは、「五、南軽井沢の開発 -二十間道路が地蔵ヶ原を変えた-」
で始まっています。
地蔵ヶ原は72ゴルフのある一帯なので、この辺りも二十間道路と思っていたのですが。。。
短期間で全通した件については、当地が平坦な草原、湿地だったとのことなので、
人の数があれば大丈夫なのかなぁ、と考えました。
コピーした資料を見返したのですが、二十間道路の範囲についてこれ以上は分かりませんでした。
役場に電話して聞いてみようかしらん。
>写っているブツ
オイラは修業が足りないのか、ヒコーキは見えませんでした^^;
軽井沢競馬場の平面図もありがとうございました。
by とり (2014-10-03 04:36) 

再生おじさん

こんばんは~

おじさんも(。・_・?)ハテ?という状態ですので、是非、役場に問い合わせしてみて下さい。m(_ _;)m

ブツについては、恐らく・・・・おじさんが疲れちゃっているので(;^ω^)
目の錯覚・・・・m(_ _;)m

by 再生おじさん (2014-10-03 18:47) 

とり

■再生おじさん
おはようございます。
ちょっと問い合わせしてみます。
お疲れですか^^;
どうぞ体調崩しませぬように。
by とり (2014-10-04 05:27) 

再生おじさん

こんばんは

気になって仕方が無いので(笑)・・・・・
土曜日に(徹夜で)現地へ行って離山図書館でミッチリ調べてきました。
(;^ω^)コピーヲ100マイホド・・・

結果:20間道路は、昭和10年に押立山の麓まで開通しています。

以下、その裏付け資料です。

①昭和十年には国道から南へまっすぐに押立山の麓まで二十間道路を開通させ、十二年に押立山頂にホテルを建設したが、時代は戦争へと一直線に進んでいった。二十間道路には、草が生え、押立山ホテルも使われないままに、南軽井沢一帯は軍事教練場に使われ、南軽井沢飛行場も熊谷陸軍飛行学校の訓練場になった。(軽井沢開発ものがたり 1974.8.1発行)

②軽井沢避暑地100年(増補新装版、2000.9.20発行)の付録地図、軽井沢別荘案内図(昭和8年4月1日発行)では、20間道路は、線路~南軽井沢交差点の少し手前まで書かれていて、保健之聖地大軽井沢交通図(昭和16年7月1日)では、押立山の麓まで書かれています。
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追伸

今度は別の謎が出てきちゃいました・・・・( ゚Д゚)y \_ ポロッ

③町誌P395の地図では、駅のチョイ東で、南交差点までの半分の距離の位置に「飛行場」という文字が書かれています。(滑空場??それとも別な南軽井沢飛行場??)
④町誌の年表に、「昭和18年8月24日:軽井沢町滑空場使用条例を定む。」とあり、軽井沢町滑空場があった様です。
⑤同じく年表に、「昭和21年3月:第一国民学校校舎東隣りに南原グライダー訓練所の建物を移築し、高等女学校専用校舎を建てる。」とあり、南原グライダー訓練所というものがあった様です。(もしかして南原=軽井沢町滑空場?)

(*-゙-)ウーン… カルイザワッテ、ヤヤコシスギル~

by 再生おじさん (2014-10-05 01:35) 

とり

■再生おじさん
徹夜で…その行動力、敬服致します。
台風前で行楽日和だったのがせめてもの、ですね^^;
二十間道路の貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m

>別の謎
ひえ~! まだあるのですか!
お聞きしたいのですが。。。
>③町誌P395の地図では、駅のチョイ東で、南交差点
駅とは「軽井沢駅」で宜しいでしょうか? 
そして「南交差点」が探しても見つからないのですが、ドコにあるでしょうか?
また、この地図は何年のものでしょうか?
あるくさんからの情報(2014-09-07 21:30)では、
「町誌を見たら地図に臨時飛行場のあった場所が丸で囲まれていました。
上の地図でいうと二十間道路に青字のAと↓の書いてある場所の少し上の十字路から道路沿いに北上して南軽井沢交差点の表示のあるあたりまで」
とのことなのですが、この地図は確認されましたでしょうか?
質問ばかりで申し訳ありませんm(_ _)m

>「昭和18年8月24日:軽井沢町滑空場使用条例を定む。」
軽井沢飛行場が軍用に整備され、熊谷飛行学校が使用開始して一気に騒がしくなった年ですね。
この事と何か関係あるのかしらん。
>南原グライダー訓練所
中山道「離山交差点」の西隣に「南原交差点」がありますね。。。
この辺りにあったのでしょうか??

・駅のチョイ東の飛行場
・軽井沢町滑空場
・南原グライダー訓練所
最大で3つの飛行場が新たに出現することに。。。
いずれも初耳でした。
貴重な情報感謝致しますm(_ _)m
by とり (2014-10-06 05:14) 

再生おじさん

こんばんは~

コメントだけだと説明しきれませんので・・・
(;^ω^)ヒャクブンハイッケンニシカズ・・・
私のブログの説明用の資料をアップしますので、今暫らくお待ちください。
m(_ _;)m

(アップしたら、あらためて連絡させて戴きます。)
by 再生おじさん (2014-10-06 19:26) 

再生おじさん

(*´-д-)フゥ-3

え~っと・・・

コメント、端折り過ぎちゃいましたね・・・・すみません。
「駅」とは「軽井沢駅」、「南交差点」とは「南軽井沢交差点」です。

町誌の地図=あるくさんが見た地図で、何年の地図なのかは書かれていませんでした。(手書き地図っぽいです)

とりあえず、これ↓を見てください・・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/trpys563/11203887.html

'`ァ,、ァ(*´Д`*) '`ァ,、ァ
by 再生おじさん (2014-10-06 22:12) 

再生おじさん

訂正です。m(_ _;)m
②軽井沢避暑地100年(増補新装版、2000.9.20発行)の付録地図、軽井沢別荘案内図(昭和8年4月1日発行)では、20間道路は、線路~「南軽井沢交差点」の少し手前まで → 「入山峠入口交差点」の少し手前まで

それにしても・・・郷土史でも「軽井沢飛行場」と「南軽井沢飛行場」という名称が混乱している様子です・・・(;^ω^)ヨークヨマナイトワケワカランッ

気になるのは、町誌の地図、臨時飛行場の丸印の上に、道路を封鎖するようなゲートらしき「黒い線」がありますね・・・・・

おじさん、軽井沢町誌の地図を現地の図書館で初めて見て、これ(黒い線)が書かれているという事は、臨時飛行場は町誌の地図の通りなんだろうなぁと感じました。
「飛行機」の事は素人ですので、セスナの離着陸可能距離等の細かい事はわかりませんけれど、グーグルアースで距離計測した限り、長さは450mあるかと思います。 (;^ω^)
by 再生おじさん (2014-10-06 23:14) 

とり

■再生おじさん
記事拝見致しました。
値千金の資料ですね!
ハアハアするのも納得の力作です。
本当にありがとうございましたm(_ _)m

>ゲートらしき「黒い線」
一次資料にこうして具体的な印が付いていると信憑性が増しますね。
>長さは450m
上の二次関数曲線に当てはめると、これは平地の約295mに相当します。
国立~軽井沢100kmを25分ということは、平均240km/hになるのですが、
上昇→増速→巡航→降下→減速→着陸 と、速度が変化することと、
航法は恐らく地形と地図の照合、コンパスと時計の組み合わせと思いますので、
現代と比べれば遥かにマシでしょうが、多少飛行距離も延びるはず。
とすると、巡航速度がもっと早い機種でないと25分では着きません。
(300km/h弱は必要ではないかと)

「セスナ」と聞けばだれでも思い浮かべる、最新型のモデル172Sのスペックは以下の通りです。
離陸距離:497 m
離陸滑走距離:293 m
着陸距離:407 m
着陸滑走距離:175 m
最大巡航速度:230 km/h

「離陸滑走距離」とは、離陸滑走を開始してから車輪が離れるまでの距離です。
軽井沢だと、滑走路が途切れる2m手前で車輪が浮く計算ですね。
ただしこれは好条件下での話であり、風向風速、気温、気圧、離陸重量等で
必要な滑走路の長さはどんどん増してゆきます。
しかも通常は、離陸中断時の減速分の距離も計算に入れるのですが、
軽井沢の場合は本当に浮くだけでいっぱいいっぱいですので、離陸滑走中に何かあると即アウト。
数字だけみれば離陸できないことはないのかもしれないですが、実際にやろうとする人はいないでしょうね。
保養地に向かう将校の移動手段としては、リスクが大き過ぎてとても見合いません。
しかも、速度が足りません。
一般論ですが、速度が増えると滑走路も長く必要です。
当時のセスナ社のラインナップに、実質295mの滑走路で「軽井沢~東京25分」
を実現できる機体があったのかどうか、大戦期のヒコーキに詳しいブログ友に聞いてみます。
by とり (2014-10-08 08:12) 

再生おじさん

なるほど~
離陸滑走距離とか着陸滑走距離!! 勉強になります。m(_ _;)m
旧ゴルフ場を飛行場にしていた時に、ゴルフ場に突っ込む訳ですねぇ

↓別な観点から考察してみました。

①「セスナ」について
おじさん、飛行機素人なので、小型機って全部「セスナ」だと思っていました。 (;^ω^)
ふと、思うのですが、戦後の一般の方には、あれは「セスナだ」、あれは「××だ」とかいう飛行機の名前に関する知識は殆どなかったのではないでしょうか?
という事で、一旦、セスナ社の「セスナ」という概念を捨て、当時は小型機の事をなんでもかんでも「セスナ」だと呼んでいたとしたらどうでしょうか?

②旧ゴルフ場の飛行場について
軽井沢から帰宅後に、一番明確になっている「旧ゴルフ場」の飛行場について検証しておきました。
軽井沢町誌(1988年3月発行)には、「旧ゴルフ場を接収した後、ここを馬の放牧場として利用し馬小屋を建てた。現六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。」とありますので、アーカイブ写真 USA-M1200-A-12 にグーグルアースを画面上で重ねて1948年当時のコース形状を現在のコースに書き、その長さをグーグルアースで計測してみると、長さは420m程度。

※前提として「町誌の現6番コース」が「現在の6番コース」の事であるならば、長さ420m程度でも離着陸出来ていたという事になると思います。
 
旧軽井沢ゴルフクラブのコース図:http://shotnavi.jp/gcguide/cdata/cdata_1513_0.htm 

※もしも、「町誌の現6番コース」が「現在の6番コース」ではない場合も考えてみますと、USA-M1200-A-12 に写っている最長コースが滑走路として適していると思いますので、同様にグーグルアースに書き写して長さを計測してみますと、長さは540m程度でした。

つまり、左記の前提が正しいとしたら、当時のコース長さ(現6番コースの場所にあった当時のコース長さ)が420m程度なので、町誌の指す臨時飛行場の長さが450mだとしても成り立つのではないかと思うのです。

逆に、前提が間違っていて、1948年当時の最長コースが旧ゴルフ場の飛行場だったのなら、町誌の臨時飛行場は成り立たないとも思っています。
長さが移転前よりも短かくなる臨時飛行場ってのも変ですし。(*・゙・)ウーン…

どうでしょうか?
by 再生おじさん (2014-10-08 21:18) 

とり

■再生おじさん
①「セスナ」について
オイラも以前は小型機を見ればなんでもセスナだと思っていましたので、お気持ちはよ~く分かります(///∇///)
ですので仰る通り、軽飛行機を十把一からげに「セスナ」としてしまうのは十分あり得る事だと思います。
当ブログをご覧頂ければお分かりの通り、オイラもヒコーキに関しては分からないことだらけの素人ですから~。

セスナ社は戦前から軽飛行機を作っていたのですが、
戦後「空のファミリーカー」をコンセプトにした機体を作り始め、すぐに製造販売を始めました。
爆発的ヒットとなり、世界一の販売数を誇るモデル172の販売が始まったのが1956年です。
軽飛行機の代名詞として「セスナ」が広く定着し始めたのもこれ以降と思われます。
なので、1948年当時の方が軽飛行機を見て「セスナ」と思うかどうか、かなり微妙だと思います。
尤も、再生おじさんがまとめて下さった「セスナ」が登場する資料はいずれもセスナ大ヒット後の出版ですから、
「小型機だった」という記憶、伝聞を頼りに「セスナ」と記された可能性はあると思います。
もう一つの可能性として、当時地元の方が直接米兵から「これはセスナ機」と聞いたのかもしれません。

それからもう一つ、軽井沢に飛来したヒコーキは果たして本当に、いわゆる「セスナ」っぽい外見をしていただろうか。
と個人的には疑問に思っております。
以下長くなってしまうのですが、宜しければご笑覧ください。
先ずは、専門家の方からご回答頂きましたのでご覧くださいませ。

(原文ママ・全文)「当時の将校の輸送となるとC-47やもう少し乗り心地を良くしたDC-3あたらかと思いましたがセスナ社ですよね?
となると小型の連絡機ですかね。UC77やUC94あたりしか思い浮かびません。AT-17(UC-78)ボブキャットも確かセスナでしたね。
こいつは足が遅くてちょっと微妙ですが、可能性は充分にあります。
気になるのが滑走路の短さです。ボブキャットなら降りられそうですが・・実際のところ想像の域を出ません^^;」

とのことでした。
早速検索してみたのですが、UC77とUC94は英語のpdfファイルに機種名が出ているだけ。
AT-17(UC-78)ボブキャットは英語Wikiや英語サイトまで探してみたのですが、
戦時中セスナ社が製造した軍用機の中では最も有名なもののようで、5,400機が製造されました。
こちらはいろいろと資料を見つけることが出来ます。
http://military.sakura.ne.jp/world/w_t-50.htm
↑一例ですがこちらにスペック等まとめられていました。
但し、肝心の離着陸性能を見つけることは出来ませんでした。
離着陸の距離が判明すれば、スッキリ解決だったのですが。。。
「降りられそうですが・・実際のところ想像の域を出ません」とのことなので、以下オイラなりにいろいろ妄想してみました。

ボブキャットの巡航速度は282km/hで、これは「軽井沢まで25分」に遅過ぎも速過ぎもせず、ピッタリな速度と思います。
セスナのラインナップではこの機種は鈍足の部類のようですが、鈍足な程短い滑走路に有利ですので、
以下この機種と、前出のセスナモデル172Sとの比較で話を進めます(他の機種はデータが検索できないので致し方なし)。
再生おじさんはバイク相当お詳しそうですので、以下孔子に論語でしょうが、ここをご覧になる他の方のためにもどうかご容赦の程をm(_ _)m

・速度
モデル172S:230km/h
ボブキャット:283km/h

モデル172Sの230km/hでは「軽井沢まで25分」は不可能なので、もっと早くなければならないのは前述の通りです。
両者の速度差は53km/h。1.23倍で、大した差ではないように見えますが、
「出力は速度の三乗に比例する」という法則があり、
1.23倍増速するためには、その三乗ですから、1.86倍の出力が必要となります。
両者の出力を比較してみますと-

・出力
モデル172S:180hp
ボブキャット:490hp
出力は2.72倍になっていますから、三乗倍に必要な値をキチンとクリアしています。
三乗倍の計算で出した1.86倍よりも実際の出力がかなり大きいですが、
これは、三乗倍の法則で出した数字には、「重量、外見(空気抵抗)が変わらなければ」という条件がつくからで、
両者の重量差は2.13倍あり、外寸も15~20%大きいので、こんなものなのだと思います。

ということで、増速するにはすんごい出力上げないといけない訳ですが、
そのためには大馬力のエンジンが必要で、そうすると余計に重くなりますからそれに合わせて翼面積も大きくしなければなりません。
ヒコーキに深く関わる法則にはもう一つ、「大きさが変化すると、面積は二乗、重さは三乗に比例して変化する」
というものもあります。
例えば、翼の大きさを倍にすると、翼面積は4倍になり、重量は8倍になるという具合です。
この法則は翼だけに限らず、機体のあらゆる部分に当てはまります。
エンジン、翼が大きく、重くなると、それに伴って車輪もゴツくなり、全体の構造も更に頑丈にしなければなりません。
そうすると更に強力なエンジンが必要になって…と、ヒコーキはちょっと性能アップさせようとすると、
三乗倍の魔の法則に従って雪ダルマ式に重量がかさんでしまうというのが容易に想像つくと思います。
これがごまかしの効かない物理の現実であり、
4人乗りのモデル172Sがみるからにスマートなのに対し、たかだか53km/h増速しただけでたちまち外見が厳つくなってしまうのは必然と言えます。

結局のところ何が言いたいかと申しますと、「軽井沢まで25分」を実現するためには、
それなりの性能を備えた機体が絶対に必要だということです。
当時の製造技術のこともあり、それなりの性能の機体にはそれなりの大きさが必要で、
一般的にはそれに伴って必要な滑走路も長くなるのが通例です。

これを踏まえた上で、改めて①の問題に戻ります。
上述の通り、軽井沢に米軍機が飛来していた時期とセスナ大ヒットの時期のズレの問題と共に、
軽井沢に飛来したのがセスナ社のものでないとしても、
その外見は果たして「あ、セスナだ」と思うようなスマートな軽飛行機だったのだろうかという問題があるように思います。

次に、ボブキャットが短距離離着陸性能に秀でた機体である可能性について考えてみました。

・パワーウエイトレシオ
モデル172S:4.1kg/hp
ボブキャット:3.2kg/hp

・翼面荷重
モデル172S:46.5kg/㎡
ボブキャット:57.9kg/㎡

パワーウエイトレシオに関して、再生おじさんは説明不要と思いますが、数字が小さい程加速が良いので短い滑走路で離陸出来ます。
こちらはボブキャットの勝ち。
翼面荷重は、翼面積ウエイトレシオのことで、1㎡辺りどの位の重量を受け持っているかを示し、この数字が低い程早く浮きやすいです。
こちらはモデル172Sの勝ち。
フラップ等高揚力装置のことが分からないので、これだけで一概には言えないのですが、
離着陸性能に大きく関わるこの二つの数字を比較する限り、それ程大きな違いはなく、一勝一敗という感じですね。
巡航速度が増す機種で翼面積を切り詰めて翼面荷重が上がるのはセオリー通りで、極めて常識的な機体と思います。
モデル172Sで実質295mの滑走路での運用が現実的でないとすると、
ボブキャットの数字がそれより飛び抜けて秀でていないと、やはり運用は難しいのではないかと思います。
鈍足で離着陸性能的に有利な部類に入るボブキャットでも、素人のオイラが数字を比較する限り、臨時飛行場での運用はやはり厳しいように思います。

「軽井沢まで25分」を達成する機体は当時いくらでもありました。
実質295mの滑走路で運用可能な機体もあったはずです。
(アメリカ陸軍第8軍が神奈川県に作った伊勢佐木町(若葉)飛行場は350mでした。オイラの知る限り最短です)
ただ、速さと短距離離着陸性能は相反する要求なので、
この二つの条件が両立する機体というのは、本当にあったのだろうか。と疑問に感じているのが正直なところです。
バイクも同様と思いますが、特に重力に抗って飛ぶヒコーキは、1つの性能に特化するとたちまちバランスを欠き、他に大きなネガが出てしまいます。
例えば短距離着陸性能に特化した機体は、速度、航続距離、搭載量が著しく劣ります。
セスナではなく別のメーカーの別の機体という可能性が大いにあるにも関わらず、ここまでセスナの2機種の比較で話を進めてしまいましたが、
物理的な条件は同一である以上、基本は大きく変わらないのではないかと思います。

専門家のご意見で、
「気になるのが滑走路の短さです。ボブキャットなら降りられそうですが・・実際のところ想像の域を出ません^^;」
とありました。
高地で離着陸が厳しいのは、空気が薄いのでエンジン性能が落ちるのと、主翼が揚力を発生させ難くなるから余計に速度を増す必要があるからです。
着陸は(着陸やり直しを除き)エンジン性能は関係なくて、離陸と比べればまだマシなので、「降りられそうですが(離陸は厳しいけど)」という表現なのだと思います。


②旧ゴルフ場の飛行場について
ゴルフなんてブルジョワなものはやったこともないんでけど、
カップインしたら、次のコースのティーグラウンドがすぐ近くにあって…というレイアウトが多いのですよね?
旧軽井沢の現在のコース図を拝見してもそんな感じですし、クラブハウス目の前に1番コースの打ち始め地点があり、
最終6番コースの打ち終わり地点で丁度一周してまたクラブハウスに戻ってくる感じです。
コースの数そのものが変わらない限り、こういう配慮されたコースの番号はそうそう変わらないのではないでしょうか?
それと、舗装路とグラスランウェイではころがり抵抗が異なり、素人考えですが、ゴルフ場の方が離陸には厳しい気がします。
再生おじさん仰る通り、長さ420m程度のゴルフ場で離着陸出来ていたとすると、臨時飛行場なら十分運用可能なのだと思います。

再生おじさんがまとめて下さった表を拝見すると、関係する3飛行場いずれも使用機はセスナと記されているのですが、
飛行時間が明記してあるのは、地蔵ヶ原の飛行場だけなんですよね。
もしかして、ゴルフ場、臨時飛行場で使用していたのはいわゆる「セスナ」で、
地蔵ヶ原に25分で飛んできたのはもっと早い別のヒコーキだったのかも。なんて考えてみました^^;
以上長々と申し訳ありませんm(_ _)m
by とり (2014-10-10 07:02) 

再生おじさん

こんばんは~

詳しい解説、有り難うございます。m(_ _;)m

なるほど~
ひょっとしたら、旧ゴルフ場飛行場に離着陸していたヒコーキと地蔵ヶ原の南軽井沢飛行場に離着陸していたヒコーキは異なっていたかも知れませんねぇ。

①旧ゴルフ場は、接収前と昭和30年の復活後とで、コース数が異なっています。(「軽井沢避暑地100年(増補新装版)」付録の「保健之聖地大軽井沢交通図」(昭和16年7月1日発行)では18ホール存在しているっぽい。
コース数が復活前後で異なるので、郷土史がわざわざ「現6番ホール」(の位置に)という書き方をしているのだろうと解釈しています。

②手持ち書籍に、(おじさんから見ると)セスナ172に似た形の米軍偵察機が載っていました。 
↓こちらに載せておきます。
http://blogs.yahoo.co.jp/trpys563/11218024.html

③すみません・・・・コピーしてきていながら、すっかり忘れていました。
地蔵ヶ原の昭和24年のヒコーキが写っている写真です。
↓こちらをご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/trpys563/11218149.html


by 再生おじさん (2014-10-10 20:17) 

とり

■再生おじさん
こんにちは。またまた貴重な資料をありがとうございます。
①そんな事情があったのですね。φ(..)メモメモ
②実はオイラも同著者の別の本持ってまして、同じ機種が飛んでる写真も載っていたにもかかわらず、
まっっったく連想することが出来ませんでした。
再生おじさんの情報リテラシーすごいっすm(_ _)m
③再生おじさんのブログにもコメントさせて頂きましたが、「空白の7年」の間にJAのレジナンバーを付けた
ヒコーキがいるというのが信じられません。
オイラが知らないだけで、こういう事があり得たのか、「日本で飛んでいるんだから」と米軍機にわざわざJAのレジを付けるとも考えられないし。。。
どういうこっちゃ。。。キャプション合ってるんですかね?(ボソ)
by とり (2014-10-11 12:53) 

とり

■再生おじさん
追加コメントです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E4%BD%93%E8%A8%98%E5%8F%B7
日本のレジナンバー事情について、Wiki情報ですが、こんな感じで記されてました。
・戦前までは、国籍記号J-+4つのアルファベット
・1952年に民間航空が再開された時に国籍記号がJからJAになり、JA+4つのアルファベットor数字になった
となってました。
③のお写真には、「昭和24年」というキャプションがついてますが、
仮に右主翼に書かれた文字がJA-○○○○だとすると、昭和24年というのはあり得ないことになります。
また、JAに続く数字が3だとすると、かつてはピストン単発飛行機→最初の数字が3か4 という区分がありましたので、
この点も辻褄が合っていることになります。
「右主翼上面」というのは、レジナンバー記載位置として、航空法にも則っています。
by とり (2014-10-11 19:03) 

再生おじさん

こんばんは~

大きなサイズの元画像を確認したら、レジナンバーは「JA-2012」でした。
って事は・・・∑(・∀・;ノ)ノ 「動力滑空機」扱い?? (。・_・?)ハテ?ホンマ??

まぁ、単純に登録番号の下2桁が12番目って意味だと解釈すると、日本の民間機にレジナンバーを付けた始めた初期の頃かと思います・・・
(*-゙-)ウーン…

進駐軍用の民間機にレジナンバーを付けていた可能性って無いでしょうかねぇ?



by 再生おじさん (2014-10-13 19:30) 

とり

■再生おじさん
こんばんわ。
スポッターはヒコーキ趣味の中で王道中の王道なので、
レジナンバーをそのまま検索ワードにしても結構どこかのサイトにヒットするんですが、
今回みたいな特殊な事例にはこんな便利なサイトが↓
http://alpha.kilo.jp/

更に検索してみました。
(上から1/4位のところにあります↓)
http://dansa.minim.ne.jp/RS-0002-FirstJA-Numbers2001.htm

なんと、同じレジナンバーで全く別物の機体が出てきてしまいました(汗)
両機の運用時期も近くて、レジナンバーが被るというのは、通常はちょっと考えられないと思います。
ハイフンが間に入るかどうかが両者の違いですが、
ハイフンが入るのが戦前、入らないのが戦後ということも考えると、軽井沢のお写真は超レアなものなのかもしれません。
過渡期の時期の特殊な事例なのかも。。。
そもそもGHQが日本に航空の一切を禁じていましたから、その日本にJAナンバーの交付をさせるものだろうか。
というのがオイラの率直な感想です。

>進駐軍用の民間機にレジナンバーを付けていた可能性
民間機を軍用機として使用すること自体は珍しくないのですが、
使用者が米軍ですから、レジナンバーも軍用式のものとなり、数字のみ(国籍記号は付けない)になるはずです。
それでも敢えて進駐軍が民間航空機用のレジナンバーを付けるとしたら、国籍記号は"N"になるのではないかと思うのですが。。。
オイラは一般論だけでこの辺の実際がまったく分からないので、
沖縄が占領されていた時代からのスポッターの方にお伺いしてみます。
by とり (2014-10-14 18:11) 

再生おじさん

こんばんは~

検証し易い様に、参考用資料②のページに飛行機だけの大きな画像を追加しました。ご活用戴ければ幸いです。

(*-゙-)ウーン…アラタナナゾガ・・・・

もしかして・・・・・・
まさかの「天プラ」だったりして(笑)
(天プラとは、他車のナンバープレートとか偽造プレートを付けて乗り回す違法行為の事を言います m(_ _;)m)

やるなぁ~ 占領軍(笑) ポカッ(._+ )☆ヾ(-.-メ) ォィォィ ヤルワケネーダロ
by 再生おじさん (2014-10-14 20:52) 

とり

■再生おじさん
おはようございます。
画像早速拝見しました。
凄く分かり易いですね。感謝ですm(_ _)m
エア天ぷらか~。
占領軍ならなんでもアリですからね~。
詳しい方二人にこのお写真を見て欲しいのですが、
直接お写真のページにリンク貼って誘導してもよいでしょうか?
アギラさんがさらっと正解をご存知な気もするのですが。。。
by とり (2014-10-15 17:07) 

再生おじさん

こんばんは~

リンクは貼って戴いてかまいませんので宜しくお願いします。m(_ _;)m

おじさんも、アギラさんに期待してます。(-ω-。)ゞ
by 再生おじさん (2014-10-15 18:45) 

とり

■再生おじさん
許可ありがとうございますm(_ _)m
お言葉に甘えて早速お一人様ご案内させていただきました。
by とり (2014-10-15 20:05) 

M/P

貴ブログを何箇所か拝見いたしましたので少し書かせていただきます。

1、 >国立飛行場
とあるのは「くにたち駅」近くの道路を臨時に使ったものではないでしょうか。
たしか国立、立川と3点を結んでいたはずです。

2、そして「セスナ172」の離着陸距離ですがショートフィールドテイクオフとショートフィールドランデイングの技法を用いるともっと短距離で離着陸ができるはずです。(コントロールホイール、スロットル、フラップス、ギアブレーキ等の簡単な操作で可能です)運が良ければ調布等でチェックライドが近い方がこの訓練をしていることがあります。

3、臨時飛行場の場所ですが、町史編纂をした部署に問い合わせをすれば公のところですからすぐに調べて教えていただけるのではないでしょうか。

4、他県のところで恐縮ですが、載っておらない場所がありました。
鹿児島県で「古仁屋」とはありましたが須手にあった水上機の基地は米軍  の攻撃後は須手から2つ隣りの久根津の集落に入るところに秘密基地が   造られました。
そして対岸の加計呂麻島の吞之浦にも造られて2つに分散されました。
吞之浦は「震洋」が有名すぎて水上飛行機の資料がほとんど見つかりません。

5、石垣島の宮良秘密基地は別名では載せられていると思います。

   以上お邪魔しました。

by M/P (2015-04-25 16:51) 

とり

■M/Pさん いらっしゃいませ
1 国立飛行場
未だお邪魔していないのですが、
国立駅の前から南に延びる三十間道路(現・大学通り)を当時滑走路に使用していました。
立川も含めての三点飛行ですと、戦前~戦中の日本人によるものではないかと思うのですが、
手持ちの資料では立川は出てきませんでした。
立川には終戦後すぐに進駐があり、米空軍極東司令部が置かれましたから、
「週末に将校が軽井沢でゴルフ」というのは立川からである可能性が高いと思いますが、
この場合は国立も含めての三点飛行になる可能性は低いのではないかと思います。
もし資料等ありましたらご教授頂ければ幸いです。

2 離着陸距離
最短滑走距離の数字は、メーカーのテストパイロットがその技法を駆使して出していると
思っていたのですが、違うのでしょうか?
それからお詳しいようですので、軽井沢飛行場の滑走路の長さが530mとして、
標高940mの場合の実質の滑走路長さがどの程度になるか、ご存じないでしょうか?
小型レシプロ機用の換算表等お持ちでしたらご教授頂ければ幸いです。

3 場所
実はつい先日現地にお邪魔しまして、地元図書館で資料を大量にコピーしました。
軽井沢の飛行場に関しては分からないことだらけなので、資料を整理した段階で
不明な点をまとめて、改めて図書館、役場に問い合わせをする予定にしております。

4 古仁屋
こちらは現地にお邪魔した際、図書館の方から詳しくご説明頂けることになっております。

5 宮良秘密基地
これは南川原飛行場のことではないかと思うのですが如何でしょうか?
by とり (2015-04-26 06:03) 

クーニャ

M/Pさんへ
須手の古仁屋基地は空襲後3か所に分散されました。
久根津に8機、呑ノ浦で2か所5機です。(電文にあります)
そのほか空襲前から油井には海軍爆撃機の待機基地があったようです。
そして阿木名には海軍航空隊基地阿木名派遣隊がいたようです。
by クーニャ (2015-05-28 10:32) 

尊

>阿木名には海軍航空隊基地阿木名派遣隊

阿木名山中に予科練出身者なども参加して砦や蛸壺などを作りましたが滑走路などではありませんでした。
by 尊 (2015-09-26 17:49) 

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