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航空自衛隊計根別飛行場(旧陸軍計根別第四飛行場、西春別空港) [├空港]

   2010年6月、2023年6月訪問 2023/7更新  


無題9.png

撮影年月日1947/10/31(USA M643-1 46) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道野付郡にある「航空自衛隊計根別飛行場」。

見渡す限り畑地の広がる中にある、林に囲まれた飛行場です。

非常に波乱に富んだ歴史があり、まず陸軍の「計根別第四飛行場」として開設されました。

戦時中建設された第一~第五飛行場の中で、主役は第一飛行場であり、

第二、第三は偽装飛行場、第四は第一の代替飛行場、という位置付けで、

第五は誘導路を拡幅しただけだったようですが、

現在第一飛行場はかつての誘導路を滑走路にして小規模な運用がなされ、

第二、第三、第五は跡形もなくなっており、

第四が最も飛行場として残っています。どうなるか分からないもんですね。

戦後破壊されたのですが、朝鮮戦争の際に復旧工事を行い、

その後航空自衛隊に全面返還されます。

そして1959~65年までの間、「西春別空港」として、北日本航空がDC-3で、丘珠~女満別~西春別路線を開設しました。

この飛行場にはRJCSという4レターコードがついており、

(なんでこんなところに4レターのある飛行場が??) と不思議でならなかったのですが、

この頃の名残なんでしょうか。

ところで「第四飛行場」だった当時、V字に配置された東側の滑走路は板敷だったのですが、

■新千歳市史通史編上巻 にはこの板敷滑走路についてこんな記述がありました。

900p
陸軍計根別第四飛行場(現・航空自衛隊計根別飛行場)、札幌第二飛行場の板敷滑走
路の例をとると、整地面に五寸角(計根別)又は三寸角(札幌)を並べ、
その上に三寸(厚)x一尺(幅)の平割を敷き詰めた。角材、平割とも
に長さは一二尺でT字・三又の鎹で連結されていた(一尺=一〇寸=三〇・三㌢)。

D20_0185.jpg

場所的には目の前にR/W15がババーンと広がっているハズなのですが…。

いい林の写真ですね。はぁ。。。(;´Д⊂)

なんとか滑走路の見える場所はないものかと走ったのですが、見つけられませんですた。


(以下2023年6月撮影)

DSC_0965_00001.jpg

赤マーカー地点。

奥に向かう真っ直ぐの道、当時の誘導路です。

ここで180°回頭すると、

DSC_0964_00001.jpg

こんな感じ。

基地の外側ですが、誘導路面が残ってますね。

緑に阻まれてますけどこの先がどうなってるのか回り込んでみます=(⊃゜Д゜)⊃

DSC_0986_00001.jpg

青マーカー地点(以下4枚とも)。

周りんできました。

赤マーカー方向。

DSC_0983_00001.jpg

当時の航空写真と比較すると分かりますが、キレイに曲線が残ってますね。

DSC_0984_00001.jpgDSC_0985_00001.jpg

ということで、またちょっと移動しますよ~~~(⊃゜Д゜)⊃

DSC_0978_00001.jpg

黄マーカー地点。

当時はこの辺りから奥に向って滑走路が伸びてました。

さっきまでいた誘導路エンドの舗装面が見えますね。

誘導路エンドが滑走路に接続してましたので、なんとなく滑走路のスケールが分かるでしょうか。

(先頭のグーグルマップで伝われ~)

ということで、基地の外側にもまだまだ当時の飛行場の痕跡が残っているのでした。


      野付郡・計根別飛行場     
現在は陸上自衛隊別海駐屯地と一体化しており、代替滑走路として運用しているのだそうです

・計根別第四飛行場(陸軍当時) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道‎野付郡‎別海町‎西春別‎
座 標:N43°25′29″E144°44′28″
標  高:123m
滑走路:1,600m×60m(15/33)コンクリ、1,200mx60m(02/20)板敷

・計根別飛行場(現在) データ
設置管理者:防衛省
所在地:北海道‎野付郡‎別海町‎西春別‎
4レター:RJCS
座 標:N43°25′29″E144°44′28″
標  高:123m
滑走路:1,590m×30m
磁方位:15/33
(座標、磁方位はグーグルアース)

沿 革
1942年 着工
1944年 9月 完成
1945年 進駐、その後農地として払い下げられ、放置される
1952年 朝鮮戦争の激化の為、米軍不時着用飛行場(1600m)として復旧
1958年 航空自衛隊に返還
1959年 「西春別空港」として民間共用。北日本航空がDC-3で丘珠~女満別~西春別路線開設
1965年 民間機が中標津空港に移る。陸上自衛隊が駐屯開始

関連サイト:
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この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(16)  トラックバック(0) 
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コメント 16

さーやん

ご来訪、たくさんのナイス、コメント有難うございます
by さーやん (2010-10-03 06:01) 

ハイマン

滑走路写せなくて残念ですね
川越の大渋滞はやっぱり巾着田の影響大有りですね
by ハイマン (2010-10-03 08:13) 

sak

女満別~西春別間に飛行機が飛んでいたのですね
乗りたかったなぁ(^^
滑走路、残念だったけど
林...美しいですね
by sak (2010-10-03 09:04) 

me-co

鉄道の無い町は、どうも位置関係がわからなくて困りますx。x
「こんなところに何故空港が?」と思いましたが、結構な町ですね。
今でも地名に「駅前」って付いているのが、なんだか悲しいです。

ソネットから委託されている業者、ホント失礼ですよね(--#
何度、「ADSLで十分だ!」って言ったか・・・
今度掛かって来たら、ブチ切れましょう!
by me-co (2010-10-03 13:58) 

miffy

近くの中学校の屋上からなら滑走路が見えるのかなぁ~
赤く染まってる林、綺麗ですけどね~
by miffy (2010-10-03 17:45) 

鹿児島のこういち

航空自衛隊が航空管理してる飛行場と一体化した陸上自衛隊北部方面隊第5旅団別海駐屯地。。
メインは陸上自衛隊?(^O^)
米軍より航空自衛隊に返還は、やはり陸軍海軍の土地が、国に返還されたように、大蔵省から防衛庁の順番だったのでしょうか?
林に囲まれた飛行場。目隠しにもなるし、防音にも(^O^)

また、病院から米入れてます(^O^)/ちびの病名は、手術して取り出した腫瘍の病理検査待ちで、後一週間くらいかかりそうなんですが、おそらくランゲルハンス細胞性組織球症らしいです。
by 鹿児島のこういち (2010-10-03 19:32) 

masa

複雑な歴史があるんですね。
滑走路は見つからなくて残念でしたね・・・
by masa (2010-10-03 20:16) 

an-kazu

有刺鉄線がなかったら、ホントに素敵な林画像ですね^^;
by an-kazu (2010-10-03 21:29) 

tooshiba

自衛隊の基地はどこもそうでしょうが、そう簡単には覗かれてはならないのでは?
お馴染みの入間基地だって、針葉樹の密林とか・・・土の壁とか(西武池袋線から見えます)。

ロシアとの国境警備の問題もありますし。。。アタヽ(д`ヽ彡ノ´д)ノフタ
by tooshiba (2010-10-04 00:00) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■さーやんさん
こちらこそありがとうございますm(_ _)m

■ハイマンさん
>巾着田
やっぱりそうですか^^;

■sakさん
そんな時代があったのですね。
不思議な感じがします。

■me-coさん
ここは廃線になっちゃったんですよね。
駅前ってありました? オイラは見つけられませんでしたが、それは悲しいですね。。。

■鹿児島のこういちさん
>メインは
わかりませんがなんとなくそんな感じがしますね。
>病院
初めて聞く病名だったので調べてみました。どうぞお大事にされてください。
埼玉から応援してますのでご家族の皆様に宜しくお伝えくださいませm(_ _)m

■masaさん
まさかここで民間機が飛んでたとは思わなかったのでビックリでした。

■an-kazuさん
こんな林画像しか現地写真が撮れなかったという。。。

■tooshibaさん
確かに目隠しされてること多いですよね~。
北方もまた徐々にきな臭くなって参りましたね。。。
by とり (2010-10-04 05:23) 

まめ助の母

うふ(^_^)
雑木林の写真ですね…
手前の蕗が美味しそうに見えるのは私だけ?
by まめ助の母 (2010-10-05 22:05) 

とり

■まめ助の母さん
>蕗
アハハ、流石ですね^^
by とり (2010-10-06 05:07) 

KJN_Japon

1948年頃,突然の進駐軍命令により,旧陸海軍飛行場の破壊工事が行われたそうです. ソ連軍の進駐を防ぐためらしく,私の親戚(故人)が計根別の破壊工事の担当となり,地元民も強引に加えて3ヶ月程で破壊したそうです. 工事が第一なのか第四飛行場なのかは判りません. 視察の米軍将校を当時大繁栄していた弟子屈温泉で接待したそうです. 以上ですが,ご希望でしたらもう少し詳しく書きます.
by KJN_Japon (2020-07-23 11:18) 

とり

■KJN_Japonさん
貴重な情報をありがとうございます。
拙記事に載せても構わないようでしたら、
是非詳しい情報頂きたいです。
どうぞよろしくお願い致します。
by とり (2020-07-23 15:40) 

KJN_Japon

それでは早速,昨日の原文を掲載します.但し,個人名等は省略化,年号は西暦化しています. 数十行ありますので,コメント量の制限によっては分割します.

◆ 旧日本軍飛行場の破壊工事
1948年の初夏,Shoの工事の最盛期に、突然進駐軍命令により、旧陸海軍部隊の
飛行場の破壊工事を施工することになった。北海道内には数ヶ所、旧軍の飛行場が
あったが、ソ聯がそれを利用することを防止するため、破壊することになったもの
らしい。日本が降伏するまでは、仲の良い同盟国であったが、この時期になると、
もう米国は,ソ聯に対して、敵意まる出しであった。
釧根地方には計根別と根室の2ヶ所の飛行場が存在していた。 その中Sug社は
計根別を,Tet社は根室を担当することになり,Tet社では「Ara」氏が
現場代人として乗込んできた。このAra氏が後に,Tet社が倒産後,独立して‥‥
Hok協会の副会長になった人である。
計根別の飛行場はSug社の担当,従って釧路所長である私の担当となったのである.
Shoの工事の最盛期に,予期もしていなかった破壊工事の突然の下命だったの
で、何の心の準備もなく,社員と労務者の手配が大変だった. 社員としてはFur君
(現在のMur所長)他2名を本社から,Och君(現役員)を網走から派遣して貰
い、間に合ったが、急場のこととて労務者の手当てがつかない。安定所もこんな時
には役に立たないもので,役所は単に事務手続きの書類の整備だけのものである.
止むを得ず、地元の計根別の街の人々にお願いして,勤労奉公隊(時代に逆行した
が)のような組織で数10人の方々に出て貰った。このやり方に対しては、地元の
一部の人にかなり嫌味を言われたが、とにかく進駐軍命令で急を要することなのだ
からと,納得して貰った。 勿論地元の人達だけに頼ったのではなく,下請けのWak社
を使い、10数人の信用人夫を混入し、破壊工事を実施したのであるが、機械力は
殆となく、大部分人力で施工したのであった。
工事そのものは滑走路のコンクリート破壊であった。コンクリートをはがして見て
驚いた。コンクリートの下には基礎として、熊笹の葉が30センチ程の厚さで、び
っしりと敷きっめてあったのである。 之は恐らく,凍上防止のためだろうと思うが,
定かではない.
米軍将校が時々進行状況視察のため現場を訪れた。この時はきまって近くの弟子屈
温泉で接待した。
この工事は3月程で完成したが,工事設計書がある訳でなく、結局は実費精算方式
で整理することになり,特別調達庁から工事費が支払われた。しかし精算の段階で,
前述の弟子屈温泉に於ける米軍の接待費について、それを認める、認めないとか
種々の経費について,大変もめたが,まあまあの成績であった。
余談になるが。・‥この工事はソ聯に飛行場を使用されることを防ぐためのもの
であると書いた。1948年にもなって、こんな話があるものかと思うのだが,実
は終戦直後に色々な風評が飛びちったことがあった。
ソ聯が北海道に進駐して来るらしいとか,北海道を,釧路と留萌を結ぶ線で2分割し,
ソ聯が東半分を占領する,とかの風聞が誠しやかにささやかれたことがあった.
私共は,まさかそんなことはないだろう,と思ったものの或いはと疑心暗鬼にとらわ
れ,恐れおののいたこともあった. 後日聞いたことであるが,事実ソ聯は国連に於
いて,2分割してその東部占領と,賠償金の要求を強く主張したが,中国の「将介石」
総統の大反対で,之は実現しなかったことを知った. 東西ドイツや南北朝鮮のよう
になったら大変なことであった. 日本人としては,将介石先生に心から感謝しなけ
ればならないと思うのである. 将先生の反対なかりせば,と思うとぞっとする.
大変な事態になる所だったのだ. 日本蘇生の大恩人として,長く後世にその名を
とどめ、世人に周知させなければならないと思う. 余談は之で終わりとする.

以上ですが,別途,満州興凱湖の近くの不時着用APの記録あります.
by KJN_Japon (2020-07-24 23:17) 

とり

■KJN_Japonさん
貴重な情報送って下さり、感謝致します。
どうもありがとうございました。
by とり (2020-07-26 03:45) 

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