SSブログ

黒石原(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新   


無題2.png
撮影年月日 1947/04/11(昭22)(USA M247 45)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎合志市‎にあった「黒石原(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)飛行場」。

逓信省の「熊本地方航空機乗員養成場」として開設しましたが、後に陸軍に接収され、

「黒石原陸軍飛行場」となりました。

現在は畑地、自衛隊敷地等になっています。


■「九州の戦争遺跡」によりますと、黒石原は明治時代から陸軍演習場として利用されていたのだそうです。

また演習場以外には射撃場、県種畜場、農林省種鶏場などの農業施設、ゴルフ場、

ハンセン氏病患者が強制隔離された九州らい病療養所(後の国立療養所菊池恵楓園)がありました。

逓信省の飛行場として完成した当飛行場でしたが、徐々に軍事色を強め、南西部の須屋地区まで施設は拡張し(後述)、

その目的も特攻隊員の養成が中心となりました。

また、らい療養所の南側には昭和17年「傷痍軍人療養所再春荘」も建設され、黒石原は一大軍事地域となりました。

熊本電気鉄道が人員や物資の輸送を行ったのだそうです。

昭和20年5月13日米軍の爆撃を受け壊滅状態となり、

らい療養所の患者2名、再春荘の医療関係者6名、民家でも2名が犠牲となりました。

ここは戦後米軍に接収されましたが、昭和33年に返還され、

農地、農業施設、公園、住宅地、公園、陸自演習場などになりました。

D20_0306.jpg


D20_0305.jpg

「黒石原コミュニティーセンター」にあるコンクリート製の遺構。

乗員養成所時代に設けられた「奉安殿」。

天皇陛下の御真影や教育勅語などを保管する専用建物で、第二次大戦まで学校等教育機関には多くあり、

当飛行場唯一の遺構だそうです。

「九州の戦争遺跡」によりますと、この奉安殿は飛行場敷地の中にあったとあります。


■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)で当飛行場が扱われていました。

以下引用させて頂きます。

黒石原
判決 自重6屯以下の飛行機の使用に適す
滑走地区 1,400x300
舗装路 なし
土質 酸性火山灰
地表面の状況 表面張芝にして地耐力可なるも一部軟弱地帯あり
周辺の障碍物有無 なし
誘導路 なし
宿営 三角兵舎15棟(500名)
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 なし
給水 なし
風向 北西風

同資料内で当飛行場敷地の間略図と共に敷地の長さが記されていました(作成日不明)。

それによれば、敷地は南北1,100m、東西1,000m、北東の角~南西の角まで1,300mです。

この数字は、1947年の航空写真と比較しても明らかに小さく、

この数字の通りなら、奉安殿のあった場所は敷地範囲に含まれません。

つまり、当初は防衛研究所収蔵資料に出てくる通りの数字の「小さな飛行場」だったのが、

後に「九州の戦争遺跡」にある通り、奉安殿のある須屋地区まで拡張したということなのではないかと思います。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  黒石原
位 置   熊本県菊地郡合志村
規 模   要図(長さ、かすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設  
 収容施設 一二〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設官有

 

ところで話はガラリと変わりますが、官報 昭和十五年五月二十四日 第四千十二号 金曜日 九六二 

の中にこんな記事がありました。

逓信省告示第千三百九十三号
左記飛行場の設置を許可せり
昭和十五年五月二十四日
逓信大臣 勝 正憲
一、設置の目的 公共用
二、経営者の指名又は名称及び住所 熊本県
三、用地所有者の氏名又は名簿及住所 熊本県
四、飛行場名及所在地 愛国熊本飛行場 熊本県菊池郡合志村
五、陸上、水上又は水陸両用飛行場の別 陸上飛行場
六、面積及地形 総面積三十一萬一千六百十平方米
        滑走路区域 長北北西-南南東約六百八十米幅約百六十米
        及長東北東-西南西約六百米幅約百六十米略十字形
七、恒風位 北北西
八、設置期間 自昭和十五年五月二十一日至同二十三年三月十四日

昭和15年、熊本県菊池郡合志村に設置された熊本県の公共用飛行場「愛国熊本飛行場」。

設置場所からして黒石原飛行場の近隣にあったと思われるのですが、現在のところ位置が不明です。

情報お待ちしておりますm(_ _)m


      熊本県・黒石原飛行場(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)跡地      

黒石原飛行場(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場) データ

設置管理者:逓信省→陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県菊地郡合志村(現・熊本県‎合志市‎豊岡‎)
座 標:N32°52′48″E130°45′52″
標 高:89m
滑走地区:1,400mx300m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1937年    逓信省、九州循環線の寄航地として熊本飛行場(後の黒石原飛行場)設置決定
1938年    逓信省の養成所として開設
1941年04月 逓信省熊本地方航空機乗員養成所開所。本科第一期生入所
1942年    本科第1~5期生が訓練実施
    10月 第12期操縦科生入所、翌10月卒業
1943年    操縦科・機関科の教育・訓練を継続実施
1944年04月 大刀洗陸軍飛行学校石黒原教育隊開校。少飛15期入所。本科6期入所。
    08月 陸軍接収で養成所閉所
1945年07月 第30戦闘飛行集団の配当飛行場。周辺部に無蓋掩体壕設営

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


コメント(29)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 29

koume

こんな遺構が残ってるんですねー。
昔学校などにこんな建物があったなんて、知りませんでしたー。
by koume (2011-11-14 19:11) 

yatoho

遺構・・・ピンと来ませんね^^;
落書きがすごいですね、昔だったらこんなことすると大変だったでしょうね。
by yatoho (2011-11-14 19:27) 

me-co

こんばんは^^
そういえば、ウチの両親が言ってた。
昔、学校に恐れ多い社みたいなものがあったと・・・これかぁ@@;
う~ん、知ってて落書きしたな(ーー;)
by me-co (2011-11-15 00:17) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■koumeさん
こういうものが全国にあったなんて、オイラも今回初めて知りました。

■yatohoさん
特に説明版もなかったので、知らないと「なんだコレ??」という感じですよね。

■me-coさん おはようございます。
>恐れ多い社
きっとこれのことですね。
落書き、世が世なら完全に不敬罪ですね。
by とり (2011-11-15 05:22) 

鹿児島のこういち

天皇陛下の御真影や教育勅語はしもじもの者は直接見てはならないのです。校長先生が頭より高く掲げて、拝聴するものなんです(^O^)
歳いった先生に小中学校の頃よく聞かされたなぁ(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2011-11-15 19:23) 

Takashi

奉安殿。初めて知りました。
今の日本では考えられないですね。落書きが悲しい。。。
by Takashi (2011-11-15 23:04) 

pica

B地点の遺構は落書きされてますね(^_^;)
ちょっと残念…。
by pica (2011-11-16 01:36) 

とり

■鹿児島のこういちさん
ちゃんと正しい儀式があるのですね。
やっぱり天皇に対する感覚は今と全く異なりますね。

■Takashiさん
オイラも初めて知りました。
当時の人々の感覚を想像する手掛かりになりますね。

■picaさん
落書き残念ですね~。
落書きする人って、自宅にされたらどう感じるんでしょうか。
by とり (2011-11-16 06:24) 

旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 事務局

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にも、黒石原飛行場の遺構とされている「奉安殿」のようなものがありますが、これをどうして奉安殿と判断したのでしょうか? 「弾薬庫」ということはありませんか?20センチの厚さのコンクリートで囲われているので。

終戦間際、弾薬をあちこちに分散して隠したという記録があり、桶川分教場にも弾薬庫が作られたのではないかと思っていますが、奉安殿の可能性もあるのでしょうか。
 
by 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 事務局 (2014-07-01 23:51) 

とり

■旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 事務局様
>これをどうして奉安殿と判断したのでしょうか? 「弾薬庫」ということはありませんか?
奉安殿と「弾薬庫」は大きさ、形が似ているのですが、
黒石原飛行場の当遺構が「奉安殿」であることを示すものとしましては、
正方形の段差が2段取あり、正面と思われる部分には階段も付けられています。
表面はボロボロですが部分的に大理石が残っております。
http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=539676

熊本日日新聞にて、平成21 7/4に当奉安殿の調査が行われたことが扱われていました。
黒石原飛行場の「奉安殿」のことは、検索すればいくらでも出てきますので、
ご確認下さいませ。

>奉安殿の可能性もあるのでしょうか。
その可能性はあると思います。
以前貴飛行場跡地にお邪魔した際、「爆弾庫」を拝見し、撮影もさせて頂きました。
改めて写真を確認したのですが、残念ながら私にはどちらとも判別する事が出来ません。
お役にたてず申し訳ありません。
ただ手掛かりとしましては、こちらに全国の奉安殿の写真があります。
http://www.tamabi.ac.jp/idd/shiro/hist/photography/houanden/houanden.html
奉安殿に厳密な規格はないものの、爆弾庫にしては凝った造りであることが特徴だと思います。
もしも桶川飛行場の爆弾庫にこれら全国の奉安殿の特徴があるのでしたら、
奉安殿の可能性はあるのではないかと思います。

話は変わりますが、私は貴会の会員です。
いつも会報を興味深く拝読しております。
これからも応援しております。
貴遺構についての解明が進みますようお祈り申し上げます。
by とり (2014-07-02 06:52) 

再生おじさん

こんばんは~

もしかして・・・事務局長さん??

実は・・・
何故か私も会員だったりします・・・・(;´▽`A``アセアセ

少し、「勝手気ままな、おじさんの独り言」を・・・・・・

終戦間際の桶川界隈の状況についての知見は全くありませんが・・・・・
終戦間際の飛行場界隈に弾薬等を分散秘匿する場合、主として、斜面の横穴か、山林の中の半地下式バラック等に秘匿する例が多い様に感じています。(西筑波や太東沿岸部、香取基地界隈の例です。)

なんせ「分散秘匿」ですからね。誰にも見つからない穴の中とかにね・・・・d(-`ε´-;)シィッ

あらためて桶川の「弾薬庫」の写真を見ると、いくつか気になる点があります。

①両脇から各面2本出ている鉄筋は何のためなのでしょうか?(。・_・?)ハテ?

②内面(内壁)が黒くなっていますが戦後に塗ったペンキ?それとも当時から黒色? (。・_・?)ハテ?
単純に「厳かな物」を収納しておく場合、内壁の色が黒って事が、何となく納得できちゃう様な気が・・・・・・・(*-゙-)ウーン…

③コンクリ筐体の上部に木材が嵌る溝があり、防爆構造(引火爆発時に上に抜ける構造)とも言えるし、神社の様な木製屋根が載っていたとも思えるし・・・・・
(*-゙-)ウーン…

④階段が2段ありますねぇ・・・・
周囲に正方形の段があるか否かは、周りを少し掘ってみればハッキリしちゃうのではないでしょうか? 現在は少し埋もれている様ですし・・・・
(-д☆)キラッ ホッチャイマショウ!! テツダウカラ、ヨンデー

最後に・・・
⑤そもそも、「弾薬庫」にしては狭すぎませんかぁ~???
あの小ささだと、鉄砲の弾とか手榴弾くらいしか置けない様な気が・・・・・・・(;^ω^)

最終手段としては、神社仏閣専門の大工さんに「弾薬庫」を見せて、乗っていた屋根の形を推測してもらうという手があるかも・・・・・・・

m(_ _;)m アクマデオジサンノ、「カッテナヒトリゴト」デスヨー
by 再生おじさん (2014-07-03 00:23) 

とり

■再生おじさん
おはようございます。
おお、再生おじさんも会員でしたか!
いつもながらの素晴らしい考察ですね~。
再生おじさんの考察を拝見してから改めて写真を見たら、なんか奉安殿に見えてきました。
オイラが気になったのは、当爆弾庫の位置と、当飛行場の性格です。
ご存知の通り、当飛行場は兵舎と滑走路が川を隔ててかなり離れてますよね。
秘匿のためとはいえ(場所的に秘匿にもならないですが)、これだけ滑走路まで不便な場所だと、
爆装まで手間がかかり過ぎますから、ここは航空機用爆弾置き場としては不向きな気がします。
また再生おじさんご指摘の通り、サイズからして航空機用ではないような気がしますが、
仮に拳銃等の弾薬用の保管場所だとしても、爆発物の保管場所をわざわざ兵舎の目の前の開けた場所に造るものなのでしょうか。
万一爆発したりしたら、木造兵舎に引火して、一気に中枢を失ってしまう危険があるのですが。。。

ご承知の通り、当飛行場は1937年06月に「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」として開校し、
1944年末に特攻訓練が始まるまで、操縦の初歩を教えるための訓練飛行場でした。
特操制度によって学生が続々送り込まれたりもしましたから、
そうした訓練生への精神修養の一環として、「兵舎前に奉安殿」というのは、十分あり得る事だと思います。

オイラが当跡地にお邪魔したのは4年前なのですが、その時点で
「この遺構が爆弾庫と判明したのはつい最近の事です」とご説明頂きました。
爆弾庫なのか奉安殿なのか。
大きさ形の似たような二者について、当遺構の比較考慮により、より解明が深まる事を願います。
by とり (2014-07-03 06:36) 

アギラ(非会員)

お邪魔します。

3月頃桶川に伺った際、弾薬庫が小さすぎると思い
元軍属の方になぜ弾薬庫が小さいのかをお聞きしたら
入れていたものが機銃の銃弾くらいだからと答えて下さいました。
by アギラ(非会員) (2014-07-05 10:21) 

とり

■アギラさん 
貴重な情報ありがとうございますm(_ _)m
鋭いご質問をされていたのですね。(@Д@)
前のコメントにも書きましたが、4年前当飛行場にお邪魔した際、
「つい最近爆弾庫だと判明しました」とご説明頂きました。
アギラさんがご質問された軍属の方が当時飛行場におられた方で、
ご自身の目でここに機銃の銃弾が入っていたのを見ておられたのであれば、
戦後約65年、会設立から約5年の間、用途が未確定のままだったのは一体なぜだろう。
というのが率直な疑問です。
(確か説明員の方に当飛行場の元機体整備士の方がおられたはずです)
何らかの事情があって、直接の証言者がおられるにもかかわらず確定に時間を要したか、
或いは、当時直接確認してはいないけれど、一般論として
大きさから「機銃の銃弾」を入れていたとご説明になった可能性があるかもしれないと思ったのですが、
如何でしょうか?
by とり (2014-07-05 13:16) 

アギラ

桶川の弾薬庫は滑走路の近くだと離着陸の際の事故に巻き込まれ易い
ので管理もし易くしかも安全な場所でここなのだと私自身
そう思っていました。
桶川を訪れた際、説明をされたのは件の軍属整備員だった方です。
機関砲弾でも此の位の大きさですから大きな弾薬庫でなくてもいい
と手で大きさを示してくれた事も思い出しましたが
この弾薬庫で出し入れをしたのかまでは伺いませんでした。
特定に5年かかったという事はその時は気にしませんでした。
本部の建物には年少の軍属整備員(国民学校?を出てすぐここに
勤務して整備はここで覚えたとおっしゃっていました。)
だからあまり行かずに滑走路近くで仕事が多かったのだろう
とこれも勝手に思っていました。
「奉安殿」がどこにあったかを元軍属整備員の方でしたら「最敬礼」
した場所でしょうからお聞きすればすぐに判明するのでは
ないでしょうか。
当時は屋外ではなく室内に「御真影」が設置されていた場合もあった
気もします。
伺った日は質問が全て終わらないうちに終了の時間になってしまい
ました。
今回はとりさんのご指摘の様な気もしますね。
そうすると弾薬庫は何処に、、。

by アギラ (2014-07-05 19:31) 

とり

■アギラさん
実際に当時飛行場におられた方から直接説明を受ける機会に恵まれたのですね。
オイラは4,5回お邪魔したのですが、直接お会いしたことは残念ながらこれまで一度もありません。

>「最敬礼」した場所でしょうからお聞きすればすぐに判明するのではないでしょうか。
アギラさんの仰ることにまったく同感です。
御真影の前では全員が服装を正して最敬礼しなければならず、折に触れて全員で最敬礼する機会が設けられたはずです。
時代と共に諸施設の記憶があやふやになるとしても、ここだけは強烈に記憶に残るはずで、
当時飛行場に奉安殿があったのか、なかったのか、少なくとも本部兵舎前にある構造物が奉安殿であったのか、
そうでないのか、当時おられた方ならハッキリ記憶しておられるのではないかと思うのです。
ところが当の旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 事務局の方が、あろうことか、こんな素人ブログに、
「弾薬庫が作られたのではないか」とか、「奉安殿の可能性もあるのでしょうか」などとお聞きになる。
この事に強い違和感を覚えます。
今は敢えて書きませんが、まったく別の可能性を邪推してしまいます。

アギラさんご指摘の通り、下賜初期の頃、御真影は屋内に安置するのが普通だったのですが、
火災、地震等の危険から万全を期すために、屋外に独立した頑丈な専用の構造物が造られるようになりました。
当飛行場も本部兵舎が木造ですから、屋外に奉安殿を設けるというのはあり得ることだと思います。
こうした経緯がありましたから、一般的に奉安殿は鉄筋コンクリート製、壁の厚さは25cm以上あることが望ましい。
とされました。
事務局様は、
「弾薬庫」ということはありませんか?20センチの厚さのコンクリートで囲われているので。
と仰っていますが、そんな訳で、「20cmもあるから弾薬庫なのでは?」ではなく、
むしろ逆に「20cmしかないから奉安殿ではないかも」という仮定が成り立つ程、薄いということになります。
>そうすると弾薬庫は何処に
当飛行場は関東の内陸にあり、最後まで教育、訓練を主としていましたから、
大きな爆弾そのものが無かったのではないかと思います。
それでも自衛、迎撃用の砲弾はあったはずで、それらをどこに保管していたのかという謎は依然残りますね。
オイラなら木造兵舎の目の前ではなく、もっと別な場所にするような気がしますが。。。
by とり (2014-07-06 05:25) 

アギラ

とりさんお早うございます
「奉安殿」のコンクリートの厚さまで決められていたとは
知りませんでした。
元軍属整備員(整備兵と書いている新聞もありましたので伺ったら
軍属だとおっしゃいました。)の方に私も気になったので砲弾の
有無を伺うと桶川には無かったとの事でした。
>別の可能性 気になりますね。いつか教えてください。

そしてこれを事務局の方もご覧でしたら、桶川市に提出するという事
で来られた方の住所氏名を記入させておられましたが
(私は言われるまま書いてしまいました。)
「個人情報保護法があるのに強制はおかしい」と小声で言って
書かない人がいました。確かに役所に提出ならばなおさらでしょう。
人数だけでもよいのではないでしょうか。
私も書かなければよかったです。
(すみません場所をお借りしました。)

私は今、来週のてーふ8号が気になって仕方ありません。
(城岳小の下の方に置いてある大東島のきび運搬機関車を
見に行こうと思っていたもので、、、。)

by アギラ (2014-07-06 09:44) 

とり

■アギラさん
こんにちは。
>桶川には無かった
砲弾も無かったのですね。情報ありがとうございます。
予想で適当に書いてしまい失礼しましたm(_ _)m
>別の可能性
了解致しました。

>個人情報保護法
アギラさんは(非会員)とのことでしたが、会員になると年に数度会報が郵送されるのですが、
これに会員名簿も毎年同封されてきます。
これにはフルネーム、○○市在住、電話番号がずらりと並んでいます。
最初に頂いた時は名簿には当飛行場縁の方がずらりと並んでおり、
オイラみたいなどこの馬の骨とも知れない末席の者にまでこんなに個人情報開示しちゃって、
随分アケスケだなぁ。と驚いたものですが、
年を追うごとに名簿には飛行場縁以外の方がどんどん増えてゆき、
正直ちょっと心配です。
見学の際の記入はオイラもしました。
「市に実績を示すため」という説明があったと思いますが、アギラさん仰る通りそれなら人数だけで十分のはずで、
個人情報の取り扱いについては今一度ご考慮頂いた方が良いのではないかと個人的に感じます。
事務局の方がここをご覧になっていると良いのですが、今度機会があるときに話してみようと思ってます。

>きび運搬機関車
ググって初めて知りました。
壷川東公園に展示してあるんですね!(@Д@)
那覇の天気見てみたら、火、水が悪いみたいですね。
少しでもお天気に恵まれると良いのですが。。。
無事見る事ができましたら、是非お話聞かせてください。
城岳小はオイラの母校で、ここから数百メートルの所に住んでいたので非常に気になります。
(⊃゜Д゜)⊃~~~ハレロ
by とり (2014-07-06 13:42) 

あるく(非会員)

いつも割り込み失礼します。
以前行った時にYさんに同様の質問をしたことがあります。
Yさんが桶川にいた時はあの「弾薬庫」は無かったそうです。
たしか1945年4月に浜松へ行かれたのだそうです。
ですから出来たのはそれ以降ですね。
もし行く事がありましたら機銃の玉はどこに置いていたのかを
聞いてみてください。
Yさんは説明時にいなくても控え室にいる場合もありますので。

「奉安殿」もその時尋ねたら無かったと言っていましたよ。
by あるく(非会員) (2014-07-06 22:11) 

再生おじさん

こんばんは~

桶川で撮影した「建物配置図」を確認してみたら・・・・・
「燃料、倉庫」・「百葉箱」・「弾薬庫」・「守衛所」の順ですねぇ・・・・(*-゙-)ウーン…
アーカイブ写真を見る限り、「射撃場」や、それに準じた「土塁」は見当たりませんねぇ・・・(*-゙-)ウーン…

単に「立哨所」だったりして(笑)
by 再生おじさん (2014-07-06 22:14) 

とり

■あるくさん 
おはようございます。
割り込み大歓迎ですよ~^^
>「弾薬庫」は無かった
ということは終戦間際に作られたものなのですね(@Д@)
とすると、それまでは一体ドコに保管していたのでしょうか??
機会があればオイラも尋ねてみようと思います。
>「奉安殿」も無かった
貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m
オイラみたくただダラーと見てるだけじゃなくて、皆さん鋭い質問されているのですね~。

頂いた会報から、当会の副会長のYさんの経歴を抜き出してみました。
(あるくさんがご質問されたYさんは1945年4月に浜松へ行かれたとのことなので、
別のYさんなのだと思います。)

昭和16年1月 勤務開始
昭和18年晩秋 97式戦闘機の機付
昭和19年春  97式襲撃機の機付
    秋頃? 特攻隊の訓練基地が併設され、特攻機の整備担当に
昭和20年4月 特攻機に同乗。小月まで見送り
    5月 勤務終了

終戦間際まで飛行場に勤務しておられ、「学校内部を知る唯一の存在」と紹介されていました。
その方が副会長を務めておられ、あの構造物を公式に「弾薬庫」としている以上、
少なくとも奉安殿ではなさそうですね。

■再生おじさん
おはようございます。
写真で「建物配置図」を確認されたのですね。
いただいた会報の配置図だと、字が小さく潰れてしまって、判別できませんでした^^;
>「立哨所」
あの形だとその可能性もアリですね~。
by とり (2014-07-07 06:44) 

あるく

おはようございます。
おかしいですね?
同じYさんなのに。
そうすると見送りの後に濱松へ行ったということ?
(これはうろ覚えですが千葉だったかその他へも行った
ようなことを、、、聞いた覚えがあるのですが、、、。)
勤務終了というのは「桶川」がということでしょうか。
建物配置図って現在守衛所の壁にも
貼ってあるものですよね。
当時のでなく近年作ったものでしたでしょうか。
by あるく (2014-07-07 07:14) 

とり

■あるくさん 
同じYさんでしたか。ヘンですね~。
>勤務終了というのは「桶川」がということでしょうか。
そうです。
H16.8広報おけがわの体験記にYさんが登場しておられ、
その冒頭部分で「…桶川分教場に、昭和16年1月から昭和20年5月初めまで整備員として勤務していた」
と記されています。
ちなみにこの広報では、Yさんがどこかへ移動したという記述はありませんでした。
会報をざっと見返した限りでは、Yさんが一時的にせよどこかへ移動したという記録は見つからなかったのですが、
当飛行場からあの福島原発の飛行場に一時期派遣された整備員もおられたそうですし、
当飛行場の飛行学校の機能は北海道に移されたりしたそうですから、
何らかの移動はあっても不思議はないと思います。
>建物配置図
オイラが知っているのは、いかにもパソコンで作図したようなものしかないです。
これは当然近年作ったものと思いますが、
記憶を頼りに作ったのか、それとも当時の資料から作ったものなのかは不明です。
by とり (2014-07-07 17:50) 

再生おじさん

こんばんは~

建物配置図は、現地に貼ってあった物です。
見易い様に、大きな写真に差し替えておきましたので、ご参照くださいまし~
http://blogs.yahoo.co.jp/trpys563/9976833.html
(事務局がパソコンで作成した配置図だと思います。)

素朴な疑問なのですが、整備士の仕事場所って格納庫ですよね??
学校の方の事をあまりご存じなくても不思議ではないと思うのですが・・・
(。・_・?)ハテ?
by 再生おじさん (2014-07-07 23:21) 

アギラ

遅くなりました。手元にある各地の基地や学校の「配置図」をずっと
探していましたが桶川は現存するのでやはりコピーを撮っていません
でした。
桶川の守衛所の壁に貼ってあった建物配置図の写真を見るとなぜかこ
のコンクリートの建物が載っていないですね。
燃料倉庫・百葉箱・守衛所となっていて百葉箱のところにあるはずの
「弾薬庫」がありませんでした。
桶川の配置図には(縮尺1/500 ゴチック文字の建物は現存)
by アギラ (2014-07-07 23:24) 

アギラ

後半がなぜかごっそり切れてしまいました。
そのため挑戦的な感じになってしまいましたが悪意はありません。(コピペの関係でしょうか?)
「再生おじさん」さんのお写真と私が持っている写真とは撮った
時期が異なっているようです。
詳しくはまた後日にしたいと思います。


by アギラ (2014-07-07 23:49) 

アギラ

先ほどは失礼致しました。
書きこんだ時間が近くて内容もかぶりが出てしまいました。
現在守衛所に貼られているものは何故か「弾薬庫」が抜けております。
尚、2012年製作のDVDの中で他の軍属整備員の方が河川敷で勤務をする前に判子を押しに行ったと証言をされていました。

桶川と黒石原の屋根部分のコンクリートの有無が私はちょっと気になりました。
桶川にはありませんが黒石原はありましたでしょうか?

そして私もYさんから「濱松」と「何処か(思い出せません)」へ行ったと聞いた気がします。

>城岳小 
という事は近くの公園になった場所にKM所(知念村へ移転)
がまだあった頃ですか?
すると古蔵中ですか?(校歌がヤマトゥではおかしなことで有名に
なってしまいましたね。すみません)
私は居住をしておりませんが730以前を経験していたもので^^。

ノグリー大暴れ うりひゃーでーじなとん 今回は中止かもしれません。
by アギラ (2014-07-08 02:14) 

とり

□□皆様にお知らせ□□
この欄のコメント持参で今週末現地で確認してきます。

■再生おじさん
地図拡大ありがとうございましたm(_ _)m
>整備士の仕事場所
桶川は独特な形状で、滑走路近くに格納庫等、拠点が設けてありましたからね。
学校の方はあまり行かなかったかもしれませんね。
ただ、奉安殿を設けた場合、その前で全員整列して最敬礼。という式が定期的にあったそうなので、
桶川に奉安殿があったなら、「ここにあった!」とハッキリ覚えているはずなのに。。。
というのが今のところ最大の疑問点です。

■アギラさん
確認作業して下さっていたのですね~。お疲れ様ですm(_ _)m
弊ブログのコメント投稿は、時々うまくいかずにご迷惑をお掛けする事があります。
(投稿したはずなのになぜか反映されず、繰り返し投稿したら、ズラリと並んじゃうとか)
申し訳ありませんm(_ _)m

配置図にはバージョンがあるのですね!
その辺の所も今週末お伺いしてみたいと思います。

黒石原の屋根
オイラは確認していなかったのですが、コチラの三枚目を見ると、あるみたいです。
http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=539676

>KM所
そうです。まだあった頃です。当時は高いレンガの壁がずっと続いていて、
「あんな人が捕まってる」「こんな人が捕まってる」と子供たちの間で様々な噂が飛び交ってました。
オイラが沖縄にいたのは小学1~5年までで、その後東京に引っ越したので、中学は東京なんですよ。
(東京といっても、「あそこは埼玉でしょ?」とか揶揄される板橋区ですが)
おお、730経験しておられたのですね!
オイラは子供の時だったのでピンときませんでしたが、凄い違和感だったでしょうね。
オイラは730の晩に東京行の船に乗って引っ越しました。
>でーじなとん
今回は残念ながら中止した方が良いかも。レベルみたいですね^^;
by とり (2014-07-08 06:27) 

とり

□□皆様にお知らせ□□
桶川に行ってきました。
こちらにまとめましたので、宜しければご覧くださいませ。
http://airport1111.blog.so-net.ne.jp/2014-07-13
by とり (2014-07-14 06:09) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0