草地航空基地(六九二基地、雷原飛行場)跡地 [├空港]
2011年6月、2024年1月訪問 2024/2更新
撮影年月日
1947/12/15(昭22)(USA M690 84)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
大分県豊後高田市に広がる雷原(いかづちばる)台地。
ここに旧海軍の秘匿飛行場「草地航空基地(六九二基地)」がありました。
地元では「雷原飛行場」とも呼ばれていました。
現在は畑、工場等になっています。
後述しますが、当滑走路の長さについて、確認可能な2つの資料と現地説明板には600mx40mとあり、
1つの資料に 600mx30mとあります。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
作図してから測ったところ、滑走路長さはピッタリ600mでしたが、
幅は65mもあり、資料の数字とは大きく異なっています。
終戦から2年4ヵ月後の撮影なので、もしかして、排水溝含めて造成したんでしょうか。
当飛行場については、再生おじさん、アギラさんから情報頂きました。
地元での呼び名、長さ、面積等、詳しくはコメント欄をご覧ください。
再生おじさん、アギラさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m
■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)」の中に、
「草地(牧場) 資料表一 図一」がありました。
大判の青図には、右上に大きく「六九二基地略図」とあり、周辺の道、池との位置関係、
西北西~東南東方向の滑走路が描かれており、「40Mx600M滑走路(砂利)」と記されていました。
同資料の資料表には、
草地航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 大分県西国東郡草地村
最寄駅 日豊本線宇佐駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 型機、練習機
主要任務 発進用
とありました。
■防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」
にも、「六九二略図」として、当飛行場の大判の青図がありました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:草地
建設ノ年:1945-8
飛行場 長x幅 米:600x40
主要機隊数:小型機
主任務:発進
隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 呉
牧場 草地
滑走路 三〇×六〇〇EW
縣郡村 大分、西国東 草地村
記事 八月末既成
■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場は、昭和20年、宇佐飛行場が米軍の空襲を受けたため、
特攻機発進用の秘匿飛行場として造られました。
飛行場の建設は兵士、地元住民、動員学徒、朝鮮人労働者を使役して行われ、
8月に東西に幅40m、長さ600mの滑走路が完成しました。
基盤は南側の桂川から大量の石が運ばれて造られました。
結局この飛行場からは2機の練習機が飛び立っただけで終戦となったのだそうです。
(以下2024年1月撮影)
青マーカー地点。
見たくて見たくてたまらなかった説明板。
三度目の正直でやっと拝見できました。
雷原飛行場滑走路跡
一九四一(昭和一六)年一二月八日に、太平洋戦争が起こりました。そのころ、ここ雷原に飛行場が、作られ始めました。
桂陽小学校美和分校付近の田福池から雷の方に向かって東西に約六百メートル、幅は四〇メートルの滑走路ができました。ちょうどこのあたりが、滑走路の中心にあたります。
飛行場を作るために、昔の高田小学校や桂陽小学校・美和分校の校舎に、兵隊さんたちがかわるがわるとまりこんで、飛行場を作りました。近くの人たちや遠く大田村や中津の人たちも「勤労奉仕」に来ていました。
桂川から、引っ切りなしに石ころを運び上げ滑走路になる部分に広げ、その上に土をのせ上からたたいて固めました。滑走路の近くには、三つの格納庫が建てられました。
飛行場ができてすぐ、一九四五(昭和二〇)年八月十五日に戦争が終わったので、練習用の双翼飛行機(赤トンボ)が、一機か二機飛び立っただけだったということです。
わたしたちは、こわい戦争がないようにみんなで平和を守りたいです。一九九七年 ≪美和分校児童会≫
赤マーカー地点。
滑走路方向
大分県・草地航空基地(六九二基地、雷原飛行場)跡地
草地航空基地 データ設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:大分県西国東郡草地村(現・豊後高田市美和)
座 標:N33°33′34″E131°28′06″
標 高:40m
滑走路:600m×40m
方 位:10/28
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年08月 創設
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ)■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」
最新記事一覧を見たとき「墓地飛行場跡地」って読んじゃいました(ノ_<。)不吉な名前じゃ~って開いたら「草地」じゃないですかぁ(^_^;)
携帯なもんで、字が小さかったです(汗、汗)
by 鹿児島のこういち (2011-11-24 09:44)
"草原"の飛行場だったのでしょうか(^^);
by an-kazu (2011-11-24 22:28)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■鹿児島のこういちさん
>墓地
そ、それは。。。(;´Д⊂)
あるあるですね^^
毎度苦労して見て下さってるのですね~。
ありがとうございますm(_ _)m
■an-kazuさん
説明不足でしたm(_ _)m
当飛行場の北北西にそういう地名があります。
by とり (2011-11-25 06:00)
こんばんは
前に買った本に、この飛行場の情報が載っていました・・・・
折角ですからご連絡しておきます。(;^ω^)
「九州の戦争遺跡」P163に、「雷原飛行場」として以下の記載有り。
①「昭和二十年、宇佐飛行場が米軍の空襲を受けたため、特攻機発進用の秘匿飛行場として造られたものである。」
②「八月には東西に幅四〇メートル、長さ六〇〇メートルの滑走路が完成した。」
③「結局この飛行場からは二機の練習機が飛び立っただけで終戦となった。」
尚、現地に「小学生が建てた案内板」があるとの事で、グーグルアースのストリートビューで見る事ができます。(文字が小さく説明文までは読めませんが・・・)
座標 33°33'32.87"N、131°28'8.44"E
地元では「雷原飛行場」と呼ばれているのかもしれません。
by 再生おじさん (2014-08-05 20:26)
手元の「豊後高田市史」には
「草地航空基地」「六九二基地略図」「雷原に特攻基地」等が書いて
ありましたが宇佐海軍航空隊関係施設の土地登録伝票には
「高田簡易飛行場滑走路敷地三万三千三百平方メートル」
「高田簡易飛行場誘導路施設一万八千八百平方メートル」
となっているそうです。
by アギラ (2014-08-22 12:03)
■再生おじさん
気が付くのが遅れました。
返事が遅くなって失礼致しました。
貴重な情報有難うございました。
ストリートビューで「雷原飛行場」の案内板確認しました。
丁度滑走路が道路と交差している部分に立っているようです。
かなり詳しく書かれているみたいですね。
バックの風景が美し過ぎです。
次九州に行く時に見てみます。
記事に追記させて頂きましたm(_ _)m
■アギラさん
こちらにも貴重な情報ありがとうございました
記事に追記させて頂きましたm(_ _)m
by とり (2014-08-23 05:45)