松戸(松戸高等航空機乗員養成所)飛行場跡地 [├空港]
2012年7月訪問 2021/10更新
撮影年月日1944/09/24(892 C2B 153)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
千葉県松戸市松飛台にあった「松戸飛行場」。
■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、
高木村五香、六実、串崎の広大な山林原野が格好の飛行場として注目され、
逓信省航空局の所管となり、中央航空機養成所の飛行場建設候補地として決定したのだそうです。
その後県下中等学校、青年学校生徒、警防団員等の勤労奉仕により工事の進捗がはかられ、
「逓信省中央航空機乗員養成所」として発足しました。
後に「松戸高等航空機乗員養成所」と改称し、民間の操縦士や整備員の養成を目的としていたのですが、
建設時から陸軍が関与し、所長も陸軍少将が務めていて、
「帝都防空用陸軍飛行場」としても位置づけられていたのだそうです。
戦局が進み敗色が濃くなってくると事実上軍の管轄となりました。
■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、
「松戸高等航空機乗員養成所」当時の付図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
付図で飛行場敷地を示す太い実線をグーグルマップ上に描いたつもりです。
上に貼った1944年の航空写真と見比べながら作図したのですが、
(どの線を拾えばいいんだろう?)と悩んだ箇所が幾つもあります。
また、この付図は昭和18年1月調べの資料に添付されているものなのですが、
昭和19年9月撮影の航空写真と比較すると、飛行場敷地は南北方向、そして東側に拡張しているように見えます。
それで航空写真の(ここも飛行場に拡張したっぽいなぁ)という部分も含めてあります。
作図に間違っている箇所がいろいろあると思いますが、
飽くまで「オイラにはこんな感じに見える」 というものですのでご了承くださいませ。
同資料の飛行場情報を以下引用させて頂きます。
第8 松戸高等航空機乗員養成所飛行場 (昭和18年1月調)
管理者 航空局。
位置 千葉県松戸市五香六実町。
(松戸市の東方約6粁、北緯35°47′0、東経139°58′0)。
種別 非公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約26米。
広さ及形状
本場は長さ東西最大1,400米、幅南北700米及長さ南北1,150米、幅東西
600米の略L字型地域なり・着陸地域は概ね図示の長さ東西1,200米、幅
南北500米及長さ南北950米、幅東西450米の地域にして各周辺より各約
100米以内の地区を最適とす(付図参照)。
地表の土質
赤土及泥炭地。
地面の状況
概ね平坦なるも中央稍高く各周辺に向け極めて緩かなる下り傾斜を為す・
処々に植芝及雑草発生するも大部分は禿地なり、之等の禿地は乾燥時には
概して堅硬なるも降雨後は稍軟泥となる・排水極めて良好にして乾燥速な
り・場内の概ね図示の位置に南北方向に施設せる排水暗渠5條あり、表面
は「コンクリート」舗装なるも全面平坦なるを以て地上滑走の支障となら
ず・冬季は風塵立ち易く又霜柱の発生を見ることあり。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
何れの方向よりするも可能なるも無風時は南北方向を最適とす。
離着陸上注意すべき点
西端に高さ16米の器材庫1棟、東端に高さ25米の宿舎あり。
施設
大格納庫(間口85米、奥行50米、高さ23米、収容機数小型機80)1・小
格納庫(間口25米、奥行30米、高さ18米、収容機数小型機47)2・本部
庁舎・校舎2・宿舎2・医務室・発動機工場1・機材工場1・電信計器工
場1・食堂・器材庫・発動機試運転場・気象観測所等あり。
周囲の状況
樹林
南方約300米付近に高さ10-15米程度の杉並木あるも其の他は概ね開闊
なり・場の北西部一帯は丘陵を切開き整地せるを以て此の外方に場面より
稍高き台地あるも支障となる程度ならず・北及北西端外周に排水開渠あ
り。
建築物
場内北東側に最高25米の宿舎、格納庫及其の他の付属建築物多数存在す
又西端に高さ16米の器材庫1棟あり。
着目標
松戸市、松戸-六実間道路、格納庫、吹流。
地方の状況
軍隊及憲兵
陸軍工兵学校(松戸市)西方約10粁・市川憲兵分隊(市川市)南西方約15
粁。
警察署及役場
松戸警察署(松戸市)西方約9粁、高木村駐在所(高木村)北西方約4粁。
医療
場内に医務室の設備アリ・松戸市に開業医5あり。
宿泊
場内に完備せる乗員養成所の宿舎あり・松戸市に旅館6(収容員数計420)
あり。
清水
格納庫付近に水質良好なる井戸多数あり。
応急修理
場内に発動機工場、機械工場及発動機試運転場等の完備せる修理施設あり。
航空需品
本場に相当量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵す。
交通、運輸及通信
鐡道
六実駅(総武線)東北東方約4粁、松戸駅(常磐線)西方約6.5粁。
乗合自動車
松戸駅(常磐線)と本場間に飛行場専用定期乗合自動車便あり又松戸駅よ
り本場の北方道路を経て六実方面に通ずる乗合自動車便(京成自動車会社)
あり、最寄停留所は五香(北方約1粁)なり。
道路
本場より北方約1粁の県道を経て西は松戸市、北は柏町、東は六実駅を経
て木下町方面に至る良好なる舗装道路あり、乗合自動車運行す。
運送店
高木村に合同貨物自動車会社(貨物自動車10)あり・松戸駅前に丸通運送
店1(貨物及乗用自動車常備)あり。
電信及電話
松戸郵便局(西方約8.7粁)電信及電話を取扱う・場内に電話あり。
気象
測候所
場内に気象班あり、測風気球に依る上層気流を観測す・千葉高等園芸学校
気象観測所(松戸市)西南西方約6.5粁。
地方風
冬季は北北西風、夏季は南南西風多し・一箇年を通じ北北西風(筑波颪)最
も多し。
天候
本場は開設以来日尚浅く信頼し得べき統計なきを以て千葉高等園芸学校気
象観測所に於ける昭和8-12年5箇年間の統計を参考に記載す。(以下月
ごとのデータ省略)。
地方特殊の気象
12-翌年5月間は屡咫尺を弁ぜざる程度の黄沙襲来す・早朝富士山の眺
望良好なる日は終日西風強吹す・暴風は9月に多し。
其の他
本場は昭和15年6月航空局の設置に係る民間航空機乗員養成所(陸軍関係)に
して目下95式1型練習機による飛行訓練実施中なり。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 松戸
位 置 千葉県東葛飾郡高木村
規 模 要図(東西■■00 南北1400)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 五〇〇名分
格納施設 掩体 有蓋二八棟 無蓋二七ヶ所
摘 要 施設官有
■新千歳市史通史編下巻
372p
この間、日本機は飛行制限を受けた。「日本の飛行機は8月24日18時以
降の飛行を禁止する。飛行するものは撃墜する」というものであった。飛
行禁止命令は空襲で陸上交通と通信がマヒしていた日本の終戦事務処理の
連絡手段がなくなるに等しかった。
日本政府は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して主要都市間
の連絡飛行を懇請、9月12日付SCAPIN23で東京を中心とした急行便
1、普通便3の4路線が認められた。
9月14日から日本人の自主運行によって1日4便の終戦連絡定期(緑十
字飛行-グリーンクロスフライト)が運航された。北海道方面は普通便の
第3航空路として東京-仙台矢本(現・空自松島)-青森油川-札幌間が、
月・火・木の週3便運航された。東京羽田飛行場が米陸軍に接収されてい
たため千葉県の陸軍松戸飛行場を代替として使い、札幌は北24条の札幌第
二飛行場を使った。緑十字飛行は10月9日をもってGHQから運航が禁止
された。その理由は陸上交通が次第に回復、整備されつつあり航空機を使
用する必要がなくなったということであったが、実情は惨憺たるもので
あった。
緑十字飛行の運航禁止によって終戦連絡事務の人員およひ郵便物と貨物
の移動が停滞した。これを受け10月10日からは代替として米軍による帝国
航空便(インペリアルクーリエ)が運航された(S21・2・6廃止)。週
4便が運航され東京立川飛行場から第一千歳(14日初便のみ北24条・札幌
第二)に飛来した。仙台矢本と青森油川に寄航して所要時間は6時間だった。
終戦直後の緑十字飛行で使用した過去があったのですね。
青マーカー地点。
現在跡地西側は松飛台工業団地に、東側は松戸駐屯地になっており、滑走路跡地は住宅密集地になっています。
当飛行場について非常に詳細に記しておられる某サイト様によりますと、
このマーカーから南に向かって1,200m×140m程の矩形の滑走路が伸びていたのだそうです。
この写真だと、ここから奥に向かって滑走路が伸びていたはずです。
千葉県・松戸飛行場跡地
「松飛台」という地名は、「松戸飛行場のあった台地」という意味を込めて名付けられたものなのだそうです
松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所飛行場) データ
管理者:航空局→陸軍
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:千葉県松戸市五香六実町(現・松戸市松飛台)
座 標:N35°47′00″E139°58′00″
面 積:開設当初約132ha、終戦時約156ha
標 高:26m
着陸地域:東西1,200mx南北500m、南北950mx東西450m
滑走路:1,200m×140m?
方 位:18/36
沿革
1939年01月 鍬入れ式
1940年06月 逓信省中央航空機乗員養成所設立。地表面はすべて張芝
1943年04月 松戸高等航空機乗員養成所に改称
1945年09月 14日~10月9日まで緑十字飛行
関連サイト:
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この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
なるほど。
変な地名だと思っていましたが、由来は戦中にさかのぼるものだったのですね。
by tooshiba (2012-09-01 02:25)
地名に残っているワケだφ(゚Д゚ )フムフム…
by an-kazu (2012-09-01 09:40)
滑走路がまっすぐ綺麗に延びていて、幅もそれなりにあるなと地図に落とされた、滑走路の線を見て思ったのですが「航空機乗員養成所」が成り立ちではあるのですか、納得です。いびつな形には出来ないですよねぇ(^o^)
所長は、陸軍少将が勤めてたとはいえ、兼務で普段は居なかったんじゃないんですか?(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2012-09-01 13:50)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■tooshibaさん
ここの地名をご存じでしたか。(@Д@)
■an-kazuさん
大きな滑走路はすっかり消えてしまいましたが地名だけでも残りましたね。
■鹿児島のこういちさんむ
初心者に優しい滑走路^^
>普段は居なかった
そうなのですか。
そういえばこういう偉い方って普段はどんなだったのでしょうか。
by とり (2012-09-02 10:50)
当時のことを示す標識等は設置されていないのでしょうか?
地名だけが、往時を知る手がかりとなりのはちょっと寂しいですね。
by 駅員3 (2012-09-02 11:16)
以前どこかで書いたと思いますが、
戦前の空港の作り方、節操がないですよね。
全体の構想なく、あちこちに好き勝手に作っているように感じます。
ただでも人材も資材も少ないのに。
これじゃ戦争も負けるわけですよね。
by 雅 (2012-09-02 20:30)
この地名の付いた由来、たぶん住んでいる方も知らないと思いますが良く調べましたね。
by せつこ (2012-09-03 00:53)
■駅員3さん
少なくともオイラは発見できませんでした。
仰る通り何もないと寂しいですね。
当跡地に関しましては、飛行場敷地が縮小されて、一部を駐屯地として使用しています。
縁のものはそちらにある可能性が高いと思います。
その地域から軍事的な施設が完全になくなってしまうわけではない今回のようなケースの場合、
敷地外に碑、説明版等はないことが結構あるように思います。
■雅さん
熟練工が戦地に駆り出され、航空機の粗製乱造を招いたり、
力の使い方に疑問を感じることは多々ありますね。
■せつこさん
あり得ることですね。
オイラも地元の歴史について全く知らない点が多々あります。
今回の由来については、たまたまネットで発見しました^^
by とり (2012-09-03 21:13)
くぬぎ山駐屯地にはC-1の耐圧テストに使った機体があります。
上の地図のくぬぎ山駅、5丁目と書かれたあたり~見えるはずです。
って、もう来ないか・・・
by マリオ・デ・ニ−ロ (2012-09-03 21:59)
■マリオ・デ・ニーロさん
そうなんですか!
見たかったです。残念。
by とり (2012-09-09 09:23)