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名古屋航空基地(伊保原、挙母飛行場)跡地 [├空港]

   2010年7月、2019年10月、2023年5月訪問 2023/5更新  


無題1.png
撮影年月日1945/04/06(97I9 C4 84)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 
 
愛知県豊田市浄水町にあった名古屋航空基地(挙母、伊保原飛行場)。
 
愛知時計電機の試験飛行場として建設されましたが、後に軍民共用飛行場となり、
 
末期には特攻隊が編成されました。
 
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
 
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。


基地名:名古屋 建設年:1941 飛行場長x幅 米:2000x200 1800x100 1500x150 主要機隊数:小型3.0 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型有蓋7 中型無蓋20

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)「別表 航空基地施設史実調査資料表」

基地名 名古屋(陸)
所在地 愛知県西加茂郡保見村
最寄駅 名古屋電鉄線挙母駅
飛行場 滑走路 200x2,000 200x1,800 150x1,500
主要機種 小型
収容力 終戦時 兵舎十七棟 士舎五棟
飛行機 終戦時 掩体 中二〇 小(七)
其の他の主要施設 送信所、隧道等

上のグーグルマップは、上述の 航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)

の中の「名古屋航空基地施設(挙母) 位置図(二〇、八、一) 縮尺 五千分之一」から作図しました。

グーグルマップと上に貼った航空写真を見比べながら位置決めをしたんですが、

だいたいこんな感じかなあ。という感じです。

最大公約数的な図ですのでご了承くださいませ。

上述の2資料、滑走路の長さが一部異なっているんですが、

■「日本海軍航空史」(終戦時)

では滑走路の長さについて、2,000m×200m、1,700m×100m、1,400m×100m とあり、

作図して測ってみたところ、2,000x190 1,650x200  1,400x170 でした。

 

位置図によりますと、現在の浄水場周辺には、滑走路北側に海軍の諸施設がずらりと並んでいる様子が描かれています。

またこの滑走路の東端の北側(県立豊田高校の辺り)に、

当飛行場の元々の使用者である愛知時計電機の愛知航空格納庫地帯と、愛知建物地帯が描かれています。

また、この位置図により当航空基地の位置が(ほぼ)確定したことで、

名古屋航空基地の敷地と、「上伊保付近着陸場」(グレーのポリゴン・下記リンク参照)

の敷地が重なっていたことが判明しました。

元々あった着陸場が南東方向に大きく拡張した形ですね。 

D20_0171.jpg

D20_0173.jpg

上の2枚は移設前の碑です。

碑文(全文) 此ノ地ハ昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散セル名古屋海軍航空隊ノ址ナリ昭和二十年春当地ニ於テ神風特別攻撃隊草薙隊編成サレ四月五日十二日ノ兩日各二十機ノ九九式艦上爆撃機ハ鹿児島県國分基地ニ進出菊水一号二号四号作戦ニ参加 同月六日十二日二十八日ノ三次ニワタリ沖縄本島西方泊地ノ米艦船ニ突入ス 未帰還二十八機戦死五十六名彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖國復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ 草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝ヘントスルモノ也 昭和四十七年四月吉日 豊田海友会 (読み取り難い箇所があり、誤字があると思います。ご了承くださいませm(_ _)m

 

D20_0167.jpg

一角に黄色い花がたくさん咲いていて、こんな説明が。

「特攻花 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 平成七年四月 草薙隊之碑保存会」

こんなつながりがあるのですね。

2011/12 追記:「この黄色い花は戦後の外来種であり、 本当の特攻花は別にある」という話があります。詳しくはコメント欄のリンクをご参照ください。miffyさん、鹿児島のこういちさん、papaverさんありがとうございました。

DSC_0037.jpg

青マーカー地点。

こちらは神社の東側に移設後のものです。

DSC_0034.jpg

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沿革(全文)
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 昭和四六年一二月吉日建立之 伊保原開拓農業協同組合

現在はすっかり住宅や店舗が立ち並んでいるのですが、

飛行場は戦後、地元の方々の大変な御苦労の末、現在に至るのですね。

滑走路端を撮りました。時計回りに-  

DSC_0115_00001.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向(2023年5月撮影。明後日方向を撮ってしまったので撮り直しました)。

DSC_0028.jpg

黄マーカー地点。

滑走路方向。

DSC_0118_00001.jpg

緑マーカー地点。

滑走路方向(2023年5月撮影。明後日方向を撮ってしまったので撮り直しました)。

DSC_0121_00001.jpg

紫マーカー地点。

滑走路方向(2023年5月撮影。明後日方向を撮ってしまったので撮り直しました)。


      愛知県・名古屋航空基地(伊保原、挙母飛行場)跡地      

名古屋航空基地(伊保原、挙母飛行場) データ

設置管理者:愛知時計電機→海軍?
種 別:軍民共用飛行場
所在地:愛知県‎豊田市‎浄水町‎原山‎
座 標:N35°07′22″E137°08′13″
滑走路:(作図の数字)
2,000x190(11/29)
1,650x200(15/33)
1,400x170(18/36)
(座標、方位はグーグルアースより)

沿革
1939年    愛知時計電機の試験飛行場として造成
1941年10月 霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊が派遣され、軍民共用飛行場となる
1942年04月 分遣隊が独立して名古屋海軍航空隊となり、施設が拡充され試験飛行、練習地となる
1945年02月 16日 特攻訓練実施命令。草薙隊と名付けられた名古屋空の特攻隊編成され、出撃続く
1946年07月 開拓事業始まる
       戦後進駐を経て地元住民、移住者に払い下げられ開拓地となる

関連サイト:
愛知エースネット/伊保原飛行場  
ブログ内関連記事:上伊保付近着陸場跡地 

この記事の資料:
現地の碑
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(18)  トラックバック(0) 
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コメント 18

sak

ここからも特攻隊が編成されて飛んでいったのですね
特攻花...胸が締め付けられる名前...
by sak (2010-12-10 09:32) 

いっぷく

昔読んだ『きけ わだつみの声』を思い出しました。
日本人として語り継がれなければならない特攻隊の人たちの言葉でした。
by いっぷく (2010-12-10 10:10) 

tooshiba

ここから飛び立って、生きて還らなかった英霊たちに敬礼!(`・ω・´)ゞ
by tooshiba (2010-12-10 10:16) 

Takashi

特攻花。キバナコスモスですよね。こんな別名があるのを知りませんでした。
特攻花の写真が、悲しげで雰囲気出てます。
by Takashi (2010-12-10 12:14) 

鹿児島のこういち

沖縄へ出陣するためには、鹿児島の基地へ立ち寄り特攻隊として再編成して、特攻命令あり次第飛び立ちます。
国分、鹿屋、知覧では特攻花は有名ではありますが、人の記憶から寂れた時期があります。悲しい思い出が多過ぎたからだと思います。
by 鹿児島のこういち (2010-12-10 12:34) 

miffy

オオキンケイギクは確か北米原産だったような・・・
by miffy (2010-12-10 21:36) 

鹿児島のこういち

miffiさんの言われる通りでした。自分の勘違いでした。申し訳ありませんm(__)m
小さい頃に、国分、鹿屋、知覧には特攻花があり、それを見ながら出撃するとは聞いてはいたのですが、喜界島のテンニンギクと一緒になっていたのかもしれませんf^_^;
他に調べてみて、このようなサイトが有りましたので、紹介させて下さい。
http://homepage2.nifty.com/nippon-kaigi/sakura/#a

http://webnews.asahi.co.jp/you/old/special/2005/t20050718.html

http://www.town.kikai.lg.jp/kikai04/kikai07.asp#tokkou

自分の父親は、昭和11年生まれで、当時、鹿屋航空隊基地のそばに住んでいまして、基地の周りの土手には桜が植えられていたと言ってました。
by 鹿児島のこういち (2010-12-11 06:47) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■sakさん
>特攻花
オイラも初めて知りました。
現地で碑文を読んでて泣けてきました。

■いっぷくさん
>『きけ わだつみの声』
恥ずかしながら知りません。
調べてみます。

■tooshibaさん
「お国の将来ために」と命を捧げた方がおられるという事実を突きつけられると、
自分には何ができるだろう。と考えさせられますね。

■Takashiさん
>キバナコスモス
名前を教えてくださりありがとうございます。
オイラ花はさっぱりなもので。。。

■miffyさん
miffyさんのコメントのおかげですごい話に発展しました。
どうもありがとうございましたm(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
miffyさんのコメントを見たオイラは、「日本が戦前アメリカに贈った桜の逆パターン??」というところで思考がストップしたのですが、
鹿児島のこういちさん、流石ですね。
ご紹介いただいたリンク、すべて読ませて頂きました。
お父様の証言とも合致するわけですね。
記事に反映させていただきます。どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2010-12-11 07:56) 

an-kazu

特攻・・・この文字を見聞きする度に、
江田島の教育参考館に展示されている
涙なくして読めない手紙を思い出します(;_;)
by an-kazu (2010-12-11 18:21) 

とり

■an-kazuさん
教育参考館に手紙が展示されているのですか。
機会があったら見てみたいです。
by とり (2010-12-12 07:54) 

春分

なるほど、テンニンギクなら納得。また一つ、新しい過去を知ることができました。
by 春分 (2010-12-12 18:47) 

とり

■春分さん
納得ですか。お花に詳しい方だとそうやってすぐに繋がるものなのですね。
by とり (2010-12-13 06:20) 

papaver

はじめまして
昨年、オオキンケイギクを特攻花と呼ぶ地域があると知りいろいろと調べてみました。
鹿児島のこういちさんが紹介されている2番目のリンクについては、テンニンギクは戦前から喜界島に咲いていたと放送内容を否定する記事が昨年6月6日の南日本新聞に出ました。
南日本新聞の記事はもう見られませんが、(オオキンケイギクでない「特攻花」)をキーワードに検索すると記事の一部が引用されています。
疑問に思い南日本新聞に問い合わせたところ、奄美の情報誌ホライゾンを紹介されました。

奄美ホライゾン日記blog : 特攻花とは?
で検索してみてください。
編集部の方に詳しく話を聞いてわかったことは、特攻花がオオキンケイギクやテンニンギクであった方が都合がよい人たちがいるということです。
by papaver (2010-12-13 20:33) 

とり

■papaverさん いらっしゃいませ~^^
二点とも検索して確認させていただきました。
情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2010-12-14 06:24) 

isisk

はじめまして、豊田市の者です。
伊保原飛行場のことを検索していてたどり着きました。
父が幼いころ、我が家にここの飛行隊の人たちが下宿していて、特攻隊員として出陣していったそうです。
白いスカーフを巻いた飛行兵の写真が残っています。
by isisk (2011-11-24 22:10) 

とり

■isiskさん いらっしゃいませ~^^
遺骨の残らない特攻隊員にとって遺影は本当に貴重な証しですね。
貴重なお話をどうもありがとうございました。m(_ _)m

勝手で申し訳ありませんが他のコメント消させて頂きました。
by とり (2011-11-25 06:11) 

Mumbai

はじめまして、祖母の世代が長野の貧農から満州開拓団で満州に渡り
大東亜戦争敗戦で、ソ連兵の暴虐、朝鮮人の寝返り暴虐から命からがら
内地に戻り、食うや食わずで食うために今度は猿投の伊保原・浄水町の伊保原飛行場の硬い大地を開拓する為の開拓団で伊保原飛行場を、未亡人の祖母が子供四人連れて団長となって郷里の長野県から満州引揚者達で硬~いランウェイ・エプロンを必死に開墾して農地にしました。
農場の工事でボーリングした時、地下数メートルにコンクリート水路のようなものがあったのを記憶してますが、今は大手ディベロッパーが入ってすっかりベッドタウンになって掘り返すのは無理になってしまいました。
by Mumbai (2021-02-03 01:31) 

とり

■Mumbaiさん
大変なご苦労があったのですね。
地下数メートルにコンクリート水路のようなもの
とは排水暗渠のことなんでしょうか。
当飛行場の資料では見たことがなく、初耳でした。
当時の貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2021-02-03 05:30) 

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