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黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


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撮影年月日1947/11/14(USA M649 17) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

栃木県‎那須塩原市‎埼玉(さきたま)‎にあった旧陸軍の「黒磯(埼玉、那須野)飛行場」。

飛行場の存在自体は以前から知っていたのですが、(栃木県なのに、何故に埼玉??)と非常に不思議でした。

地名なんですね。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で、当飛行場の項目がありました。

以下引用させて頂きます。

黒磯陸軍飛行場
栃木県那須郡高林村
36°57′5N 140°1′0E

面積 北西-南東1,580米 北東-南西1,600米 
地面の状況 植芝
目標 黒磯町、東北本線
障碍物 (記載無し)
離着陸特殊操縦法 (記載無し)
格納設備 格納庫(60x45米)1、(40x35米)2棟あり
照明設備 (記載無し)
通信設備 (記載無し)
観測設備 (記載無し)
給油設備 航空用燃料あり
修理設備 応急修理可能なり
宿泊設備 生徒舎あり
地方風 (記載無し)
地方特殊の気象 夏季雷雨多し
交通関係 黒磯駅(東北本線)東方約3.5粁
其の他 本場は宇都宮陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  那須野
位 置   栃木県那須郡黒磯町
規 模   要図(1600x1600)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 二〇〇名分
 格納施設 飛行機庫一棟 一五〇〇平方米二棟
摘 要   施設軍有

D20_0016.jpg

青マーカー地点。

埼玉小学校の隣り、県道55号沿いにある大きな碑。 すごく目立ちます。

D20_0017.jpg

那須野 陸軍飛行場跡 建立の記(全文) 日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られ この地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した 爾来 熊谷及び宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官 特別操縦見習士官 少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し 卒業後はつぎつぎと第一戦へ配属されていった 戦況熾烈となった昭和二十年四月茨城県より鉾田教導飛行士団が移駐して実戦部隊となり双襲双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として神鷲隊十二隊が編成され うち二隊は終戦直前 岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた 七月 八月には敵艦載機の来襲を受け将兵竝びに附近住民多数の戦死傷者を出し また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた その間防衛整備にあたった軍人軍属も 近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである 時代の流れは刻刻にかつての面影を消し去つてゆく 幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する 願わくはここを巣立ち ここに戦死せられた人々の霊の安らかんことを 昭和五十三年十一月五日建立 撰文 月江冨治朗 

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赤マーカー地点。

この道路に沿って右側に滑走路が伸びていたはずです。

撮影場所の背後には清掃センターがあります。


      栃木県・黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場跡地     
非常に詳しく調査されているサイトが複数あります。1942年4月に開所式があり、特殊飛行を行った一機が急降下後に上昇しようとして地面に突っ込んでしまうという出来事がありました。(本人は視力が下がっただけで命は助かった) このパイロットは前日に那須で酒を呑み、朝になって帰って行ったのだそうです。。。 末期の時期は訓練用のガソリンも乏しく、当飛行場の高級参謀はほとんど毎日吉祥寺の第一航空軍の作戦参謀と直通電話で作戦の打ち合わせをしていたのですが、そのほとんどがガソリンの請求だったのだそうです

黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:旧陸軍
所在地:栃木県那須郡黒磯町(現・栃木県‎那須塩原市‎埼玉‎)
座 標:36°57′5N 140°1′05E
標 高:318m
面 積:280ha
滑走路:1,350mx53m?
方 位:16/34
(標高、方位はグーグルアースから、他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1937年    この頃陸軍から地権者に対して買収の通告
1938年    着工
1942年01月 開所。熊谷陸軍飛行学校那須野教育隊開隊
    04月 開所式。5万人が近隣から集まる
1943年09月 宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊となる
1944年10月 熊谷陸軍飛行学校那須野教育隊となる
1945年04月 茨城県鉾田教導飛行士団移駐 特攻機の訓練基地となる
    07月 約2か月の突貫作業で砕石で固めた滑走路完成(それまでは滑走路がなかった)
    7,8月 空襲を受ける
     8月 13日 神鷲201隊(双襲)6機出撃。2機突入、3機目標未確認のため帰還。1機帰還途中不時着         

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
「那須の太平洋戦争」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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コメント 4

のん

戦時中、父が配属先であったのは、ここ那須野基地でした。
父の同期の一人は終戦間際の13日、ここから鹿島灘に遊弋する敵機動部隊に対して特攻出撃戦死されたと父から聴いております。
このブログをたまたま拝見致し、当時はまだ18歳であった父の足跡を偲んでいます。
有難うございました。

by のん (2014-03-30 10:37) 

とり

■のんさん
返事が遅くなってしまって申し訳ありません。
コメント下さり有難うございました。
by とり (2015-04-18 17:53) 

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この地に代々暮らすものです。父が7歳の時の話をよく聞かせてもらいました 戦時中我が家にここの飛行基地の兵隊さんの宿泊を受け入れていたそうで、20前後の方々だったそうです、当時7歳の父からすると優しいお兄ちゃんと会えるのを毎回楽しみにしていたそうですが、終戦間際に今度はいつ来るのと聞いたが返事をしてもらえなく、それっきり・・と言ってました。
by お名前(必須) (2022-08-05 13:18) 

とり

■そんなことがあったのですか。
貴重なお話を寄せて下さり、ありがとうございました。
by とり (2022-08-06 03:05) 

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