西原(東、小那覇、与那原)飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
撮影年月日(USA M22 4)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県中頭郡西原町にあった「西原(東、小那覇、与那原)飛行場」。
日本陸軍の小型機専用飛行場、「西原(東、小那覇)飛行場」として着工したのですが、
当飛行場の設定は沖縄本島では最も遅く、第32軍の飛行場部隊が沖縄に来駐した昭和19年4月中旬ごろから
用地接収に動き出したのですが、その後工事中止。
その後米軍が「与那覇飛行場」と名付け、誘導路、駐機場を備えた爆撃機専用飛行場として建設しました。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
日本軍が建設した飛行場に、後に米軍が建設した誘導路、駐機場がクッキリ写っています。
ものの資料によれば、日本軍が800m滑走路で建設したのですが、米軍が2,130mに拡張したのだそうです。
赤マーカー地点。
現在も周辺では開発が進められており、ここに飛行場があったという面影は残っていませんでした。
「沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」(下記リンク参照)にこんな一節がありました。
「(5)仲西飛行場・西原飛行場及びその他の沖縄本島の飛行場
昭和19年(1944年)3月、第32軍は「十号作戦準備」により新たな飛行場設定の任務を負って緊急工事を引き継ぎ、既設飛行場の拡張整備のほかに、さらに小型特攻機用の発進基地として新設飛行場の建設に着手した。それが仲西飛行場(沖縄南飛行場・城間飛行場)、西原飛行場(沖縄東飛行場、小那覇飛行場)及び首里秘密飛行場(石嶺飛行場)である。」
また1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、 同7コマ目にこうありました。
「小那覇(西原)飛行場が空襲されたのは、那覇が空襲された後で、しかも焼夷弾が投下されたことから、時間は判明しないが午後であったことは間違いない。飛行場建設の飯場が炎上し、民家50戸も焼夷弾で焼失した。機銃掃射で1人が犠牲となった。」
沖縄県・西原(東、小那覇、与那原)飛行場跡地
約39haの農地を接収して建設したのだそうです
西原(東、小那覇、与那原)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍→米軍
種 別:小型機専用飛行場→爆撃機専用飛行場
所在地:沖縄県中頭郡西原町小那覇
座 標:N26°13′40″E127°46′26″
標 高:8m
滑走路:800m(日本軍時代)→2,130m(米軍時代)
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年04月 中旬頃用地接収開始
05月 10日着工。32軍の作戦変更に伴い工事中止
10月 十・十空襲。午後飛行場建設の飯場炎上、民家50戸が焼夷弾で焼失。機銃掃射で1人犠牲
後に米軍が拡張整備するが、航空基地統廃合により放棄
関連サイト:
沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (16コマ目)
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