第三岡崎海軍航空基地(桝塚飛行場)跡地 [├空港]
2010年7月訪問 2023/1更新
撮影年月日1945/04/06(97I9 C4 74)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛知県岡崎市にあった「第三岡崎海軍航空基地(桝塚飛行場)」。
先頭のグーグルマップをご覧の通りで基地は三つのブロックに分かれていて、
上から順に「第一岡崎航空隊」、「第三岡崎航空隊」、「第二岡崎航空隊」となっており、
「第一岡崎航空隊」と「第二岡崎航空隊」の二つは整備教育を担当していました。
そして真ん中の「第三岡崎航空隊」、現在は三菱自動車工業名古屋製作所と重なっていますが、
ここに滑走路がありました。
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)に当航空基地の位置図があり、
先頭のグーグルマップはこの位置図と、上に貼った1945年の航空写真から作図しました。
所々線が拾えなくて怪しくなっております。
おおよそのものですのでご了承くださいませ。
「第一」~「第三」の三施設は、いずれも大量の整備要員、搭乗要員を育成するための施設だったのですが、
戦局の悪化と共に当初の目的通りの運用が難しくなってゆきました。
この基地についてはネット情報が充実していて、たくさんのサイト様で詳しいいきさつが取り上げられています。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:第三岡崎 建設年:1943 飛行場長x幅 米:1500x1000ノ内1500x100コンクリート 主要機隊数:小型9.0 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:指揮所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型無蓋33
基地名が「第三岡崎」とある通り、第一と第二もちゃんと記載されていて、
第一岡崎は安城駅W4 第二岡崎は岡崎駅NW4 建設年1943 飛行場は第三岡崎と共用 主要機隊数はどちらも:飛行機整備 主任務はどちらも:教育
とありました。
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「※岡崎空開隊(S19.4.1)(昭18建)」
「※二岡崎開隊(S19.8.15)( 〃 )」
「※三岡崎 〃 (S20.2.11)( 〃 )」
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)には、
航空基地施設史実調査資料表
基地名 第三岡崎(陸)
所在地 愛知県碧海郡矢作町
最寄駅 東海道線岡崎駅
飛行場 滑走路 幅100米、長1,500米
主要機種 小型、練習機
終戦時 掩体三三機
赤マーカー地点。
ここから奥に向かって滑走路が伸びていたはず。
青マーカー点にある熊野神社。
予科練の碑などがあります。
説明板と配置図。
「第一岡崎海軍航空隊の由来(全文) 第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和十九年二月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急遽訓練を開始することとなり名称も昭和十九年四月一日岡崎海軍航空隊となり作戦機能も独立して同年五月より本格的訓練が開始され、その後昭和二十年二月第一岡崎海軍航空隊と改称された。 本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、昭和十九年五月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実戦航空隊へ実務練習生として巣立って行った。しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。 広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後四十年を経た今日、最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人人の脳裏から消え去らんとしている。 こヽにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。昭和六十一年五月十八日
「柳川瀬公園」(黄色マーカー)にも碑があるそうです。
お邪魔した際工事中で立ち入りができず、残念ながらオイラは見てません。
愛知県・第三岡崎海軍航空基地(桝塚飛行場)跡地
第三岡崎海軍航空基地(桝塚飛行場) データ設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:愛知県岡崎市橋目町
座 標:N34°59′33″E137°07′31″
滑走路:1,300m×100m(1,300m×30m金網) 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:12/30
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年 建設
1944年02月 河和海軍航空隊岡崎分遣隊発足
04月 1日、岡崎海軍航空隊開隊
05月 本格的訓練開始
08月 15日、第二岡崎開隊
09月 名古屋海軍航空隊岡崎分遣隊を設置。甲飛13期の中間練習を開始
1945年02月 11日、独立し「第三岡崎海軍航空隊」となる
06月 特攻隊編成。下旬に3個特攻隊を編成し笠之原・西条・姫路へ進出
終戦後武装解除・解散。駐留を経て農地として解放
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)
田んぼじゃあ、跡地と言われても分かりませんね。
by tooshiba (2010-12-15 12:00)
滑走路の跡に田んぼ。。。
平和な時代になって、よかったです。
by koume (2010-12-15 13:08)
戦時中もバタバタと大変な時期を過ぎ、戦後、間もなくも、いさかいが絶えない所だったんですね。
今は土地登記は法務局に統一されてますが、戦前、戦中は役所にあったり、町内会長の所にあったり、地主の家にあったりとバラバラで、米軍の爆撃で燃えて無くなったりするなんて事がよくあったそうです。字絵図と登記簿は別で管理されていたので、大概の土地所有者は確認が出来たのですが、戦後の混乱時期は、いろんな所からの引き上げ者など多く、登記簿も燃えて無くなったりしてるため、新憲法、新法律に沿って役所が土地登記をするさい、誰の土地がわからない土地も出てくるんです。すると先に申請した者を優先した事もあって、引き上げて来て住み着き、ここは自分の土地だと申請したりがあり、もともとの土地の所有者が同じ土地に申請したり、さらに土地を勝手に取得しようとする者まで現れて、二重三重登記という物件まで現れ、いざこざが現れました。
ここも、戦後の払い下げの開拓者と、強制収用された元地主とのいさかいですよね。
自分も職業柄、この二重三重登記で大変な目に会ってきた過去があるものですから、ここの戦後の大変さがわかりますf^_^;
by 鹿児島のこういち (2010-12-15 22:34)
現在では想像のつかないような場所に
滑走路があったんですね。
by masa (2010-12-16 17:18)
訓練のための飛行場だったんですね。
特攻のための訓練って・・・
by miffy (2010-12-16 22:51)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■tooshibaさん
確かにこれだと全然ですよね。
毎度こういうケースは撮影ポイントの特定に苦労します。
はたから見ると絶対怪しいです(o ̄∇ ̄o)
■koumeさん
そうですね~。
平和な風景です。
■鹿児島のこういちさん
>戦後の大変さ
資料を見ていると時々そういう事例に出くわします。
そういう事情があったんですね。詳しくありがとうございました。m(_ _)m
■masaさん
本当ですよね。
絶対想像つかないですよね。
■miffyさん
>訓練って・・・
確かに悲しい訓練ですよね。
by とり (2010-12-17 07:40)
空港跡地の説明板とか見ると
空港って戦争の歴史なんだなぁ...って
by sak (2010-12-17 07:41)
古墳があるようですが(^_-)
by an-kazu (2010-12-17 22:47)
■sakさん
確かに切っても切れない関係ですよね。。。
■an-kazuさん
Σ(゚Д゚;)ホントだ!
流石古墳ハンター!!
by とり (2010-12-18 07:25)