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大井(牧之原)海軍航空隊跡地 [├空港]

    2010年5月訪問 2020/6更新  

無題9.png
撮影年月日1946/05/22(USA M142-A-5No3 31) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

静岡空港の南西約4キロの所に「大井(牧之原)海軍航空隊」がありました。

先頭のグーグルマップは、現地コミュニティセンターに展示されている図から作図しました(後述)。

現在まで飛行場敷地の地割がハッキリと残っているのですが、一部消えてしまっている部分があり、

完全に線が拾えていません。

おおよそこんな。ということでご了承くださいませ。

周辺は沢が入り組んで非常に起伏に富んだ地形のため、

特に北側部分が当時の軍の飛行場としては複雑な形をしています。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:大井 建設年:1942 飛行場長x幅 米:1500x80 主要機隊数:小型10.0 主任務:偵察教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、魚雷調整場、魚雷格納庫、他ハ分散 掩体:施設アルモ数量不明


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赤マーカー地点。

周辺は茶畑が広がっています。

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青マーカー地点。

道路沿いの塀にある「大井海軍航空隊之跡」の碑。

「祈平和 昭和57年5月27日建立  大井空同釜会」ご案内(全文) この記念碑は当時の隊門の一部であり、この正面約12米の所にもう一つの門柱があって、ここを出入り口としてこの布引原全域約300町歩の敷地に元大井海軍航空隊がありました。1940年(昭和15年)4月この敷地内の小学校や200戸に及ぶ家並が立退きを指示され工事がすすめられて1942年(昭和17年)4月航空隊として発足、多くの搭乗員を訓練養成し1945年(昭和20年)4月からは特攻訓練も行われ約3000名の隊員が居たことも記録されており、周辺には地下壕や洞窟も残っております。尚当時を物語る「時鐘」や、清水市の三保海岸より引揚げられた「白菊機のエンジン」が牧之原コミュニティセンターに陳列され、また当時の写真や記録書も置いてあります。ぜひお立寄りください。大井空同釜会 楱原町牧之原区

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「記念碑から徒歩約2分でコミュニティセンター」ということで寄ってみました(黄マーカー)。=(⊃゜Д゜)⊃

内部には古老が描いた大井航空隊建設前の屋並のようすをはじめ貴重な資料、写真がたくさん展示されてました。

前述の通り、先頭のグーグルマップは、コミュニティセンターに展示の図から作図したものですが、

図には、飛行場敷地中央付近が紫に塗られており、

「この場所を航空母艦に見立てて着艦訓練を行なった」

と記されていました。

同じものをグーグルマップの作図にも含めています(紫のシェイプ)。

よく見ると航空写真にも同様の地割が残ってますね。

そしてこの紫部分の下側には、 東西方向に線が引かれ、「滑走路」と記されていました。

他の展示資料にも-

牧之原に大井海軍航空隊ができる前、それはところどころに松林のある平坦地で人々は生活していました。そして、その内訳は、勝間田で茶畑80アール、さわ山20アール、萩間100アール、菊川70アールほどだそうです。そのようなところに、「昭和15年3月」突如牧之原台地へ海軍航空隊基地が設置される事になり、横須賀海軍司令部から鳥井大佐が出張して関係4ヶ村長(六郷村・河城村・勝間田村・萩間村)を立ち会い者として関係者と交渉を始めた。所要敷地は約300町歩で、立退き戸数は200余戸であった。軍は急を要する買収立退きに関する処置、牧之原小学校の移転、航空基地建設工事の労力供給等の斡旋を4ヶ村長に託した。 対象になった民家は、1000メートル離れたところへ移転しなければなりませんでした。勿論、現在とは違いほとんど強制的な形で行われたので、抵抗することもできず、またその後の生活保障も充分とは言えませんでした。移転後、茶畑は全部扱がれました。この移転した人たちに言わせれば"お国のためとはいえ、いいことはなにもなかった"という心境ではなかったでしょうか。その一つの理由は、土地を売ったお金と新しく土地を買うお金とひきあわず、そのため、財産の約4割を捨てるような形となってしまったからです。牧之原小学校は滑走路にあたるため移転し、現在に至っています。当時あった場所は今茶畑になっています。 このような背景の中で、大井海軍航空隊の建設工事は、海軍設営隊(18歳位から30歳位までで構成)と囚人とで進められ、昭和17年3月にほぼ完成し、同年4月1日に開隊しました。 この大井海軍航空隊は、予科練や学徒が戦場へいって飛行機で戦えるように教育する目的でつくられました。そのため、整備や通信技術よりも飛行技術の教育に重点がおかれました。この牧之原に航空隊が造られた理由は、土地が高く、敷地が広かったためだと思われます。 そして、昭和20年8月15日、敗戦と同時に、この大井海軍航空隊は3年余という短命で閉鎖されました。 現在、私たちの生活の中には、交通・公害などの様々な問題があります。しかし、第二次大戦終結以来、平和な社会は維持されてきています、この平和が、苦しい戦争体験からの教育によるものであることは言うまでもないことですが、平和な時代に生まれてきた私たちは、どれほどこの平和の重要性がわかっているでしょうか。戦争について、もっとよく理解するとともに、現在の生活や今後の生き方を考えてみる必要があると思います。(大井航空隊の歴史より抜粋)

昭和15,6年頃、一人の男が毎日どこからともなく現れて不審な行動をとっているので、地元住民が警察に通報し、初めてその男が、横須賀海軍司令部から派遣されて来た空港設置調査隊員だということが分かった。昭和19年頃になると牧之原上空に米軍のB29やグラマンが飛来するようになり滑走路脇に、何基かの機関砲を設置し、銃撃されたグラマンが墜落したこともあった。飛行場建設に携わった囚人が脱走して住民がおびえたり囚人舎で火災が発生したこともあった(地元住民、談)

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「白菊」のエンジンが展示されていました。

「白菊」のエンジンについて(全文)  この天風型発動機は日中戦争の初期より終戦まで「赤トンボ」といわれた九三式中間練習機の5600機を最高に、白菊や九〇式機上作業練習機、九〇式水上機上作業練習機、九〇式陸上作業練習機、落下傘部隊訓練用の九〇式陸上輸送機等11機種、陸海軍併せて1万機以上の機体に装備された傑作発動機であります。しかし敗戦により国内に在って総ての航空機は破壊され其の姿を消し去ってしまったので今では残された写真などでその雄姿を偲ぶしかありません。今回図らずも静岡県清水市の折戸湾に40数年水没していたこの発動機が引き上げられ、大井空甲飛13期会有志と静岡市在住の甲飛14期生の協力に依り復元され戦後50年記念として設置したものであります。この発動機を整備した機体は、元大井海軍航空隊所属の機上作業練習機「白菊」で昭和20年頃この地で特攻訓練中事故にあった機体ではないかと想像されます。その搭乗員はさだかでありません。元海軍の搭乗員でこのエンジンのお世話にならなかった者は一人もいないという程の誇り高きエンジンであり、ここに設置して末永く海鷲達の栄光を讃えたいと念ずるものであります。平成7年10月吉日 大井空同釜会

名称:天風一一型発動機
形式:固定星型空冷式
公称馬力:300  標準回転数:1800
最大馬力:340  最大回転数:2100
回転方向:座席側より見て右廻り
「シリンダー」数:9  行程:150mm
「シリンダー」直径:130mm  圧縮比:5.2
発動機全長:1.109m  発動機直径:1.2360m
気化器:九号気化器
発電機:機河式9BE
起動機:慣性起動器四型
燃料「ポンプ」:歯車式
潤滑油{ポンプ}:三段歯車式
点火栓:「テルコ」T1型
爆発順序:1-3-5-7-9-2-4-6-8
着火点:上部思案点前25度
潤滑方法:強圧及飛沫注油式
燃料:A85G
潤滑油消費量:5g 毎時毎馬力(巡航毎時15ℓ~2ℓ)
燃料消費量:250g毎時毎馬力(巡航毎時60ℓ~70ℓ)
発動機重量:300kg(乾燥重量)

使用限度
出力:(最大)340HP
毎分回転数:(最大)2100  (最小)450
湯温:(最高)80℃  (最低)35℃
油圧:(最高)5.5㎏/㎠   (最低)2.5㎏/㎠

潤滑油の消費量って、こんなにひらきが出るものなんでしょうか??

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星型エンジンのアイディアを具現化した人はスゴイと思います。

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「海軍魂注入棒」

話には聞いていましたが、想像していたよりずっと大きくて太く、まるで杭のようでした。(つД⊂;)ヒイィィ


        静岡県・大井(牧之原)海軍航空隊跡地        
静岡空港とは谷をはさんでお隣同士です。標高は同じ位に見えました。周辺には静岡空港への案内表示が設置されていました

大井(牧之原)海軍航空隊 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:静岡県榛原郡勝間田村・六郷村・河城村・荻間村中原(現・牧之原市布引原)
座 標:N34°46′12″E138°08′47″
面 積:297.5ha
滑走路:1,500mx80m (「日本海軍航空史・(終戦時)」には、1,300mx250m とあり)
方 位:10/28
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1940年03月 軍と地元関係者の交渉開始
     04月 200余戸に立退き指示
1942年03月 ほぼ完成
     04月 1日 航空隊開隊
     10月 掩体壕26、弾薬、燃料などの避難壕など、勤労奉仕で急造
1944年    この頃、B29やグラマンが飛来するようになる
1945年04月 特攻訓練始まる
     08月 閉鎖

関連サイト:
Wiki/大井海軍航空隊   

この記事の資料:
現地の説明版
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
「日本海軍航空史」(終戦時)より


コメント(16)  トラックバック(0) 

コメント 16

鹿児島のこういち

鹿児島にも牧之原という地名があります。同じく高台で溝辺のお隣りになります。似てますねぇ。
もっとも鹿児島の牧之原は、現在陸上自衛隊国分牧之原演習場(今は福山演習場と言うみたい)がありますが(^O^)僕が学生の頃、車で遊んでたとこですf^_^;

大学を卒業して、就職した先で僕も大佐と似たような事してましたよf^_^;公共施設の土地買収は隠密に行わないと地上げや、業者による土地の買いあさり、そして地元一部住民の反対にあいますf^_^;
大佐もこっそりやってたんでしょうねぇf^_^;
by 鹿児島のこういち (2011-02-02 07:02) 

sak

海軍魂注入棒にびっくりです
強制的な移転や立ち退き、各地であったのですね

by sak (2011-02-02 07:20) 

鹿児島のこういち

二度目を貼ったら、一回目が復活してましたf^_^;
とりさん、すいません二度目の方は削除していて下さいm(__)m申し訳ないm(__)mm(__)mm(__)m
by 鹿児島のこういち (2011-02-02 08:41) 

Takashi

注入棒って、ドラマとかで見た事ありますけど、こんなに太くなかったような...
これでビシッてやられたら、魂がどこかに行ってしまいますよね^^
by Takashi (2011-02-02 12:35) 

ぼんぼちぼちぼち

錆びマニアなので魅入ってしまいやした(◎o◎)
by ぼんぼちぼちぼち (2011-02-02 19:09) 

コスト

ここも建設には住民の負担が大きかったんですね
戦争とはいえ、4割はでかいですね
それにしても、ここは2年前の地震で東名高速が崩れたところに近いですが、
静岡空港近いんでしたね。
>海軍魂注入棒
僕もバットぐらいのサイズだと思っていました、でかすぎですよね^^;
by コスト (2011-02-02 21:17) 

miffy

牧之原というとお茶畑しか想像できませんでした。

海軍魂注入棒、こんなので叩かれたら死んじゃいます(゚Д゚;∬アワワ・・・
by miffy (2011-02-02 22:00) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
>牧之原
不思議な共通点が多いのですね~。そこでやんちゃしてましたか(o ̄∇ ̄o)ニヤ
>隠密
そんな事情があるのですか(@Д@)
そういう体験をしておられると、こういう苦労がよくわかるのでしょうね。

■sakさん
これちょっとデカすぎですよね~(XДX)
体悪くしそう。。。

■鹿児島のこういちさん
毎度お手数お掛け致します。二番目のコメント消させて頂きました。m(_ _)m
鹿児島のこういちさんは悪くないんですから謝らないでください~。ソネブロの仕様です。

■Takashiさん
>魂がどこかに
本当ですよね~。
注入以前に。。。

■ぼんぼちぼちぼちさん
海中40年モノです(o ̄∇ ̄o)
オイラは残念ながら錆びマニアの域には達していません。
錆びマニアの方なら同じものでももっと違った撮り方になるのでしょうね~。

■コストさん
>東名高速
よく覚えていますね。そんなことがあった場所なんですか。
この周辺から静岡空港がチラチラ見えてました。近いです。


■miffyさん
確かに周辺はお茶畑でした。そういえばお茶のコマーシャルとかでこの地名出ますね。
>海軍魂注入棒
これは、「ヘマしたらこんなすごいので叩くぞ!」という視覚効果を主に狙ったものだと信じたいです。
by とり (2011-02-03 07:35) 

tooshiba

>注入棒
元軍人さんが当時を偲んで置いてみたものなんでしょうが、今そんなもので新兵のお尻をぶっ叩こうものなら。
たちまち、モンスターペアレンツが“出動”して、大騒ぎになりましょう。(^_^;

叩かれた方は一発でも気絶してしまって、水をぶっかけられて息を吹き返したところを、またぶっ叩かれて・・・なんて壮絶なリンチが行われていたりして。
(((((((( ;゚Д゚))))))))ガクガクブルブルガタガタブルブル
by tooshiba (2011-02-03 20:48) 

an-kazu

>海軍魂注入棒

魂や精神では戦には勝てませんが、現代人にはそれすら枯渇している
かもしれない・・・んー(^^);
by an-kazu (2011-02-03 22:44) 

me-co

この魂注入棒で、天誅を加えたい人物!数多!(ーー;)
ってか、ウチの職場にも置こうかな?(汗)
by me-co (2011-02-04 01:35) 

とり

■tooshibaさん
>モンスターペアレンツが“出動”
ありそうですね。少なくとも明るみに出たら大問題でしょうね。

■an-kazuさん
an-kazuさんが少し前に以前アップされた「Z旗」にもつながる話ですね。

■me-coさん
おいとくだけでも効果満点ですよね。
みんな背筋がのびそうです^^;
by とり (2011-02-04 06:32) 

Jayline

牧ノ原・私は、遊ぶと云えば、凸凹の滑走路から風貌ガラスを見つけて、「燃やして」遊ぶ経験をしています。確か、戦後から10年は経過していました。掲載されている写真の位置関係がよくわかれません。最後の訪問したのは2003年。通った小学校へ行きましたが、正門の右にある池に金網がはられ、美しさが無くという印象をうけました。当時住んでいた家も、朽ち果てながら、そのままで、私が遊んだ防水池もそのままでした。また、飛行場の端にポット建っていた「学校?」もそのままでした。 最初の写真・地畑の中の一本道も、イメージかわきません。めくれ上がったコンクリートなど、ここで遊んだなと懐古しましたが。母の姉の家は、現在も「航空隊基地後」、当時からそのままの地。私は一本松方向「大久保が実家」から車で侵入しますが、こぎれいに、アレンジしすぎていませんか?。小学校へ通った「路」も、同じ景色。バスの停留所前の「雑貨屋さんも」そのままで、驚いたぐらい。


by Jayline (2011-06-30 10:42) 

とり

■Jaylineさん
当時の様子がたくさん残っているのですね。
貴重なお話をありがとうございましたm(_ _)m
掲載されている写真の位置関係は全て、先頭の地図で「A地点、B地点」等示しております。
ご確認くださいませ。
by とり (2011-07-01 06:47) 

オヰ-101

はじめまして、地元住民です。
名前表記の記号は、当基地所属のゼロ戦です。
現在の国道473号線、仁王辻入口信号から矢崎工場まで(掘り下げてある)
掛川島田信金の東から北へ窪地に沿った両道は、内部を覗かれないようにした「防諜道路」だったそうです。
また、茶業試験場の麓にあるため池のほとりには 傷病兵の保養所があって、「湖畔の宿」と呼ばれていたそうです。
by オヰ-101 (2021-03-27 22:05) 

とり

■オヰ-101さん
いらっしゃいませ。
貴重な情報をありがとうございました。
返事が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
by とり (2021-04-03 05:48) 

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