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標津第二航空基地(川北飛行場)跡地 [├空港]

   2010年6月、2023年6月訪問 2023/7更新  


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撮影年月日1948/06/09(USA R286-No2 65) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道‎標津郡にあった「標津第二航空基地(川北飛行場)」。

標津第一航空基地の北北東約14kmに位置しています。

現在滑走路と、平行誘導路は、太陽光発電所になっています。

先頭のグーグルマップは、上に貼った1948年の航空写真と、後述する案内板から作図しました。

拾えていない線があると思います。

おおよそこんな感じ。ということでご了承くださいませ。

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青マーカー地点。

標津町を走る甲基線(道道774号線)と北7線の丁字路に標識があります。

標識に従い北7線を少し進むと-

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少し奥まった所に飛行場跡地の案内板があります(赤マーカー地点)。

案内板より:(全文) 標津町指定文化財(史跡) 標津第二(川北)海軍航空基地 掩体壕跡 平成14年8月26日指定
第二次世界大戦の末期に 日本海軍は、北海道東部から千島の防衛のために川北と中標津に航空基地を建設しました。川北の航空基地は昭和18年から測量、そして建設 が行われ、長さ1200mの滑走路、弾庫8、燃料庫10、掩体壕12、兵舎2、司令室、通信室、主計室、戦闘指揮所、地下通信場などの施設が建設されまし た。そして兵員28~35名と弾薬が配備されましたが、終戦まで軍用機が使用することはありませんでした。基地の敷地は、川北 北6線東1号を中心に約5km四方で、138戸の開拓農家が移転を余儀なくさせられました。また、基地の建設は、強制連行した朝鮮の人々などを監視のもと に厳しい労働をしいて行われ、犠牲者が出ました。軍用機を格納する掩体壕4基が集中するこの地点を文化財に指定しました。標津町教育委員会 

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同じく案内図より:こんな感じで掩体壕が現存しているはずなのですが…

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多分このこんもりしているのが掩体壕のはず(これでも分かりやすい方です^^;) 。

こういうものが道路に沿って並んでました。

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掩体壕の前の道(北7線/メロディーロード)をそのまま少し進むとこういう場所に出ます。

多分滑走路の東側。ウサギ?が跳ねてました。

ここには滑走路の舗装面が残っている。とのことだったので、立ち入り禁止でない場所から大分歩き回ってみたのですが、

結局発見できませんでした。

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後から地元の方にお聞きしたら、

「滑走路に通じる道は両方ともチェーンを張って立ち入り禁止にしている」とのことでした。

多分これかも。


(以下2023年6月撮影)

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黄マーカー地点(以下4枚とも)。

滑走路北端部分に説明版、駐車場が整備されました。

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川北海軍航空基地(全文)
 第二次世界大戦末期、日本海軍が北海道東部~千島の防衛の為、中標津と川北に航空基地を建設しました。
 川北の基地は昭和18年に基地建設のための測量が行われ、昭和19年に建設工事が行われています。長さ1,200m、巾200mの滑走路と長さ1,300m、巾120mの予備滑走路、弾薬庫8棟、燃料庫10棟、掩体壕12基、兵舎2棟、司令室、通信室、主計室、戦闘指揮所などの建物が建てられ、兵員28名が配置されていました。

川北基地配属兵士の様子
 休日には河北駅前の福助旅館にて寛ぐ。又中標津町では町中の宍戸旅館が兵士達の溜り場であった。私は川北駅前の笹谷さん、浜標津町の街道筋にあるお寺近くの小野さん方へも幾度も遊びに行きました。
 寝具は毛布2枚、食器はホーロー製の碗に竹の箸が各自に貸与され、風呂への入浴は週に一回であった。主食は豆入り
の御飯(米60%、豆40%)
 雑袋に握り飯2個、水筒、肩に小銃を掛けて、スキー板一枚を足に付け、爆弾庫監視に一人で忠類川まで雪の上を行く。春から夏にかけては徒歩で、標津原野の草蒸れにむせて監視に行く。遠足にでも行くようであった。
 2月初旬頃には兵舎の近くを流れる谷川へ上ってきた鮭を二匹ほど銛で仕留めて食した。
 4月下旬頃には谷川の水辺で6cm程のアイヌねぎを摘み食す。4月中旬にはダルマストーブ脇のバケツに活けたエゾ桜
が一足早く開花し殺風景な兵舎の室内に彩を添えた。
 6月下旬頃より対岸の穏やかな傾斜の丘に自生する蕗を刈り取って背に担ぎ帰営し、来る冬に備え塩漬けにし貯蔵す。
 7月中旬、敵艦載機(グラマン戦闘機)が滑走路上空に現れ、30キロ級程の小型爆弾を2発投下し、川北市街を機銃攻
撃して何処へとなく去る。
 8月10日広島、長崎両市に新型爆弾にて壊滅。その爆弾は"ピカドン"と呼び、後の原子爆弾。
 8月15日、司令室前の道路へ兵士全員整列し、基地長より終戦を告げられた。
 川北基地配属兵からの手紙より

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同じく黄マーカー地点。

現在飛行地区にはびっしりと太陽光発電パネルが。

ここから真っ直ぐ伸びているのは平行誘導路かと思ってたけど、説明板によれば予備滑走路でした。

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灰マーカー地点。

滑走路南端部分。


      標津郡・標津第二航空基地跡地     

標津第二航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道‎標津郡‎標津町‎川北‎
座 標:N43°40′51″E145°02′57″
滑走路:1,200m×80m(ソイルセメント) 「日本海軍航空史」より
方 位:14/32
(座標、方位はグーグルアースから)

沿 革
1943年    測量、建設開始
1945年08月 軍用機が使用することなく終戦
2002年08月 標津町指定文化財(史跡)指定

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明版
「日本海軍航空史」


コメント(15)  トラックバック(0) 
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コメント 15

春分

こうやって、朽ちて行くのだなぁ。

by 春分 (2010-10-11 08:41) 

an-kazu

本来の目的を果たすことなく終戦、
そういう箇所って多いですよね(^^);
by an-kazu (2010-10-11 08:55) 

鹿児島のこういち

戦後65年にもなるのに、指定を受けたのは8年前なんですか(-_-)
ここを文化財指定すると、強制使役を受けた方々に対して失礼と思ったのでしょうか?
もし、そうならそれこそ失礼だと思う。
戦中、日本は朝鮮、中国、フィリピンなどの近隣諸国の人々へ強制労働を課したのは事実なんです。この方々の労力があってこそ日本軍は戦う事が出来たと言っても過言ではないはずです。
もっと早い時期に、こういう経過があったんだという事を日本人みんなが知り得る状況を作っておけば、今、言われている従軍慰安婦や強制労働者の数等の問題も諸外国と日本ので大きな差が生まれなかったと思うのです。
状況をあまり知り得ず戦後生まれが増える日本。痛め付けられた事を子々孫々まで語り継ぐ諸外国。
日本では、被害者は実は言われているより少ないと言い出す人が出、中国では被害者の数が年々増すばかり。。。日本人全体が戦中の事を臭いものに栓をするみたいな事をせず、真正面から過去に対する教育をしていたら、もっと違った近隣諸国との付き合いになったと思うのです。
by 鹿児島のこういち (2010-10-11 10:34) 

takechan

すごい場所にあったんですね。なんか悲しいです。
by takechan (2010-10-11 21:58) 

sak

ウサギ、見られたのですね♪
ウサギ好きなんです
北海道でまだ見たことなくて...
ここも立ち入り禁止(/_;)
せめて連絡先とか書いていてくれて
許可制にしてくれたらいいのにって思います
by sak (2010-10-11 23:56) 

me-co

ウチの実家の近くにある東武鉄道の築堤・・・
朝鮮人の強制連行で造られたという話が伝わっています。
事実の風化は止められませんが、自由と友好が恩讐に上にあることを忘れてはならないと思います
by me-co (2010-10-12 00:41) 

miffy

立ち入り禁止の所って多いんですね。
勝手に進入されて荒らされるのが心配なんでしょうけど・・・
by miffy (2010-10-12 20:57) 

まめ助の母

広大すぎて、捜し物がみつからない…
そんなかんじですね…

ちなみに…こんなに広大な立ち入り禁止だと
私…入ってみたくなってしまいます…

うちの会社の社員旅行…
この先危険!立ち入り禁止の札…
何度踏み越えたことか…(>_<)ゞ
by まめ助の母 (2010-10-12 22:46) 

koume

このどどーんと広い風景は確かに北海道w
標津なんて、シブいトコまで行ったんですねー!
道民以外は読めない気がするw
by koume (2010-10-13 00:19) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■春分さん
まさしくそんな感じですね。

■an-kazuさん
多いですね。
結果的にはそれでよかったと思います。

■鹿児島のこういちさん
同感です。
日本とアメリカが戦争をしたことすら知らない子供たちもいるのだそうですね。

■takechanさん
特に北海道はこういう箇所が多いかもしれません。

■sakさん
多分ウサギだったと思うのですが、近づくとすぐ逃げてしまうので。
ウサちゃんにとってこの環境は天国なんじゃないでしょうか^^

■me-coさん
me-coさんのところにもそういう話が伝わっているのですか。
確かにこういう過去のことを調べると必ずこの問題が出てきますね。

■miffyさん
多いですね~。
ここは舗装面がかなり残っているらしいので是非見たかったです。。。

■まめ助の母さん
>踏み越え
本来はオイラもそちら側の人間ですよ^^
ただ、撮ってはいけない写真を載せると、必ずアラシの対象になり、
ブログ継続の問題が出るのと、今後その場所を訪れる方に迷惑がかかるので自重してます。

■koumeさん
えっへん。オイラはちゃんと読めますよ~。
「ひょうつ」ですよね。d( ̄∇ ̄*)☆\(--
by とり (2010-10-13 05:48) 

tooshiba

教育委員会の文章には異議ありです。
北海道は元議員の小林某の母体である日教組の力の強い土地柄。
当然そちらの意向も働いているでしょう。

本当に強制連行だったのか?
自らの意思で仕事を求めて来日したんじゃないのか?
南京のアレもそうだが、後から「我々は被害者ニダ!」って強請りたかりをするための演技じゃないのか?!

真相解明のための両国間の話合いとかいうのも、あっちが一方的に「歴史はこうだニダ!」って騒ぐから、日本側が内心はどうであれめんどくさいから「ハイハイ」と従っているだけのような気がしてなりません。
実にけしからんことです。

国を超えて共通の認識は、せいぜい「戦争はいけないよね」くらいが関の山であって、それすらも、勝った負けた、併合したされたで見方が違って当たり前のはずです。
それなのにですよ。
うちの政府は、いつまでも、なにをぬるいことをやっているんだか#

まずは90年代後半の金融危機のときに貸してやった金の取立てからだな。
by tooshiba (2010-10-14 01:45) 

とり

■tooshibaさん
歴史認識、領土問題は双方が「絶対こういう結論であるべき!」という強固な意志を持ってますからね。
当事者同士の話し合いで一定の結論が出ても、tooshibaさん仰るように「こちらが妥協した」という気持ちが残ったりとか。
国際裁判所みたいな第三者機関に委ねてみるのはどうなんでしょうね。
by とり (2010-10-15 07:28) 

北海道中標津より

標津町と斜里を結ぶ根北峠にある旧鉄道跡の人柱がありますが、その橋を辿れば旧国鉄の引き上げきれなかった線路のレール(純鉄)見つけ、億万長者になるために夢を追い続ける男が川北に居るそうです。
是非とも取材をお願いします。
この辺には黄金伝説や、アイヌ戦争についてもかなり多く存在するので楽しいですよ。
by 北海道中標津より (2015-05-04 23:35) 

とり

■北海道中標津よりさん いらっしゃいませ
もし機会に恵まれたら寄ってみます
by とり (2015-05-07 05:15) 

とり

■通りすがりさん
ここはヒコーキ好きのためのブログです。
コメントは削除させて頂きましたので悪しからずご了承くださいませ。
場を弁えて頂ければ幸いです。
by とり (2017-09-18 08:09) 

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