下館陸軍飛行場(陸軍宇都宮飛行学校下館分教場)跡地 [├空港]
2011年10月訪問 2022/4更新
撮影年月日1946/06/08(USA M159-A-5 85)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県筑西市にあった旧陸軍の「下館陸軍飛行場(陸軍宇都宮飛行学校下館分教場)」。
前記事の「関城ULP飛行場」の東北東約4kmにあります。
■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
の中に地図があり、先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。
地図の通りに作図したのが薄紫の部分。
南側のグレーの部分はその後拡張したのではないかと。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
「下館陸軍飛行場 茨城県真壁郡黒子村 36°16′0N 139°57′5E」
面積 南北1,380米 東西1,200米
地面の状況 概ね平坦なるも北東-南西に向け1/250乃至1/400の下り傾斜を為す、硬度は普通なるも降雨後排水稍不良に
して北東及東側の一部は軟弱と為る
目標 (記載なし)
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は南又は北を可とす
格納設備 格納庫 鉄造(42x50米)1棟 木造(38x22米)3棟、(40x30米)2棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 (記載なし)
給油設備 (記載なし)
修理設備 (記載なし)
宿泊設備 (記載なし)
地方風 年最多風向は北北西風なり
地方特殊の気象 特記事項なし
交通関係 飛行場前駅(常磐線)1粁 下館駅(水戸線)5.5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)
交通関係の項目に、「飛行場前駅(常磐線)1粁」とあります。
Wiki情報なんですが、常磐線(現・関東鉄道常総線)大田郷駅~黒子駅間にかつて野殿駅(紫マーカー)がありました。
これは1938年~1950年頃まであった駅なのですが、「飛行場前乗降場」と呼ばれた時期があったのだそうです。
先頭のグーグルマップと航空写真を比較して頂ければ明らかなのですが、
「飛行場前乗降場」から飛行場までの一本道は当時からあり、ここに飛行場の中枢がまとめられていましたので、
非常に便利だったはずです。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 下館
位 置 茨城県真壁郡黒子村
規 模 要図(南北2100 東西1100)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 二〇〇〇名分
格納施設 掩体 大三〇ヶ所
摘 要 施設軍有
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に 下館飛行場 がありました。
同資料の情報を以下記させて頂きます。
位置
茨城縣真壁郡黒子村
積量
約四十六万八千坪
地表の状況
平地にして堅硬好天の場合に於ては各機種
の離着陸支障なきも水位高く排水不良
なるを以て雨量三〇粍以上の場合は雨後二日間
は使用困難なり
周囲の状況
四周は畑地又は水田にして格納庫以外離着
陸の為障碍となるものなし
天候気象の交感
一、恒風東北但し六、七、八月は雨多く十二、一、二月には
強き西北の風あり
二、好天の場合は砂塵極めて多し
格納施設
中練十二機収容四棟同十八機収容一棟同約
五十機収容一棟飛行機工場、発動機工場其
の他工場施設を有す
居住施設
兵舎約二〇〇名収容二講堂同上炊事約一五〇
名分
交通連絡の状況
常総線鉄道あるも下館飛行場間交通機
関なし
其の他
飛行場付近に住宅なく宿泊地は下館
とす
赤マーカー地点。
滑走路方向にこんな標識が立っています。
この標識と道路を含めた写真を撮ったのですが、某政治家の宣伝ポスターがどうしても一杯に入ってしまうため没に。
同じく赤マーカー地点。
恐らくこれが滑走路跡だと思うのですが。。。
青マーカー地点。
都市センター敷地内裏手に靖空神社があり、目立たない所に碑があります。
拓魂(全文) 拓者記念碑 此の土地は支那事変及大東亜戦争中旧陸軍宇都宮飛行学校下館分教場跡地である 私達は戦後食糧増産の為め昭和二十一年二月 政府より開拓者とし開拓を初め幾多の困難を克服し戦後の食糧難を克服し現在の美田となった 中山喜八郎 昭和五十八年四月二十九日建
茨城県・下館陸軍飛行場跡地
当地区は今でも地元の方から「飛行場」と呼ばれているのだそうです
下館陸軍行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県真壁郡黒子村(現・筑西市藤ケ谷)
座 標:36°16′0N 139°57′5E
標 高:35m
飛行地区:2,100mx1,100m
滑走路:1,600m×80m
方 位:17/35
(標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1938年05月 陸軍、村長に買収予定地内示。地主との買収契約
1939年07月 1日、飛行学校の第六分教場として建設される
1944年秋 迎撃基地となる。その後特攻隊出撃基地に
1945年08月 15日 終戦
1946年02月 開拓開始
1983年04月 29日 碑建立
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
コメント 0