相馬飛行場(田鶴牧場、伊久留飛行場)跡地 [├空港]
2010年7月訪問 2022/1更新
撮影年月日1947/11/06(USA M631 38)■
石川県七尾市伊久留町(いくろまち)にあった「相馬飛行場(田鶴牧場)」。
「伊久留飛行場」とも呼ばれていたそうです。
先頭のグーグルマップは、「広報ななお」2009年8月号から作図させていただきました(下記リンク参照)。
オレンジのシェイプは、当時不足していたコンクリートの代用品として、
松、杉板材が使用された珍しい板敷滑走路部分です。
北側は「二期工事予定区域」とのことで、北端の地割が描かれていませんでした。
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 舞鶴
牧場 田鶴
滑走路 五〇×七〇〇 一,二〇〇に延長
縣郡村 石川、鹿島 相馬村
記事 七月末既成(中島社)
■「田鶴浜町史」456~458pに「相馬飛行場建設」という項目があり、
「太平洋戦争も敗戦の色濃く、二ヶ月後に終戦を迎えようとする昭和二十年、本土決戦を最後の手段と考えた軍部は、突然当町伊久留の地に海軍航空隊、相馬飛行場建設に来村した」
とありました。
青マーカー地点。
「相馬飛行場跡 昭和二十年、相馬国民学校を飛行場設営隊本部とし、学校に平行して長さ一、二〇〇メートル、幅五〇~一〇〇メートルの滑走路をもつ飛行場が八月十四日に完成したが八月一五日に終戦をむかえ、一度も利用されることなく取り壊された。田鶴浜町」
終戦の前日に完成したのですね。。。
同じく青マーカー地点。
左側の黒い説明板全文 「本土決戦が焦眉に迫った昭和二十年六月 突如この地に海軍の秘匿飛行場の建設が始められた。その名も「田鶴牧場」と称し 田植え直後の田を幅約百メートル 長さ千二百メートルに亘って埋立て その上に厚板を敷き並べて滑走路としたものであった。建設作業は小松海軍航空隊の予科練生、同軍設営隊、朝鮮出身労働者等数百人の並々ならぬ労苦と、近郷各種団体の度重なる勤労動員によってなされた。幸い 完成と同時に終戦となり戦禍は免れたものヽ いま多くの犠牲と戦争の罪過に思いを致すとき この事実が風化されることなく語り継がれ平和が永続することを願いこの碑を建てる。平成十五年三月」
右側のケースの中に滑走路に敷いた厚板と釘?と地図が展示してありました。
この厚板は2002年に地元の民家から見つかったものらしいです。
厚さ6.3cmで、迷彩模様に塗ったコールタールが杉板の表面に残っているのだそうです。
この写真だとよく見えないんですが、地図には「厚板じき約600m 完成 1,200m」とありました。
一方、「広報ななお」には、
幅約100メートル、長さ約1,000メートルの滑走路の基礎部分が出来上がった。
出来上がった滑走路(板敷き部分)は幅約50メートル、長さ約700メートルであった。
とあります。
また「広報ななお」にも地図が掲載されているのですが、
両者の地図には細部に違いがあります。
「広報ななお」には戦後について、
住民一丸となった懸命の作業により、翌21年3月には全ての作業が完了。
飛行場の面影は消え去り、何事もなかったかのような穏やかな田園風景に戻った。
とありました。
終戦から1年を経ずして飛行場の面影は消え去っていたのですね。
生きる事最優先ですから、ドコからドコまでが滑走路だったのか、多少のズレが出たって当然と思います。
上に貼った航空写真は、終戦から2年3ヵ月後のもので、これでも終戦に最も近い撮影日のものなんですが、
この頃にはもうとっくに滑走路は消え去ってたんですね。
道理で何処をどう探しても、滑走路のとっかかりが見つからない訳です。
赤マーカー地点。
この周辺は奥に向かって板敷き滑走路が続いていたはずです。
石川県・相馬飛行場(田鶴牧場)跡地
相馬飛行場(田鶴牧場) データ設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:石川県七尾市伊久留町(いくろまち)
座 標:N37°01′43″E136°53′24″
滑走路:約1,000m×100m 板敷約700mx50m(広報ななおより)
方 位:04/22?
(座標、方位はグーグルアースから)
沿
革
1945年06月 着工
1945年08月14日 完成
1945年08月15日 終戦
関連サイト:
広報ななお2009年8月号■
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
地図のオレンジ線は、よんごひんご※ですねf^_^;板敷の部材が残ってるんですね。僕ら現場では敷板っていいます。湿地や水気の多い地盤では、松板や松杭を敷板や土留めに使います。腐りにくく長持ちです。
コールタールは防腐、防蟻に使ったのでしょう。一昔前の木造の外壁は、耐火処理(モルタル塗りなど)されていない木壁で、コールタールが塗布された家屋が多かったです。
写真の金具は、釘というより、かすがいではないでしょうか?
ちなみに、鹿児島の枕崎には、板敷集落がありまして、友達に板敷さんっています(^O^)
※よんごひんご
鹿児島弁で、くねくね、ギザギザ、まっすぐしていないって意味です(^0^)/
by 鹿児島のこういち (2011-04-18 13:51)
板張りの滑走路!!
そんなものまであったとは~ビックリしましたw
終戦の前日に完成って皮肉ですね…使われないに越したことはないですが。
by koume (2011-04-18 14:01)
いつもいつも…
敗戦色濃くなってから
飛行場がたくさんつくられて…
使われないまま…
ってそんな気がしてなりませんね…
by まめ助の母 (2011-04-18 22:02)
板敷きの滑走路って離着陸し辛そうですけど・・・
コールタールを塗ってれば滑り止めになるんですね。
by miffy (2011-04-19 18:16)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■鹿児島のこういちさん
松は水に強い…と。φ(..)メモメモ
写真の金具は確かに両端が曲がっていて、かすがいかもしれないですね。
プロのご意見いろいろとありがとうございますm(_ _)m
>よんごひんご
鹿児島の方言も面白いものがいろいろありますね^^
■koumeさん
本当にいろんな滑走路がありますね~。
予定では七月に別の材料を使った飛行場をアップします^^
■まめ助の母さん
仰る通り、そんなパターンの飛行場が多いですね~。
■miffyさん
>板敷
実際のところどうなんでしょうね??
パイロットもこういう所は怖いんでしょうか。
by とり (2011-04-20 06:27)
板敷きも気になりましたけど、紙飛行機大会に目がいきました(笑)
それも平成15年の看板がそのままってw^^;
七尾ってけっこうな距離ですね、おつかれさまです☆
by コスト (2011-04-21 20:31)
>一度も利用されることなく取り壊された
8/14ってもうUNにポツダム受諾の通知して、世界では日本の降伏が
伝えれ始めた頃に完成って、それは使われないですよね^^;
終戦近くなって工事する頃にそれほど戦闘機が残っていたんでしょうか?
本土決戦用には残してあったそうですが。
by コスト (2011-04-21 20:44)
■コストさん
>平成15年の看板
第二回はあったんでしょうか??^^;
8/15は国民に終戦を通知した日ですからね。
それでも例えば当時の海軍厚木基地には、
一線級の戦闘機が数百機、数年分の武器弾薬食料があり、
「まだまだやれる! 負けなど認めん!!!」ということになってしまいました。
by とり (2011-04-22 08:02)
私は予科練、相馬飛行場を作りました。トロッコで。途中の小川に何回もトロッコごと落ちました。数年前予科練の会も相馬飛行場跡でやりました。記念碑を作った町長さんに敬礼です。個人でも、懐かしく田鶴浜駅からタクシーでぐるぐる回ってみました。
by NO NAME (2011-07-30 10:02)
NO NAMEさんの当時の貴重なお話、もっと聞きたいです。
トロッコごと落っこちるって、凄すぎないですかw(゚o゚)w
by 鹿児島のこういち (2011-07-30 22:07)
■NO NAMEさん
貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m
今でもつながりがあるのは素晴らしいことですね。
■鹿児島のこういちさん
こうして時々鹿児島のこういちさんのような方が現れて下さるというのは本当にありがたいことです。
板敷という非常に珍しい滑走路建設の話、オイラももっとお聞きしたいです。
by とり (2011-07-31 07:12)
私は相馬飛行場建設時の昭和20年、相馬国民学校4年生として在校していました。飛行場建設隊、航空機の乗員となる予科練兵隊がほぼ同時期に来村、学校のかなりの部分は軍に接収され私たちは校舎の一部やお寺へ出かけたりして勉強していました。当時は極度の食糧不足で運動場は畑になり、また学校に近い傾斜の緩い山地も畑にしていました。私たち相馬国民学校の初等科3年生(現小3年生)~高等科2年生(中2年生・最高学年)は先生に引率され、毎日のように校地の畑、山の畑にに出かけ、サツマイモやジャガイモなどを手入れをししました。ですから、勉強らしい勉強はほとんどできませんでした。滑走路に敷かれた木の板は戦闘機やトラックの重さに耐えられるような厚さが6~7センチメートルほどのもので、滑走路に敷いた後、その上に迷彩色が塗られました。飛行場の周りの入り込んだ山地には洞窟「トンネル」が掘られ、軍の非常用の味噌、米などが蓄えられていました。児童たちは早く戦闘機がやってくることを心待ちにしていました。しかし、戦闘機が一度も滑走路に降りることなく終戦になりました。当時の滑走路は水田に復元され、当時を様子をしのばせるものは何も見当たりません。当時の滑走路の縁にあたるところを田鶴浜と能登海浜道路上棚ICを結ぶ道路が設けら、自動車のなかった昭和20年当時には想像もできなかった自動車が次々と走っています。終戦が1945年、ことしは2012年、67年の年が流れました。
・当時の様子は飛行場のあった伊久留(いくろ)地区が編集発行した
「伊久留史」にかなり詳しく書かれています。
by 国民学校生 I (2012-10-24 21:35)
国民学校生 Iさん、当時の詳しい状況を読ませていただき、ありがとうございました。もしかして以前投稿されたNO NAMEさんですか?
うちの母も戦時中、学生時代に鹿屋航空基地に炊き出しに行っていたそうです。畑で採れた作物は町に売りにでかけ、自分達は残りの芋のツルや葉っぱを食べていたそうです。小さい体に薪や野菜を背負って売りにでかけてたそうです。
今思えば、とんでもない苦労をしてたのだと思ってしまいますが、当時はこれが当たり前だったそうですから、人の意識も変わっていくのだなと感じました。
by 鹿児島のこういち (2012-10-25 08:42)
鹿児島のこういちさん、私の国民学校在校時の様子をお読みいただいてありがとうございました。投稿は初めてですので 「NO NAME」さん ではありません。 「NO NAME」さんは予科練兵で、滑走路作りなどの作業をされていたようですから国民学校4年生の私たちが毎日眺めていた予科練兵さんだと思います。滑走路作りにトロッコで砂を取り出した山の地肌や 「NO NAME」さんが転落したと書かれた幅3~4mの川 は今も見ることができます。母上が食べ物などでご苦労された様子、私たちの能登でも同じでした。ご飯には大豆、大根、サツマイモ、山菜・…等々を入れて炊き、コメの消費を少なくしていました。農家は割り当てられた米の量を供出しなければなりませんでしたから大人たちは大変だったと思います。戦時体験のない今日の人たちには想像できない状況でした。豊かになった今日、先人たちの苦労の歴史を伝えていかなければならないと思います。
by 国民学校生 I (2012-10-25 13:52)
■国民学校生 Iさん いらっしゃいませ。
当時の様子を知ることが出来ました。
どうもありがとうごさいました。
by とり (2012-10-26 05:18)