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岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑 [├場所]

   2012年9月訪問 2021/7更新  

 

岩手県盛岡市の青山、月が丘、みたけ地区。

ここは明治から終戦に至るまで、広大な練兵場、兵営等があり、

練兵場全体が飛行場に設定されていました(詳しくは拙記事「観武ヶ原練兵場滑走路跡地」をご覧ください)。

先頭のグーグルマップ、町ごとに色分けしてありますが、練兵場等施設のあったおおよその範囲です。

南側の濃いグレーの四角の部分に司令部、兵営等、諸施設がありました。

この記事は、元々2012年9月に現地にお邪魔して、2012年11月にアップしてあったのですが、

その後、盛岡でステイホーム中さんから貴重な情報を頂いたのがきっかけで、

地元盛岡市立図書館リファレンスサービスで詳細な調査をして頂き、資料をお送り頂き(当記事関連は5点)、

全面的に改定致しました。

盛岡でステイホーム中様、盛岡市立図書館の兵庫様に御礼申し上げます。

どうもありがとうございましたm(_ _)m
 
この記事では、送って頂いた資料を時系列で並べてみました。
 
では早速(書籍からの引用については図書館様より許可頂いております)。

 

■1906年11月 軍隊誘致議決
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治三十九年十一月当時の岩手県会(現在の県議会)で県と盛岡市の発展のためにと軍隊の誘致を議決」

熱心な軍隊誘致活動が始まりました。

 

■1908年6月 工兵第八大隊、弘前から移駐
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治四十一年六月十五日、工兵第八大隊(昭和十一年五月三十日第八連隊に昇格)が弘前から、
周辺の農家五十戸足らずの観武ヶ原の一角(現在の国立盛岡療養所)に兵営を構え」

・「岩手の戦争遺跡をあるく」13p
「悲願が実り弘前の工兵第八大隊(のちの工兵第八連隊)が下厨川(現在青山一丁目)に移駐したのは、
日露戦争終結二年後の一九〇八(明治四十一)年だった。」

弘前から工兵大隊を迎えたのが当練兵場の始まりだったんですね。

 

■1908年9月 特別工兵演習
・「岩手の戦争遺跡をあるく」13p
「(移駐から)三ヵ月後には、皇太子(のちの大正天皇)を招いて特別工兵演習がこの地で行われ、
このとき演習場となった広大な草原を、皇太子が「観武ヶ原」と命名したと伝えられる。」

工兵演習の際に「観武ヶ原」命名がありました。

 

■1908年12月 観武ヶ原の碑建立
・「もりおか思い出散歩」p101
「戦前は、草原一帯にある建造物は兵営と厩舎のほかには、この碑だけだった。
明治四十一年十二月に建立されたこの碑は、高さ一丈ほどの立派なもので、山県有朋元帥の選文に、
 陸中国岩手山南麓之野会
 此地元無命乃焉観武原
とあり、この工兵演習のときに命名されたことが分かる。
十数年前までは、青山四丁目の拓美荘のあたりに"観武が原の碑"が立っていた。」

移駐から3カ月後に特別演習を行い、それから3カ月後には碑を建立したんですね。

この碑は、元々あった場所から移設されています(赤マーカー地点)。

それでは元々ドコに建立されたかについて、資料では「青山四丁目の拓美荘のあたりに」とあります。

「ゼンリン住宅地図2000」51番右頁にこの「拓美荘」が記載されており(現・青山月極駐車場)、

碑の元々の場所がピンポイントで特定できました(黒マーカー地点)。

因みに、明治44年(1911年)測図の地図でも地図記号でこの碑が描かれていて、

その位置は「拓美荘」と同じ場所です。

 

■1909年7月 独立騎兵第三旅団編成、騎兵第二十三連隊設営
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治四十二年七月独立騎兵第三旅団が編成されて騎兵第二十三連隊が現在の厨川中学校の所に設営されました。」

工兵大隊が移駐してきた翌年、今度は騎兵連隊が駐屯することになったのですね。

 

■1910年7月 騎兵第二十四連隊設営駐屯
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「そして翌四十三年七月騎兵第二十四連隊も現在の青山二丁目市営アパート周辺に設営駐屯したものであります。
また現在の森永乳業盛岡工場の所に独立騎兵第三旅団司令部もできました。
この旅団司令部は現在でも正門(実は御用商人の通用門)は当時のままの姿を復元されて
森永工場正門左側の方に残されて往時をしのばせており、当時の建物も一部はそのままその正門の右側に現存して、
森永乳業盛岡工場の事務室として使用されております。
古い木造の建物が新しい工場の前にポツンと取残されたように
盛岡市の指定保存木となった目通り一、五米程の直径の大きな二本のポプラの木と共に、
青山公園のすぐ左側東隣に見えています。」

1908年の工兵大隊から、騎兵第二十三連隊、二十四連隊と、3年連続で新しい部隊の駐屯が始まりました。

 

■1921年8月 郵便飛行と碑激突事故
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「民間機による初の東京、盛岡間の郵便飛行は帰還の途に観武ヶ原を滑走し始めたが、
突風にあおられて機体がかたむき記念碑にぶっつけてしまい
両翼とプロペラを大破してしまったという航空機事故までオマケとして大衆の面前で発生してしまっている。」

後述しますが、この事故で碑も傷ついてしまいました。

 

■1928年10月 陸軍特別大演習
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
「昭和三年十月には、陸軍特別大演習が行われたが、県公会堂に大本営がおかれ、
ご統監のため五日間、天皇陛下が盛岡にご滞在になった。」

天皇陛下をお招きしての大演習があったんですね。

 

■1935年 独立騎兵第三旅団 旧満州三江省に移駐
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「この独立騎兵第三旅団は昭和十年、中国大陸の風雲急を告げ緊張の高まりだしたことにより
旧満州三江省に移駐しましたが、その二十七年の長い間、軍馬にまたがりさっそうとした兵士が往き来して、
朝早くからラッパが響き、ひずめの音が絶えなかったということで、
広大な"みたけヶ原"の原野で訓練に励んでいたものであり、
最盛期には千五百人の将兵と千八百頭の軍馬を抱えていたということです。
(中略)こうして昭和十年北満え移駐したあとに、陸軍予備士官学校、戦車隊ができたり、」

 

■1939年 歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「昭和十四年には歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)」

年代ごとに分けている関係上、資料がブツ切れになってますが、騎兵隊が中国大陸に渡った後、

新たな部隊が次々設置されています。

 

■1940年 歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「翌十五年には歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)」

 

■1944年 戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「十九年には戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)」

 

■1945年 陸軍航空教育隊、電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「二十年八月十五日敗戦までの間には陸軍航空教育隊。電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊等々
あまり一般には知らされていなかった部隊が設置されていたものでありました。」

末期の時期にかけて、更に幾つもの部隊が設置されたんですね。

 

■1971年11月 碑移設
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
「観武が原の碑は昭和四十六年十一月、観武が原開拓二十五周年に際して建立された開拓記念碑の側の、
みたけ三丁目地内に移されている。 (S58.5)」

1908年に建立された碑は、激突事故発生から半世紀を経て現在の場所に移設されたのでした。

D20_0023.jpg

赤マーカー地点

ご覧の通りで碑が幾つも設置してありました。

奥手に扉が設けてあり、合法的にフェンス内に入れるようになっていました。

D20_0019.jpg

まずは一番奥にある「燕航空部隊発祥地」碑。

D20_0021.jpg

裏面はこんな感じ。

水戸陸軍航空通信学校戦技第五期生

某サイト内で、「昭和15年 水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され 通信教育と研究を移管した
戦局の要請により昭和18年8月 明野陸軍飛行学校分校が開校 水戸校は仙台に移駐した」と記されていました。

向かって真中に設置されているのは「開拓の碑」でした。
 (全文)かつて、この地は観武ヶ原(みたけがはら)と呼ばれており盛岡市の青山 月が丘、みたけ地区一帯、約三百五十ヘクタールは、旧陸軍の兵舎・練兵場として使用されていた。終戦後の昭和二十年、この地区を一大食糧生産基地とする構想がたてられ、当時の引揚者や復員軍人、一般の入植希望者などを中心とした開拓団が作られた。昭和二十三年観武ヶ原開拓農業協同組合が認可され、本格的な開墾が始まり入植者数は九十九戸であった。この地は 岩手山からの火山灰に覆われた荒野で開墾当初は電気も水道もなく、朝に星を、いただき、夕べは月と共に働き、明日を夢見ての汗と涙の毎日であった。収穫らしい収穫があがったのは開拓十年目位からであったろうか。昭和三十年代後半になり開拓の歴史は一大転換期を迎え、青山地区と、みたけ地区の団地造成が始まり、都市化の兆しが見られるようになったのである。更に昭和四十五年の岩手国体誘致による公共施設の建設が拍車をかけ、大きな変貌を遂げて一大団地として生まれ変わったのである。食糧生産基地としての夢は消えたが、現在の都市化へと進展し、多くの人々の安住の地になったのも一つの歴史の流れであった。 平成十七年十月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合

D20_0031.jpg

当練兵場の生い立ちを語る上で決して欠かせない「観武ヶ原の碑」。

1921年に郵便飛行機が離陸滑走した際、この碑が傍にありました。

ヒコーキが激突し、碑が破損してしまってからほぼ百年経つのですね。

D20_0035.jpg

一部色が違っていますが、激突事故で大きな傷ができ、欠けて読めなくなってしまった部分を補修した跡のようです。

びっしりと漢字が並び、あまりにも格調高くてオイラには読んでみようという気も失せる文体なのですが、

幸いなことにオイラのような者のために訳の碑も設置されています(写真左手前の碑)。

[大意]観武ヶ原命名の碑(全文)
 明治四十一年九月、工兵第二、第七、第八大隊と第八師団の歩兵が参加して岩手県の岩手山南麓地方で特別工兵演習が行われた。そのとき皇太子殿下の巡遊があり奥羽を回る途中、日を重ねて臨戦された。ありがたくもこの無名の地を、観武原と命名された。攻守の状況を親しくご覧になられた上に、このような佳い名をいただいた。将兵の栄与、村里の誉これ以上のものはない。そこで演習の総監であった、陸軍中将男爵上原勇作等この演習に参加しかかわった将士が相談して皇太子殿下が臨戦された土地に碑を建て後の世に伝えることにした。文章は有朋に依頼された。有朋は皇太子殿下のおそばでともに臨戦したことでもありこの文を謹んで書き述べた。平成十六年六月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合

皇太子殿下が当地で行われた演習をご覧になり、この地を観武原と命名したことを記念した碑なのですね。

如何に皇太子殿下が相手であるとはいえ、オイラにはあまりに遜り過ぎ、当地を卑下しているような印象を受けました。

これも時代なのだろうなぁと思ったのですが、

この地は元々戊辰戦争に破れたため賊軍の汚名を着せられることとなり、

盛岡藩出身者は明治新政府の中で重要なポストに就けませんでした。

また、「白河以北一山百文(白河より北の地は価値がない)」などと馬鹿にされていたのだそうで、

軍の大規模施設の誘致はそうした汚名を返上する絶好の機会と捉えられていたのだそうで、

そういう背景を持つ当時の人々にとって、皇太子殿下の視察、命名というのは

今のオイラには想像もつかないようなことだったのでしょうね。

 

尚、この訳が記された碑は右隣に元々の一部破損してしまった石碑の原文も記されていて、

そちらの分の末尾には、

「明治四十一年十二月
元師陸軍大将正二位大勲位功一級公爵
山縣有朋謹撰文竝
篆額 内大臣秘書官従六位勲五等
日高秩父敬書」

と刻まれていました。


      岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑      

沿革
1906年11月 軍隊誘致議決
1908年06月 15日 工兵第八大隊弘前から移駐
     09月 皇太子を招き特別工兵演習実施。演習場を皇太子が「観武ヶ原」と命名
     12月 皇太子殿下視察の記念碑建立
1909年07月 独立騎兵第三旅団編成、騎兵第二十三連隊設営  
1910年07月 騎兵第二十四連隊設営駐屯
1921年08月 21日皇太子殿下視察の記念碑に郵便飛行機がぶつかり破損
1928年10月 陸軍特別大演習
1935年    独立騎兵第三旅団 旧満州三江省に移駐
1939年    盛岡陸軍予備士官学校創設、歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)設置
1940年    歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)設置
1944年    戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)設置
1945年    終戦までに、陸軍航空教育隊、電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
     08月 終戦。一大食糧生産基地として開拓団結成される
1948年    観武ヶ原開拓農業協同組合認可。本格的な開墾始まる。入植者数99戸
1971年11月 観武ヶ原の碑、現在の場所に移設

関連サイト:
ブログ内関連記事
     

この記事の資料:
現地の碑文
盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩 盛内政志著 岩手日報社出版 平成元年5月29日
ゼンリン住宅地図2000 株式会社ゼンリン出版 1999年11月
ゼンリン住宅地図岩手県盛岡市 2 株式会社ゼンリン出版 2019年10月
風雪 青山三十年の足跡 喜多武志編著 昭和52年1月15日
岩手の戦争遺跡をあるく 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部出版 2006年3月30日


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コメント 27

an-kazu

戊辰戦争まで遡ることになるとは・・・φ(..)メモメモ
by an-kazu (2012-11-06 22:34) 

鹿児島のこういち

陸軍の燕航空部隊と聞いたら、戦闘機の飛燕を考えたのですが戦時中は三式戦闘機と呼ばれていたので(飛燕は戦後に呼ばれた名前)こことは関係ないのかなって思っちゃいました(^^ゞ
明治の頃の皇太子殿下ですので大正天皇のことですよね。大正天皇は聡明な方で漢詩が得意な方で側近にも薦めています。ですから碑も漢文になるのだと思います。大正天皇は病気で頭の弱い人と一般世間で言われてたようですが、この噂は言論の自由がうたわれてからの話しで、どうも平和主義者で先進的な考えを持つ大正天皇が邪魔でしようがない軍部と一部の政府関係者による情報操作のようです。僕の想像ですが碑に飛行機が接触するのも陸軍飛行場での話しで、わざと接触破壊しようとしたのではないかと思ってしまってます。

by 鹿児島のこういち (2012-11-06 23:06) 

miffy

飛行機がぶつかって破損ですか・・・
どんなぶつかり方をしたのか不思議です。
by miffy (2012-11-06 23:51) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■an-kazuさん
こんなにさかのぼる話になるとはオイラもビックリでした。

■鹿児島のこういちさん
飛燕は戦後に呼ばれた名前なのですか。知りませんでした。
他にもそういうケースはあるのでしょうか?

皇太子殿下の奥羽巡遊についての碑を故意に破壊とだけ聞くとあまりに荒唐無稽に思えるのですが、
そういう背景を考えるとあり得る話かなあと思えてきますね。
今回もまた知らない話をいろいろお聞きすることができましたm(_ _)m

■miffyさん
本当ですよね~。
こんな脆いもの、バラバラに砕け散ってしまいそうな気がするのですが。。。
という訳で、上の鹿児島のこういちさん説が浮上してくるわけですね。
by とり (2012-11-07 06:14) 

盛岡でステイホーム中

はじめまして。
以前から貴ブログをチェックはしていましたが、コメントをまとめるほど手元に資料が無くて遠慮していました。しかし、こういうご時世で時間もありますので(笑)、観武ヶ原練兵場で推定される位置について書かせていただきます。

ところで、どうして1,500メートルもの滑走路が必要なのでしょうか。
私はあまり飛行機に詳しくなく、昨年放送のアニメ『荒野のコトブキ飛行隊』でレシプロ戦闘機を知ったくらいなので本当に分かりません。戦後、GHQが盛岡市南部の国道4号線上に「見前滑走路」を設置し、軍用セスナ機が往来していましたが、わずか400メートルほどでした。
ですから、1,500メートル確保するということはそれなりに大きな飛行機の往来を想定してると思うのですが、それに適した場所はありません。だったら、並行する陸羽街道(現:国道4号線)を使う方がよほど効率的ではありませんか。

まずは、この地図をご覧ください。
https://purl.stanford.edu/qc182ky7026

その北側も気になるのでしたら。
https://purl.stanford.edu/sp899zr1983


貴ブログでA地点としているその先にはサミットがあり、数メートル登っては下ることになり、滑走路としては適していないのではないですか。

もっと大事にしてほしかったのが、
>以下、飛行場場所特定とは直接関係ないのですが、向かって右側に上の大きな石碑があります。
の部分です。
>1921年の東京〜盛岡郵便飛行の際、飛行機がこの碑にぶつかった
とご自身でも記しているではありませんか。

つまり、この碑があった場所こそ滑走路の近くと推定されませんか。
滑走路といっても観武ヶ原のデコボコした草地だったとのことですが。

その場所とは、二万五千分一地形図「厨川村」(qc182ky7026)の、「偕行社」の北、「原武観」の文字の右にポツンとありますよね。
そこです。

次に、どちら向きに建っていたのかを特定しなくてはなりません。
貴ブログの画像「D20_0031-5d32e.jpg」によると、文字面に向かって左側がやや高いですね。

下記のサイト、
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/58/sort/1a/filter_id/5100

で、「観武ヶ原演習場記念碑」(Xc7171)を拡大してみると、岩手山を背景に右上がりに写っていることから、文字面は西を向いていたことが分かります。

『もりおか物語 前九年かいわい』という書籍によると、「郵便飛行機が東京から飛んで来たので大歓迎したが、すぐに引き返そうとして、滑走はじめていざ離陸しようとしたその瞬間、滑走路脇の記念碑に激突してしまった」という証言と、衝突事故現場の写真が載っています(103頁)ので、ぜひ盛岡市図書館でご確認下さい。
合わせて、盛岡市図書館所蔵の「みたけ 開拓者の記録」もぜひ閲覧を。その20頁に「観武原をほゞ東西に長く伸びている滑走路に向い、」
という一文が載っています。

「原武観」の文字の辺りは等高線の幅も広く、ほぼ平地だったと思われ、滑走路に適していますよね。

by 盛岡でステイホーム中 (2020-05-05 00:58) 

とり

■盛岡でステイホーム中さん
移設前の観武ヶ原の碑が滑走路脇にあったこと、
それから、滑走路がほぼ東西方向だったこと、
まったく知りませんでした。
これでおおよその滑走路位置が特定できます。
今度盛岡にお邪魔した際、教えて頂いた書籍も調べてみようと思います。
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
頂いたコメントで生じた疑問点、教えて頂きたい点があり、以下記させて頂きました。
差し支えなければご教授いただければ幸いです。

盛岡でステイホーム中さんご指摘の碑の場所に飛行場があったのは間違いないと思うのですが、
その一方で、今から約10年前のまちBBS等には、
「滑走路跡は県営運動公園東沿いの直線道路になっている」
という情報があり、
1948年の航空写真でも確かに公園東沿いに、いかにも滑走路的な地割があり、
長さも十分1,500mとれるため、オイラはここが滑走路だったのではないかと思いました。
盛岡でステイホーム中さんは、A地点からの標高のことを仰っていますが、
現在ここから滑走路端と思われる箇所までの標高は9.5m上っており、1/105の傾斜です。
滑走路の傾斜としては強めの部類に入りますが、
当時これよりずっと傾斜のきつい飛行場はいくらでもありましたので、
この程度の傾斜を以って、「ここに滑走路はあり得ない」ということにはなりません。
(盛岡でステイホーム中さんご指摘の「A地点先のサミット」って、何処のことでしょうか?)
以上の通り、運動公園の所に1,500m滑走路があったとする情報があり、
終戦から3年後の航空写真で証言通りの地割が認められます。
これを完全に否定し、無かったことにするためには、それなりの根拠が必要と思います。
そのため現時点でオイラは、
碑があった現在の青山4丁目と、公園東側の2ヶ所に飛行場があったのではないかと思います。
(練兵場内に2つの滑走路という例は他にもあります)

当初碑のあった現・青山4丁目周辺の地理院航空写真は1948年が閲覧可能な最古のものとなっております。
終戦から3年程度の経過ですと、滑走路等の地割が何かしら残っていることが多いのですが、
該当地周辺はオイラが見る限り滑走路の地割はすっかり消え去っており、
飛行場として使用しなくなって久しく見えます。
加えてこの場所は、教えて頂いたリンク先の地図で見ると、拡張は困難なように思います。
頑張っても直線距離で600m程しかとれないのではないかと。
事故が発生した1921年当時は碑の場所の広さでも良かったでしょうが、
その後の航空機の発達と共に手狭となり、この場所では拡張も困難なことから、
もっと広い場所を求めて東側に新たな滑走路を建設した、
若しくは移動したのではないか。というのがオイラの考えです。
盛岡でステイホーム中さんは1,500m滑走路について、その必要性に疑問を呈し、
「それに適した場所はありません。」と断言しておられますが、
そう断言するに足る根拠は何でしょうか?
ご教授頂ければ幸いです。

これは多分にオイラの憶測を含む余談なんですが、戦時中全国各地に造られた飛行場について、
日本陸海軍が作成した様々な資料が残っております。
その資料の中では飛行場内、飛行場周辺数キロにある障碍物について、
山は言うに及ばず、柵、立木、煙突等に注意喚起する記述が含まれていることが多く、
障碍物に如何に神経を使っていたかが窺えます。
盛岡でステイホーム中さんは、
「碑があった場所こそ滑走路の近くと推定されませんか。」と書いておられますが、
オイラはこれまで滑走路の脇に障碍物があるというケースを見たことがありません。
これまでの事例で言えば、「碑があった場所こそ滑走路から遠い」のです。
当時からこれを危惧する人は居たはずで、皇室に関わる碑であることも相まって、
事故発生時は、「それ見たことか」という思いだったはずです。
もしかしたら、この事故も新たな滑走路建設への動きに繋がったのではないかと。
この事故が航空黎明期に発生したものであることからすると、
「碑の脇に滑走路を設定したため、こんな事故が起きてしまった」
という、その後の飛行場建設の教訓となったかもしれません。
by とり (2020-05-06 10:40) 

盛岡でステイホーム中

まずは、便利なサイトを紹介します。(既にご存知かもしれませんが)
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html

さて、1,500m近くの滑走路を必要とする飛行機って何を目的にしていたのでしょうか?戦闘機くらいの駐留でもそんなに必要なのですか?
これでは否定になりませんでしょうか?(笑)

但し、1,500m滑走路建設の噂が立ってもおかしくない時期は確実にあったと思います。
このあたり、文集「みたけ 開拓者の記録」(観武原開拓農業協同組合,1967)頼りになるのですが、観武ヶ原を開拓しようとした時にGHQからストップが掛かったことがありました。練兵場跡を臼砲の対撃試験地に使いたいという理由からでした。
結局、開拓団長が上手く根回ししてこの話は吹っ飛んだわけですが、もし試験地とされていたら大型輸送機の離発着に必要だったかも知れませんね。

1945年8月17日に終戦処理の命令を携えた97式戦闘機1機が東西に伸びる観武ヶ原の滑走路へ着陸した直後に滑走路を外れ、機体はプロペラを下に逆立ちとなり、操縦していた飛行軍曹が絶命したそうです。(文集「みたけ」より)
きっとこれが滑走路最後の着陸で、その翌々日には練兵場の至る所に妨害物が置かれていて着陸不可能だったそうです。
http://www.sekiou-ob.com/100820ozawa/tiyosiyoyor.html

なるほど、滑走路周辺に障害物はあり得ないんですね。
ということは、私が想定した場所よりも更に南側だったのかも知れません。でもなぁ、1945年6月29日に撮影された空中写真を見ると、実は分からなくなるのです。
昔、某サイトで米軍が偵察撮影した空中写真が販売されたことがありましたが、その時にちょうど盛岡周辺が見本とされていて、その画面をハードコピーして保存しているんです。

URL欄に私のメルアドを記しておきますので、連絡いただければと思います。


by 盛岡でステイホーム中 (2020-05-06 16:52) 

とり

■盛岡でステイホーム中さん
URL欄にメルアドを記して頂いたとのことですが、
エラー表示になってしまい、確認できませんでした。すみません。
1,500という数字が大分ネックになっておられるようですね。
この数字をどう見なすかについて、以下思いつく点を挙げてみます。

■長さの相場
盛岡でステイホーム中さんは最初のコメントで、米軍の400m滑走路を挙げておられましたが、
これを基準にするなら、確かに1,500という数字は荒唐無稽なものに見えますね。
米軍は戦後日本各地で連絡用の簡易飛行場を建設/設定しましたが、
400mは最短の部類で、そのほとんどは500~1,000mです。
一方の日本軍は、戦争末期に本土決戦に備えた飛行場を各地に多数建設しました。
使用するのが主に小型機であること、資材不足、一刻も早い完成、秘匿性等の点から、
これらの飛行場は可能な限りコンパクトであることが求められましたが、
それでも滑走路の長さは800mが標準でした。
そこまで切迫していない時期に建設された飛行場の場合、今回改めて資料を見返しましたが、
小型機による作戦が主任務の飛行場でも、1,000~1,500mはザラにあります。

■使用機
当地で具体的にどんな機種が使用されていたのか、オイラは残念ながら知らないのですが、
機種を推測する手掛かりとして「燕航空部隊発祥地」碑があります。
この碑文に「航空通信」という言葉があり、
幾つかのサイトでは、当地で通信教育隊、航空教育隊などが置かれたとあります。
仮にここで飛行のイロハを教育していたとすれば、
不慣れな訓練生のため、使用する練習機の性能より滑走路はずっと長く設定するのが通例であり、
教育用の飛行場は、1,500mかそれ以上であるのが普通です。
教育訓練用に建設された北上市の後藤野飛行場が「日本一広い」とされているのはご存知かと思います。
ここからは完全に憶測の話なんですが、この「航空通信」のために、
教育用の専用ヒコーキが使用されていたとすれば、そのヒコーキは通信機器を積み、
教官と生徒が搭乗する、戦闘機よりも大きなものだったかもしれません。
これに相当する陸軍機をオイラは知らないのですが、
海軍では、機上で通信を含む種々の練習をする専用機白菊があり、
この機は零戦や隼より一回り大きなものでした。
この機による教育を目的に建設された日章飛行場(現在の高知空港)の滑走路は1,500mでした。
盛岡でステイホーム中さんは、ここで使用していたのは戦闘機であることを前提に
話をされていますが、それは何か根拠があって仰っているのでしょうか?

■勘違い
演習場内に飛行場が設けられる場合、オイラがこれまで見た限りでは、
飛行場の管理者は演習場主管であり、演習場主管と航空隊側の間で、
「飛行場として、ここからここまで使っていいですよ」と
範囲が明確に定められ、その範囲内に滑走路の他、格納庫、整備場、宿舎等の付帯施設が設けられました。
そしてこれは演習場に限ったことではないんですが、
地元の方が付帯施設のあった範囲も滑走路の長さに含めてしまい、
その数字が地元郷土史に載り、孫引きで正式な滑走路の長さとして流布、
定着してしまったと思われる例が結構あります。
実は当地の公園東側の滑走路らしき地割も、北側は滑走路っぽい地割がハッキリしているのですが、
南側は曖昧になっています。
転圧式の場合、すぐに滑走路の境界が消えてしまいがちであることも含め、
ここでもそうした勘違いがあり、実際にはもっと短かった可能性はあると思います。


>1,500m近くの滑走路を必要とする飛行機って何を目的にしていたのでしょうか?
>戦闘機くらいの駐留でもそんなに必要なのですか?
>これでは否定になりませんでしょうか?(笑)
上述の通り、戦闘機でも1,500m滑走路は決して珍しくありませんし、
飛行教育訓練用とすれば、1,500は普通かむしろ少し小さ目の部類です。
末期の時期でさえ、結局未完、候補地留まりながら、中型機による作戦任務用の飛行場として、
2,500~3,000m滑走路の建設計画が複数ありました。
盛岡でステイホーム中さんの疑問に直接答えるならば、
申し訳ないですが、オイラにはこれを否定の根拠とは、とても受け入れられませんね。

実は、改めて検索してみても、「当練兵場に1,500m滑走路」という情報は出てこず、
手持ちの資料からも確認がとれないため、「絶対に1,500m滑走路があった!!」
と信じ切っている訳ではありません。
正直に書きますと、オイラの記事の中でも、当地は根拠の非常に薄い部類に入ります。
オイラは拙ブログで、先人の苦労を可能な限り正確に記事にしたいです。
オイラの記事が誤っていることを示す状況証拠や出自の確かな根拠があれば、
これまでもそうでしたが、喜んで記事を修正するつもりです。
ですので、今回盛岡でステイホーム中さんから未知の滑走路の存在を教えて頂いたことは、
大変感謝しております(「見前滑走路」も全く知りませんでした)。

但し公園東側の1,500m滑走路に関しては、
「1,500mも必要なんてあり得ない」という主観を根拠とするよりも、
上述の相場や使用機についての情報から、現時点では、1,500mとそのまま受け取るのが最も合理的であろう。
というのがオイラの考えです。
こちらとしても、その程度の薄い根拠しか持ち合わせていませんので、
オイラの意見に同意して頂けないとしても特に気にしませんが、
失礼ながらオイラには盛岡でステイホーム中さんが、
何が何でも1,500m滑走路の存在を認めたくないように思えてなりません。
ここに1,500m滑走路があると何か困ることでもおありなんでしょうか?
by とり (2020-05-07 04:43) 

とり

■盛岡でステイホーム中さん
コメント削除させて頂きました。
ご連絡頂きまして、ありがとうございました。
by とり (2020-06-09 14:43) 

いちろう

岩手県在住のいちろうと申します。米軍側の資料を基にあちらこちらの空襲のことを趣味で調べています。非常に充実した内容にいつもお世話になっております。ありがとうございます。1945年8月9日、10日を中心に岩手県内の空襲被害のことをまとめようとしていますが、こちらの記事のやり取りに興味を抱きました。国会図書館資料 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4005114 の4コマ目に東経141度7分 北緯39度44分の飛行場を攻撃し、航空機10機を破壊した記載があります。この位置はまさにみたけのところになります。もしかすると参考文献の中に書かれているのかもしれませんが、ここに飛行場があったことは地元では知られておらず、また、戦争に関する郷土資料にも書かれているのを見たことがありません。上記の滑走路1500メートルに何か資する内容かもしれないと思いましたので、お知らせいたします。
by いちろう (2020-12-21 10:39) 

とり

■いちろうさん
この資料、オイラも探していたんですが、どうしても見つけられませんでした。
運動公園側にあったことを示唆する資料ですね。
大変苦労して見つけたものだと思います。
今週末にじっくり拝見して、記事に反映させていただきます。
貴重な資料をどうもありがとうございました。
また何かありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
by とり (2020-12-22 08:25) 

いちろう

 とりさま、ご返信いただきまして、大変ありがとうございます。私は花巻在住で、8月10日の花巻空襲のことを主に調べているのですが、同日の県内各地の空襲と時系列的にまとめてみようと思い、改めて今回紹介した資料も読んでみました。今まで関心がなかったのですが、未知の飛行場が盛岡にあったことに大変興味を覚え、いろいろ調べているうちにとりさまのサイトにたどり着きました。盛岡の飛行場のことを話題にされているのを知り、改めてすごいサイトだなあ、と感じました。花巻にも不時着陸用滑走路があり、これも一般には知られていませんが、あちらこちらに秘匿飛行場や滑走路などを作っていたことがしのばれます。日本側の資料がとても少ないのが残念ですが、米軍資料から追えるところを調べていきたいと思っています。

by いちろう (2020-12-22 09:52) 

いちろう

度々失礼いたします。上述の緯度経度から道なりに北西に1500メートルを取り、国土地理院のシステムで断片を見たところ、ほぼ150メートル高のフラットな断片が取れました。ご参考までに報告いたします。

by いちろう (2020-12-22 14:50) 

いちろう

すみません。↑「断面」が正しいです。
by いちろう (2020-12-22 14:55) 

とり

■いちろうさま
これだけ詳細な米軍の公式記録を突き止めておられますので、
情報を時系列にまとめれば、空襲について今までとは全く異なる視点から、
見ることに繋がり、地元にとって非常に貴重な調査と思います。

いとうさまは花巻にお住まいなんですね。
花巻は防空監視哨跡と、空港でお邪魔しましたが、
不時着陸用滑走路があったとは、全く存じ上げませんでした。
もしよろしければ、花巻の不時着陸用滑走路について、
ご教授いただければ幸いです。

標高の情報もありがとうございます。
この周辺は意外と起伏があるんですよね。
興味深い情報を幾つもありがとうございました。
by とり (2020-12-22 19:06) 

いちろう

 再びのコメント、ありがとうございます。複数の作戦報告書を読んでいますと、1945年8月10日の早朝から、後藤野飛行場を中心に攻撃が始まり、後藤野の臨機目標がどんどん少なくなっているのが伺えます。この日の最後の攻撃となってしまったのが、後藤野を目指す22機の艦載機ですが、既に主だった臨機目標が失われ、結果として花巻が臨機目標として攻撃されることになった、という結論が見えてきました。
 さて、不時着陸用滑走路のことですが、今90歳くらいの元教員の方の証言で、裏付け資料を探そうと思っていて、そのままにしています。この方は当時の花巻農学校に通っていて、通学路となっていた道路が滑走路だった、と聞いていました。花巻農学校は現在の花巻市文化会館のところにありましたが、ここから北へ一直線の道があります。戦後の米軍航空写真でもその軌跡がはっきり残っています。距離にして900メートルで、後藤野が使えない場合の滑走路とその先生は聞いています。とりさんが訪れた防空監視哨の近所です。何か関連があるのかもしれません。
by いちろう (2020-12-23 09:05) 

いちろう

既読かもしれませんが、こういうサイトを見つけました。
 http://www.sekiou-ob.com/100315_glider/top.html
by いちろう (2020-12-23 10:45) 

とり

■いちろうさん
まとめてで失礼致します。
年末進行で大変なことになっております(XДX)
いただいたコメント、資料は、週末にじっくり拝見させて頂きます。
申し訳ありません。


by とり (2020-12-24 17:47) 

いちろう

 いえいえ、かえって恐縮しております。ゆっくりとご覧くださいませ。
by いちろう (2020-12-24 18:06) 

とり

■いちろうさん
先ずは教えて頂いた座標情報について、下記の記事の最後の項目
■岩手県営運動公園 にまとめさせていただきました。
https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/kiheirentai-airfield
情報ありがとうございました。
一つ質問なのですが、
"10 S/F destroyed on field"の中の"S/F"について、
何の略号かご存じでしたら教えて頂けないでしょうか?
文脈からしていちろうさんがお書きの通り、破壊した「航空機」を指しているのは
間違いないと思うのですが。。。
by とり (2020-12-27 08:39) 

いちろう

ご紹介した資料に基づいて再度まとめてくださり、大変ありがとうございました。この作戦報告書を探されていたことを知り、経緯を納得いたしましたが、意図しないでこの資料を提供することができ、奇遇なことだなあ、と感じています。S/F という略号ですが、Sea、海 に関係する略号の可能性はあります。(例:Sea Base, S/B)ただ、ここは内陸ですので、Seaに関係していないと思います。この報告書の別のところではA/C,すなわちAir Craftと記されていますので、A/Cのタイプミスではないか、と考えています。これらの文字はキーボード上でとても近いです。米軍の作戦報告書は一次資料としては大変貴重ですが、ときどきケアレスミスがあるのを見つけています。
by いちろう (2020-12-27 10:14) 

とり

■いちろうさん
資料のご提供ありがとうございました。
見た瞬間、これだ!と思いました。
略号についてもありがとうございました。
タイプミスは確かにあるかもしれないですね。

頂いた花巻の不時着陸用滑走路の情報から、作図してみました。
オイラはこんな感じかと思ったのですが、この位置で合ってますでしょうか?
お手すきの時ありましたら、ご確認頂ければ幸いです。
https://airport1111.blog.ss-blog.jp/hanamaki-emergency_landing_field
by とり (2020-12-27 12:19) 

とり

■いちろうさん
ご紹介頂きました岩手中学滑空部のサイト様ですが、
このサイト様内の別ページの情報を活用して、
記事作成、滑空場の作図をさせて頂いております。
https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/ousyuku-gliderfield
by とり (2020-12-27 12:29) 

いちろう

とりさん、お忙しい中、重ね重ねありがとうございます。私がお聞きした花巻の不時着利用滑走路は作図のとおりです。今、花巻の西武は住宅地となり、道路がずいぶん整備されていますが、起点となったのがこの道路のようです。この滑走路については証言しかなく、裏付けになる資料を見つけたいと思ってはおりますが、手付かずです。防空監視哨の整備は当時の花巻町で行われており、予算書にもあります。この道路についても同様ではないか、と思っていますので、来年の課題としたいと思います。
 米軍作戦報告書のケアレスミスの例としては、花巻空襲の写真のキャプションが最初、「尾花沢」と書かれ、次に「一関」と直されていましたが、鑑定の結果、「花巻」が正しいものとなりました。また、小山飛行場の報告書でも座標の記載が間違っていると考えられる例もあり、岩手県内のものでも複数確認できています。一次資料であっても油断せず、批判的に読み解く必要があることを痛感しています。
by いちろう (2020-12-27 14:12) 

とり

■いちろうさん
花巻の情報ありがとうございました。
来年現地にお邪魔してみようと思います。
また何か判明しましたら、ご教授いただければ幸いです。

オイラは防衛研究所で撮影した日本軍作成の資料に触れる機会が多いのですが、
やはり稀にミスがあります。
国会図書館デジタルコレクションには、日本軍作成の資料を米軍が翻訳したものが多数ありますが、
ミスがそのまま受け継がれているケースもあるかもしれません。
どんな資料でも鵜呑みは怖いですね。
by とり (2020-12-27 15:05) 

いちろう

 そうですね。一度活字になってしまうとそれが事実として独り歩きしてしまいます。歴史の調査に関わっている者としてはいつも注意しなくてはならないと思っています。こちらにお出でになられる際にはぜひ、お手伝いしたいと思います。

by いちろう (2020-12-27 15:53) 

とり

■いちろうさん
どうもありがとうございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
by とり (2020-12-27 18:06) 

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