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昭和飛行場跡地 [├空港]

   2010年3月、2021年10月、2022年4月訪問 2023/1更新   


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撮影年月日1940/02/16(C0 C2 98) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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1/25000「拝島」昭和12年修正「今昔マップ on the web」より作成
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1/25000「拝島」昭和24年修正「今昔マップ on the web」より作成

東京都西部の昭島市。 

ここに戦時中、「昭和飛行機工業」の工場と飛行場がありました。

防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の付図がありました。

その付図と、1947年の航空写真(上に貼った写真じゃない)を参考に作図したのが先頭のグーグルマップです。

飛行場北側は玉川上水が敷地境界になっています。

そしてこの玉川上水を越えて北側が「拡張予定地」になっていました。

グーグルマップで見ると、拡張予定地と西武拝島線が重なってますが、

この区間が開通したのは1968年なので、当時はまだありませんでした。

ということで、玉川上水を越えて飛行場敷地を広げる予定があった訳ですが、

滑走路延長線上に当たる水路部分には「コンクリート覆蓋」が設けられ、水路が覆われています(紫、黄マーカー)。

飛行場の西側には、後述しますが、「昭和飛行機工業」があります。

上記資料に当飛行場の情報がありました。

以下引用させて頂きます。

第10 昭和飛行場 (昭和17年12月調)

管理者 昭和飛行機工業株式会社。
位置 東京府多摩郡昭和町、拝島村地内。
   (立川市の北西方4.5粁、北緯35°43′0、東経139°22′0)。
種別 非公共用陸上飛行場。

着陸時用の状況
高さ
 平均水面上約110米。
広さ及形状
 本場は長さ南北最大1,518米、幅東西600米の略四辺形地域に更に北方玉
 川上水堀(幅東西300米は覆蓋す)を距てて長さ東西550米、幅南北200
 米の拡張予定地あり・着陸地域は概ね図示の長さ南北1,120米、幅東西
 150乃至350米の南北に細長き地区なり(付図参照)。
地表の土質
 尋常土。
地面の状況
 地表は極めて平坦なるも南方に向け1/250の下り片勾配を為す・滑走地区は
 「ローラー」を以て地盤の沈下極限迄転圧整地せるを以て極めて堅硬なり
 ・一面に良好なる植芝密生す・降雨後の排水良好にして乾燥速なり・日射
 に依る地面の影響なく冬季稍霜柱の発生を見るも大なる影響なしと言う・
 滑走地区以外の概ね図示の地域は夏季雑草繁茂せる未整地にして且地盤軟
 弱なるを以て使用せざるを可とす(付図参照)。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北又は南を最適と認むるも無風時は北方より着陸するを可とす。
離着陸上注意すべき点
 場の南端に沿い高さ9.2米の電気軌道の高圧架空線あり、着陸の際視認し
 得ざることあるを以て細心の注意を要す。
施設
 格納庫(間口90米、奥行40米、高さ14.4米、「ダグラス」型約6機収容
し得)1・修理工場(高さ14.4米)1・飛行機製作工場・修理工場事務所
(高さ9米)・油庫・気象観測所あり。
昼間標識 吹流1あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 本場付近は概ね平坦なるも西及南方一帯は秩父山系の山岳重畳し最も近接
 せるは南西方約4粁の多摩川の対岸に聳立する標高200米内外の山岳なり。
樹林
 本地陽は元森林地なりしを樹木の伐採、電柱の移転等を行い整地せるものに
 して場の境界より外方500米の周囲は極めて平坦なる開闊地なるも遥か東
 及西方に高さ4-15米内外の松樹林及雑木残存す・場の南、北及東側境界
 に高さ1米の木柵を設置す。
河川
 場の北側に沿い川幅30米の玉川上水掘あり、場周に沿う長さ600米の内
 略中央部の300米は「コンクリート」を以て覆蓋しあり・南方約2.5粁に
 多摩川あり、西方約3.7粁付近にて多摩川本流と秋川と合流し場の南方を
 南東流す。
建築物
 西方に最高14.4米の格納庫、飛行機製作工場、修理工場等の建物ある外
 至近に障碍となる建築物なし。
電線
 場の南端に沿い高さ9.2米の電気軌道高圧架空送電線及東側に高さ7米の
 電話線1條あり、何れも離着陸上注意を要す。
着目標
 立川市、青梅電気軌道線、格納庫。

地方の状況
医療
 西方工場敷地内に完備せる昭和飛行機診療所あり・立川市に右田病院あ
 り。
宿泊
 立川市に旅館多数あり。
清水
 格納庫付近に在り。
応急修理
 場内に完備せる修理工場あり。
航空需品
 場内に少量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵す。

交通、運輸及通信
鐡道
 拝島駅(八高線)北西方約2粁・昭和前駅(青梅電気軌道線)あり。
道路
 本場より東は立川市を経て八王子市に、北西方は青梅町に至る良好なる道
 路あり・自動車類の運航可能なり。
運送店
 昭和町に日本通運株式会社あり・立川市に貨物及乗用自動車あり。
電信及電話
 昭和郵便局(電信及電話取扱)南方約1.5粁・西方工場事務所内に電話あり。

気象
地方風
 本場気象観測所に於ける昭和10-12年3箇年間の月別風向次の如し。(以下月ご
とのデータ省略)
地方特殊の気象
 夏季多少の雷雨あり。

其の他
1. 本場は昭和13年6月昭和飛行機工業株式会社の設置に係る非公共用飛行
 場にして目下同社製昨機「ダグラス」DC2型機の試験飛行に主用せられつ
つあり。
2. 本場の北側に隣接する玉川上水掘の河面は現在約300米の区間を覆蓋完了
 し更に北方に拡張予定中なり。

 
 
 

ところで突然ですが、「日本が戦時中に作ったヒコーキ」、いくつ挙げられますか?

オイラはどこからどう見ても、まあ平凡な一般人なわけですが、

すぐに思いつくのは「零戦」と「隼」と「二式大艇」くらいです。

これでも一般人としてはよく頑張った方でしょう。

「日本が戦時中に作ったヒコーキ」で「零戦」等、戦闘機を挙げる人はいても、

「輸送機」を挙げる人はまずいないのではないでしょうか。

「昭和飛行機工業」設立当時、日本はすでに欧米に匹敵する優秀なヒコーキを制作していたのですが、

輸送機の分野が大きく立ち遅れていました。

本格的な輸送機を欲していた海軍は1937年(昭和12年)2月、三井物産を経由して

「永遠の傑作機」アメリカのダグラスDC-3の製造権を獲得しました。

真珠湾攻撃の4年10ヶ月前のことです。

余談ですが、海軍は1939年10月にもDC-4Eを製造権込みで購入(日本航空輸送がダミー契約)しています。

こちらは真珠湾攻撃の2年2ヶ月前。

なのでDC-3の時点ではまだまだセーフでしたが、

もう少しタイミングが遅れたら、「日本でDC-3を作ろう」なんて、

海軍が言いだすことも、ダグラス社が製造権を与えることもあり得なかったんでしょうね。

 

製造権を獲得した海軍は、同年6月に設立したばかりの「昭和飛行機工業」にこのDC-3の製造を行わせることにしました。
(後にDC-2ライセンス制作の実績がある中島飛行機にも作らせてますけど)

「昭和飛行機工業」は当地に工場と飛行場を備えた「東京製作所」を建設します。

そして会社設立翌年の1938年3月、航空機の製造を開始しました。

会社の通勤者の便のため、青梅線に新駅の認可をもらい、

昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担する形で「昭和前駅」(現在の昭島駅)が開設されました。

昭島駅ってそういう背景でできた駅だったのですね~。

 

DC-3の国産化は困難を極め、実現に3年の月日を費やしました。

当時の軍用機は採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっており、

昭和飛行機が製造したDC-3が海軍に制式採用されたのは1940年(昭和15 年)、皇紀2600年だったため、

同じ年に採用になった三菱の艦上戦闘機と同じく、「零式」輸送機となりました。

上に貼った写真は1940年撮影なので、ちょうどDC-3が制式採用された年のものです。

そして昭和飛行機は終戦までにこの零式輸送機を430機製造しました。

同じ年に採用になった戦闘機と輸送機は、共に戦争末期まで主力機でした。

余談ですがアメリカでは、「勝利に貢献した三大役者はジープ、ブルドーザー、そしてDC-3である」

なんて言われているのだそうで、

敵同士なのに飛び回っている輸送機は同じという状況だったのですね。

もっとも、日本が中島飛行機社製と合わせて486機だったのに対し、アメリカでは1万機以上生産されてますが。

余談ですが、DC-3は当時のソ連でもライセンスを取得して改設計しており、

「リスノフLi-2」として1945年までに約2,000機が生産されたのだそうです。

 

昭和飛行機の航空機生産は輸送機が中心でしたが、他にも九九式艦爆や紫電改などのライセンス生産も行っており、

製造総数は800機以上に達しました。

上記資料の施設の項目には、格納庫「ダグラス」型約6機収容得 とあります。

日本海軍作成の資料に、戦争相手国のメーカーのヒコーキが6機入る。と書くなんて、

ちょっと考えられないことですが、それにはこうした背景があったのですね。

資料では単に「ダグラス」としか書かれていませんが、

昭和飛行機はダグラスDC-3を製造するために設立されたようなもの、というのは言い過ぎかもですが、

「ダグラス」とは、わざわざ書くまでもなくDC-3のことでしょう。

そして1945年終戦。飛行場地域が接収されます。

航空機事業が禁止され、会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなりました。

解禁後の1957年(昭和32年)から始まったYS-11、C-1計画にも参加し、分担生産を行っています。

1969年8月 飛行場地域返還(接収施設全面返還)

航空機製造で培った高い技術力を活かし、現在でも航空装備品、航空機機体部品やジェットエンジン部品などの製造を行っており、

開発中の次期輸送機C-X、次期哨戒機P-X でも分担生産に参加しています。

また、国内唯一のハニカム総合メーカーである他、タンクローリ-、バルク車等の特装車製造も行っています。

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滑走路があった部分は現在北側がゴルフ場、南側が団地になっています。

これは当時滑走路があった団地部分。

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青マーカー地点。

昭和の森ゴルフコースの一角に銘板が設けられています。

新昭和通(全文)  この道路は、「新昭和通」と呼称し、昭島駅北口の十字路から北へ進み、ゆるくカーブをしながら「フォレスト・イン昭和館」の南東角にある十字路に至る、全長594m・幅員16mの道路で、「昭和館」の建設に合わせて、全額昭和飛行機の負担で新しく築造され、昭島市に寄贈されたものであります。この工事は、道路用地にかかわる工場敷地内の建物等の移転と並行して、平成8年10月に着工、18ヶ月の工期を経て、平成10年4月17日開通しました。昭和12年の昭和飛行機創立当時、当社は機械設備等の搬入のため、旧奥多摩街道から諏訪神社脇を北上し宮沢地区を経て旧工場正門に至る、延長約2km・幅員11mの道路を当社の負担で新設し、地元に寄贈しました。その道路は、「昭和通」の名で、広く人々に親しまれていましたが、道路築造に合わせて当時建立された「昭和通」の石標は、年を経て散失してしまいました。しかしながらその後、地元有志の熱意により、昭島駅南側の宮沢町1丁目1番5号(株)カトービルドシステム前にこの石標は修復再建され今日に至っております。当社ではこれに呼応して、このたび昭島駅北側に新設した道路を「新昭和通」と称し、南の昭和12年当時の「昭和通」の石標と同型、同寸法の「新昭和通」の石標をここに建て、南北両道路ともども永く人々の記憶に留まり、また広く活用され親しまれることを念願するものであります。 平成10年4月吉日 昭和飛行機工業株式会社

(以下2021/10の追記分です)

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赤マーカー地点。

カインズホーム前を走る「はなみずき通り」。

当時はこの通りが飛行場と昭和飛行機工業の境界でした。

カインズホーム側が飛行場、エプロン側。

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撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 76) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

この航空写真は、カインズホームとお向いにある昭和の森テニススクールの辺りを切り出したものです。

格納庫が並んでいますね。

大格納庫2棟で1セットになっていて、特に北側の2セットは、大格納庫の間に細長い格納庫を挟んでいるようです。

現在のマップと比較すると、北側から1、2、4番目の大格納庫(白矢印)と細長い格納庫が現存しています。

因みに先頭に貼った1940年の航空写真には、北側1、2番目の大格納庫(と間の細長い格納庫)しか映っていません。

この情報はピロシキさんから頂いたんですが、それまで格納庫が現存していることを全く知らなかったオイラは、

2021年にお邪魔して周辺を撮影した際、格納庫については完全にノーマークでした _| ̄|○ il||li

ということで、翌年改めて格納庫を撮りに出かけたのでした ~(⊃゜Д゜)⊃

以下、先ずは北側から1、2番目の大格納庫と細長い格納庫です。

DSC_0003_00001.jpg

北から1番目の大格納庫。

「はなみずき通り」側(飛行場側)から。

DSC_0008_00001.jpg

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北側から1、2番目の大格納庫と細長い格納庫を飛行場側から見たところ。

当時の航空写真で見ると、格納庫の飛行場側にはコンクリ製の駐機場が設けられているように見えます。

当時はこちら側からヒコーキの出し入れしてたんでしょうね。

DSC_0023_00001.jpg

北側から1、2番目の大格納庫と細長い格納庫。

昭和飛行機工業側。

DSC_0017_00001.jpg

ここからは、以下北側から4番目の大格納庫と細長い格納庫の様子です。

DSC_0019_00001.jpg

DSC_0027_00001.jpg

DSC_0032_00001.jpg

北から4番目大格納庫、飛行場側にある大きな扉。

1,2番目の大格納庫の外壁は改修されたようで現在は大きな扉が無くなっており、

大きな扉が現存するのはこの4番目のみです。

DSC_0034_00001.jpg

はなみずき通りから立ち並ぶ格納庫を眺めることができます。

ということで、ピロシキさんどうもありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0006_00001.jpg

紫マーカー付近。

飛行場北側の境界になっている玉川上水。

結構な水量があります。

画面右側が飛行場。

この付近で振り返ると-

DSC_0010_00001.jpg

一見橋のように見えますが、ここから資料に出てきた「コンクリート覆蓋」が300m続きます。

上の方に貼った地図では、「飛行場前」と「飛行場後」で赤矢印部分の描き方が変わっています。

DSC_0012_00001.jpg

この下に玉川上水が流れてるとは思えませんね。

当時は飛行場用地拡張のための暗渠化でしたが、現在は「玉川上水緑道公園」として整備されています。

DSC_0013_00001.jpg

当時はここから画面奥に向って飛行場が広がってました。

現在はゴルフ場になってます。

「玉川上水が飛行場北側の境界になっている」と書きましたが、

飛行場北辺は玉川上水に沿って約620mの長さがありました。

ところが資料にもある通り、暗渠化はその半分弱の300mしか施されていません。

暗渠化されているのは北側境界の中央部に限られており、ちょうど滑走路中心線と重なっていることからすると、

これはヒコーキのオーバーラン対策で設けたのかもしれません。

DSC_0020_00001.jpg

黄色マーカー付近。

ここまで300mの「コンクリート覆蓋」が設けられています。

カメラの向きをこのままにして少しバックすると-

(危ないので良い子はマネしないでね)

DSC_0018_00001.jpg

暗渠化はここまで。

ここからまた玉川上水が出現します。

紫マーカー付近の写真と比較すると、橋脚?等同じ造りになってます。

オイラの知る限り、ここがかつて飛行場であったことを示す唯一の遺構。

…だったのですが、格納庫も現存しています。

他にもまだまだ何かあるかしらん。


       東京都・昭和飛行場跡地      

昭和飛行場 データ
設置管理者:昭和飛行機工業株式会社
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:東京府多摩郡昭和町、拝島村地内(現・昭島市つつじが丘1丁目)
座  標:N35°43′00″E139°22′00″
標 高:110m
着陸地域:1,120m×150-350m
方 位:01/19
(方位はグーグルアースから)

沿革
1937年6月 昭和飛行機設立
1938年3月 東京製作所(東京都昭島市田中町所在)にて航空機の製造を開始
1969年8月 飛行場地域返還(接収施設全面返還)

関連サイト:
昭和飛行機工業株式会社  

この記事の資料:
極上旅客機伝説!
防衛研究所収蔵資料「水路部 航空路資料第3 昭和18年8月刊行 関東地方飛行場及不時着陸場」
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」


コメント(43)  トラックバック(0) 
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コメント 43

guchi

「昭和飛行機工業」でのDC3ライセンス生産
知りませんでした。とっても勉強になりました。
今だに何処かで飛んでいる名機ですね。
そういえば一昨日、ゴルフの今田選手に会いました。
by guchi (2010-06-05 10:25) 

sak

戦争中...零戦しか知りませんでした
いろんな飛行機が作られていたのですね
いつかまた日本製の飛行機が
たくさん空飛んだら楽しいだろうなぁ
by sak (2010-06-05 10:28) 

鹿児島のこういち

零式輸送機、知ってはいましたが製造先は知りませんでした。
紫電改も造ってたんですか?ここでは21型だったんでしょうか、それとも21型甲でしょうか?
紫電改と言えば、川西航空とばかり思ってました。
こういう歴史があるとは、勉強になりました(^O^)/
by 鹿児島のこういち (2010-06-05 12:15) 

春分

第二次大戦の戦闘機でさえもWikipediaの戦闘機一覧の約20の内7つしか
知りませんでした。見ずに思い出せたのは5つだけでした。輸送機はぜんぜん。

by 春分 (2010-06-05 17:09) 

雅

零戦の由来、初めて知りました。
戦前の日本は、飛行機等を作る技術はあってもその飛行機を飛行場まで運べる道がなかった、というのを聞いたことがあります。
by (2010-06-05 19:31) 

tooshiba

昭島にも飛行場(工場に併設)。
住宅開発の進んだ今では考えられませんが、昔は原野か畑か、人がろくに住んでいなかったから作れたのでしょうね。

今回も秀逸な記事でした。m(_ _)m
by tooshiba (2010-06-05 21:27) 

an-kazu

>まあ平凡な一般人なわけ・・・

もはや何も触れないでおきます・・・(^^);
by an-kazu (2010-06-05 21:48) 

masa

戦時中に作った飛行機・・・
私にはさっぱりわかりませんが作る目的が戦争ってのは
悲しい気持ちになりますね。平和な今が幸せに感じます。
by masa (2010-06-05 21:48) 

miffy

知ってるのは零戦と紫電改だけです。
戦争がなければ日本の航空業界はもっと大きくなってたのでしょうね。
by miffy (2010-06-05 22:04) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■guchiさん
未だに飛んでるってのがすごいですね!(@Д@)
>今田選手
おお、すごい!
観戦されたんですか?^^

■sakさん
日本のヒコーキがたくさん飛んだら・・・楽しいでしょうね~。

■鹿児島のこういちさん
>型
調べてみたのですが分かりませんでしたm(_ _)m
鹿児島のこういちさん、オイラなんかよりよっぽど詳しいですね~。(@Д@)

■春分さん
>7つ
一般人のオイラは春分さんの足元にも及びませんm(_ _)m

■雅さん
>道がなかった
もしかしてコレのことでしょうか?
ttp://www.tante2.com/zerosen-ushi.htm

■tooshibaさん
確かに今現在の周辺の様子など見ると隔世の感がありますね~。

■an-kazuさん
あれれ~???(o ̄∇ ̄o)

■masaさん
>平和な今
仰る通りですね~。

■miffyさん
>なければ
ifの世界についてはいろいろ考えちゃいますね~。
数少ない企業に牛耳られているだけに。
by とり (2010-06-06 09:30) 

me-co

バルク車、ローリー車・・・と、泥除けの「昭和飛行機」を見る度に「?!」と思っていましたが、歴史的背景なるほどです。新明和といい特装車に進出したのは、「技術の余裕」と「瀬に腹は替えられない」といったところでしょうか?
by me-co (2010-06-06 23:51) 

とり

■me-coさん
>特装車
ここに反応があるとすれば絶対me-coさんだと思ってました^^
>といったところ
そんなところだと思います。
by とり (2010-06-07 06:13) 

casablanca

私の住んでいる所は昔滑走路だったんですね。
昭和飛行機の社史を読んできました。
昭島駅前は野球場・サッカー場・軍用犬練習場だったそうです。
ゴルフ場だけが現在残ってます。
地図がありましたので、エスパは野球場と現在との比較が出来ました。
勝手に接収して、工場地を娯楽施設にしてしまうのですら、戦争に負けるということの意味が分かりました。こうしたことは昭和飛行機の社史しか掲載されておらず全て歴史から消えてしまいました。
by casablanca (2010-07-21 23:18) 

とり

■casablancaさん
返事遅れてすみませんm(_ _)m
コメントありがとうございました。
by とり (2011-02-27 15:38) 

中谷 四郎

私は昭和20年3月から6月までその飛行場でDC3零式輸送機の離着陸飛行訓練をしていました。85歳の今でも当時の記憶は忘れることがありません。6年前に一度玉川上水に沿って歩きましたが面影はなく本日位置の確定を知ることができました。有難うござく感謝しております。
by 中谷 四郎 (2012-02-24 09:07) 

中谷 四郎

海軍は厚木航空隊から兵員を派遣して零式輸送機の受領検査と輸送を任務として、滑走路を使用していました。玉川用水南の敷地に建つ工員宿舎1棟を借り受けていました。厚木では訓練ができなくなり次の作戦に間に合わせるため5名の輸送機操縦員と整備員の養成が急がれ毎日訓練に励みました。7月から松島、千歳、美幌基地に移り特攻訓練を行い8月15日を迎えました。当時の写真をお持ちの方是非お知らせ願います。
by 中谷 四郎 (2012-02-24 19:32) 

とり

■中谷四郎さん いらっしゃいませ。
生産した輸送機の引き渡しはそのような方法で行われていたのですね。
当時の様子を知る貴重な情報、どうもありがとうございました。

それから「当時の写真を」とのことで、お役に立ちたいのは山々なのですが、
生憎当ブログは弱小でして、しかもこの記事は二年近く前のものです。
写真をお持ちの方がこのコメントを目にする可能性は非常に低いと思います。
既になされているかもしれませんが、それなりの掲示板で呼び掛けをした方が可能性は高いと思います。
また、もしこんなブログで宜しければ、専用の頁を作って呼び掛けさせて頂きますが、如何でしょうか?
by とり (2012-02-24 20:55) 

中谷 四郎

終戦後命令により書籍は私物まで焼却しましたので、記憶を辿るしかありません。滑走路の西側のエプロンに格納庫があり隣接して指揮所がありました。会社の女子事務員が世話をしておられました。私は96陸攻からの転進で、DC3はメイン席が左となりますので操作が初めからの体験で慣れるのに苦労しました。操縦席の高さが7メートルと高いので離陸のさい水平姿勢にしてスピードを上げるのが難しく短い滑走路でもあり苦労したものです。6月には単独で飛べるようになりました。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 08:39) 

中谷 四郎

3月9日深夜轟音で外へ出ると低空をB29が次々と現れてサーチライトに浮かび曳光弾が追いかけるもなかなか当たらず、2時間ほど続きました。戦後340機とわかりましたが、物量と戦力の違いを痛感させられました。東京の空は強風にあおられては真っ赤に染まり被害の大きさを知らされました。当時は軍機に触れるので写真は撮ることが制限されておりおそらくは残っていないと存じます。ご配慮感謝します。私は甲飛12期鹿児島8月入隊生で17。18歳を海軍で過ごし1年4月飛行機の操縦を体験しました。飛行は700時間くらいでした。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 09:03) 

中谷 四郎

私はゼット機の搭乗体験がありません。我が家では子供孫までが体験済みで情けない次第です。セスナとヘリに短時間乗せてもらいましたが福井の小さな飛行場でも着陸装置が完備されており、前車輪式飛行機操縦の容易さを痛感しました。英語による航空管制がなければ、民間航空機に進んだかもと思っております。当時は英語を学んでも進む勇気がありませんでした。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 10:22) 

中谷 四郎

8月21日美幌基地を乙飛出身の搭乗整備員と二人が操縦席に座り飛び立ち、兵員21名を載せて編隊飛行で飛び厚木基地に降りましたが、厚木の反乱に巻き込まれ数日不穏な日を重ねました。解決後また二人に命令があり羽田まで零輸の輸送をしましたが、途中迂回して昭和飛飛行機の低空を飛びバンクして羽田の1200メートル滑走路に降りました。これが゛最後の操縦でした。翌日大阪への便に便乗して小松基地で降してもらい焼野原に変わった郷土福井市の姿に驚かされました。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 10:39) 

とり

■中谷四郎さん
私など知識としてしか知らない事ばかりですが、戦中戦後史に残る波乱に富む経験を潜り抜けてこられたのですね。すごいことだと思います。
by とり (2012-02-26 08:39) 

鹿児島のこういち

中谷 四郎さんのように大戦当時を教えていただける方には感謝が絶えないです。
自分は、中学の頃(ずいぶん前になるのかな(^^ゞ)その年代の方に話を伺いに行きましたが、特に南方から帰られた方は話をしたがりませんでした。
「おめおめ生きて帰ったなど、そんな恥を話せるか!」というような感じです。

当時の経験者で現存されてる方も少なくなりました。もっと、このような体験談をお聞きしたいし、後世に伝えねばと思いました。
by 鹿児島のこういち (2012-03-03 09:33) 

とり

■鹿児島のこういちさん
>「おめおめ生きて帰ったなど、そんな恥を話せるか!」
重いお言葉ですね。
以前、「戦地から無事帰って来れて良かったですね」と言って大失敗したことがあります。
死生観のあまりのギャップに狼狽し、戦争が1人1人に及ぼす影響の大きさ、長さに考えさせられました。
中谷四郎さんのようなお方は本当に貴重な方だと思います。
鹿児島とも縁のある方ですから鹿児島のこういちさんにとっては特に親近感が沸くのではないでしょうか。
by とり (2012-03-05 06:32) 

中谷 四郎

戦争を語りつごう リンク集を検索されますと、たくさんの戦記を見ることができます。
by 中谷 四郎 (2012-03-08 15:25) 

とり

■中谷四郎さん
>戦争を語りつごう リンク集
早速拝見しました。
すごいサイトですね。教えて頂きどうもありがとうございました。
by とり (2012-03-09 06:53) 

中谷 四郎

老人は時間が有り余っていますのでyou tubeをひらいて

B29、B52、D3C、等いろんな飛行機の映像で楽しんで

おります。
by 中谷 四郎 (2012-03-12 13:29) 

とり

■中谷四郎さん
ご謙遜されてますが、今はネットでいろいろ見ることができて便利な時代になったと思います。
1つ教えて頂きたいことがあるのですが、「千歳、美幌基地に移り特攻訓練を行った」と以前
コメント頂きましたが、私は千歳と美幌で特攻訓練が行われているのを知りませんでした。
差支えなければこの件を記事に含めさせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?
by とり (2012-03-13 06:42) 

中谷 四郎

昭和飛行機に派遣されていた全員が特攻隊に編入されて、外部との文通は禁止外出もできなくなりました。夜間飛行訓練を重ねていましたが、私どもには任務の詳細は知らされていないので、精神的には緊張感はないままで終戦を迎えたのです。最近のブログで判りましたが、作戦としては満月の夜低空飛行でサイパン、硫黄島かに兵士を乗せて強行着陸しB29の破壊を計画していたようです。戦艦大和特攻と変わらない結果になっていたことでしょう。
by 中谷 四郎 (2012-03-13 16:19) 

とり

■中谷 四郎さん
>B29の破壊
そんな計画があったのですか!!
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
千歳と美幌は未完成のものも含めて第一から第三飛行場まであったようですが、
どちらの基地におられたのでしょうか?
by とり (2012-03-14 05:58) 

中谷 四郎

20年7月に松島におりて直ぐに千歳に移動しようやく美幌第2飛行場におりて珍しい8角形の平屋木造兵舎におさまりました。輸送機が主でした。他の飛行場では1式陸攻と銀河がいたようです。夜の事で機数は判明しませんが、記録では残存した零輸は51機だそうです。DC3は姉妹機が世界で13000機が存在したようです。同じ仲間が同数はいたことになり貴重な体験だったとおもっております。
by 中谷 四郎 (2012-03-14 09:34) 

中谷 四郎

昭和18年8月鹿児島予科練昭和19年4月谷田部飛練(赤とんぼ)昭和19年8月豊橋96陸攻昭和20年1月館山96陸攻対潜哨戒昭和20年2月厚木零輸昭和20年3月昭和飛行機派遣隊零輸以上が経歴です。同期生が蒼空のはてにのブログで述べております体験は飛錬までは同じです。昔の軍隊は体罰と虐めが横行若さで耐えられましたが、最大の苦労は焼野原にもどってからの2年間が飢えと貧困のなかで母を養うことでした。年金制度により若い世代に支えられ安泰な日々を送れる今の幸せを感謝しながら喜んでおります。
by 中谷 四郎 (2012-03-14 10:21) 

とり

■中谷 四郎さん
たくさんの貴重な情報を教えて頂き感謝致します。
後日記事に反映させていただきます。
本当にありがとうございました。
「安泰な日々を送れる今の幸せ」という言葉が非常に重いです。
震災の影響でオタオタしてしまっておりますが、戦時中を潜り抜けてこられた方は
流石に肝が据わっておられますね。
by とり (2012-03-15 06:53) 

中谷 四郎

地震は昭和19年12月の三河地震を豊橋で体験倒れてしまいました。昭和23年6月の福井地震では仕事を休んだ日で、映画館に入ろうとして入場券を手に中に入りかけて地震が発生外に抛りだされて倒れておりました。少しの違いで下敷きになるところで助かりました。運転自損事故も3回体験しましたが何れも怪我はなく、現在はゴールド免許証で87歳まではのれますので、次の更新が目標です。
by 中谷 四郎 (2012-03-15 09:53) 

とり

■中谷 四郎さん
大地震を既に何度も経験してこられたのですね。
次の免許の更新という目標があるのですね。
by とり (2012-03-16 05:58) 

中谷 四郎

美幌基地にかんするブログがあります。次を

開いてください。剣作戦の記述もあります。

昭和20年9月の美幌基地
by 中谷 四郎 (2012-03-16 06:21) 

とり

■中谷 四郎さん
記事拝見致しました。
残存数等見ても、通常は特に感じることも少ないのですが、
「美幌第二 零輸3」には特別感慨深いものを覚えました。
ご紹介ありがとうございました。
by とり (2012-03-17 05:55) 

中谷 四郎

私は1歳5ヶ月で父が急死しました。3人の兄も病死で長男、戦死で2人を失い母をのこして志願しました。42歳のとき暴飲から胃の7割と十二指腸を切除しましたが、今日まで生きてきました。戦災で家も焼かれ田舎に疎開していた2年間の暮らしは格差社会そのものでした。学歴もないのによく耐え抜いて生き延びられたとよく過去を振り返っております。
by 中谷 四郎 (2012-03-17 08:49) 

とり

■中谷 四郎さん
お返事が遅れてしまい大変申し訳ありません。
大変な中を潜り抜けてこられたのですね。
ありがとうございました。
by とり (2014-02-20 11:32) 

みっちゃん

探し求めていた記事でした。将来ここに駅ができると聞いてゴルフ場の北に土地を買いましたが、拡張地の外でした。家を建てて30数年、地元の歴史を知りました。力作です。
by みっちゃん (2021-11-16 08:56) 

とり

■みっちゃんさん
ありがとうございます!!
by とり (2021-11-17 07:13) 

ピロシキ

はじめまして
カインズの写真の1枚下、ドーム状の建物(現在テニススクール)が写っていますが、その建物が格納庫の建物そのものの筈です
by ピロシキ (2022-01-12 07:02) 

とり

■ピロシキさん いらっしゃいませ。
これはまったく知りませんでした。
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
記事に反映させて頂きました。
by とり (2022-01-15 04:56) 

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