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竹ノ下航空基地(六六二基地、拝志飛行場)跡地 [├空港]

   2010年11月、2023年12月訪問 2023/12更新  


無題8.png
撮影年月日1948/02/18(USA M782 148) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前記事の重信川滑空場の上流約2kmにあった「竹ノ下航空基地(六六二基地、拝志飛行場)」。

実は当航空基地がドコにあったかについては、

・重信川土手南側
・現在は水田

という2点しか分からず、基地名の「竹ノ下」と併せ、

当時の航空写真で如何にも滑走路っぽい地割を見つけ(写真の←→部分)、

「ここに違いない」という、オイラの主観で作図をし、現地の写真まで撮ったのですが、

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)の中に、

「竹ノ下(牧場)資料表一 図一」と記された封筒があり、

中には、右上に大きく「工事名称 竹ノ下飛行場位置図(六六二基地) 縮尺 五阡分之壱」

と書かれた大判の青図が入っていました。

■防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」にも、

当基地について同様の青図がありました。

この青図の通りに作図したのが、先頭のグーグルマップの黄色のシェイプです。

オイラが予想していたのとは、位置がかなり異なっていました。

大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m 

この位置は、上に貼った航空写真の丁度白矢印で示した範囲になります。

実は航空写真を見ても、滑走路の地割が見つかりません。

青図にある滑走路周辺の池と道路が航空写真とピッタリ合っており、この位置関係から

滑走路の位置はここだと分かった。というのが実情です。

青図の示す滑走路位置は、滑走路っぽい地割があるような、

でも滑走路上に集落っぽいものがあって(ホントにココか??)と疑わしかったり、

正直微妙なんですが一応「資料の示す位置」ということで、そのまま作図していたのですが、

その後PUTIN様からこんなコメントを頂きました。

1945年6月24日付の海軍施設本部作成の史料では「石手基地」として建設が予定されていた飛行場ですね。最終的には「拝志基地」として完成し、「白菊」を30機配備するように指示が出されていたようです。実際、終戦時に「白菊」が展開していました。

愛媛県在住の私の知人が調査したところ、滑走路は「航空写真の丁度白矢印で示した範囲」にあったそうですが、終戦直後の台風による洪水で土砂に埋まってしまい、国土地理院の航空写真では全く地割が確認できなくなっているとのことです。

洪水で土砂に埋まってしまっていたんですね。

ということで、やっぱり滑走路の位置はここで良いみたいです。

PUTIN様貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m 

 

ところで滑走路の長さについてなんですが、

「位置図」に描かれている滑走路には、「滑走路(張芝)50mx900m」と記されているのですが、

作図後に測ってみたら、650mx45mでした。

また同資料の図ともう一つ、「竹ノ下(牧場)資料表」には、

竹ノ下航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 愛媛県温泉郡久米村
最寄駅 (空白)線松山駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 練習機
主要任務 発進用

とありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:竹ノ下 建設ノ年:1945-7 飛行場 長x幅 米:900x50芝張 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:工事中

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  竹ノ下
滑走路 三〇×六〇〇EW
縣郡村 愛媛、温泉 拝志村
記事  八月末既成

 


(ということで2023年12月に撮り直してきました)

 

DSC_1818_00001.jpg
赤マーカー地点。

滑走路方向

DSC_1831_00001.jpg
青マーカー地点。

滑走路方向


      愛媛県・竹ノ下航空基地(六六二基地、拝志飛行場)跡地     
拝志小は当時整備員宿舎として使用されていたのだそうです(先頭のグーグルマップ青マーカー)

竹ノ下航空基地 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:愛媛県‎温泉郡拝志村(現・東温市‎上村‎)
座 標:N33°46′36″E132°51′13″
標 高:67m
滑走路:900m×50m(芝)
方 位:08/26
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年07月 建設? 

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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コメント 6

ジョルノ飛曹長

みごとに跡も何も残ってないですね。(^-^)言われないと誰も気付きません。
by ジョルノ飛曹長 (2011-07-18 11:38) 

鹿児島のこういち

ここも秘匿飛行場ですね。他のサイトでは、ここから約150mのところに素堀の弾薬保管壕があって写真も貼ってました。
ほんとに素堀で、今は鉄格子で入れないようにされてますが、まだ残ってるところが凄いですw(゚o゚)w
by 鹿児島のこういち (2011-07-18 12:05) 

me-co

お久しぶりの歓迎のコメントに感謝申し上げまする。

すっかり農地化してますが、この田んぼ状況から推察するに・・・
昭和40~50年代に圃場整備が入ったものと思われますねー
by me-co (2011-07-18 14:21) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■ジョルノ飛曹長さん
「ここに滑走路があった」なんて誰も思わないでしょうね~^^

■鹿児島のこういちさん
>素堀の弾薬保管壕
それは知りませんでした。
情報ありがとうございますm(_ _)m

■me-coさん
>昭和40~50年代
(@Д@)この写真からそこまでわかりますか!
by とり (2011-07-20 05:27) 

PUTIN

1945年6月24日付の海軍施設本部作成の史料では「石手基地」として建設が予定されていた飛行場ですね。最終的には「拝志基地」として完成し、「白菊」を30機配備するように指示が出されていたようです。実際、終戦時に「白菊」が展開していました。

愛媛県在住の私の知人が調査したところ、滑走路は「航空写真の丁度白矢印で示した範囲」にあったそうですが、終戦直後の台風による洪水で土砂に埋まってしまい、国土地理院の航空写真では全く地割が確認できなくなっているとのことです。
by PUTIN (2020-05-11 03:23) 

とり

■PUTIN様
またまたありがとうございますm(_ _)m
やっぱりココで良かったんですね!
台風で埋まってしまうという事情があったのですね。
戦争も終ってこれから、という時期だけに、当時の地元の方のご苦労が偲ばれます。

それから、昨日の新厚木基地の情報もありがとうございました。
全面的に記事を修正させて頂きました。
いろいろ調べていたら、あの海軍道路は、海軍施設と同時に建設され、
建設当初から、滑走路としての使用も想定していたのだそうです。
それが末期に新基地の設営命令が出されたとのことで、
PUTIN様からの情報で、キレイに繋がりました。
今回頂いた拝志基地情報も記事に反映させて頂きます。
ご多忙のところ、本当にありがとうございました。
by とり (2020-05-11 06:45) 

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