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富山陸軍(倉垣)飛行場跡地 [├空港]

   2010年7月、2011年10月訪問 2022/6更新  


1.png
(昭和8年10月撮影)高度400米 方位NE 距離1,200米
2.png
1934年(昭和9年)5月調査資料添付地図
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
無題2.png
撮影年月日1946/07/22(USA M203-A-7 49) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

富山県‎富山市にあった「富山陸軍飛行場」。

後述しますが、アジ歴の資料によりますと当飛行場は、

「八十万県民の醵出貮拾餘萬円」により公共用の「富山飛行場」として発足し、

倉垣村に建設されたことから「倉垣飛行場」とも呼ばれました。

昭和9年度から日本航空輸送により東京への定期便があり、また陸軍各連隊の訓練飛行にも使用されました。

当飛行場の南約11kmに現在の「富山きときと空港」があり、毎日東京行きが4便運航しています(2019年現在)。

富山-東京間の航空路線は非常に長い歴史があるんですね。

 

当飛行場については、確認可能な地図が以下の3資料にあります。

■航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)
■防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部
■日本海軍航空基地要覧(陸軍航空基地含む)(下記リンク参照)

先頭のグーグルマップは、以上3資料に添付の地図から作図しました。

測量年は不明なのですが、上から順に、

昭和9年5月資料の地図(グレー)
昭和18年4月資料の地図(オレンジ)
昭和20年5月資料の地図(パープル)

です。

地図に引かれた飛行場敷地境界線を1946年の航空写真で探していったのですが、

なかなか線が拾えず大雑把な部分がかなりあります。

ご了承くださいませ。

■前述の「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で、

当飛行場の詳しい地図がありました。

図の中では、飛行場敷地は全周「溝」で囲まれています。

この地図には、日本海沿いに越中鉄道(後の富山地方鉄道射水線。1980年廃線)が描かれていて、

飛行場の丁度北側に「とやまひこうじやうまへ」駅があります。

で、この駅からの一本道が飛行場敷地に伸びています。

また、現在の「倉垣地区センター」、「和合運動広場」前の道路は、

昭和9年、18年資料の地図にある飛行場敷地の東側境界線を成しているんですが、

丁度この二つの施設の前辺りだけは、飛行場をグルリと取り囲む溝が暗渠化されており、

境界線の東側(敷地外側)に格納庫が描かれています。

「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部」の中に、

「富山陸軍飛行場 富山県婦負郡倉垣村大字布目打出」として、情報がありました。

以下引用させて頂きます。

面積 南北800米 東西700米 北東-南西800米 総面積36.8萬平方米 
地面の状況 芝敷滑走路(南北800米、幅150米)1條あり 平坦且堅硬なるも降雨後は軟化す 夏季は雑草繁茂し、冬季は積雪大なり
目標 富山市、神通川、東岩瀬港突堤
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口26米、奥行17米)1棟
照明設備 なし
通信設備 元航空局支所内に電話(四方103番)あり
観測設備 富山測候所に連絡す
給油設備 なし
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎2棟あり
地方風 流行風は南又は北風多し
地方特殊の気象 降雪は12月-翌年4月間にして雪積平均70糎に達す
交通関係 打出駅(越中鉄道)北方600米 本場より富山市及四方町に至る良好なる道路あり
其の他 本場は元公共用飛行場なりしも昭和18年4月陸軍飛行場と為る
(昭和18年4月調)
 

地面の状況の項目で、「芝敷滑走路(南北800米、幅150米)1條あり」とあります。

■航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)の中では、

滑走路は700mx120mとありますので、少し拡張したんですね。

某サイトでは、

「(ある本の中では)第三次拡張で滑走路が500m延伸して1300mとしているが、本来の滑走路長が700mであったことを全く理解していない」

とあり、700m滑走路に500m延伸して1,200mであるとする自論が続くんですが、

昭和18年4月時点で800mであったことをきちんと理解していれば、

「500m延伸して1300m」(800+500=1,300)でちゃんと辻褄合っている事が分かります。

また、格納設備の項目では「格納庫(間口26米、奥行17米)1棟」とあります。

これが件の飛行場敷地すぐ向い側に描かれている格納庫と思います。

また、交通関係の項目には、「打出駅(越中鉄道)北方600米」とあるのですが、

Wikiによりますと、 この打出駅は、昭和7-9年頃に「富山飛行場前駅」に改称したとあります。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  富山
位 置   富山県婦負郡倉垣村
規 模   要図(東西1500 南北1500)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 掩体 一五ヶ所
摘 要   施設官有

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

所在地
 富山縣婦負郡倉垣村
地形
 面積
  三六八一一三平方米
 土質
  粘土 海抜最低一九〇米 最高三〇〇米
 地表面状態
  滑走区域の地表面概ね平坦なり 全面張芝 排水不良
 付近状態
  四粁以内に山岳なく高低差少なき水田
  雨天の時は軟弱なり
  周囲約十一米幅の排水路あり
気象
 晴雨日数
  四、五、七、八、九、一〇月(月平均晴二五日)三、六、一一、(月平均晴二〇日)
 雨期
  一、二、一二月(月平均晴一五日)
 暴風期
  雨期 一、二、一二月 暴風期九、一〇月
 地方特殊の気象状況
  一ニ、一、二月は降雪期 九、一〇月は天候の急変多し
周囲の状態
 高圧線
  場端七五〇米距て高圧線鉄塔あり
 森林
  滑走路側面に約二五〇米距て高さ約一〇米の森あり
気象観測設備
 中央気象台富山航空気象観測所あり
交通
 交通機関
  富山市より飛行場前を通ずる私鉄あり
 交通順路
  飛行場前駅より私鉄にて富山市に至る

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6,7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-長野
区間 大阪-金沢間 毎日一往復
   金沢-富山間 毎日一往復
   富山-長野間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  富山飛行場
経営者  建設委員会
所在地  富山縣婦負郡倉垣村
水陸の別 陸
滑走区域 長七〇〇米 幅二五〇米
備 考  (記載無し)

アジ歴に「富山飛行場整備に関する件」という資料があります。

それによりますと、昭和十一年三月二十三日に富山県知事土岐銀次郎氏が陸軍大臣に対し、

「飛行場整備に関し具申」として、「日本海方面に於ける唯一の既設飛行場たる富山飛行場の拡張並整備」

を申し出ています。

これに対し、同年四月十日に、「拡張施設を為すことは実現困難」という返答がありました。

県知事の具申書では、

「富山飛行場は非常に重要な飛行場であるにもかかわらず、飛行場はたったの700mx120mしかない」

とあります。

この飛行場のサイズは、 昭和9年5月資料に出てくるのと同一の数字なので、

昭和11年3月当時までは、先頭のグーグルマップのグレーの敷地のままであった可能性が高いと思います。

当時のL字型の飛行場の広さは、 航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)の中で、

265,000sqm(≒26.5ha)と出てきます。

昭和20年5月資料の地図に描かれている飛行場は、面積を記した資料が見当たらないんですが、

オイラの作図が正しければ、167haです。

県知事の要望は却下されてしまい、すぐには叶いませんでしたが、

その後10年を経ずして6.3倍まで拡張したことになります。

昭和18年4月に陸軍飛行場化したのが大きかったんでしょうね~。

D20_0046.jpg

赤マーカー地点。

少なくとも昭和18年4月までは、道路に沿って画面左側が飛行場敷地でした。

現在周辺には圃場が広がっていて、開拓碑があちこちにあります。


      富山県・富山飛行場跡地      

富山陸軍飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:富山県婦負郡倉垣村(現・富山市‎布目‎)
座 標:N36°44′44″E137°10′57″
標 高:3m
滑走路:700mx120m→800mx150m→1,300m
方 位:04/22
面 積:26.5ha→36.8ha→167ha?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿 革
1933年 水田を整地して富山飛行場完成
1934年 富山~東京 定期便就航。その後戦時体制が強まるようになる
1939年 軍事目的のみの利用となる
1943年 04月 陸軍飛行場となる
1945年 終戦
1948年 旧陸軍用地として倉垣開拓農事実行組合に払い下げ
1950年 滑走路跡に和合中学の校舎完成

関連サイト:
航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場 
日本海軍航空基地要覧(陸軍航空基地含む) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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コメント 11

亀兎

婦中町にすんでいる祖父が、あそこには軍の飛行場があったんだと言っていましたが、本当にあったんですね。
by 亀兎 (2012-05-22 00:19) 

とり

■亀兎さん いらっしゃいませ。
地元に伯父様がいらっしゃるのですね。
お邪魔致しましたm(_ _)m
終戦と共に使わなくなってしまった飛行場ですから
非常にマイナーな部類だと思います。
by とり (2012-05-23 18:37) 

ぴよこ

初めまして!夜分に遅くすいません!
おおお!富山飛行場の跡地を計測されたのですか!すごいです!
富山市に在住しています「ぴよこ」と言います。
富山大空襲の時、富山飛行場には木製の疾風が1機あったと聞いております。
 如何せん、8月1日・・・富山では空襲で亡くなった方を偲ぶため、毎年花火を打ち上げております。
 今日は8月1日・・・絶食をして喪に服したいと思います。
乱文失礼でした。
ちなみにとりさんのお名前・・・由来を聞けたらうれしいです!
「ぴよこ」はひよこみたいにうるさいからだそうですww

by ぴよこ (2012-08-01 03:17) 

とり

■ぴよこさん いらっしゃいませ~^^
記事中の地図は、当時の写真、資料を集めて随分時間を掛けて作りました。
多分こんな感じだったと思います。
撮影当日は、撮影できる明るさになるまで現地で待ってから撮りました。
早朝の静かな時間で、犬の散歩、ジョギング等されている方が多く、そんな中で撮らせて頂きました。
相当怪しかったと思います。お邪魔致しましたm(_ _)m

木製の疾風のこと、花火のこと、貴重なお話をありがとうございます。
地元の方にとって今日はとても大切な日なのですね。
オイラもそのことに思いを致しながら今日一日過ごさせていただきます。

ぴよこさんのHNの由来、笑ってしまいました^^
オイラはですね、黄緑の鳥の絵をアイコンに使ってますが、この絵は小学生時代からオイラのシンボルマークなんです。
HNは何も考えていなかったのですが、アイコンにこの絵を使おうと決めたので、
じゃあHNは「とり」でいいや。という、そんな安直な由来です。
by とり (2012-08-01 06:17) 

名越亮三

富山県婦負郡倉垣村布目の旧陸軍飛行場跡地には、昭和26年6月1日(第1回電波の日=電波法施行日)、当時の電波監理委員会直属の富山電波監視局が開局しています。
小生は、当時、開局前の5月に実施された5名の職員採用試験に合格して勤務していました。
この電波監視局は、国際電気通信条約規定の、『電波監視』・『HFBC(短波国際放送)調査』その他『スペクトラム調査』や『違法電波調査』等の業務を全国9か所の監視局と独自短波無線電信回線を介して24時間運用されていました。
特筆すべき事項は、無線方向探知機は、米軍供与(1944年製)の可視式
ゴニオメーター(然も、野戦・可搬移動式かつ強制暖房器付加)システムものでした。受信域は、旧日本軍のものに比べ周波数安定度が抜群に良く、また
米国製超短波受信機も設置されていたものです。
電波の監視指令は、独自暗号化されたモールス通信で約10キロメーター
遠隔の送信所を介して発信し、監視結果1日分は、翌日、09:00から『フヤ2』前置符号を冠して、中央監視局(神奈川県三浦群初声の旧海軍研究所)あてに、釧路監視局=JGS30=を初回に都城監視局=JGO30=しんがりまで報告したものです。
採用された当時は、広大な飛行場占有地は、未耕作のままで、村人は、草競馬を楽しんでいました。
職場の職員構成は、旧逓信官吏練習所(現電気通信大学)出身のエリートを筆頭に、戦時即席開設校の逓信講習所及び旧日本軍の通信兵などでした。
by 名越亮三 (2013-03-04 18:19) 

とり

■名越亮三さん
返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
貴重なお話、どうもありがとうございました。
by とり (2014-02-26 15:48) 

ヒデキ

初めまして、ヒデキと言います。
母の実家は滑走路の北東方向の海岸そばにあったので、小さい頃から富山飛行場関係のエピソードをよく聞きました。しかし、どのような広がりを持っていたかは今回初めて知りました。
また、私が現在住んでいる町内には富山飛行場にいた部隊(新原部隊?)の司令部が置かれた大きな洋館作りの住宅が現役です。この町内は新原部隊の兵舎跡に戦災の被災者や外地からの引き揚げ者が住み始めたのが始まりです。
by ヒデキ (2014-06-26 08:54) 

馬田 鹿之助

はじめまして。

私の家は、まさに旧富山飛行場の敷地内にあります。

幼いころは滑走路跡で野球などをして遊んでました。
今和合グランドとなって、子供たちが野球などをしています。
by 馬田 鹿之助 (2015-02-06 22:38) 

とり

■ヒデキさん
>洋館作りの住宅
非常に貴重なものが残っているのですね。
返事が遅くなってしまい大変申し訳ありません。

■馬田 鹿之助さん
貴重なお話をどうもありがとうございました。
by とり (2015-02-07 06:05) 

Matsu

この飛行場の情報を探していました。吃驚!
亡くなった母が子供の頃、家族で住んで居たそうです。
四方の大火で被災し、神通町に引っ越すことになりそこで8月1日の空襲。三箇に身を寄せ。終戦後直ぐに兵隊さん(上級?)の元航空寮に住むことが出来たそうです。兵隊さんの家族が戦後帰る事になり、寮は2棟あり1棟に3家族が入居したそうです。6畳の部屋が二間、台所は共同。元の四方小学校から女性の歩きで20分くらい。
ところが、元々国に安く田畑を提供しなくてはならなかった土地の人が畑に戻したいので返してほしいいという事で。短い期間で出ていくことになったそうです。
その航空寮は何処らへんだったのでしょうか?

by Matsu (2020-02-09 16:10) 

とり

■Matsuさん
お母様大変ご苦労なされたのですね。
航空寮は残念ながらどこにあったのか分かりません。
お役に立てず大変申し訳ありません。
by とり (2020-02-12 02:49) 

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