稚内水上機基地(稚内海軍飛行場)跡地 [├空港]
2010年6月、2023年6月訪問 2023/7更新
撮影年月日1947/10/09(USA M543 23)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
北海道稚内市、稚内空港のすぐ南西に「大沼」という大きな沼があります。
かつてここに海軍の「稚内水上基地(稚内海軍飛行場)」がありました。
当基地についてはほとんど資料がなかったのですが、
コブラボールさんから頂いた資料の一部を以下抜粋させて頂きます。
コブラボールさんありがとうございましたm(_ _)m
■戦前・戦後の稚内 -稚内に残る歴史的建造物から-
1 稚内近海で海上護衛戦をつづけた艦船たち
1-2 海軍宗谷防備隊の2隻の艦船
開戦と同時に、宗谷海峡に面する稚内に「宗谷防備部隊」が編制され、砕氷艦「大泊」、特設砲艦・
砕氷艦「千歳丸」が張り付き、稚内~大泊の海上交通、海峡通過を企図する艦船・潜水艦及び航空機の
攻撃阻止、樺太沿岸及び北海道北部要地警備…。大湊と稚内海軍通信隊は大湊警備府参謀長の直接
指揮下に入った。防備部隊司令は、歴代の大泊艦長が兼任。今村、岡、千葉海軍大佐が務めた。
・昭和18年7月16日~11月22日 「声問大沼に水上偵察機基地造成動員」
「北方軍緊急勤労報国挺身隊」兵庫県、京都府、滋賀県、奈良県、三重県から動員された一般人が、
大阪駅出発16両編成。憲兵の厳重警備下主要地通過、人数減少。稚内駅下車。山本組宿舎(山下通
7)に収容。任務…兵舎建設、滑走台、桟橋、駐機場、弾薬庫、水門設置により大沼の水位を上げる。
・昭和18年8月29日 「大湊海軍航空隊稚内派遣隊進出」
隊長土井兵曹長、九四式、零式偵察機混合の4機派遣され、任務は「宗谷海峡の対潜哨戒並びに船舶
護衛」であった。九四式水偵(1号型)6番2発、零式水偵は6番4発を搭載して哨戒飛行を続けた。
※6番…60キロ対潜爆弾
・昭和18年9月27日 「零式水偵・土橋機墜落」
操縦土橋一飛曹、偵察川口一飛曹、杉山上等整備兵の3名墜落死⇒昭和61年8月、杉山上等整備兵
の弟(石材店経営)から、『元気なうちに兄たちの供養をしたい。場所を調べてほしい。』と稚内市
に連絡が入る。⇒1週間の捜索の結果、場所特定でき、43年ぶりに供養塔・慰霊碑建立。
・昭和18年7月まで平穏だった日本海・北海道日本海沿岸
開戦以来:千島方面、北海道南東海面、太平洋沿岸の三方面に、少ない兵力を集中して対潜掃討作
戦と船舶護衛作戦に重点を置いていた大湊海軍部隊にとって、昭和18年7月米潜水艦3隻の日本海侵
入により、民間船3隻沈没は衝撃だった。米軍は日本の補給を破壊する作戦で、攻撃後、宗谷海峡・
オホーツク海より脱出した。8月初旬宗谷海峡東口に機雷堰設置(93式機雷470個)した。
・昭和18年10月11日 潜水艦「ワフー」発見・攻撃・撃沈
本日、天気快晴。06:30オミ:20号(九四式)海峡西口へ向け発進。7:55 オミ19号(零式)
海峡東口へ向け発進。9:20 宗谷岬45度12浬に敵潜水艦発見、無電と同時に攻撃開始。19号機の無
電を傍受した、20号機も燃料補給のため帰投。稚内基地土井部隊の3機の水偵が反復攻撃し、宗谷防
備部隊司令より海峡哨戒中や在泊中の艦船4隻出撃命令(15号・43号駆潜艇、17号・18号掃海特務
艇)。水上偵察機(稚内基地3機+小樽基地2機)延べ15回出撃し6番(60キロ対潜爆弾)40発。
艦船から、95式爆雷63発投下して撃沈した。
これまではほぼ「ここに水上機基地があった」としか分からなかったのですが、
頂いた資料から一気に情報が増えましたね。
建設が始まったのは昭和18年のことで、
近畿地方から動員された一般人(建築関係者か?)によって建設されたんですね。
なんで地元住民ではなく、わざわざ近畿から動員したんでしょうか。
それから水門を設置して大沼の水位を上げていたんですね。
配備機は 九四式、零式偵察機の4機。
基地の任務は「宗谷海峡の対潜哨戒並びに船舶護衛」とのことで、
これでいつ、だれが、どんな目的で建設したのか明らかになりました。
上の写真は宗谷湾から真っ直ぐ南下する道路で、 「大沼」に突き当たります。
「大沼」は渡り鳥の日本最北端の中継地で、日本有数のコハクチョウの飛来地なのだそうです。
基地跡地には現在、写真右側にある「大沼バードハウス」が整備されています。
「大沼バードハウス」のすぐ前はこんな感じ。
看板には、海岸線の後退と砂丘の発達によって形成された海跡湖とありました。
バードハウスにお邪魔したところ、年配の責任者の方が1人だけおられ、話をお聞きすることができました。
子供の頃からここにおられたのだそうです。ご主人曰く、
「ここは汽水湖なので、ヒコーキの塩を落とすためのレンガ製のタンクがあった。
戦後取り壊したレンガの欠片が散乱していた。
スリップもあったが今は跡形もない。道路は当時のままのもの」。
と教えて頂きました。
(以下2023年6月撮影)
青マーカー地点。
当時はここから奥に向って基地敷地でした。
赤マーカー地点。
スリップ方向。
稚内市・稚内水上機基地(稚内海軍飛行場)跡地
稚内水上機基地(稚内海軍飛行場) データ設置管理者:旧海軍
種 別:水上機基地
所在地:北海道稚内市声問
座 標:N45°23′24″E141°46′03″
滑走台:30m×15m
(座標はグーグルアースから)
沿
革
1943年07月 16日 基地造成動員実施(11月22日まで)
米潜水艦3隻の日本海侵入により、民間船3隻沈没
08月 初旬、宗谷海峡東口に機雷堰設置(93式機雷470個)
29日 大湊海軍航空隊稚内派遣隊進出
09月 27日 零式水偵・土橋機墜落
10月 11日 潜水艦「ワフー」撃沈
関連サイト:
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この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
戦前・戦後の稚内 -稚内に残る歴史的建造物から-
オイラが行った・・・改め、取材したにしませんか?
by an-kazu (2010-10-17 16:49)
当時の道路が残ってるのですか?どんな道路でしたか?コンクリート舗装なんでしょうか?知りたいなぁ(^O^)僕が小さい頃は、国道はコンクリート舗装でしたよぉ(^O^)/当時もそうだったのか、そうでなかったのか、知りたいですよ(^O^)/
by 鹿児島のこういち (2010-10-17 19:16)
当時を知る人に話が聞けて・・・貴重な情報でしたね。
道路が当時のままなんて@@;
ん?当時のまま??⇒コンクリ舗装の上からアスファルトを載っけちゃったのかな?
by me-co (2010-10-18 01:35)
痕跡が残っていなかったのは残念でしたが、お話を聞けたのはnice!でしたね。(^o^)
by tooshiba (2010-10-18 02:01)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■an-kazuさん
ありがとうございます。
そう言ってもらえると、とても嬉しいです。
オイラがやっているのはコソコソと外から撮っているだけなので
とても「取材」と呼べるシロモノじゃないですよ。
an-kazuさんのように開放日に合わせて出向いて時間をかけて調べておられる方こそ
「取材」と思います。
■鹿児島のこういちさん
>当時の道路
最初の写真の、沼に向かって真っ直ぐな道路が当時のものだそうです。
説明不足で申し訳ありません。
アスファルト舗装に見えますが、当時塗ったものとは思えませんでした。
「当時のまま」というのが道路の位置のことなのか、
舗装も再現しているのかは不明です。
■me-coさん
↑上に書きましたが不明です。m(_ _)m
詳しい方だといろいろ疑問が起こるのですね。
オイラには猫に小判でした^^;
■tooshibaさん
そうですね~。
貴重なお話が聞けてよかったです^^
「バードハウス」なのに鳥のことは一切聞かず、ヒコーキのことばかり質問してしまいましたが。
by とり (2010-10-18 06:30)
大沼、前回行った時寄りました♪
ここがそうだったのですね
このことを知ってから行っていたら
景色の見え方も違っただろうなぁ...
by sak (2010-10-19 08:12)
■sakさん
ここもお立ち寄りでしたか。
確かにいわくを知っていると印象も変わりますよね。
また機会がありましたら是非。
バードハウスも楽しかったですよ^^
by とり (2010-10-20 07:06)
きれいに海が閉じてすっぽり湖になったんですね
>汽水湖 どこかで海とつながっていたのかもしれないですね
それよりも稚内だと年の1/3ぐらいは凍ってたように思うんですが。
by コスト (2010-10-20 21:35)
■コストさん
なんだかスケールの大きな話ですね~。
>1/3
そんなにですか!
流石稚内。
by とり (2010-10-21 21:56)
すいません、書き間違えてました
1/3ぐらいは凍ってるんじゃないかと思っただけで
実際はどうなのかわかってません^^;
でも、雪や凍結で使えない日数が多いとは思います
by コスト (2010-10-22 01:20)
■コストさん
>1/3
なんかやけにリアルな数値でまったく違和感ありませんでしたよ。
あ~、言われてみればそのくらいかな。みたいな。^^;
by とり (2010-10-22 07:10)
大湊空の稚内派遣隊の3機と小樽派遣隊から2機がs19.10.11米潜ワーフを撃沈。
by マー坊 (2013-11-03 16:31)
■マー坊さん
返事が遅くなって申し訳ありません。
情報ありがとうございました。
by とり (2014-02-20 16:06)
貴重な情報ありがとうございます。
稚内で産まれ育ったものですが、
1975年頃に遠足で大沼を訪れた際は、
水上基地のスリップって言うんですか?コンクリートの舗装路や崩れた道路みたいのが波打ち際にたくさんありました。
それに乗った記念写真もあります。
母からは大沼は下駄飛行機の基地だったと聞かされていたので、子供心に
そんなもんかなと言う程度の関心でした。
by 佐藤時久 (2020-01-07 23:40)
■佐藤時久さん
1975年当時はまだスリップの跡が残っており、
お母様はここが水上機基地として認識しておられたのですね。
実際にここに基地があったことをご存知の方からのコメントを
頂いたのは初めてです。
痕跡がすっかりなくなってしまった今となっては、
お写真も非常に貴重なものですね。
貴重なお話を聞かせてくださり、ありがとうございました。
by とり (2020-01-08 05:08)