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神之池航空基地跡地 [├空港]

   2012年9月訪問 2021/7更新  


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撮影年月日1946/03/26(昭21)(USA M85-A-5VV 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

茨城県‎鹿嶋市のカシマサッカースタジアム南側に住友金属鹿島製鉄所の大工場があります。

ここはかつて「神之池航空基地」でした。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

白く輝く滑走路はすぐ見分けがつくのですが、それ以外の滑走路、誘導路と思しき線の取捨に随分迷いました。

恐らくこんな感じではないかと思うのですが。。。

前記事の北浦海軍航空隊の南東約11kmにあります。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:神ノ池 建設年:1944 飛行場長x幅 米:1,750x120 1,500x120x2本 コンクリート 主要機隊数:中型3.0 小型5.5 主任務:教育 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住9400平米 指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場 掩体:小型有蓋20 小型無蓋20 大型無蓋26 其ノ他記事:魚雷同時調整36本 格納庫180本

■「防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
には、「神ノ池(S19.2.15)(昭19建)」とありました。

工場西側の外周沿いに「桜花公園」という小さな公園があります(赤マーカー地点)。

公園の由来(全文) 太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

ここで特攻兵器”櫻花”の訓練が行われていたのですね。

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「神雷竜巻櫻花隊員錬成之地 櫻花」の碑。山岡荘八

裏面に碑文がありました。

(全文)太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。撰文 山田荘八 昭和五十三年三月吉日 建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

あの山岡荘八は報道班員として神雷部隊と生活を共にしていたのでした。

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公園の奥まった所に掩体壕が現存しており、

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中に桜花が置かれています。

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他に例を見ない一式陸攻、護衛の零戦、桜花による三機一組の訓練が続いたのだそうです。

訓練は日に2回から4回繰り返され、練習用の桜花に爆弾と同重量の水を載せ母機を離れると水を捨てて滑空し、

上陸用のソリで砂地を滑走路するという特殊なものでした。

桜花が着陸に失敗したり、零戦の緩降下訓練中の失速墜落等、死亡事故が続きました。

訓練開始から三日後、神雷部隊は連合艦隊の直属となり、12月中旬に予定されたフィリピン進攻に備えました。

これは、台湾の高雄基地からフィリピンのクラーク基地に進出し、レイテ湾内の大型艦に突入するという作戦でした。

そしてこの作戦を間近に控えた時期、 同基地には、11月23日に及川軍令部総長、12月1日に豊田連合艦隊司令長官、

同月3日には米内海軍大臣が訪れました。

海軍三首脳が一航空隊を訪問するというのは前代未聞のことであり、

海軍がこの桜花作戦に如何に大きな期待をかけているかを物語っています。

ところがその後、レイテ島への補給路が遮断され、桜花を積載した空母が撃沈され、予定変更を余儀なくされます。

台湾からフィリピンへの桜花攻撃は中止となり、台湾・南西諸島を中心とした本土周辺の迎撃を第一段階、

本土決戦を第二段階とする次期作戦計画が立てられました。

この作戦計画により神雷部隊は1945年1月、南九州方面の鹿屋、出水、築城、大分などの基地に向かいました。

神之池の残留部隊は「竜巻部隊」と称し、桜花搭乗員の訓練部隊となりました。

1945年3月、米機動部隊が宮崎県都井岬の地点まで南下し始め、これを迎撃するため、

同月21日に初めて神雷部隊に出撃の正式命令が下され、一式陸攻18機、桜花15機、援護戦闘機32機が出撃しました。

しか海上哨戒力の弱さ、援護戦闘機の不調事故などにより、わずか10分の戦闘で何の戦果もなく全滅したのでした。

その二日後、沖縄決戦が始まったため、沖縄周辺の艦船に対し、桜花隊員6名、陸攻隊員42名による

第二次攻撃が行われましたが、結果は陸攻1機が帰投しただけで、あとは全滅しました。

神之池基地を出発した桜花隊員は第三次攻撃後に70人に減り、第五次攻撃後には37人に激減していました。

その後第十次にわたる桜花攻撃が繰り返され、神雷部隊の出撃機数は553機、未帰還機数は402機、723人となりました。

戦績は、駆逐艦撃沈1、撃破5というものでした。

6月23日、沖縄本島陥落。

本土決戦のため、桜花隊は富高基地に移動しました。

 

一方神之池基地では、桜花の自走力を向上させるべく、強力な噴射ロケットを装備した桜花二二型の開発を目指し、

神之池の竜巻部隊はその実験部隊となりました。

飛行実験が何度か繰り返されましたが、いずれも成功しませんでした。

同時に、本土決戦用としてジェット噴射器を装備した桜花四三乙型の飛行実験が

神之池から滋賀航空隊に移動した第七二五航空隊で予定されており、

この飛行実験に先立ち、ジェット機橘花の飛行実験が木更津基地で行われました。

 

神之池基地の竜巻部隊から鹿屋基地に進出していた第三陣の爆戦隊は、6月8日に鹿屋基地が爆撃された際、

喜界島からの攻撃を命令され、同月10日、「第二神雷部隊」として同島に移動していました。

この「第二神雷部隊」に8月11日、沖縄泊基地艦船へ突入するよう命令が下され、

8月13日、5機が飛び立ちました。

これが神雷部隊の、そして敗戦前の沖縄特攻の最後のものとなりました。

この「第二神雷部隊」には、沖縄決戦が本土決戦に移行したこと、原子爆弾が投下されたこと、ポツダム宣言の放送、

米艦隊の正確な位置など、何一つ知らされていませんでした。

 

「海軍施設系技術官の記録」という本の289pに「五、神の池の実験」という項目があり、以下のように記されていました。

「滑走路、本物のトーチカ、指揮所、飛行機の掩体等を造って、実際に横須賀から編隊の飛行機が飛んできて爆撃した。又爆弾を地上に置いて静止爆発させ、生体に対する影響も調べたが、生体には豚が選ばれた。豚は皮下脂肪が厚く、鈍感なのでなかなか死ななかったが、死んだときは豚汁になって我々を悦ばせた。 神の池の実験は、元来は敵飛行場攻撃の為の実験であったが、金城会の諸君を案内した頃は、すっかり守備の為の資料になっていた。」


      茨城県・神之池航空基地跡地     
当地が「人間爆弾・桜花」の特攻訓練基地に設定されたのは、東京、横浜と至近距離にあり、しかも交通が不便で軍の機密保持に都合がよいこと、地質が砂土で飛行実験には最適であるという立地条件を備えていたからなのだそうです

神之池航空基地 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県‎鹿嶋市‎国末‎
座 標:35°55'55.4"N 140°40'16.3"E
標 高:9m
滑走路:東西1,400m、南北1,200mの大滑走路と4本の小滑走路。居切掘南側の砂地に桜花用第二飛行場
1,680mx80m(コンクリート)、1,500mx80m(コンクリート) 「日本海軍航空史」(終戦時)より
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1940年   この頃居切掘の北側一帯の民有地五百町歩が軍に買い上げられる
1941年06月 飛行場造成工事開始
1944年02月 15日、完成
    04月 予科練卒業生の練習基地として開場
    07月 桜花、特殊奇襲兵器として正式採用される
    11月 桜花専用の特攻部隊「神雷部隊」発足。霞ヶ浦、百里が原航空隊を経て当飛行場が訓練基地となる
1945年01月 桜花隊第一陣が南九州の各基地に進出
    02月 艦載機の空襲により壊滅的被害を受ける
    03月 第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃。桜花出撃数15、戦死15名。以下8月13日まで出撃続き、
        桜花隊による戦没者は55人
1993年12月 桜花公園開園

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
「海軍施設系技術官の記録」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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コメント 5

tochi

私も行きました
住金さんの工場見学もしてきました
少し前までには、敷地内にも色々とあったそうです
でも全て壊したとのことです
by tochi (2012-11-23 07:40) 

セバスちゃん

特攻兵器 櫻花
なんとも心苦しくなってきますね。
潜水艦でもこんな形の数人乗りがあったような?
僕、こんなにのほほんとしていてよいのでしょうか・・・。
なるようにしかならないのも事実なんですけど。
by セバスちゃん (2012-11-23 09:42) 

Takashi

入間基地の記念館で見た事があります。
着陸を想定していない機体での着陸訓練は難しかったんでしょうね。
後世に伝えるためにも残しておかないと。
by Takashi (2012-11-23 16:58) 

me-co

狂気の沙汰ですこんな兵器。でも、こういう愚挙があったから今日の平和があることを考えなければなりません。しかし、訓練も狂気だったんですね。
by me-co (2012-11-26 00:00) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■tochiさん
工場内の見学もされたのですか!
さぞかし見応えあったと思います。
いろいろ残っていたのですね。
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m

■セバスちゃんさん
>僕、こんなに
そういう気持ちにさせられますよね。
潜水艦型は回天のことではないでしょうか?

■Takashiさん
おお、地元でご覧になったのですね。
今もあるのでしょうか。
また開館したらお邪魔したいと思っています。

■me-coさん
>今日の平和
当時の特攻隊員の方は命を賭してそれを願っておられたのですよね。
by とり (2012-11-26 06:43) 

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