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田中(十日町)飛行場 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1974/08/10(昭49)(CB7410Y C6 325) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

新潟県十日町。

前記事の「伊達原飛行場跡地」の東北東約1.5kmにある「田中(十日町)飛行場」。

山の中の狭いガタガタ道の途中にあります。

看板等特にないので、見つけにくいです。

D20_0011.jpg

お邪魔した時には無人でした。

看板には「車やバイクの乗り入れは厳禁です」と書かれてました。

徒歩なら入ってもいいのだろうかと路面に凸凹をつけないように恐る恐る滑走路内へ。

D20_0006.jpg

よくこんな場所にこれだけ広大な滑走路が造れたものだと思いました。

市報とおかまち 1998年2/10(下記リンク参照) サークル交流録によれば、

川治の高台に位置する当飛行場は、開業医の田中医師が難しい用地交渉、環境交渉を乗り越えて、

昭和50年頃にようやく完成した民間飛行場で、

現在は、エンジン付きパラグライダー、超軽量飛行機、ジャイロコプター、十日町R/Cクラブ等、

いくつかのグループが利用しているのだそうです。

「田中飛行場」でヒットするサイトをいろいろ覗いてみると、以前は格納庫があったようですが、

お邪魔した時には発見できませんでした。


      新潟県・田中(十日町)飛行場      

田中(十日町)飛行場 データ

空港種別:場外離着陸場?
所在地:新潟県十日町市‎甲‎
座 標:N37°06′21″E138°45′53″
標 高:306m
滑走路:640m×60m
方 位:03/21
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1975年頃 完成

関連サイト:
市報とおかまち (6Pに当飛行場関連記事)   
ブログ内関連記事       


伊達原飛行場跡地 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/11/04(昭22)(USA M627 188) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

新潟県十日町市伊達原にあった「伊達原飛行場」。

海軍の秘匿飛行場で、「伊達原牧場」、「伊達原秘密航空基地」などとも呼ばれていたようです。

この飛行場は正確な位置が不明で、上に貼った航空写真、ネット情報から作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:伊達原 
建設ノ年:1945 
飛行場 長x幅 米:(記載なし) 
主要機隊数:小型 
主任務:退避 
掩体:(記載なし) 
其ノ他記事:工事中

D20_0005.jpg

赤マーカー地点。

南方向はこんな感じ。

真っ直ぐのアスファルト道路でいかにも滑走路跡っぽい感じですが、

実は画面奥からここまで下り勾配がついていて、

車だと、コロコロとどこまでも走ってしまう程です。

D20_0001.jpg

同じく赤マーカー地点。

北方向はこんな感じ。

ここからは平坦。

勾配のことだけ考えると、上図の線よりこちら側にずれていた可能性も。


      新潟県・伊達原飛行場跡地     
地元紙に終戦翌日の8月16日 B29が当飛行場や十日町上空を低空で旋回していたことが記されています

伊達原飛行場 データ
設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:新潟県‎十日町市‎西
座 標:N37°05′59″E138°44′59″
標 高:274m
滑走路:600m×30m
方 位:14/32
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」


日帰り新潟 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ伊達原飛行場敷地→Ⓒ田中飛行場→Ⓓ小千谷飛行場跡地→Ⓔ村松飛行場跡地→Ⓕ万代島飛行場跡地→Ⓖ沼垂飛行場跡地→Ⓗ新潟空港阿賀野川側→Ⓐ自宅

5月と6月に九州にお邪魔したオイラなのですが、その後仕事が超忙しくて、7月、8月と車中泊してのお出掛けはまったくできず、

9月某日、やっと1日だけ時間を作って新潟の飛行場見学に行って来ました。
(9月初旬にチャンスがあったのですが、台風で流れてしまった)

十日町の飛行場以外は全て戦前/戦中のもので現在は跡形もありませんでした。

明日以降順にアップ致します。

D20_0038aa.jpg

最後に寄った新潟空港阿賀野川側。


MotoGP 2011 [■ブログ]

7月末から始まった九州強化月間でしたが終了致しました。

お付き合いありがとうございました m(_ _)m

次回から新潟強化週間です。

 

ところですっかりタイミングが遅れてしまったのですが、

オイラはホンダファンでMotoGP(ミーハー)ファンなんですね。

MotoGPって日本ではマイナーだと思うのですが、F1の二輪版です。

MotoGP 2011 今年は久々に強いホンダが戻って来てくれて、

年間ランキングでホンダのマシンは1,3,4,6位に入り、

ドゥカティから移籍したストーナー選手がワールドチャンピオンになりました。

今年のMotoGPは嬉しいこと、悲しいこと、いろいろあって、語り出すとキリがないのでそれは置いといて、

今年は3月20日に開幕したのですが、9日前に発生した日本の震災のためにセレモニーが行われ、

選手たちから日本の被災地にメッセージが送られていました。

また、マシンにもシーズン通してだと思うのですが、日本を激励するメッセージが貼られていたのでした。

 

p108.jpg

13076257580031.jpg

写真は某掲示板から頂いてきました m(_ _)m


犀川飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/12/15(昭22)(USA M690 27) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

福岡県‎京都郡‎みやこ町‎にあった「犀川飛行場」。

海軍の補助飛行場でした。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)の中に、

「犀川(牧場) 資料表一 図一」があり、

右上に大きく「犀川基地平面図 縮尺三千分之壱」とある図には、

上の航空写真に白く映っている地割の位置に滑走路が描かれていました。

また滑走路には、「600M.000 30M.000」 と記されていました。

地図右下には周辺図があり、滑走路北側に誘導路が描かれていました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:犀川 
建設ノ年:1945-8 
飛行場 長x幅 米:600x30 
主要機隊数:小型機 
主任務:発進 
隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明
 

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  犀川
滑走路 三〇×六〇〇NE
縣郡村 福岡、京都 犀川村
記事  八月末既成

現在周辺は畑地になっています。

D20_0040.jpg

赤マーカー地点。

北東方向に向かって撮ってます。

画面右側から奥に向かって滑走路だったはず。


      福岡県・犀川飛行場跡地      

犀川飛行場 データ

設置管理者:海軍
種 別:補助飛行場
所在地:福岡県京都郡犀川村(‎現・京都郡‎みやこ町‎犀川木山‎)
座 標:N33°39′54″E130°56′31″
標 高:21m
滑走路:600m×30m
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」


草地航空基地(六九二基地、雷原飛行場)跡地 [├空港]

   2011年6月、2024年1月訪問 2024/2更新  

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撮影年月日 1947/12/15(昭22)(USA M690 84) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

大分県‎豊後高田市に広がる雷原(いかづちばる)台地。

ここに旧海軍の秘匿飛行場「草地航空基地(六九二基地)」がありました。

地元では「雷原飛行場」とも呼ばれていました。

現在は畑、工場等になっています。

後述しますが、当滑走路の長さについて、確認可能な2つの資料と現地説明板には600mx40mとあり、

1つの資料に 600mx30mとあります。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

作図してから測ったところ、滑走路長さはピッタリ600mでしたが、

幅は65mもあり、資料の数字とは大きく異なっています。

終戦から2年4ヵ月後の撮影なので、もしかして、排水溝含めて造成したんでしょうか。

当飛行場については、再生おじさん、アギラさんから情報頂きました。

地元での呼び名、長さ、面積等、詳しくはコメント欄をご覧ください。

再生おじさん、アギラさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m


■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)」の中に、

「草地(牧場) 資料表一 図一」がありました。

大判の青図には、右上に大きく「六九二基地略図」とあり、周辺の道、池との位置関係、

西北西~東南東方向の滑走路が描かれており、「40Mx600M滑走路(砂利)」と記されていました。

同資料の資料表には、

草地航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 大分県西国東郡草地村
最寄駅 日豊本線宇佐駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 型機、練習機
主要任務 発進用
 

とありました。


■防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」

にも、「六九二略図」として、当飛行場の大判の青図がありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:草地 
建設ノ年:1945-8 
飛行場 長x幅 米:600x40 
主要機隊数:小型機 
主任務:発進 
隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明
 

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  草地
滑走路 三〇×六〇〇EW
縣郡村 大分、西国東 草地村
記事  八月末既成

■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場は、昭和20年、宇佐飛行場が米軍の空襲を受けたため、

特攻機発進用の秘匿飛行場として造られました。

飛行場の建設は兵士、地元住民、動員学徒、朝鮮人労働者を使役して行われ、

8月に東西に幅40m、長さ600mの滑走路が完成しました。

基盤は南側の桂川から大量の石が運ばれて造られました。

結局この飛行場からは2機の練習機が飛び立っただけで終戦となったのだそうです。


(以下2024年1月撮影)

 
DSC_2481_00001.jpg

青マーカー地点。

見たくて見たくてたまらなかった説明板。

三度目の正直でやっと拝見できました。

雷原飛行場滑走路跡
 一九四一(昭和一六)年一二月八日に、太平洋戦争が起こりました。そのころ、ここ雷原に飛行場が、作られ始めました。
 桂陽小学校美和分校付近の田福池から雷の方に向かって東西に約六百メートル、幅は四〇メートルの滑走路ができました。ちょうどこのあたりが、滑走路の中心にあたります。
 飛行場を作るために、昔の高田小学校や桂陽小学校・美和分校の校舎に、兵隊さんたちがかわるがわるとまりこんで、飛行場を作りました。近くの人たちや遠く大田村や中津の人たちも「勤労奉仕」に来ていました。
 桂川から、引っ切りなしに石ころを運び上げ滑走路になる部分に広げ、その上に土をのせ上からたたいて固めました。滑走路の近くには、三つの格納庫が建てられました。
 飛行場ができてすぐ、一九四五(昭和二〇)年八月十五日に戦争が終わったので、練習用の双翼飛行機(赤トンボ)が、一機か二機飛び立っただけだったということです。
 わたしたちは、こわい戦争がないようにみんなで平和を守りたいです。一九九七年 ≪美和分校児童会≫

DSC_2479_00001.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向


      大分県・草地航空基地(六九二基地、雷原飛行場)跡地      

草地航空基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:大分県西国東郡草地村(現・豊後高田市‎美和‎)
座 標:N33°33′34″E131°28′06″
標 高:40m
滑走路:600m×40m
方 位:10/28
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年08月 創設

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」


日出生台飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/11/21(昭22)(USA M663 75) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

大分県‎由布市‎にあった旧海軍の「‎日出生台(ひじゅうだい)飛行場跡地」。

現在は「陸自・日出生台演習場」になっています。

滑走路跡の地割はほぼそのまま残ってますね。

D20_0033.jpg

赤マーカー地点。

なにやら警備が厳重で、ここから滑走路跡方向を撮るのが精一杯でした。 


      大分県・日出生台飛行場跡地      

日出生台飛行場 データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:大分県‎由布市‎湯布院町川上‎
座 標:N33°17′29″E131°20′10″
標 高:700m
滑走路:450m×50m?
方 位:16/34
(座標、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
ブログ内関連記事       


久住滑空場 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  



大分県‎竹田市‎久住町にある「久住滑空場」。

土砂降りの中だったのですが、たまたま管理人さんにお会いすることができ、

突然の訪問だったにもかかわらず格納庫の中を見せて頂きました。

D20_0019.jpg


D20_0018.jpg

最初のとは別の機体ですが、わざわざ中を開けて見せて頂き、計器類の説明までしていただきました。

また、グライダーの世界市場はドイツ等にガッチリ押さえられている現状があるわけですが、

戦前の日本が如何にグライダー先進国であったか力説しておられました。

そしてその一端を伺わせる碑がこの滑空場にはあります。

ここは由緒正しいすごい場所だったのでした。

D20_0021.jpg

格納庫近くにある碑。

左側の碑は滑空日本記録樹立と当滑空場開設30周年を記念するものです。

裏面に説明がありました。 建立由来(全文) 1934(昭和9)年9月11日 久住山肥前ケ城山頂から翔びたった 九帝五型滑空機「阿蘇號」は1時間26分の日本記録を樹立し 山岳滑翔の先駆をなした 九州帝国大学 佐藤博先生の設計 前田健一氏の製作 志鶴忠夫氏の操縦技術が一体となって快挙を成し遂げ これを契機に我が国のグライダー界は飛躍的に発展した 少年時代 その飛行を目撃した久住町白丹出身の九州工業大学 本郷英士先生が山岳滑翔の聖地とすべく1970(昭和45)年ここに滑空場を誘致開設した 久住滑空場開設30年の節目と21世紀を迎えるにあたりグライダーに情熱を燃やした先人達の努力と功績を顕彰しその夢を継承するためここに記念の碑を建立する 2000年5月

右側の碑:「久住滑空場南向き発航安全祈念碑」(全文)久住滑空場でグライダーが初めて飛んでから40年。今ここに、白丹中部牧野組合のご協力と九州の各大学航空部員の労力提供によって、従来の北向き発航に加えて南向き発航が完成した。南向き発航は、2005年5月17日、墜落事故によって亡くなられた九州工業大学航空部員と日本学生航空連盟教官の尊い命の上に進められたことを忘れてはならない。われわれは、お二人のご冥福をお祈りしつつ、空を目指す若者が事故の犠牲者になることを二度と繰り返さないように、この地での安全な飛行を永遠に目指すことを誓う。2008年5月吉日 日本学生航空連盟 教官一同 航空部員一同 朝日新聞社


      大分県・久住滑空場      

久住滑空場 データ

管理者:財団法人日本学生航空連盟
所在地:大分県‎竹田市‎久住町大字白丹‎
座 標:N33°02′07″E131°13′57″
標 高:800m
滑走路:
A:800m×30m 道路東側
B:500m×30m 道路西側道路寄り
C:500m×30m 道路西側格納庫寄り
方 位:15/33
航空管制周波数:くじゅうフライトサービス 130.625MHz
(座標、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
久住滑空場へようこそ    
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旧大分空港(大分海軍航空基地)跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1948/01/13(昭23)(USA R216 189) 
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撮影年月日1970/10/02(昭45)(MKU702X C4 21) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも)

大分県‎大分市にあった「旧大分空港」。

元々は「大分海軍航空基地」として建設されたものです。

アジ歴に地図があり(下記リンク参照)、先頭のグーグルマップはこの地図と上に貼った航空写真から作図しました。

飛行場敷地の境界線、特に北側から東側にかけては正確に線が拾えていないと思いますが、

おおよそこんな感じと思います。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:大分 
建設ノ年:1939 
飛行場 長x幅 米:1500x1200芝張ノ内1600x200砂利敷 1500x150 
主要機隊数:小型4.0 
主任務:雷撃実験 作戦 
隧道竝ニ地下施設:居住(8800平米)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型有蓋4 小型有蓋12 小型隠蔽31 其ノ他記事:雷同時調整36本 同格納庫252本


■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「大分空開隊(S13.12.15)(昭14建)」とありました。 


大分海軍航空基地は終戦、接収、返還を経て旧大分空港になりました。 

大分市中心部に近く、大分川を挟んで数キロ先には大分駅、県庁という最高の利便性の立地だっだのですが、

滑走路の両端を川に挟まれていること、また「大分地区新産業都市開発計画」により、

航空旅客の需要増大に対処するための空港施設拡充、特に滑走路の延長が不可能となったため移転しました。

1971年に現在の大分空港が供用開始し、廃港となった旧大分空港跡地は「大洲総合運動公園」として生まれ変わり、

現在に至っています。

D20_0391.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向。

D20_0379.jpg

同じく赤マーカー地点。

A,Bテニスコートにはさまれるように「芝生広場」があり、そこに碑があります。

「大分空港跡地」。裏面に碑文がありました。

大分空港跡地由来(全文) この公園敷地は旧大分空港の跡地でありますがその前身は旧大分海軍航空基地で戦後運輸省が第2種空港として整備し東九州の航空要路として重要な役割を果たしてまいりました その後大分空港が国東半島海岸に移転したのを機会に公園用地として国からの払下げを受けこのたび大洲総合運動公園として生れかわったものであります 
記 
昭和13年12月 大分海軍航空隊として開隊される
昭和19年 3月 大分海軍航空隊は解体され大分海軍航空基地となる
昭和20年 8月 太平洋戦争終結
昭和32年 3月 運輸省所管となり大分空港(第2種空港)として供用開始される
昭和46年10月 新大分空港は国東半島東海岸に移転
昭和48年 3月 公園用地として払い下げを受ける 
末広小華書 
 

D20_0380.jpg

「大分空港跡地」碑の隣に設置してある「神風特別攻撃隊発進之地」碑。

裏面には、「昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し」として合計18人の氏名、年齢、出身県を列記してあります。

年齢は19~23歳なのですが、先頭の人物だけ年齢が異なっており、「宇垣纏 (年齢)五五」と記されていました。

まったく知りませんでしたが艦隊司令長官・宇垣纏はここからの特攻死だったのですね。

昭和20年8月15日正午の玉音放送を聞いた後の出撃でした。

この宇垣纏の行為は、当時ですら「大勢の部下を道連れに無駄死にした」として批判を受け、二階級特進もありませんでした。

その一方で、 宇垣は「5機で出撃」と命じたものの、

部下は、11機(稼動可能な彗星艦上爆撃機全機)で出撃すると譲らず、宇垣が折れる形でこの出撃数となり、

また同型機は2人乗りなのですが、宇垣搭乗機は本来の乗員が降りようとせず3人搭乗となり、

11機、23名での出撃となったという面もあるのだそうです。

今のオイラには及びもつかない心境です。

出撃した11機のうち3機は不時着。不時着機の5名は生還したため、碑には18人の名前が刻まれました。

D20_0007.jpg

紫マーカー地点。

「富士航空機遭難の地」碑。

道路から少し緑地に入った所にありました。

裏面に碑文が埋め込まれていました。(全文)鹿児島空港から飛来した富士航空機株式会社所属コンベア二四〇型機は大分空港への着陸に失敗 此処旧裏川堤防に激突炎上した 時に昭和三十九年二月二十七日十五時三十分悲運の遭難者二十名 昭和五十年五月 裏川改修工事竣工に当り大分県建之 末広小華書

 

青マーカー点は旧ホーバークラフト乗り場です。

当空港閉鎖と同時に新大分空港間を結ぶ路線として開設されました。

いかに当地が利用者に便利な立地かよく分かりますね。

旧ホーバークラフト乗り場については下記リンクをご覧ください。


      大分県・旧大分空港跡地      

・大分海軍航空基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
飛行場:1,500mx1,200m芝、内1,600mx200m砂利敷

・旧大分空港 データ
設置管理者:運輸省
3レター:OIT
4レター:RJFO
空港種別:第2種空港
所在地:大分県‎大分市‎西新地‎2丁目‎
座 標:N33°15′07″E131°37′42″
面 積:188.8ha
滑走路:1,080m×30m
方 位:11/29
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年12月 15日、大分海軍航空隊開隊
1939年    建設
1945年08月 終戦
1956年04月 極東航空 松山線開設
1956年05月 駐留軍から返還される
    07月 運輸省が空港整備に着手
1957年03月 運輸省所管となり大分空港(第2種空港)として供用開始(1,080mx30m)
1964年02月 27日 富士航空コンベア機事故
1965年08月 大分県新空港建設促進協議会発足
1970年07月 新大分空港起工式
1971年10月 新空港供用開始(2,000mx45m)
1973年03月 旧空港跡地、公園用地として払い下げを受ける 

関連サイト
大分空港ターミナル株式会社/大分空港クロニクル(編年史) 
アジ歴/Bulletin No. 143-44, September 1944. survey of Japanese airfields in Empire area.(64,65コマ)
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


臼杵航空基地(六九四基地、臼杵牧場家野飛行場)跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/04/05(USA M198-2 73) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

大分県‎臼杵(うすき)市にあった「臼杵航空基地(六九四基地、臼杵牧場家野飛行場)」。

現在跡地は畑、高校等になっています。

■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)」の中に、

「臼杵(牧場) 資料表一 図一」がありました。

上に貼った1947年の航空写真と比較すると、アチコチ地形が怪しいのですが、

大判の青図には、右上に大きく「名称 六九四基地(臼杵) 位置図 縮尺 五千分ノ壱」とあり、

図に描かれている滑走路には、「滑走路(砂利敷) 600M 30M」とありました。

マップをご覧の通りで、飛行場のあった地区は防風林で囲われた形状になっており、

「位置図」によりますと、滑走路はこのポッカリと開けた中央部分に位置しています。

また図では、北東側の細く絞り込まれていく所には、木々に囲まれた神社の地図記号があり、

その部分から滑走路が始まっていました。

(ググってみた範囲では、現在この神社はないようです)

上に貼った航空写真は、滑走路適地と思われる範囲を赤で囲ってあります。

そしてその範囲内で、(神社があったのは多分この辺り)と思われる部分を東端とする、

長さ600mx30mの滑走路が無理なく設置できる場所をグリグリ動かしながら探りました。

滑走路位置の候補は複数考えられるんですが、最も可能性の高い位置は、

おおよそ先頭のグーグルマップの位置になるのではないかと。

同資料の資料表には、

臼杵航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 大分県北梅部郡家野村
最寄駅 日豊本線臼杵駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 型機、練習機
主要任務 発進用
 

とありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:臼杵 
建設ノ年:1945-8 
飛行場 長x幅 米:600x30砂利敷 
主要機隊数:小型機 
主任務:発進 
隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明


■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」

には、「昭20建」とありました。 

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  臼杵
滑走路 三〇×六〇〇NE
縣郡村 大分、北海部 臼杵町
記事  八月末既成

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

地下に24畳位の広さの指令室設けられ、無線機も設置されたが、未完成のまま終戦となった。(中略)
当時建設機械がないので、作業はすべてシャベルや鍬による手作業。
設営隊員の中には40歳を越える年配の兵士も多く、夏の重労働の上に食料事情が悪かったため、
食料もたらず、ずいぶんきつそうに見えた。
中には空腹に耐えかねて、地元の人に煎り豆をねだって、それを貪るように食べる年配の兵士も多くいたそうです。

D20_0375.jpg

撮影地点(赤マーカー)


    大分県・臼杵航空基地(六九四基地、臼杵牧場家野飛行場)跡地     
本土決戦用特攻基地として使用する計画でしたが、未完成に終わりました

臼杵航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:大分県北梅部郡家野村(現・臼杵市‎家野‎)
座 標:N33°05′59″E131°45′54″
滑走路:600mx30m
方 位:05/23
標 高:32m
(座標、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1945年06月 9日、着工
    08月 最後の仕上げ作業中に終戦

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」