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唐瀬原陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  

 

無題1.png
撮影年月日 1947/12/07(昭22)(USA M685 4)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

宮崎県児湯郡にあった陸軍の「唐瀬原飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

北側に飛行地区、南側に諸施設、という配置になっていますが、

要図では南側の諸施設が集まる敷地がひし形になっているのに対し、

1947年の航空写真では、更に南側に大きく敷地が拡張されているように見えます。

資料から確認がとれないため、取り敢えず要図優先で作図しました。

おおよそこんな感じと思います。

同資料に情報がありました。

飛行場名  唐瀬原
位 置   宮崎県児湯郡川南村
規 模   要図(北東-南西1900 北西-南東1600)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 飛行機庫
摘 要   施設軍有 


■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

の中にも当飛行場の資料と「要図」がありました。

以下資料を引用させて頂きます。

唐瀬原
判決 自重5屯以下の使用に適す
滑走地区 1,600x200
舗装路 なし
土質 砂質火山灰
地表面の状況 表面張芝にして地耐力概ね可なり
周辺の障碍物の有無 次等恒風なる時西側山地に注意を要す
誘導路 1,300x10  1,800x30
宿営 兵舎5棟(250名収容可)
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 配線しあるも暴風のため大なる復旧を要す
給水 水道施設あるも発動機の復旧を要す
風向 東風

 



■陸軍空挺部隊

パレンバン降下作戦等で知られる「陸軍空挺部隊」。

浜松で発足した空挺部隊はその後、満州白城子を経て宮崎県新田原基地(赤いヒコーキマーカー)に移駐しました。

間もなく唐瀬原に空挺部隊訓練用の「川南基地」が完成し、そちらに移駐しました。

ヒコーキで降下訓練を行うのですが、その降下場所は唐瀬原のJA施設付近(赤マーカー)に造られました。

隊員たちは川南基地から列車で約15km先の新田原基地に移動、ヒコーキに搭乗し、

約18km先の唐瀬原に降下するという訓練を繰り返したのだそうです。

後にその唐瀬原に「唐瀬原(からせばる)陸軍飛行場」が完成したのでした。

落下傘の練習が始まると、輸送機から次々と純白の花開く光景がよく見られるようになったのですが、

傘が開かないまま黒い粒が垂直に落ちていく光景も何度か見られたのだそうです。

D20_0269.jpg

青マーカー地点。

挺進第三連隊が使用していた給水塔。

車と比べて頂けると、その巨大さが分かると思います。

独特な形状が放つ圧倒的な存在感。もの凄く目立ちます。

この給水塔の地下に井戸が掘られており、そこから水を汲み上げて塔頂部のタンクに貯水して給水したのだそうです。

同様のものが他にもあったのですが、現存するのはこれが唯一だそうです。

D20_0270.jpg

給水塔拡大。

よーく見ると右側に雫が見えます。撮影時、大粒の雨が降り始めていたのでそのせいだろうと思っていたのですが、

この給水塔は現役であり、晴れていても水漏れがあると書いているサイト様がありました。

D20_0258.jpg

紫マーカー地点。

護国神社に碑がありました。

(一部抜粋)昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の 降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ 天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞら えて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が錬成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した

ここは奥まっていて分かりにくいです。

「ホテル竹乃屋」、「川南町老人福祉館」の裏手で、「こんな奥まで入っていいのかしらん」という場所でした。

D20_0273.jpg

唐瀬原飛行場の飛行地区は現在こんな感じ。

撮影時は激しい雨がなかなか止まず、こんな写真でス。


      宮崎県・唐瀬原陸軍飛行場跡地     
降下場は、1日約1万人の手作業で50日で完成。飛行場は1年半、全ての完成には約2年かかったのだそうです。第一挺進団の中から沖縄の読谷、嘉手納飛行場に強行突入した義烈空挺隊が編成されました

唐瀬原陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県児湯郡川南村(現・児湯郡‎川南町‎川南‎)
座 標:N32°13′30″E131°33′04″
標 高:39m
飛行地区:1,900mx1,600m不定形
滑走地区:1,600mx200m
(座標、標高はグーグルアースから。他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1940年12月 陸軍浜松飛行学校に練習部創設。落下傘部隊の要員養成と調査研究始まる
1941年01月 地上訓練始まる
     02月 第一回降下実施。飛行場は浜松飛行場、降下場は浜松爆撃場を使用。要員増加に従って手狭になる
     05月 中国東北部(満州)の白城子に移動。白城子陸軍飛行学校練習部となる
        しかし当地は中央から遠く、寒冷時の訓練は著しく困難であるため再移転の必要が出る
     10月 新田原に移動。航空総監直属の陸軍挺進練習部となる。
        飛行場は新田原、降下場は唐瀬原の軍馬補充部の牧場を転用される。
     11月 挺進第一連隊編成
1942年01月 挺進第一連隊の搭乗船明光丸、南シナ海で撃沈される。挺進第二連隊の編成急ぐ
     02月 挺進第二連隊、パレンバン挺進作戦。その後様々な作戦に参加する

関連サイト:
ブログ内関連記事(滑走路写真の記事)    

この記事の資料:
宮崎の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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コメント 8

Takashi

航空祭で空挺部隊の降下を見ました。
適地に飛び降りて行くんですから訓練も相当厳しいんでしょうね。
この給水塔の存在感、なんか迫力あります。
by Takashi (2011-11-05 23:39) 

miffy

現役の給水塔スゴイですね。
大きくてメンテナンスも大変そうですね。
by miffy (2011-11-06 18:32) 

鹿児島のこういち

パレンバンは大日本帝国陸海軍にとって、石油確保という意味で大事な場所ですよね。
給水棟、現在も使われているんですか(◎o◎)ポンプとか配管は新しい物に換えられているんでしょうね。高いところだから清掃も大変だねぇ~(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2011-11-06 18:35) 

sak

給水塔の大きさにびっくりです
by sak (2011-11-06 18:45) 

pica

車も電柱もホントにちいさく見えますね;;
コワイくらいの大きさです。
by pica (2011-11-07 01:34) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■Takashiさん
降下を見ましたか。オイラはまだ見たことないです。
空挺部隊と言えば、エリート中のエリートなんだそうですね。
給水塔、迫力ありますよね。

■miffyさん
高所恐怖症の人には絶対無理そうです^^;

■鹿児島のこういちさん
>パレンバン
恥ずかしながらジパングで初めて知りました。
みらいがまず向かった場所でしたね。

■sakさん
実物見た時には目の錯覚かと思う位大きかったです(@Д@)

■picaさん
>コワイくらいの大きさ
本当にそんな感じでした。
天気悪いから余計ですね。
by とり (2011-11-07 05:46) 

OILMAN

こんにちは。
給水塔、スゲー大きさですね!
by OILMAN (2011-11-07 20:51) 

とり

■OILMANさん こんにちは。
遠くからも良く見えて、その大きさにはとにかくビックリでした。
高さがどの位あるのか分かりませんが、ひょっとすると東京スカイツリーといい勝負かも。
by とり (2011-11-08 06:40) 

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