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都城西(都城)飛行場(都城地方航空機乗員養成所)跡地 [├空港]

    2009年10月訪問 2023/1更新  


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(昭和10年11月撮影)高度400米 方位E 距離約1,000米
1.png
1935年(昭和10年)11月調査資料添付地図 Translation No. 19, 20 December 1944, airways data; Kyushu Chiho. Report No. 3-d(15), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

無題.png
撮影年月日 1946/04/19(昭21)(USA M57 221)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

宮崎県都城市、前記事の「都城飛行場」の南西約6.6キロにあった「都城西飛行場」。

当飛行場については、地元の方から当時を偲ぶ貴重な情報を多数頂き、作図にも反映させて頂きました。

詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。

あーちゃんさん、KOOLさん、ばんびいさん、ありさん、えみさん どうもありがとうございましたm(_ _)m

 

■水路部資料「航空路資料 第7 昭11-8 九州地方飛行場及不時著陸場」

に当飛行場の地図が添付されているのですが、

そこに図示されている飛行場敷地はL字形をしています(下記リンク参照)。

この資料の当飛行場に関するページは、「1935年11月調」となっています。

年表にまとめましたが、この飛行場は1934年11月に民間飛行場として誕生しました。

それで水路部の資料は、開設から丁度1年後の地図が載せられていることになります。

航空写真、現地説明版によれば、飛行場敷地は最終的に「正方形」になったんですが、当初はL字形だったんですね~。

その後 1939年3月に誘致活動の結果、逓信省航空乗員養成所になることが決定し、

この決定を受けて「飛行場西南部隣接地(82.6ha)拡張」。とあります。

西南部隣接地の拡張では、方向的に敷地は正方形にならないので、

何度かの拡張を経て正方形になっていったのだと思います。

ということで上のグーグルマップは、

コメント欄で頂いた情報、1947年の航空写真、現地の説明版を元に作図しました。

一応終戦の年、"最終形態バージョン"のつもりです。

前述の通り、現地の説明版の中に、

「昭和九年末に(中略)建設されたもので、ほぼ正方形をしており対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。」

とあります。

飛行場の敷地の正確な境界線については資料が見つからず、航空写真と、説明版の「ほぼ正方形」を頼りに引き、

1947年の航空写真で、この飛行場敷地内で極めて異彩を放っているいかにも滑走路っぽい地割を囲いました。

説明版の中で滑走路の長さについて、1,200mとありますが、

作図した滑走路をグーグルアースで測ってみたところ、1,170mx196mでした。

「対角線上に…滑走路」という説明ともほぼ合致しており、これが滑走路なのだと思います。

実は1947年1月の写真では、滑走路東端は、敷地の境界線から外側にはないように見えるのですが、

1946年4月の写真では滑走路端がモヤッと境界線の外側に飛び出しているように見えます。

東端が正方形の境界線から飛び出していたとすると、

滑走路の両端が飛行場敷地から飛び出していることになるのですが、説明版には、

「昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。」と記されており、

延長の末に飛び出てしまった。ということなのかもしれません。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  都城飛行場
経営者  都城市
所在地  宮崎縣都城市五十市
水陸の別 陸
滑走区域 長七?〇〇米幅三〇〇米 長六?〇〇米幅三?〇〇米
備 考  (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、「都城西飛行場記録」がありましたので、以下引用させて頂きます。

判決 赤點線の部分にして自重四屯以下の飛行機の使用に適するも彈痕補修せる部分は注意の要あり(降雨の場合使用不能なるも晴天となりて概ね四時間後は使用し得)
飛行地区
 滑走地区 一五〇〇x一三〇 芝地なるも所々彈痕補修しあり
 舗装路 なし
 土質 腐蝕土 
 地表面の状況 表面張芝にして地耐力概ね可なり
 周辺障碍物の有無 なし
付属地区
 誘導路 約一三、〇〇〇x三〇
 宿営 爆撃に依り三角兵舎の大部分は破壊せられ現在五棟(二〇
名収容可)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 三角兵舎五棟に配線しあり
 給水 井戸二ヶなるも水量極めて少く搬水車の必要あり
其の他
風向 東風なるも朝霧多く冬期自十一月至三月は北風にして(霧島颪)強風なり

実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・判決:「赤點線の部分にして自重四屯以下の飛行機の使用に適するも彈痕補修せる部分は注意の要あり(降雨の場合使用 不能なるも晴天となりて概ね四時間後は使用し得)」
   →「黒点線部のみ8頓以下の使用可能」
・給水:「井戸二ヶなるも水量極めて少く搬水車の必要あり」→「水道なし、井戸2ケなるも水量極めて少く
搬水の必要あり」
・風向:「東風なるも朝霧多く冬期自十一月至三月は北風にして(霧島颪)強風なり」
   →「夏季は東風なるも
朝霧多く冬季は北風にして強風なり」

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  都城(西)
位 置   宮崎県都城市
規 模   要図(東西1800)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇〇名分
 格納施設 掩体 大一七ヶ所 小四七ヶ所
摘 要   施設官有



上記防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録には当飛行場の「要図」もありました。

極力「要図」を再現したのが上のグーグルマップです。

先頭のグーグルマップとの最大の違いは、見ての通りで飛行場を貫く滑走路の方向です。

滑走路がほぼ東西方向になっています。

滑走路内に囲った赤い部分についてですが、

「要図」ではこの部分が赤の破線で囲われていて、

「赤線以外は場内多数の弾痕あり 注意を要す」と記されていました。

この「要図」には、境界線に沿って設けられている北東~南西方向の滑走路も描かれているのですが、

「飛行場記録」に緒元が書かれているのは、東西方向の滑走路のみでした。

現地の説明版にある「正方形の飛行場対角線に滑走路」という説明がしっくりきますし、

なんといってもこの要図は、昭和二十年九月二十日調べのものです。

先頭の1946年の航空写真でも、滑走路東側部分になんとなくですが、

東西方向の滑走路の跡ではないかと匂わせるようなモヤッとしたものが映っています。

ただしこの「要図」の通りだとすると、4つ難点が。

1. 1946年8月の航空写真(終戦から僅か8ヵ月後)で東西方向の滑走路の地割が確認できない
   (すぐ上で「映っています」とか書いといてアレですが)
2.「要図」の滑走路が正しいとすると、1946年の航空写真にクッキリ写る斜めの滑走路的な地割は、
  戦後にわさわざつけたものということになるが、土地有効利用の観点からすると、方向が不自然(な気がする)
3.飛行場東側の駐機場、諸施設エリアと干渉してしまう
4.「要図」の通りに作図すると、滑走路の長さは 1,900mx200m だが、
  「要図」緒元には「1,500mx130m」と記されており、辻褄が合わない

ということで、相矛盾する情報をどう取り扱おうか迷ったのですが、

どちらも決定的なものに欠け一長一短のため、取り敢えず「両論併記」という形にしておきたいと思います。

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陸自の都城訓練所の北西側に上の写真の碑と説明版があります。

都城は広大な盆地であり、日豊本線、吉都線、志布志線(1987年廃止)が交差する鉄道輸送の要所だったため、

軍事的に重視され、軍都となりました。

そして都城には陸軍の飛行場が3つ(都城西、東、北)建設されたのですが、最初に建設されたのが当「都城西飛行場」でした。

当飛行場は1934年に建設され、「都城飛行場」と呼ばれていたのですが、

戦争末期の時期に更に2つの飛行場が追加されたため、「都城西飛行場」と呼ばれるようになりました。

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「特別攻撃隊出撃の地」の碑と後方の説明板(全文)

鎮魂(都城西飛行場)
太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立って行った。
都城西飛行場は、昭和八年都城歩兵二十三連隊が満州事変から鎧旋したのを記念して、昭和九年末に一般市民及び諸団体の勤労奉仕等により建設されたもので、ほぼ正方形をしており対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。
昭和一七年四月には、民間航空機要員の養成を目的とした逓信省航空乗員養成所が設置され、九五式一型乙中間練習機(赤とんぼ)による訓練が行われていた。
太平洋戦争が始まり、昭和十九年には明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が西飛行場に展開していて、一区隊(陸士五十七期と甲種幹部候補生転科の少尉)、二区隊(少年飛行兵)の二隊が一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施していた。
翌年の昭和二十年三月には、南九州の各基地に来る沖縄戦に備えて飛行部隊が集結しており、都城東、西飛行場には第百飛行団、四式戦(疾風)装備の飛行第百一・百二戦隊及び特攻二隊が展開してきた。
同年三月十八日に午前七時頃初めての空襲を受けたが、地上勤務員によりほぼ復旧している。
同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立ち若い命を散らしている。
同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
以後、出撃は都城東飛行場からとなり同年八月十五日終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。
平成十三年六月吉日 都城特別攻撃隊戦没者奉賛会 会長 岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に有ります。

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DSC_0125.jpg

当飛行場の北西約1.6kmのところにトーチカがあります。



トーチカと田の神(全文)トーチカは、コンクリートで堅固に構築して、内に重火器などを備えた防御陣地のことで、ほとんど半地下式になっている。このトーチカもその様式にならっており、太平洋戦争が激しくなってきた昭和十八年(一九四三)、本土防衛のために建設された。昭和一九年(一九四四)八月以降、陸軍航空隊が都城西飛行場を全面使用することになり、さらに同二十年(一九四五)四月からは特攻基地となったため、米軍機の空襲が激しくなったので、このトーチカからも機関砲で応戦していた。しかし、同二十年八月十五日終戦を迎えたため、防御施設としての役目を終えた。当時は、この他にも数箇所にわたり設置されていたが、五十有余年の歳月とともに徐々に取り壊され、このトーチカが風雨に耐えて残った。終戦直後、誰かがこのトーチカの上に田の神を据えた。以来、今日に至るまで豊作祈念の神として鎮座し、眼下に広がる水田を見守ってきた。田の神は、旧薩摩藩領内に多くみられ、稲穂の成長を願って作られ、田の神信仰として藩独特の文化を形成した。今後、このトーチカが戦争を語り継ぐ史跡として保存され、永遠の平和への願いを新たにする資となることを祈念して説明版を設置する。平成十年三月 都城教育委員会


     宮崎県・都城西飛行場跡地     

都城西飛行場 データ
設置管理者:民間→陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県都城市都原町
標 点:N31°44′07″E131°02′21″
滑走路:
 現地の説明版:1,200m
 「第四十一航空地区飛行場記録」:1,500mx130m(09/27)
 「日本海軍航空史」(終戦時):1,650mx200m
 グーグルマップ 東西方向:1,870mx196m
       北東~南東方向:1,170mx196m
(標点はグーグルアースから)

沿革
1933年09月 29日都城歩兵二十三連隊鎧旋を記念し、市会協議会で飛行場建設決議
1934年    予算計上、土地買収
    09月 11日 地均し工事着工
    11月 23日 民営飛行場落成式挙行(33ha)
1935年    陸軍特別大演習で観兵式場として使用。軍用機、民間機に利用される
1939年03月 逓信省航空乗員養成所の積極的な誘致活動の結果、都城に決定
       この決定を受け、飛行場西南部隣接地(82.6ha)拡張
1942年04月 21日 都城地方航空機乗員養成所開所式
1944年    戦況が激しくなり航空機乗員養成所閉鎖
       陸軍が接収し、明野教導飛行師団の第二教導飛行隊展開。隼、疾風による戦闘訓練を日夜実施
1945年03月 特攻隊展開
    03月 18日  空襲
    04月 06,12日 特攻隊出撃
    04月 27,28日 空襲 復旧作業できず、以後出撃は東飛行場から行う

関連サイト:
宮崎県/都城市/凱旋記念都城飛行場跡(西飛行場跡地)  
水路部資料「航空路資料 第7 昭11-8 九州地方飛行場及不時著陸場」  
ブログ内関連記事
     

この記事の資料:
現地の説明版
宮崎の戦争遺跡
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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コメント 25

Takashi

特攻出撃の地だから、しっかりと碑が残されているように感じました。
by Takashi (2010-03-08 12:40) 

tooshiba

命を散らせた若者(やっぱ英霊?)に合掌。
とりさん、乙です。<(`・ω・´)ビシッ
このブログは後世一冊の本にまとめられる日がやってくるような気がしてなりません。

・・・うちも、なんか、シリーズの企画を作らないといかんな。
企画はあるんだけどみんな倒れてるからな。(´・ω・`)ショボーン
by tooshiba (2010-03-08 15:21) 

sak

ほんのりオレンジに輝く碑に哀愁感じます
碑文読みながら戦争当時の様子、勝手な想像できるけど
何かの形でちゃんと残していかなきゃ...って思います
by sak (2010-03-08 17:14) 

takechan

よく見つけられましたね。お疲れ様です。
こういう歴史、きちんと語り継がれて欲しいです。
by takechan (2010-03-08 19:06) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■Takashiさん
確かにそうかもしれませんよね。

■tooshibaさん
ブログを本にする大それた考えはありません^^;
tooshibaさんの濃いィ鉄道話、オイラ好きですよ^^

■sakさん
ここがどういう地だったのか、きちんと残してあるといいですね。

■takechanさん
いえいえどういたしまして^^
>語り継
同感です。
by とり (2010-03-09 19:15) 

コスト

今はもう完全に市の中心市街地になってますね。
僕も tooshiba と同じく本にする価値があると思います^^
それか戦争関連の施設の本が作られる時には、
空港探索から抜粋して載せて残ってほしいです。
文部科学省とか戦争施設跡記録の資料を編纂して、
こういう歴史をちゃんと残していくべきだと思います。
by コスト (2010-03-09 20:18) 

me-co

毎回感心しているのですが、石碑の細かいところを書き留めていますねぇ。
・・・お人柄が滲み出ていますvv
by me-co (2010-03-09 23:42) 

とり

■コストさん
なんと勿体ないお言葉。
こういう史跡については、もっともっと深く掘り下げているサイトはいくらでもあるんですよ。
オイラのは"広く浅く"ですから^^;

■me-coさん
>人柄
性格が細かいってことですね。分かります^^
実はですね、デジカメでパチッと撮るだけで、
非常に信頼性の高い情報がゲットできるので、
最も楽な収集方法なのですよ^^
by とり (2010-03-10 06:07) 

OILMAN

こんにちは。
こちらでは特別攻撃隊(人間魚雷)の石碑を見つけることができます。
いつも普通に通り過ぎていますが・・・
戦争の傷跡を忘れないために、こういう所は残していかなければなりませんね。
by OILMAN (2010-03-14 20:45) 

とり

■OILMANさん こんにちは。
>人間魚雷
そちらに基地があったのですね。
いつまでも残しておいて欲しいです。
by とり (2010-03-15 07:18) 

あーちゃん

私は、この石碑のすぐ近くに小さい頃から住んでいます。

だけど、都城西飛行場後の石碑に花を置きに来た人は、誰もいなかったです。

でも、いまから何年か前に一回だけ石碑の前に、花がありました。

ここで、亡くなられた方の思いをこの石碑を見て、よく心が痛みます!

戦争は、絶対に繰り返しては行けないと思います!

by あーちゃん (2012-08-16 10:24) 

あーちゃん

あと、都城さくら聴覚支援学校の近くの横幅の大きい道路があって、そこは、飛行場の滑走路だったと聞いたことがあります!
by あーちゃん (2012-08-16 10:34) 

とり

■あーちゃんさん
地元の方ですね。
貴重なご意見ありがとうございます。
地元の方がどういう想いでこの碑を見ておられるということが知ることができました。
感謝致します。
by とり (2012-08-17 06:02) 

KOOL

小生、53歳になるオヤジです。
ネットを徘徊していたら懐かしい名前が出ていたのでコメントしました。

亡き父が自衛官で、小さいころから五十市に住んでました。
幼少の頃は、父と夕方の飛行場に犬を連れて遊ばせたり、
自衛隊のイベントでこの飛行場でキャンプをした想い出があります。

当時はまだ、だだ広くてススキが沢山あって、
この場所を普通に「飛行場」って言ってました。

普通に入れたのか、よく遊びに行ってました。
父から「この道みたいに見えるのは滑走路だったんだよ」って言われたことがあり、
私の記憶の中ですごく想い出のある場所になってます。
by KOOL (2015-03-06 16:43) 

KOOL

鹿屋もそうなのですが、
ここの飛行場跡地にも沢山の特攻花が咲いていたのを思い出したので
追記させていただきました。
by KOOL (2015-03-06 16:46) 

とり

■KOOLさん
地元の方にとってこの場所はずっと飛行場だったのですね。
特攻花、ここにも咲いていたのですね。
貴重なお話を聞かせて下さりありがとうございました。
1つ質問なのですが、
お父様の仰る「滑走路跡」はどの位置かご記憶ないでしょうか?
当飛行場の滑走路位置がどう探しても不明なため気になっております。
もしご存知でしたらご一報頂ければ幸いです。
by とり (2015-03-07 07:53) 

KOOL

ご無沙汰いたしております。
仕事の関係で、なかなかコメントが入れられず申し訳ありませんでした。

滑走路の位置ですが、なにぶん40年程以上の記憶なうえに、
中学校で他県へと引っ越したり、小学校4年の時に交通事故で幼少期の記憶が断片的でして、
ストリートビューを使い当時の記憶と照らしつつ思いだそうと頑張ってみているのですが、
当時の景色と様変わりしていて、なかなかおもうだすのが大変。(汗

まずは、自分の記憶に無かった画像の「特別攻撃隊出撃の地」の碑と
後方の説明板が何処にあるのか探してみたら、
私が父と飛行場に入っていた入口の真反対にある事が分かりました。
父と遊びに行っていた時は、碑と説明板の方には行ったことがなかったので
今まで知りませんでした。

私が飛行場(跡地)に入っていた所は、都城駐屯地正門前から県立都城西高校へと向かう道の、
たぶん、現在の自衛隊都原宿舎のある筋道か
訓練場入口のどちらからかを左折して飛行場(跡地)へと入っていたと思われます。
当時、一般道から飛行場へ入る筋道の角にたこやき屋がありました。

余談ですが、シンプルにウスターソースのみのタレで10円で4個買え、持ち帰りは素焼きのまま新聞紙に包んでいたのを思い出しました。^^;

飛行場へは父の車で行っていて、車のまま飛行場内(跡地)に入場して移動していましたが、演習場の門らしき物を通過した記憶はありません。
父が自衛官だったので、すんなり入れたのか
ただ、
飛行場内(跡地)で一般人のような方も場内で見かけておりましたので
出入り自由だったのかもしれません。

場内に入り程良くしたら左右に走る舗装した細長い道が延々と続いておりました。
中央に排水用の蓋の続いた古い道で、北東から南西方面に走っていたと思います。
これを父は滑走路だと申しておりました。
本当に滑走路なのかどうか、定かではないですが、
色々な資料(写真)等を拝見すると、
滑走路ないし滑走路へと向かう道なのではないかと思います。

北東の方は木が生えた中に続いていて、
南西の方は・・確か茶畑に続いていたような。。。。
他にも同じような道があった記憶があるので、
南西の茶畑が正解かどうかは分かりません。

地図だと、北東は聴覚支援学校の裏の林?並木?と
南西は、都城高等学校の北西側に走る道を繋いだ直線が
滑走路と言っていた道ではないかと思います。

他にも、
場内に入った右手に四角い?台形状の丘があり
その手前を先程の北東から南西に走る道から
直角に北西に延びる同じような道と、
あと、北東から南西に走る道から斜めに分岐し西へと延びる道があったと思います。

ただ、現在の訓練場の敷地よりもっともっと延びていたような気がします。

他にも北西に真っ直ぐに延びた道があったと記憶しているのですが、
位置関係が思い出せずで・・・

記憶が曖昧で申し訳ありません・・・
また、思いだしたら書き込みますね。


マップの航空写真を眺めていたのですが・・
もしかしたら、訓練場内の道の一部は
当時の滑走路とおぼしき道の位置関係と合致するかもしれません。



実際に現地を確認できたら確信がもてるとは思うのですが、
思いだし思いだしなので申し訳ありません。
現在は関西に住んでおり確認が出来ないのが
ほんと残念です。。。

そう言えば、
余談ですが、西飛行場跡地の南側の谷の側壁に防空壕がありました。
現在はどうなっているのか不明ですが、
当時、その真下の小川で沢ガニを沢山取って遊んでいた事を思い出しました。
都城ってけっこう防空壕あって、子供ながら探検しに行ってました。
今では入れないでしょうし、危険行為として親が行かさないでしょうね。
^^;






by KOOL (2015-08-07 18:21) 

KOOL

追記。

「特別攻撃隊出撃の地」の碑のある方が飛行場としての正門(正面)だったのかもしれませんね。
私が入った方は南に谷があり、
当時移動するには困難だったと思われるので、
私は飛行場跡地を裏から見ていたのかもしれません。
推測ですが。。。
by KOOL (2015-08-07 18:28) 

とり(本人)

出先のためログインしておりませんが、本物です

KOOLさん
小学生の時に大変な目に遭われたのですね。
ご多忙のところ大変な手間を取らせてしまい、申し訳ありません。
週明け自宅に戻ってじっくりと解析させていただきます。
貴重な情報をありがとうございました。

10円で4個買えるたこ焼き、いいですね~
持ち帰りは素焼きのまま新聞紙とか、防空壕を探検とか、
おおらかな時代でしたね^^


by とり(本人) (2015-08-08 05:30) 

ばんびい

はじめまして。
都城訓練場のグーグルアースを見るとわかりますが、
訓練場の西側の原っぱに東西に道路のようなものが走っています。
以前それが滑走路だと教わりました。
滑走路跡地の名残りは他にも、ダイレックス都原店から四角い区画を東西に斜めに走る道路もそうですね。
意外と現在の地形に名残りを見ることが出来るのはブラタモリのようでもありますね^^
by ばんびい (2015-11-20 13:33) 

とり

■KOOLさん
頂いたコメントを記事に反映させるのが大幅に遅れてしまい申し訳ありませんでした。
ここご覧頂けていると良いのですが。。。
KOOLさんがお父様と飛行場跡地に進入したと思われるルートを上図に灰色線で引いてみました。
「たこ焼き屋さんはここの角かしらん」なんて考えながら作図しました。
こんな感じで合ってますでしょうか?
また、頂いたコメントの、「中央に排水用の蓋の続いた古い道」とは、
コチラ↓の2pの写真の暗渠のことでしょうか?
http://www.town.mimata.lg.jp/uploads/kfm/10_kyouiku/03_bunnka_rekisi/07_otenjyodake/otenjyo6.pdf
廃水のため、滑走路を取り囲むように暗渠が造られた例は、同じ陸軍の越谷飛行場にも例があります。
拙ブログ内で恐縮ですが↓宜しければご覧くださいませ。
http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/koshigaya-airfield

改めて当飛行場跡地について調べてみたのですが、防空壕の存在についての記述は
KOOLさんの情報が唯一のようです。
「跡地の南側の谷の側壁、真下に川」とのことでしたので、「ここかなあ」と思われる場所に
「防空壕」と文字を入れてみました。
改めまして、貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m

■ばんびいさん いらっしゃいませ
>訓練場の西側の原っぱに東西に道路のようなもの
上図赤線で引いてみました。
滑走路と同一の方向に走ってますね。
ダイレックス都原店から伸びる道は、オイラが「ここが滑走路じゃないかなあ」
と考える地割と完全に一致しました。
ホントにブラタモリのようですね。
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-11-21 21:40) 

あり

転勤族でしたが、すぐ近くの市営住宅に小学生の頃住んでました。
もう54才のオヤジですが、谷の向かいにあった「飛行場」で遊んだ遠い記憶をたどって、あれは何だったんだろう、とネット検索してたらここにたどり着きました。
詳しい情報を有難うございます。みんなあの場所を「飛行場」と呼んでいました。自衛隊の訓練場の奥にありました。当時はなぜこんなところに飛行場があるのかも分からないまま子供達はみんな自転車で入って遊んでいました。
特に柵とかなかったので自由に入れる場所だっとと記憶しています。住宅地も何もない広大な原っぱに、舗装がボロボロになった滑走路か誘導路みたいなものがありました。
伝声管のようなもので遊んだ記憶もありますが、これは訓練場の方だったかも知れません。
駐屯地から訓練場に向かう道に、確か回転焼き屋さんがありました。郵便局を過り過ぎ、谷を渡って、都城高のグランドの横を通って入った記憶があります。
そういえばリモコンの飛行機を飛ばしている人もいた気がします。
とても懐かしいです。今は普通の住宅地になっているのかな?
by あり (2016-04-30 21:04) 

とり

■ありさん
いらっしゃいませ。
当時を窺い知る貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
ありさんからいただいたコメントと地図を見比べながら拝見したのですが、
KOOLさんのルートと同じみたいですね。
回転焼き屋さんというのは、もしかしてKOOLさんのコメントに出てくるたこやき屋さんと
同じなのでしょうか。
やはり自由に出入りできたのですね~。
羨ましいです。
オイラも7年前に一度お邪魔しただけなのですが、
滑走路周辺はすっかり住宅地で、飛行場の面影は感じられませんでした。
by とり (2016-05-01 10:19) 

えみ

私は小学生のころ良く飛行場で遊びました。家から歩いて20分位です。子供のころ飛行場の台形の岡の上で歌を唄ったりしました。また何故だか飛行場の広場には子供の胸の深さの位の溝が掘ってあり、随分長い溝だったので皆でかくれんぼをしました。溝は所どころ丸い形だったように思います。ススキが沢山ありました。
by えみ (2016-08-09 15:38) 

とり

■えみさん いらっしゃいませ
貴重な思い出を教えて下さり、どうもありがとうございました。
by とり (2016-08-10 06:05) 

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