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木津川(大阪)飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2022/6更新  


9.png
(昭和9年10月撮影)高度250米 方位NE 距離1,800米無題4.png
1934年(昭和9年)10月調査資料添付地図 Translation No. 31, 12 March 1945, Airways data: Kinki Chiho (A). Report No. 3-d(29), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)


大阪湾に面した大阪市の船町。

巨大な製鉄工場があり、敷地に沿って極太の配管が束になって延々続いています。

非日常の光景です。その筋のマ〇ア様がいるのも分かる気がしました。

かつてここに「大阪飛行場(木津川飛行場)」がありました。

特に1920年代、大阪の飛行場といえば、ここのことであり、

国内線が連日飛び回っていました。

先頭のグーグルマップは上に貼った図から作図しました。

敷地内に着陸帯が設定され、更に滑走路もありました。

青マーカーの所に陸上機、水上機それぞれの格納庫等、諸施設がかたまってますね。

「報知年鑑 大正15年」の本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕によれば、 

当飛行場の管理人は、航空局とありました。

無題h.png

この画像は国立国会図書館ウェブサイトから転載しました(保護期間満了に付転載可。下記リンク参照)。

大正15年調べの本邦民間飛行場一覧で、27の民間飛行場が並んでいます。

画像の下の方なんですが、当飛行場が出ています。

使用者は、西田仲右衛門と日本航空株式会社が並んでおり、種類は陸上と水上、

位置は大阪市港区船町木津川尻となっています。

ここは元々港区だったのですが、昭和7年に港区から分割されて大正区が新設されました。

後述しますが現地説明板等によりますと、当飛行場は元々水上飛行場で、

陸上飛行場としては、昭和2年着工で、運用開始は昭和4年となっています。

上の画像は大正5年調べの情報ですが、

西田仲右衛門と日本航空株式会社共に陸上飛行場を使用しているように受け取れ、計算が合いません。

場所自体は明治42年測図の地図でも「築港埋立地」として存在しています。

それでこの「種類・陸上」とは、水上機基地の地上施設部分(格納庫とか事務所とか)なのだろうか。

なんてことも考えたのですが、この一覧表には全部で7つの水上飛行場が挙げられていて、

そのうち陸上についての記載もあるのは、ここを含めて2つだけ。

後はすべて水上の位置、面積のみの記載です。

それと、西田仲右衛門氏は陸上のみ、日本航空株式会社は陸上と水上の両方。的な書き方になっているのも

気になります。

もしかして、大正時代から当地では細々と陸上機の運用もしていて、

現地説明板等にある「昭和2年陸上飛行場着工」とは、

昭和に入ってそれまでの細々から本格的な陸上機の運用を目指した。という事なんでしょうか??

陸上部分、面積的には一つ上の静岡県の飛行場より少し広い位ですし。

D20_0150.jpg

赤マーカー地点。

飛行場跡地に隣接する一角に顕彰碑が設置されています。

右の説明板より:木津川飛行場(全文)わが国の近代航空技術は大正七年(一九一八)ごろから急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正一一年からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正一二年ごろからです。昭和二年(一九二七)に着工し、昭和四年には未完成のまま東京・大阪・福岡間に一日一往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であったため、昭和九年の八尾空港、一四年の伊丹空港完成により、その役割を終え、十四年には閉鎖されました。大阪市教育委員会

左の「木津川飛行場跡」の石杭側面には、「我が国最初期の本格的な民間飛行場である 昭和四年(一九二九)には東京-大阪-福岡を結ぶ定期旅客便の運航が開始され、近代大阪の玄関口として重要な役割をはたした」と彫られていました。

D20_0156.jpg

説明板より:昭和四年の木津川飛行場

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6,7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-京城間 毎日一往復
   京城-奉天間 毎日一往復
   奉天-新京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-北京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-青島間 毎日一往復
   青島-天津間 毎日一往復
   天津-北京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-長野
区間 大阪-金沢間 毎日一往復
   金沢-富山間 毎日一往復
   富山-長野間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-松江
区間 大阪-鳥取間 毎日一往復
   鳥取-松江間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-高知
区間 大阪-徳島間 毎日一往復
   徳島-高知間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  大阪飛行場
経営者  國
所在地  大阪市大正区船町
水陸の別 陸、水
滑走区域 東西七二〇米 南北四〇〇米
備 考  水上滑走区域は大阪築港外水面一帯

D20_0159.jpg

顕彰碑すぐ後方にはこんなものが。ぐるぐる回って高度を稼いでから木津川を渡るようになってます。

カーナビ読みで900mもぐるぐる回りました。 (@Д@)


      大阪府・木津川(大阪)飛行場跡地     
「民間飛行學校練習所其他」(航空年鑑昭和六年)の中で、「西田飛行機研究所(事務所:大阪市東區今橋三丁目三〇 飛行場:大阪市港區船町大阪飛行場 創立時は關西飛行協會:大阪市東淀川區三國本町)」として当飛行場が登場しています。アギラさんから情報頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

木津川飛行場 データ
管理人:航空局
種 別:水陸両用飛行場
所在地:大阪市港区船町木津川尻(現・大阪市‎大正区‎船町‎1丁目‎)
座 標:N34°37′49″E135°27′31″
面 積:報知年鑑1926年調べでは、陸上19.1ha、水上165.3ha
滑走区域:東西729mx400m(水上滑走区域は大阪築港外水面一帯)
(座標はグーグルアースから)

沿革
1922年   木津川河口や堺の水上飛行場を利用して東京、徳島、高松、別府などへの定期貨物輸送始まる
1923年   木津川河口に陸上飛行場が構想される
1926年   この頃、西田氏と日本航空も使用していた
1927年   陸上飛行場着工
1929年   東京・大阪・福岡間に1 日1往復の定期旅客便が就航
    03月 30日 日本航空輸送研究所は堺飛行場での定期路線運航を廃止。木津川に移転
    11月 3日 日本航空輸送研究所の格納庫、事務所落成
1931年   この頃、西田飛行機研究所が当飛行場を使用していた
    09月 12日 日本航空輸送研究所の格納庫増築
1934年   八尾空港完成
1939年   伊丹空港完成。木津川飛行場閉鎖

関連サイト:
大阪飛行場(木津川)    
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 


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コメント 7

sak

ここに飛行場があったのですね
未完成のまま定期便を飛ばしたってすごいかも(^^;

by sak (2011-01-28 11:24) 

ジョルノ飛曹長

飛行艇の飛行場跡ですかね。(^-^)
by ジョルノ飛曹長 (2011-01-28 23:51) 

tooshiba

後の関空も海上空港なように、ウォーターフロントに設置したという観点は良かったかもしれません。
しかし、当時のこの辺りはうら寂しい海岸だったのではないでしょうか。それに、アクセスも大変だったでしょうし。
そもそも、基礎が固まっていないのに飛行機を飛ばしたのは、凄い“英断”ですよね。事故はなかったのでしょうか?
八尾と伊丹ができて、閉鎖になったのも頷けます。
by tooshiba (2011-01-29 02:42) 

masa

昔の写真があると当時の雰囲気がよくわかりますね。
by masa (2011-01-29 08:03) 

an-kazu

山梨県には山岳地故にループ橋が多いですが、
東京のレインボーブリッジのように、
港湾地区でも多く見られるようですね!
by an-kazu (2011-01-29 15:46) 

コスト

距離的には街中に近いんでしょうが、今の駅が近くにないし、
当時はもっとアクセス悪かったんでしょうね
市の教育委員会が顕彰碑とか作ってるんですね。
下の地図にぐるぐるまでちゃんと載ってるのに笑いました^^

by コスト (2011-01-29 16:05) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■sakさん
>未完成のまま
現在の感覚だとちょっと考えられないことですよね^^;
ご存じと思いますが、この橋は車用で、徒歩、自転車用の方用に無料の渡し船が出てるんですね。
動画→ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm8662819

■ジョルノ飛曹長さん
多分そういうことだと思います^^

■tooshibaさん
他国でも同様なのですが、定期便の黎明期はまだヒコーキの信頼性が低かったため、何かあったらすぐ着水できる水上機が多かったです。
なので飛行場用地はまず水辺ありきでした。やがてヒコーキの信頼性が増してくると、ご指摘の立地の悪さばかりが目立つようになりました。
閉鎖は必然だったのでしょうね。

■masaさん
そうですね。よくこんな貴重な写真がのこっていたものだと思います。
本当にこんな時代があったんだな~。というのがよく分かりますね。

■an-kazuさん
>ループ橋
すごく珍しいと思っていたのですが、あるところにはあるんですね。
レインボーブリッジ…言われてみればそうですね。

■コストさん
>顕彰碑
せめてこの位の規模であちこちに残っていてくれると嬉しいんですけどね~。
by とり (2011-01-30 09:16) 

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