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衣ヶ原飛行場跡地 [├空港]

   2010年7月、2016年6月訪問 2023/1更新  


無題.png
撮影年月日 1945/04/06(昭20)(97I9 C4 80) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
a.png
Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B).Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6(国立国会図書館デジタルコレクションより)

愛知県豊田市元町にあるトヨタ元町工場。

トヨタ本社近くにある大きな工場で、周辺はまさに「トヨタ王国」です。

ここに民間の「衣ヶ原(ころもがはら)飛行場」がありました。

先頭のグーグルマップは上に貼った国立国会図書館デジタルコレクション(航空路資料 第4 其ノ2 昭14-2 中部地方飛行場及不時著陸場)から作図しました。

この情報は、tuka@北海道さんから情報頂きました。tuka@北海道さんありがとうございましたm(_ _)m 

東西方向の滑走路、そしてほぼ工事中ですが、斜め滑走路がクロスしていますね。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  衣ヶ原飛行場
経営者  熊崎惣二郎
所在地  愛知縣西加茂郡拳母町大字拳母字中細谷及下細谷
水陸の別 陸
滑走区域 東西五○○米 南北二二〇米
備 考  (記載無し)

次にご紹介するネット上の別の資料では、この斜め滑走路の方向が「恒風」と記されています。

■「発見館企画展 平成25年7月13日(土)~10月20日(日) われらの飛行機・拳母号 ~衣ヶ原飛行場とその時代~」

という企画展の内容がネット上にアップされており(下記リンク参照)、

その中でなかなか資料の見つからない当飛行場について非常に詳しく扱われていました。

以下その中の情報を引用させて頂きます。

衣ヶ原は元々2~3mの松が生い茂る県有林でした。

1928年に名古屋飛行学校を卒業した熊崎惣二郎はこの場所に目を付け、飛行場にしようと考えました。

熊崎氏の目標は壮大なもので、単に飛行場を建設するだけでなく、

民間飛行場のなかった名古屋から満州等の航路を開設し、「飛行町」を建設しようというものでした。

「飛行町」とは初めての言葉だったのですが、「衣ヶ原名古屋飛行場及び飛行町建設予定図」によれば、

広々とした着陸帯を取り囲むように民家がギッシリ立ち並ぶ様子が描かれています。

熊崎氏は昭和5年に11万坪の土地を購入し、草原の飛行場を建設しました。

世界恐慌だった当時、拳母町にとってこの建設計画は大変な朗報だったのだそうです。

翌昭和6年に行われた地鎮祭では名古屋飛行学校の曲芸飛行もあり、

1万3千人の拳母町に5万人もの人が押し寄せたのだそうです。

長引く経済不況から飛行場建設工事は一時中断もあったのですが、拳母町長の協力もあり、

昭和10年、逓信省航空局から正式に飛行場設置の認可がおり、

東海地方唯一の正規民間飛行場として設備も整いました。

当時滑走路は500mでしたが、800mまでの拡張を目指し、さらに工事が進められました。

その後町民から広く寄付を募り、全国でも珍しい町有の 「挙母号」(アプロ504K)を導入しました。

このヒコーキは航空思想の普及に利用されました。

昭和13年になると、当飛行場に軍人が訪れることが増えました。

そして昭和14年頃から、トヨタ自動車工業が当飛行場を利用して航空機部品の性能試験を行いました。

そして戦争末期の時期、軍部から航空機生産の協力要請を受け、

この飛行場のある場所にトヨタ資本60%、川崎航空機資本40%の子会社、

「東海飛行機株式会社」という工場を建設することになりました。

先頭の航空写真は終戦直前の1945年4月のもので、東西の滑走路があった場所を赤→で示しているのですが、

既に滑走路方向の地割が辛うじて認められる程度で、もう飛行場の名残はないですね。

 

1943年3月 「東海飛行機株式会社」創業。

ちなみにこの東海飛行機は戦後社名の変更、合併を経て現在の「アイシン精機」になっています。

この「東海飛行機」では、川崎航空機が生産に苦慮していた第一線戦闘機用の高性能液冷発動機

「ハ140」とその性能向上型「ハ240」を生産する予定だったのですが、

日本最大の航空発動機量産工場だった三菱重工名古屋発動機製作所が東南海大地震、

B29の空襲によって壊滅したために、そのバックアップを引き受けることになり、

工場は「三菱重工業株式会社名古屋発動機製作所第22製作所」に移管させられ、

練習機用発動機の生産を行うこととなり、「ハ140」系液冷発動機の量産計画は中止となってしまいます。

 

戦後、国から工場跡地の払い下げを受け、国内初の乗用車専門工場「元町工場」が建設され、

現在に至っているのだそうです。

現在の自動車会社で戦時中航空機開発に係わっていたところと言えば、

富士重工と三菱が筆頭ですが、トヨタも係わっていたのですね~。

豊田家には元々航空機開発への関与の意思があり、この工場もかなり先進的なものだったという話もあり、

もしもここで計画通り一線級発動機の量産が進められていたとしたら、どうなっていたんでしょうか。

DSC_0040.jpg

赤マーカー地点。

斜め滑走路方向

DSC_0043.jpg

青マーカー地点。

東西方向の滑走路西側エンド


      愛知県・衣ヶ原飛行場跡地      

衣ヶ原飛行場 データ
経営者:熊崎惣二郎
種 別:非公共用飛行場
所在地:愛知縣西加茂郡拳母町大字拳母字中細谷及下細谷(現・豊田市‎元町)
座 標:N35°04′08″E137°07′47″
標 高:65m
滑走路:400mx100m(08/26)、660mx100n(13/31)→水路部昭和14年地図より
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1930年12月 熊崎氏、拳母~土橋の山林11万坪の土地購入
1931年02月 18日 地鎮祭行われる
1935年09月 逓信省航空局より飛行場設置認可
1936年    夏頃格納庫、事務所完成
    08月 27日 小泉喜久男飛行士、サルムソン2A2にて東京から飛来
    09月 1日 テスト飛行に町長が同乗。メッセージを空中散布し、完成PR。
1937年05月 町民に寄付を募った「拳母号」が耐空検査通過。正式に町有機となる
       青年学校連合練習で模擬弾投下
1938年    軍人が多く訪れるようになり、加茂時報は飛行場、拳母号について報じなくなる
1939年11月 3日 明治節の記念式にて「拳母号」の飛行体験実施
       この頃からトヨタ自動車工業(株)が当飛行場で性能試験を実施
1941年   「拳母号」、この頃老朽化により廃棄。海軍予備航空団から三式陸上初歩練習機「拳母二号機」譲受
1943年03月 東海飛行機株式会社創業。その後工場は三菱重工発動機製作所第22製作所に移管
     11月 飛行場北側に拳母工場建設
1944年12月 拳母工場、三菱重工名古屋発動機製作所の疎開先として転用される
1945年08月 終戦。瓦礫の山となる
1955年   航空ページェント開催
1958年   トヨタ、東海飛行機の工場跡地を国から払い下げ受ける
1959年   元町工場建設

関連サイト:
われらの飛行機・拳母号(pdf)  

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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コメント 16

まめ助の母

ご無沙汰しちゃってます
ひとつの工場にも歴史と物語がありますね
戦争中にそんな大きな地震があったこと
知りませんでした…

やはり、まだまだ知らないといけないこと
たくさんありそうですね
by まめ助の母 (2010-12-12 08:43) 

koume

個人的に…アイシンの名前の由来を知りたいです。
愛知と何かでアイシン??
アイシンで愛新(覚羅家)=金(と言う部族名)=鉄…関係の会社と言う語源かと、
ひとりで妄想が膨らみ、こちらの会社のHPまで見に行ってしまいました~(爆)
暫し妄想の世界で、楽しい時間を過ごさせていただきましたww
by koume (2010-12-12 10:58) 

セバスちゃん

トヨタとかアイシン精機とかの文字を見ると、
ちょっとだけ「ドキッ」としてしまう僕なのです。
訳は、言えませんけど<笑>
by セバスちゃん (2010-12-12 11:24) 

鹿児島のこういち

高性能の発動機が量産出来たとしても、当時の戦局にはさほど影響は無かったでしょう。なにせ、純度の良い高オクタン価のガソリンが日本には、ほとんどありませんしf^_^;
燃料のないエンジンは、ただの鉄の塊でしかないですから。
海軍の零戦も陸軍の隼も、アメリカでの性能試験では燃料が良ければ、とんでもない性能を発揮してるんですけどね(^O^)
もし、量産出来ていたら、やはりその後の、高い技能の技術者が増えていたことになったのではないでしょうか(^0^)/
by 鹿児島のこういち (2010-12-12 12:03) 

me-co

・・・そして、FHIに資本参加するようになったのもうなずけます。<航空機産業に執念深い!
あと、住宅産業も・・・@@;
by me-co (2010-12-12 12:29) 

tooshiba

富士重工があえなく廃業の憂き目に遭ったときは、迷わず航空宇宙産業だけは手に入れようとするのではないかと。
「我が国独自の防衛産業を守る」とかなんとか言って。自動車部門などには目もくれずに。
(現在の資本提携もそれが狙い?それだから、軽自動車をダイハツから、コンパクトを自社からOEMすることで会社そのものが衰退するように謀られている?)

まあ、もしかしたら、自動車部門からも優秀な技術者“だけ”根こそぎ引っこ抜いて、残りは中国辺りに売り飛ばすかも。

・・・なまじっか妄想が働く分だけ、懸念材料には事欠きません。禿げ散らかすわ-。(T_T)
by tooshiba (2010-12-12 13:56) 

sak

トヨタも航空機開発に関係していたのですね
知らなかったφ(..)メモメモ
by sak (2010-12-12 18:25) 

masa

トヨタにそんな歴史があったとは知りませんでした。
とりさんの知識は素晴らしいですね。
by masa (2010-12-12 20:40) 

OLDMAN

とり様
超おひざ元に、お出でくださいましてありがとうございます。
私のあばら家も、あの地図の中にあります。
お~!と呼んでいただければ、馳せさんじましたが・・
この、工場の脇にヘリポートがございます。アピタの屋上から、格納庫は、
確認できます。
現在のトヨタ自動車の中にも、数年前まで、航空機部門がありました。
一つの部ですので、この部門に多数の人が、携わっていました。
鹿部飛行場をトヨタ専用として、手に入れて、レクサス用のエンジンをベースに、航空機用エンジンまで手がけていました。レクサスエンジンとは、似ても似つかないエンジンだったと聞いています。車の単位はミリです。しかし、航空機は当時は、インチの世界。
ミリの単位からインチの単位に変更。それに伴い、工具、作業法の変更、工作機械の変更まで、それは、それは大変な作業だったようです。エンジンはFAAの承認もとったようですが、残念なことに、内浦湾で、別のエンジンに改造をして飛行。そして尊い人命を失いました。この後、すぐに航空事業部は廃止となり、現在に至っています。
by OLDMAN (2010-12-12 21:08) 

tooshiba

お勉強の成果:ウィキペディアによると、
昔、東海飛行機だったのが愛知工業に社名変更し、その後、新川工業と合併してアイシン精機に社名変更。という流れです。
by tooshiba (2010-12-12 21:29) 

an-kazu

これは非常に興味深い話ですねφ(..)メモメモ
by an-kazu (2010-12-12 21:34) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■まめ助の母さん
こちらこそご無沙汰しておりましたm(_ _)m
>戦時中の大きな地震
アメリカに知られないように隠してたらしく、国内でもほかの場所ではあまり知られていない地震だそうです。
オイラも覚えないといけないことだらけです。

■koumeさん
>愛新(覚羅家)=金(と言う部族名)=鉄
そこまで連想できるところがスゴイ!!
オイラも社名の由来が気になったのですが、
下の方のコメントでtooshibaさんが由来を調べて書いてくれました^^

■セバスちゃんさん
「トヨタ」「アイシン精機」「トヨタ」「アイシン精機」
どうですか? ドキドキしましたか?
性格悪いなオイラ…。

■鹿児島のこういちさん
>ただの鉄の塊
確かにそうですね^^;
「液冷の川崎」がなかなかモノにできなかったものを果たしてトヨタが作れたのか、
この辺は興味があるところです。

■me-coさん
>執念深い!
確かにそれは言えているかもしれませんね^^;

■tooshibaさん
富士重工には今でも航空機メーカーだった頃の(今でもそうですけど)伝統が残っていると聞きます。
なるべく他社の血が混ざらずに独自のスタンスを貫いて欲しいのですが。。。

■sakさん
オイラもトヨタは戦時中も自動車だけを作ってるのかと思ってました。
以外ですよね。

■masaさん
いえいえ、オイラのはただの受け売りですから^^;
知らないことだらけです。

■OLDMAN様
おお、こちらにご自宅が(@Д@) どうもお邪魔致しましたm(_ _)m
いいところにお住まいなんですね~。^^
ここにヘリポートがあるとは全く気が付きませんでした。
航空事業部について詳しい情報ありがとうございました。
廃止になっていたんですね。

■tooshibaさん
愛知と新川でアイシンですか。
ご親切にどうもありがとうございましたm(_ _)m

■an-kazuさん
オイラもトヨタと戦時中のヒコーキとのかかわり知らなかったので、調べていて興味津々でした^^
by とり (2010-12-13 06:18) 

京大同

 アイシンさんの部材は日立金属製特殊鋼でクオリティの高いこだわりがあるよね。
by 京大同 (2011-03-13 08:33) 

とり

■京大同さん
そうなんですか。
情報ありがとうございました。
by とり (2011-03-13 08:40) 

インスタント山伏

母親が造りに行きました、あっついさなか石を拾い、土木工事の機械もなく
ころもの子供たちはずいぶん駆り出されたそうです
そのあと、学徒でトヨダへ(ダなんですよね昔からすんどる人は・・・名古屋弁+三河弁w)
南極探検のおじいさんがいて、魚屋か仕出し屋の2階でひっそり死んだそうです、モチロン戦争中
by インスタント山伏 (2011-04-02 15:11) 

とり

■インスタント山伏さん
お母様、ご苦労されたんですね。
どうもありがとうございました。
by とり (2011-04-03 06:19) 

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