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高知海軍第二(仁井田、浦戸)飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2022/1更新  


無題a.png
撮影年月日1947/10/13(USA M550-1 11) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

高知市仁井田にあった 「高知海軍第二(仁井田、浦戸)飛行場」。

高知海軍航空隊第一基地(現・高知龍馬空港)の西南西約8.5kmに位置していました。

作図にあたり、

対岸の孕東町まで含めて、1947年の航空写真と現在のグーグルマップで海岸線の形を照合してみたのですが、

埋立地は別として、当時と現在とで海岸線はほとんど変化していませんでした。

検索すると、対岸の孕東町まで含む当飛行場とその周辺の青焼き(高知第二飛行場平面図 縮尺二万五千分ノ一)

がすぐ見つかります。

(これで作図は楽勝だ)と思っていたのですが、この平面図、当時と現在とで海岸線が地殻変動レベルで異なっており、

滑走路に付されている長さを示す数字と、描かれている滑走路の形が結構大きく矛盾しています。

当時の航空写真には、滑走路跡を示すハッキリとした地割も残っておらず、

どうやって作図したものか困ってしまったのですが、

当地は山と海岸に挟まれた狭隘な地形であることと、濃い植生(赤矢印)が細長く残っており、

滑走路の場所はおのずと限られます。

全体の地形と、資料にある滑走路の長さを見比べながらおおよそで位置決めをしたところ、

航空写真に写っている角に見える部分(白矢印)が決め手になりました。

滑走路は白っぽく写ることが多いんですが、当飛行場滑走路は黒っぽく写っている部分だと思います。

そんな感じで作図したのでした。

多分こんな感じと思います。

 

当飛行場は、「高知空港史」、防衛研究所収蔵資料等で「秘匿/緊急避難/発進」飛行場とあります。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

「この飛行場は高知海軍航空隊の練習機の緊急避難用につくられた。
この地域一帯は藩政の昔から村の人たちが、営々と育ててきた疎菜園芸の本場であり、高知県の促成園芸発祥の地でもあった。 」

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
では当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:仁井田 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1830x220 100砂砂利 主要機隊数:中小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)

第二高知(浦戸)航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 高知県長岡郡三里村
最寄駅 土讃線高知駅
飛行場 滑走路(台)
主要機種 小中型機
主要任務 作戦、特種
其の他の主要施設 射撃場、隧道
 

■同資料(5航空関係-航空基地-90 航空基地図)にはもう1枚資料表が含まれていました。

浦戸航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 高知県長岡郡三里村
最寄駅 土讃線高知駅
飛行場 滑走路(台) 第二高知飛行?場共用
主要機種 小型機、練習機
主要任務 予科練□教育
 

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  仁井田(第二高知)
滑走路 一〇〇×一八〇〇EW
縣郡村 高知、□□ 仁井田村
記事  八月末既成

D20_0004.jpg

赤マーカー地点。

r14「黒潮ライン」。

東を向いて撮ってます。県道に沿って画面左側が滑走路だったはず。 

■「高知空港史」65,66pに当飛行場について記されていました。

「高知市仁井田に高知第二飛行場が作られた。飛行場といっても滑走路だけの簡易なもので、砂地に砂利を入れてローラーをかけ、針金で編んだ小丸太を敷き並べてあった。小丸太は飛行機の車輪が土中にめり込まないためである。練習機なら機体が軽く、固定脚で、脚が頑丈にできていたから、それでも離着陸できた。高知海軍航空隊の緊急避難用が目的であったらしい。だから日章の飛行場に対して、高知第二飛行場と呼んだ。」 

同書67,68pでは、当飛行場について防衛資料からの情報が記されていました。

隧道、地下施設、掩体があったこと、主要機は中小型機、主任務は発進とされ、

高知市池にあった浦戸基地(主任務=教育)は、飛行場を高知第二飛行場と共用。と記されていました。

日章飛行場は数回の空襲を受け、損害も出たため、日章の配備機(白菊)を当飛行場に緊急退避させる計画があり、

離着陸訓練も行ったのですが、実際の退避は行われずじまいでした。


      高知県・高知海軍第二(仁井田)飛行場跡地      

高知海軍第二(仁井田)飛行場 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:秘匿/緊急避難用
所在地:高知県高岡郡仁井田村(‎現・高知市‎仁井田‎)
座 標:N33°30′56″E133°35′00″
滑走路:1,830m×100/220m(砂利敷)
方 位:07/25
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年03月25日 開設

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 

この記事の資料:
「高知空港史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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コメント 24

コスト

高知なので当然一番のりでコメントします^^
仁井田にあったんですね~
種別が秘匿/緊急避難用だったからかもしれないですが、
かなりの回数をここは走ってるのに知らなかったです。
しかもA地点はめちゃめちゃ見覚えてありますw
実家から桂浜方面への行きかえりは市内の渋滞を避けて海岸線を走るのですが、
いつの間に黒潮ラインって名前がついたんだろう?
ビニールハウスが懐かしいです☆
nice!×3

by コスト (2011-07-08 12:07) 

ジョルノ飛曹長

高知、一度行きましたが仕事だったので、今度は旅行で行きたいです。
車で行ければ最高ですよねー^^
by ジョルノ飛曹長 (2011-07-08 12:49) 

OILMAN

こんにちは。
つい先日高知に行ってきたので妙に親近感わきます。
すぐ近くの竜馬記念館にも行ってきましたよ。
by OILMAN (2011-07-08 21:47) 

鹿児島のこういち

高知海軍航空隊第一基地の補佐的役割を果たしていた飛行場なんでしょうね。
使用頻度ってどれくらいのものだったのかしらf^_^;
by 鹿児島のこういち (2011-07-09 06:04) 

masa

地図に出ている日本サンゴセンター、行ってみたくなります。
by masa (2011-07-09 06:08) 

ハイマン

今では真っ直ぐ道路がある事が
空港のなごりでしょうか
高速1000円も無くなり、とりさんの活動にも
影響がでていますか?
by ハイマン (2011-07-09 06:56) 

雅

秘匿の空港だと、データはほとんど残ってないんでしょうね。
調査ご苦労様です。
by (2011-07-09 22:00) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■コストさん
一番海苔ありがとうございます^^
ここは相当マイナーな部類だと思います。
ほとんど情報ありませんでした。
しかしこの場所はコストさんにとってそんなに馴染みの場所だったんですね!

■ジョルノ飛曹長さん
ジョルノ飛曹長さんには是非高知空港横の水田に点在する掩体壕群を撮って欲しいです^^

■OILMANさん こんにちは。
おお、行きましたか^^
>竜馬記念館
オイラもたまにはそういう健全な旅行しなくちゃ^^;

■鹿児島のこういちさん
資料が限られていて、使用頻度は不明です。
すみません~。

■masaさん
>日本サンゴセンター
Σ(゚Д゚;) 本当だ! 今気が付きました。
ここに行きたくなるところがmasaさんらしいですね^^

■ハイマンさん
>なごり
そうですね~。
>高速1000円
影響ありますね~。
廃止直前に九州に行って来ましたよ^^
お金の出どころと、大変な思いをしておられる大勢の方々のことを考えると、
贅沢言えません。

■雅さん
確かにここはデータ少なかったです。
こうして場所を明示できたのは地元で調査をしてくださる方々のおかげですm(_ _)m
by とり (2011-07-10 06:20) 

ポワトリン

ここの滑走路は秘匿や緊急避難用では無く、離着陸訓練に使われたものだった様です。実際ここに着陸したり離陸するのではなく、所謂タッチアンドゴーと云われる訓練に使われた様です。秘匿や避難用には窪川にある第三飛行場が使われた模様です。
by ポワトリン (2014-10-18 17:31) 

とり

■ポワトリンさん いらっしゃいませ
貴重な情報感謝致します。
全国あちこちの旧陸海軍の飛行場を見ましたが、
タッチアンドゴー訓練用の滑走路というのは初耳です。
しかも末期の時期にこの規模の滑走路をわざわざこの場所に。というのが凄いです。
恐れ入りますが、根拠資料等ありましたら是非ご教授頂けませんでしょうか?
by とり (2014-10-19 10:36) 

ポワトリン

”高知空港史”に記述があります。これによると滑走路は舗装されておらず、砂利が敷かれてあっただけの粗雑な造りで、柔らかな海岸の砂浜の上に砂利敷きなので、離着陸は出来無かった様です。ある程度突き固めていたとは思うのですが・・。格納庫も無く、又この滑走路よりほんの二・三百メートル程南にあった浦戸海軍航空隊とも全く関係が無かった様です。呉の第11特別陸戦隊に編入された浦戸空の隊員達はこの飛行場の横で米軍の本土上陸に備え、敵の戦車に地雷を抱えて突入する訓練をしていたと聞きます。
by ポワトリン (2014-10-21 16:14) 

とり

■ポワトリンさん 
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2014-10-22 05:34) 

とり

■ポワトリンさん
コメント頂いていながらほったらかしにしてしまって申し訳ありません。 
当飛行場について少し調べてみました。

ポワトリンさんから頂いた情報によれば当飛行場は、
・柔らかな海岸の砂浜の上に砂利敷きなので、離着陸は出来無かった
・タッチアンドゴーと云われる訓練に使われた
とのことでした。
仮にこの通りだとすると、終戦の僅か5ヵ月前に、1,800mという大規模な、
しかし離着陸は出来ない訓練用滑走路を建設したということになります。
以前も書きましたが、こういう施設の前例をオイラは知りません。
ぬかるんだ滑走路や不整地に着陸を試みて脚を損傷したり、前転大破という事例は戦史等でよく出てきますが、
タッチアンドゴー訓練を実施する程度の技量のパイロットのために、
燃料、物資の枯渇した末期の時期、わざわざ着陸不可の滑走路で訓練させるのでしょうか?
車輪をちょっと接地させる事しか出来ない長大な滑走路をわざわざ作るのでしょうか?
それなら最初から日章の飛行場を使えば済む話ではないかと思うのですが。。。

「高知海軍航空隊の飛行場と同隊の三里と窪川の秘匿飛行場」という二○一二年十一月六日の資料
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&ved=0CCIQFjAB&url=http%3A%2F%2Ffujihara.cocolog-nifty.com%2Ftanka%2Ffiles%2Fkoukutai.doc&ei=9e0uVbbyIYXMmAWY94CIDw&usg=AFQjCNFGWFqbS0hutzTr7w7XhIzQwEyDuQ&sig2=LSWRxuaj1lbMhH42-sj3PA&bvm=bv.90790515,d.dGY
の中で、当飛行場について非常に詳しく扱われており、
実際に建設に携わった方、地元で飛行場の様子を見て育った方の証言が収められています。
それによれば、当飛行場は近くの山からトロッコを使って土と砂利を運び、連日大きなローラーを人力で引き
地下施設、隧道、掩体を備えたかなりの規模のものであったと、
完成後は時々複葉機が飛来したこと、ほったらかしのヒコーキもあったこと等記されています。
他の資料でも、当飛行場は同様に扱われており、ポワトリンさんの仰るような話は残念ながら今のところ確認出来ません。
根拠資料としてご提示下さった”高知空港史”、可能であれば入手して確認したかったのですが、
非常に希少な本のようですね。機会があればオイラも実際にこの本を確認してみようと思います。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-04-16 08:09) 

とり

■ポワトリンさんへ
ご教授頂いた「高知空港史」ですが、地元の県立図書館に蔵書があり、
この一週間空いた時間は全てこの本に費やしてじっくりと拝読致しました。
高知空港のみならず高知県の航空史として非常に明快且つ資料的価値の高い書籍で、
拙ブログ内の該当記事に、同書からの引用を多数追記させて頂きました。
素晴らしい本をご紹介くださり、ありがとうございましたm(_ _)m

そして肝心の、当飛行場に関係する部分についてなのですが、
本書はオイラが拙ブログで既に記した内容と基本は同じでものであり、
どういう訳か、ポワトリンさんが「この本に書かれている」と仰ることが書かれていないように感じました。

具体的には、「第2章 太平洋戦争下の高知県の航空 1 県内に3海軍航空隊と4飛行場」65~74pの中で
当飛行場について扱われているわけですが、
滑走路の建設方法についてポワトリンさんは、
「砂利が敷かれてあっただけの粗雑な造りで離着陸は出来ない」とお書きですが、
同書の中では、離着陸できるように針金で編んだ小丸太を敷き並べてあったと記されています。
当飛行場使用目的についてポワトリンさんは、「タッチアンドゴー訓練用」とお書きですが、
同書の中では、高知海軍航空隊の緊急避難用と明記されており、
実際に日章からの飛来機が当飛行場で緊急退避の離着陸訓練(タッチアンドゴー訓練ではない)も行っています。
同書ではかなりの頁を当飛行場関連にあてていますが、記述全体を通じて離着陸可能な飛行場として扱っていることは明白です。
付帯施設の有無に関しても、ポワトリンさんが仰ることと同書に書かれている内容は逆です。

同書では当飛行場について、「離着陸の出来ないタッチアンドゴー訓練用の飛行場」という説明は一切ありませんし、
本全体を通して見ても、他にそういう飛行場があるという表現を一切見つけることが出来ませんでした。
敢えて最も類似の表現を挙げるとすれば、80pに浦戸甲飛14期生の話が紹介されていて、
「予科練教育では、仁井田の飛行場を使うことはありません。
日章から練習機白菊が飛んでくるのを時々見かけました。
着陸するのではなく、車輪を接地させて、そのまま飛び上がっていきます。
着陸の目標を飲み込む訓練だと聞きました。」という一文があります。
別基地所属の一人がたまたま「飛行場でタッチアンドゴー訓練をしているのを見たことがある」
という回想を以て、「この飛行場は着陸不可。タッチアンドゴー訓練にしか使用できない」
という主張まで飛躍させておられるということは、いくらなんでもないですよね?

また、ポワトリンさんは当飛行場について「浦戸海軍航空隊とも全く関係が無かった様です」とお書きですが、
同書68pでは防衛庁資料からの引用で浦戸基地について、「飛行場=高知第2飛行場を共用」
と記されており、関係性が示されております。

ポワトリンさんが「この本に書かれている」と仰っていたことと、
本に実際に書かれている内容は余りにも食い違っているように感じるのですが、
もしかしてポワトリンさんご指摘の本と、オイラが見ているのは、同名の別の本なのでしょうか?
もし仰るような定説を大きく覆す本が実際にあるのでしたら、そちらも是非拝見したいです。
一応オイラが拝見したのは、1984年発行、発行者:高知県 大日本印刷の本です。
もしポワトリンさんが引き合いに出しておられるのがこれとは別の本でしたら、
またこの件につきまして何かコメントありましたらお待ち致しております。
いずれにせよ、ポワトリンさんのコメントがきっかけで素晴らしい本に巡り合えましたこと重ねて感謝致しますm(_ _)m
by とり (2015-05-24 06:03) 

NO NAME

現在私の手元に”高知海軍航空隊引渡し目録”があります。これには終戦後米軍に引き渡す高知海軍航空隊の備品、航空機から武器・弾薬・糧秣・衣料、ストーブの数や、はてはスパナの一つに渡るまで、その所在場所から量数など全てが極めて詳細に記されてあります。たとえば日章の高知飛行場には練習機20、爆撃機2、戦闘機3、攻撃機1、機体のみ2、発動機32、窪川の飛行場には練習機27、発動機11といった具合で、その位置や機体の状態まで細かく記されております。驚くのは飛行場の片隅に捨てられてある救命胴衣わずか一個の所在場所まで丁寧に記すという詳細を極めたものです。そしてこれほど詳細を極めてあるにもかかわらず、仁井田の飛行場のについての航空機及び備品の所在記述は0です。つまり航空機や機体の部品はおろか、スパナの一つすらここには存在しなかったことが分かります。この事はここが飛行場として機能していなかったことを表しているといえるのではないかと思います。又この飛行場は海辺の砂浜の上に造られてあり退避壕の一つも無いため、航空機の秘匿など不可能だった様に思われます、海から丸見えなのです。昭和二十年三月十九日、高知海軍航空隊基地は米軍第58任務部隊の艦載機による攻撃を受けるのですが、(いわゆる九州沖航空戦)この時も第二飛行場が攻撃を受けた記録はありません。航空機の一機でも、格納庫の一棟でもあれば間違いなく攻撃の対象となったと考えられるのですが、念の為、この時攻撃に参加した複数の米軍戦闘機隊のエアークラフト・アクション・レポート(戦闘報告書)も読み込んでんで見たのですが、この飛行場に関しては全く記述がありませんでした。もしここが飛行場として機能しておれば間違いなく攻撃を受けていたと思われます。第一飛行場のすぐ近くにあるにもかかわらず米軍が全く攻撃対象としていないのはやはりここが飛行場として機能していない事を語っており、恐らく米軍は事前の偵察なによる分析でどでそのことを知っていたと考えられます。
 この仁井田の飛行場についての個人的な見解なのですが、恐らく緊急の場合は離着陸できるよう、あるていどの強度を持って造られていたことは間違いないと思われます。何故なら、終戦の翌日にこの飛行場に一式陸攻が着陸した記録があるからです。双発機のタイヤは接地圧が低いため着陸可能だったと考えられます。恐らく近くの浦戸航空隊に何等かの連絡のため飛来したものではないでしょうか。又天行寺に飛行場は無く、ここは弾薬集積所だった様です。引渡し目録には25番爆弾39、6番爆弾448、50番爆弾2、80番爆弾1とあり、その所在位置も一個々記されてあります。
by NO NAME (2015-08-15 15:50) 

NO NAME

 追伸、私の結論としては仁井田の飛行場は当然他にも目的はあったかもしれないが、主にタッチアンドゴーの訓練のためのもので、(高知飛行場は航空機が多く駐機しているので万が一の事故を考えれば、経験のまだ少ない予科練を出たばかしの飛練生徒(飛行練習生)のタッチアンドゴー訓練には危険過ぎてとても使えないし窪川の飛行場は遠すぎる。)そこで直ぐ近くに離着陸訓練用簡易飛行場を設置したのではないかと考えております。しかし何等かの緊急時には勿論ここにも着陸できるくらいの強度は当然持たせていたと思っております。
by NO NAME (2015-08-15 16:34) 

とり

■NO NAMEさん
NO NAMEさんは仁井田飛行場について、「備品一つすらない」、「飛行場の機能がない」という点を強調しておられますが、そうお聞きしてもオイラは、「ああそうなのか」という以外の感想は特にありません。
オイラは仁井田飛行場のことを様々な資料にある通り、「高知海軍航空隊の緊急避難用」と受け取っています。
「緊急避難用」であり、それ以上にもそれ以下にも見なしていませんので、「備品の一つもない」、「飛行場の機能がない」としても、不思議はないと思います。
逆にどうしてNO NAMEさんがこの点を盛んに強調しておられるのか、その意図するところが理解できません。

ただし、「航空機の一機でも、格納庫の一棟でもあれば間違いなく攻撃の対象となったと考えられる」という部分についてですが、件の「高知空港史」の中で、兵器引き渡しのため高知海軍航空隊兵舎(日章)にやってきたアメリカ兵と、高知海軍航空隊分隊長・大尉だった方とのやりとりについて記述があります。
「窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。」

窪川はNO NAMEさんもご指摘の通り、本土決戦に備えて白菊が多数配備されていました。盛んに特攻訓練が行われましたし、格納庫もありました。
米軍が窪川についてどの程度まで正確に把握していたかは不明ですが、少なくともここが飛行場であることは把握していました。
それでもここを爆撃する意味を見出しませんでした。
配備機があり、訓練が実施され、付帯施設もある飛行場が見逃されたのであれば、ましてや「緊急避難用飛行場」が爆撃を受けないとしても不思議はないと思うのですが、如何でしょうか。

ついでながら、「高知海軍航空隊引渡し目録」はオイラもアジ歴で閲覧しましたが、ここに記されている数量は、この目録作成日現在のものであり、これを以て「仁井田には全期間を通じてスパナの一つも存在しなかった」ということの証明にはなりません。資料の解釈には注意が必要と思いますよ。

NO NAMEさんは、当基地は主にタッチアンドゴー訓練用であるとし、
その理由として高知飛行場は航空機が多く駐機しているので経験のまだ少ない飛練生には危険過ぎるとお書きですが、そもそも高知飛行場は練習機白菊しか配備されておらず、予科練卒業生の訓練用飛行場ですよ?

防衛省資料によれば、高知基地について、飛行場=長さx幅(1,400mx1,100m芝張り、うち1,000mx60mコンクリート舗装、1,000mx40mx2基・砂利敷き)と記されています。
鈍足機白菊の練習のために、広々とした飛行場敷地にこれだけ大きな滑走路を建設したのですが、貴方の書いたことからすると、それでもここは危険過ぎるからと、近隣に更に広大な飛行場を建設したことになります。
練習用飛行場の、そのまた更に練習用飛行場ですか。
高知飛行場は1944年3月に開設し、仁井田飛行場は1945年3月開設です。
では、仁井田が完成するまでの一年間、「危険過ぎる」訓練は一体どこで実施していたのでしょうか?
初飛行の際、吹き流しを付ける等の配慮は手記で読んだことがありますが、
「航空機が多く駐機している飛行場では危険過ぎるので飛ばさせない」などという事例は他に聞いたことがありません。

一次資料その他で仁井田飛行場には隧道、地下施設、掩体があったとされているのですが、NO NAMEさんは、仁井田飛行場には退避壕もないとしておられます。そう断言できる根拠はなんでしょうか?
NO NAMEさんはどうしても仁井田飛行場をタッチアンドゴー訓練用のものにしたいようですが、そうでないと何か困ったことがあるのでしょうか?
飽くまで主任務がタッチアンドゴー訓練用であると仰りたいのでしたら、出自の確かな資料なり、説得力のある根拠をお示し頂けると嬉しいのですが。

by とり (2015-08-16 09:57) 

NO NAME

 ”高知空港史”の80ページに元浦戸海軍航空隊予科練甲飛第14期の岩崎禎夫さんとうい方の記述があります。ここに関係部分を抜粋してみました。”予科練教育では、仁井田の飛行場を使うことはありません。日章から練習機白菊が飛んでくるのをときどき見かけました。着陸するのではなく、車輪を接地させて、そのまま飛び上がっていきます。着陸の目標をのみこむ訓練だと聞きました。”とあります。これは仁井田の簡易飛行場で当時タッチアンドゴーの訓練がされていたのを実際目撃した方の証言なので、これを否定するのは難しいように思います。又この方は更に、仁井田の飛行場について、”海沿いに松林に囲まれて砂利敷きの滑走路を持つ飛行場らしきものがあり、この周辺で対戦車攻撃訓練を行った。”と証言しております。どうやら仁井田から数百メートルのすぐ近くに基地を持つ浦空の隊員ですら”飛行場らしきもの”くらいの認識しか出来ないくらい簡易なものだった様ですね。こんのもので如何でしょうか。
 ちなみに71年前の今日、3月19日は高知海軍航空隊基地が米海軍機動部隊の航空攻撃を受けた日で、このとき空母”ベニントン”を飛び立ったF6Fグラマン戦闘機の内の一機が午前11時頃基地上空で撃墜されます。搭乗員はメキャリスター海軍中尉。数日後彼の遺体が浜辺で見つかり地元民により砂浜に埋葬、昭和20年12月13日愛媛県松山に司令部を置く第24歩兵師団より派遣された遺体回収藩班のスタンリーJ・ルイス中尉により発掘、回収されるのですが、この時墜落したグラマン機のエンジンとプロペラが飛行場の近くに展示されてあります。過給機部分が取れてはいるものの2000馬力のエンジンは迫力があります。又高知に来られることがあればプロペラともども是非見物なさってくださいな。それではさようなら。
by NO NAME (2016-03-19 15:33) 

NO NAME

 追補・・浦空の元隊員が”飛行場”らしきもの”と言っているのには大変重要な意味があると思います。もしこの飛行場が航空機が日常着陸・駐機する通常の飛行場であれば、特別に航空機の知識を持っている予科練の彼等がここの事を”飛行場らしきもの”などとは絶対に表現しないはずです。間違いなく”飛行場”とちゃんと書いたはずです。つまり彼等が”らしきもの”と特に書いたのには何か特別の理由があり、航空機の専門的な知識を持つ彼等から見てもここが一般の飛行場のような使われ方がされていなかった証拠であると思います。又白菊は高知航空隊基地がすぐ近くにあるにもかかわらず、”ときどき”しか飛んで来なかったとある事も色んな意味で興味を引きます。又実際目撃された、”車輪を接地させてそのまま飛び上がる”という訓練をタッチアンドゴーとは言わない別の訓練と云うのであれば、それはもう見解の相違としか言いようがないと思います。
 どうやら恐らく切りが無さそうなので、もうコレで終わりにした方がいいと思います。結構楽しかったですよ。 もう訪れる事は無いと思うので、それでは・・。
by NO NAME (2016-03-19 17:33) 

危険物

とりさん、初めまして。初めてコメントさせていただきます。NO NAMEさんの余りの見苦しさに一言言わせて下さい。
アイタタター!NO NAMEさん見苦しい・・・  「きりがない」ようにしているのは貴方ですよ?とりさんは終始「ソースの提示を」と仰ってるだけですよ?保身に回りましたね・・・。このブログは主観、持論、妄想、憶測を語る所ではないです。それなのにこれでは、どこぞの捏造隣国と同じレベルですよ?恥ずかしくないんですか?

by 危険物 (2016-03-20 12:09) 

とり

■NO NAME(ポワトリン)さんへ
(こちらの意図がなかなか伝わらないようですので、論点をハッキリと書かせて頂きます。不躾をお許しください)
先ず、”高知空港史”の80ページに登場する岩崎氏の記述を引用しておられますが、
(2015-05-24 06:03)のコメントでオイラもまったく同じ部分を引用していますよ?
わざわざ同文の引用を繰り返す形になってしまっているのですが、
オイラのコメントには目を通して頂けなかったのでしょうか?

その時のコメントにも書きましたが、岩崎氏がご覧になったのは、
間違いなくタッチアンドゴーでしょう。それはオイラも認めていますよ。
そうではなく、「ここは離着陸不可。タッチアンドゴー訓練用である」という、
ポワトリンさんの当飛行場の性格、任務についての主張に疑問を呈しているのです。
・岩崎氏が目撃したのはタッチアンドゴーである
・この飛行場は離着陸不可。タッチアンドゴー訓練用である
この二つでは趣旨が全く異なります。
論点をすり替えないで下さい。
(「柔らかな海岸の砂浜の上に砂利敷きなので、離着陸は出来無かった様です。」
という部分についてはポワトリンさんは後にしれっとご自身の意見を修正しておられるようですが)

追補部分でも、ここが通常の飛行場とは異なる簡易なものであることを強調し、
「こんのもので如何でしょうか。」と問うておられますが、
仰る通り、ここは通常の飛行場とは異なる簡易なものでしょう。
それはオイラも同意見であると記事でもコメントでも何度も繰り返しています。
逆にお聞きしたいのですが、オイラがいつ「ここは通常の飛行場である」と書きましたか?
若しくはそう受け取れる箇所をご指摘頂けませんか?
これも繰り返しになりますが、「高知航空史」で当飛行場使用目的について、
「高知海軍航空隊の緊急避難用」と明記されており、オイラはそれに全く同意見で、
それを記事内でもコメントでも反映させているつもりです。
ですから岩崎氏が”飛行場らしきもの”くらいの認識の簡易なものに見えても何ら不思議はないと思います。
「こんのもので如何でしょうか。」と問われましても、
これ以上何とお答えすればご納得いただけるのか、返答に困るというのが正直なところです。

同じ資料を見ながらこんなに根本から意見が食い違い、それがいつまでも是正されずに続いてしまうというのは、
本当に不思議であり残念なことです。
ポワトリンさんご自身が挙げた書籍「高知航空史」、防衛資料、地元の方の数々の証言-
数々の出自の確かな資料が述べる当飛行場についての情報と、ポワトリンさんは全く異なることを数々仰る。
その独特の主張を繰り返すポワトリンさんに対し、オイラは「その主張の根拠をお示しください」と何度も申し上げました。
その根拠として今回出してこられたのが、
別基地所属の一人が「飛行場でタッチアンドゴー訓練をしているのを見たことがある」という回想ですか。
この回想を以て、「ここは離着陸不可。タッチアンドゴー訓練用である」とは、いくらなんでも話が飛躍し過ぎです。
付帯施設の有無についてのポワトリンさんの主張と各資料との矛盾についてはどうなりましたか?
「秘匿や緊急避難用では無く、離着陸訓練に使われた」というポワトリンさんの主張と各資料との食い違いはどうなりましたか?
「経験のまだ少ない予科練を出たばかしの飛練生徒(飛行練習生)のタッチアンドゴー訓練には(日章飛行場は)危険過ぎてとても使えない」
というポワトリンさんの奇天烈な主張についての根拠はいつ出して頂けますか?
3月19日の出来事も披露しておられますが、こういう仕方で岩崎氏はじめ当時の関係者、「高知空港史」等を引き合いに出すのは、
岩崎氏ご本人にも、当時の関係者の皆様に対しても、大変迷惑だし失礼な話だと思いますが如何でしょうか。

「もう訪れる事は無いと思う」とのことで、こちらとしては安心致しました。
ヒコーキ関連の議論は大好きで、コメントは大歓迎なのですが、
これ以上の虚しい堂々巡りに付き合わされるのは、正直もう勘弁して欲しいです。
今後二度と拙ブログにコメントするなとは申しません。
ただし、万一またコメントされる場合、まずは、
「ここは離着陸不可。タッチアンドゴー訓練用である」
というご自身の当初のコメントについて現在の見解をお書きください。
現在もお考えが変わらないようでしたら、その主張についての出自の確かな典拠をご提示下さい。
それをなさってからでなければ、大変失礼ですが今後これ以上のコメントはご遠慮下さい。
by とり (2016-03-20 12:10) 

とり

■危険物さん
>このブログは主観、持論、妄想、憶測を語る所ではないです。
そうなんですか!
オイラちっとも知らずにこれまで散々主観、持論、妄想、憶測を垂れ流してしまいました。
どうもすみません。
by とり (2016-03-20 19:48) 

とり

■NO NAME(ポワトリン)さんへ

地元の県立図書館に行く機会があったので、改めて「高知空港史」を読み返してみました。
今回気が付いた点(1.「配備機白菊の性格」、2.「日章飛行場の任務変更」の2点)を含めて以下記します。

1.「配備機白菊の性格」
NO NAME(ポワトリン)さんは、「日章飛行場での練習生の操縦は危ないから、タッチアンドゴー訓練用に仁井田飛行場が建設された」とお書きです。
しかし、教育基地の更に練習生用の飛行場なるものも、「タッチアンドゴー訓練用飛行場」なるものも、オイラはこれまで見た事も聞いたこともありません。
しかも、日章に配備された白菊は、操縦のイロハを覚えるための所謂”赤とんぼ”ではありません。「機上練習機」というその名が示す通り、操縦員以外の乗員の任務である航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの訓練を行うための機体です。
NO NAME(ポワトリン)さん、失礼ながら日章のことを、初めて操縦桿を握る訓練生のための基地と勘違いしておられませんか?
赤とんぼ用の訓練基地のそのまた更に専用飛行場ですら聞いたことがないのに、機上練習機用教育基地の更に専用飛行場、しかも今更タッチアンドゴー専用の飛行場ですか???
仁井田で実際に実施していますし、「機上練習機」にタッチアンドゴーの訓練は一切不要とは申しませんが。

2.「日章飛行場の任務変更」
「高知空港史」によれば、1945年1月19日、B29が高知市神田に初投爆。
戦局の悪化と共に、日章飛行場は配備機が白菊のまま、訓練基地から特攻の実践基地へと任務が変更になります。
そして1945年3月に開設した仁井田飛行場について、同書は繰り返し、「緊急避難用」と記しています。
県内への爆撃も始まり、日章の任務が教育から実戦に移り、隣接する仁井田を緊急退避用にするという、同書の記す両飛行場の任務は、戦局の悪化と共に緊迫していく様子を示しています。
その一方でNO NAME(ポワトリン)さんは、県内への爆撃も始まり、日章の任務が教育から特攻に移るさなか、
仁井田は緊急避難用ではなく、「タッチアンドゴー用の飛行場」なのだと仰る。
なんだか随分呑気なお話ですね。普通に考えて、こんな切羽詰まった状況でそんな飛行場造るものでしょうか?

NO NAME(ポワトリン)さんは自説の根拠として、隣接する基地の隊員の「タッチアンドゴー訓練をしているのを時々みたことがある」という回想を挙げています。
百歩譲って、仮に隣接する基地の隊員の回想が「仁井田はタッチアンドゴー訓練用の基地である」という正当な根拠なのだとしましょう。そうすると、一方で同書は「仁井田は緊急退避用」と繰り返し明言しています。
では、同じ本の中で「タッチアンドゴー訓練用の基地」であり、「緊急退避用」とある場合、一体どちらが正しいのでしょうか?
完全に自己矛盾をきたしていることになりますが、この点をどう説明されますか?
同書でタッチアンドゴー訓練の回想について紹介した箇所で、話がすぐ次に移っている時点で、押して知るべしと思うのですが。。。
現在でも地方空港ではタッチアンドゴー訓練の光景を見ることがあります。
では航空関係者が「〇〇空港でタッチアンドゴーをしているのを時々見ました」と語ったら、「〇〇空港の主目的はタッチアンドゴー訓練である」ということになるでしょうか? NO NAME(ポワトリン)さんの論法だと、そういうことになってしまう訳ですが。
「仁井田は緊急退避用だが、タッチアンドゴー訓練も時々行われていた」
これならば両立しますが。

同書の回想部分だけ見れば、確かに「仁井田はタッチアンドゴー専用」と受け取れます。
また同書の一部分だけ見れば、NO NAME(ポワトリン)さんが当初仰っていた通り、「仁井田は粗雑な造りなので離着陸できるだけの強度がない」と受け取れます。
しかし全体を見れば、同書は決してそう言っていないことは明らかなはずです。
オイラにはNO NAME(ポワトリン)さんが「高知空港史」の全体を見ず、一部分だけで断定しているだけのように見えるのですが。。。
自説を支持している箇所だけでなく、今一度じっくりと「高知空港史」、防衛省の出している資料、地元の証言の全体を確かめてみることをお勧め致します。その上で「やっぱり仁井田はタッチアンドゴー専用だ」と仰るのでしたら、オイラにはもう何も言いようがありません。

「高知空港史」、防衛省の資料、地元の証言が示しているのと大いに異なることをNO NAME(ポワトリン)さんはいろいろ仰いますが、その説には様々な疑問点が浮かび、その疑問点に対する説明が更なる矛盾点を生んでいる状態です。
オイラには白菊の性格と時代背景も合わせて考える時、仁井田は「タッチアンドゴー訓練用の基地」などではなく、様々な資料が一貫して示しているように、「緊急避難用」という端的な説明の方がずっと納得できます。
NO NAME(ポワトリン)さんはご自分のお考えが絶対に正しいと固く信じておられるご様子ですので、どちらがより道理にかなった意見に見えるか、後はここをご覧になる方に委ねたいと思います。

by とり (2016-05-02 08:36) 

とり

■ポワトリンさん
事前通告通り、 (2017-08-15 15:55)のコメントは削除させて頂きました。
大変申し訳ございませんが、コメントなさる際は、
(2016-03-20 12:10) のコメント最後にあります手順を踏んで頂きますよう
お願い申し上げます。
by とり (2017-08-19 03:46) 

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