鹿島海軍航空隊跡地 [├空港]
2012年9月、2022年2月訪問 2022/2更新
撮影年月日1948/03/27(昭23)(USA R1183 96)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県稲敷郡。霞ヶ浦の西岸に「鹿島海軍航空隊」がありました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:鹿島水上基地 建設年:1940 飛行場長x幅 米:300x45 100x45コンクリート 主要機隊数:小型練5.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 其ノ他記事:水道土地1.370坪 建70坪 價241,467圓
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調 には、
「鹿島空開隊(S13.12.15)(昭15建)」 とありました。
紫マーカー地点。
当時の施設が倉庫として利用されているのだそうです。航空隊の碑がありました。
記念碑 元鹿島海軍航空隊の跡
碑文(全文) この地は、元日本帝国海軍所属の水上機搭乗員養成基地「鹿島海軍航空隊」があったその一角であり、当時義務教育を終え又は旧制中学校中途で志願してきた飛行練習生、大学在学中に志望してきた飛行専修予備学生、海軍兵学校出身の飛行学生等、隊内各兵科の支えを受けながら優秀な「パイロット」を育成していたところである。昭和十三年五月十一日開隊後、昭和二十年八月十五日の終戦まで、特に大東亜戦争に突入後は逐次日本本土防衛の体勢に移行し、外部からの襲撃を未然に防御するため、哨戒飛行、索敵飛行、迎撃発進等果敢に防戦に傾注したものの我に利あらず、遂には未帰還機あり、空中戦での戦死傷者あり、果ては特攻隊編成による沖縄周辺に群がる敵艦船に突入戦死、又は地上においても作業中の隊員が機銃掃射を浴び戦死する等、この鹿島空在隊者だけでも数十名に及ぶ尊い犠牲者を出したのである。遅ればせながら我々生存者一同浄財を集め、救国の精神に燃え散華していった英霊に黙祷を捧げ、ご冥福を祈ると共にこの事実を後世に伝承すべく、ここに記念碑を建立するものである。平成十一年五月二十七日 元鹿島海軍航空隊在隊者一同 他有志一同 撰文 安岡恒友
当時のスリップが現存するのですが、先の大震災で壊れてしまいました。
「歴史ある大山スロープ」と表現されていますね。
看板から拡大させて頂きました。破損当時の大山スロープの様子。
黒マーカー地点。
復旧工事の続く南地区。
灰マーカー地点。
2022年2月、10年ぶりにお邪魔したのでした。
以下その時の様子です。
こげ茶マーカー地点。
車両倉庫跡だそうです。
青マーカー地点。
司令本部跡
車両倉庫の斜め向かいにあります。
司令本部跡
赤マーカー地点。
機罐場跡。
以前は立ち入り可能だったのと、見学会が催されており、検索すると建物内部の様子がいくらでも出てきます。
暖房用石炭ボイラー(など)がほぼ原形のまま残っているのだそうです。
黄色マーカー地点。
(某サイト様によれば)発電機室らしいです。
そのまま道を進むとソーラーパネルが広がっています。
村は「遺構を取り壊してソーラーパネルを敷き詰める計画はない」としています。
大きな駐車場があります。
トイレ完備。
駐車場隣に設けられているヘリポート。
灰マーカー地点。
東側滑走台跡。
スロープの奥に黒く見えているのが第一指揮所跡。
スロープに沿って奥に進むと、
緑マーカー地点。
桟橋とカタパルト跡
茶色マーカー地点。
第二指揮所跡。
カタパルト跡すぐお隣にあります。
黒マーカー地点。
南側滑走台跡。
奥に桟橋跡が見えますね。
南側滑走台跡にはこのように二つの基礎?があります。
手前の基礎のあっち側。
手前の方は名称不明なのですが―
黒マーカー地点。
奥に見えていた方に移動しました。
こちらは「第三指揮所跡」とのことです。
こっちのが大きいです。
茨城県・鹿島海軍航空隊跡地
鹿島海軍航空隊 データ設置管理者:旧海軍
種 別:水上機用飛行場
所在地:茨城県稲敷郡美浦村大山
ストリップ:南地区(300mx45m)、東地区(200mx45m)
座 標:N36°00′15″E140°22′25″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1938年05月 11日開隊(防衛研究所資料には、同年12/15とあり)
現在はピッコロ水上飛行場として利用
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
軽野滑空場跡地 [├空港]
2012年9月訪問 2021/7更新
撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VV 204)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県神栖市にあった「軽野滑空場」。
現在ではすっかり開発が進み、想像もつきませんが、かつてこの周辺は「鹿島理想郷」で砂丘が広がっていました。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
滑空場の敷地を示した資料が見当たらず、主観で線を引いています。
おおよそこんな感じだったのではないかと。
赤マーカー地点。
砂山都市緑地に大きな駐車場があり、一角に大きな碑があります。
暗くて全然見えませんが、「大日本滑空始翔之地」と彫られています。^^;
大日本滑空始翔之地(全文)
滑空創翔記念碑碑陰 碑面 大日本飛行協会副会長陸軍中将掘丈夫題署 斯の地鹿島理想郷の砂丘たる四邊の展望比なき雄勝の境にして東には日の出の壮観を誇る 太平洋を見はるかし西には明鏡と澄む神の池の彼方に富士の神嶽筑波の霊峰を仰ぎ南には蘆萩を逢うて白帆の去来する利根の大河を控へ北には萬代柗原を隔てて建国創業の元勲たる武甕槌神の御鎮座を拜す過ぐる紀元二千六百年の佳稔に八光臺と命名せる處なり 第一次欧洲大戦の空戦に敢闘せられたる海軍機関少佐磯部鈇吉氏は豫て研究試験中なりし滑空機の創翔を此の砂丘に決行し逓信省航空局駒林榮太郎氏臨検片岡文三郎氏操縦の下に滞空二十二秒といふ日本最初の公認記録を樹立す是れ實に昭和五年七月十一日の業績にして清水六之助澤宣治北尾亀男佐々木保次郎橋本喜作掘久山崎松三朗の七氏及び當理想郷の経始者たる山本平八郎氏等欣然この壮挙に参加せられたり 爾来十有三星霜今や皇軍の威武大に振燿して大御稜威は洽く大東亜に光被し殊に我が無敵空軍の壮烈全世界を震駭せしめつヽあり之が次陣錬成の登竜門として軍部を始め学園民間を通じ誠意訓練中なる滑空界の盛況を想望する時榮光輝くこの地而も神代航空の司神たる天鳥船神即ち息栖神社の創祭せられたりし軽野の郷に斯の記念碑を建設して先覺者の偉功を讃揚し航空思想の振興に貢献せんとするものなり 天つ日の照らせるきはみ空かけり大和男■子の意気を示さむ 昭和十八年七月十一日 正四位 峯間信吉 光生 増田好雄 共撰 従七位 小澤理一書 高橋正恒刻
非常に格調高く難しい漢字がたくさん使ってあって苦労しましたが、飛行に関係する部分だけを抜き出すと、
「昭和5年7月11日、当地鹿島の軽野村砂丘において、海軍機関少佐磯部鈇吉が開発したグライダーは、
片岡文三郎氏の操縦で試験滑空を行い、22秒という記録を出した。」
ということのようです。
海軍機関少佐磯部鈇吉は、日本グライダー研究の始祖とされる人物です。
また、碑文の後半に「軽野の郷に斯の記念碑を建設して」とあり、
当地の住所は合併、編入を経て現在神栖市なのですが、当時ここは鹿島郡軽野村でした。
この碑文を額面通りに受け取ると、昭和5年7月11日が国内におけるグライダー初飛行の日である。
ということになるのですが、
実際には同年3月、5月にもグライダーの飛行記録が残っており、
更には大正14年(1925年)3月21日、馬場源次郎が初の国産グライダーを製作、滑空。
明治42年(1909年)フランス武官ル・プリエー海軍中尉、相原四郎海軍大尉の協力を得て竹の骨組み複葉グライダー製作、
12月26日、上野不忍池端で、自動車曳航にて試験飛行実施。滑空距離約20㍍。
という記録も残っています。
ネットで検索すると、 大日本滑空始翔之地の内容は厳密には正しくないのですが、
昭和18年という時代背景を考慮すると、これは戦意高揚、航空兵拡充のためのプロパガンダではなかったか。
ということのようです。
神栖町史の中では、前記事の「神之池航空基地」と「内閣中央航空研究所鹿島実験場」については多くの頁を割いているのですが、
当地での出来事については触れられていませんでした。
余談ですが、碑文の中にどうしても判別できなかった文字(■部分)がありました。
上がその部分を拡大したものなのですが、写真真ん中部分、「男」と「子」の間の文字が不明です。
なんだかこの文字だけ字体が異なっていますね。
何という文字なのでしょうか? ご存じの方教えてください m(_ _)m
2013/4/14追記:がりつうさんから教えていただきました。変体がなの「の」だそうです。がりつうさんありがとうございましたm(_ _)m
茨城県・軽野滑空場跡地
軽野滑空場 データ種 別:滑空場
所在地:茨城県神栖市東和田砂山都市緑地
座 標:35°53'50.0"N 140°41'32.2"E
標 高:12m
着陸帯: 1,000mx550m?(不定形)
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1930年07月11日 当地で滑空を行う
1943年07月11日 碑建立
09月19日 当滑空場をはじめとする県内各地の地方滑空訓練所で滑空大会開かれる
関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地 [├空港]
2012年9月訪問 2021/7更新
撮影年月日1946/03/26(昭21)(USA M85-A-5VV 50)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
撮影年月日1947/10/26(昭22)(USA R384 76)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県神栖市にあった「内閣中央航空研究所鹿島実験場」。
前記事の神之池航空基地のすぐ南側に位置していました。
ここは通常の軍用飛行場ではなく、「実験場」というその名称の通り、特殊な飛行場でした。
(詳しくは後述します)
内閣中央航空研究所についてはネットでの情報が非常に限られており、
ここは敷地を明示した資料が見当たらず、「神栖市歴史民俗資料館」前の説明版(赤マーカー地点)に、
「ここに実験場があった」、「約八〇〇ヘクタールという広大な土地が(中略)買い上げられた」
とあることから大まかな位置と面積が分かり、
当時の航空写真から面積を確認しながら足したり引いたりして作図しました。
先頭のグーグルマップの作図で798haです。
800haという数字を気にしながら、「ここ飛行場っぽいなぁ」という主観で線を拾ってますので、
きっといろいろ間違ってると思います。
また、同説明版には「 二、000㎡の格納庫二棟」とあり、他サイト様(下記リンク参照)によれば、
「40mx50mの格納庫2棟」とありました。
上に拡大写真を貼りましたが、作図してみるとサイズもピッタリなので、恐らくコレが件の格納庫なのだと思います。
赤マーカー地点。
神栖市歴史民俗資料館。
前記事の桜花公園の北北西約5kmにあります。
前述の通り、 写真中央に小さく説明版が映っています。
内閣中央航空研究所鹿島実験場(全文)
●用地面積 約八〇〇ヘクタール
●用地提供地区 息栖・木崎・平泉・田畑・高浜・溝口地区の約六〇〇戸
●用地買収期間 昭和一六年(一九四一)~一八年(一九四三)
●研究終了時期 昭和二〇年(一九四五)十二月三一日
昭和十四年(一九三九)四月、航空技術の世界制覇をめざし、高速の成層圏飛行機の開発を目標に、内閣中央航空研究所は設立されました。当初は逓信省内に準備機関がおかれ、後に東京の三鷹市に研究所がつくられます。その飛行実験部が横浜に水上機用の実験場を設け、ついで神栖町域に「鹿島実験場」として陸上実験場を造成することになったのです。軍事用地として神栖が選ばれたのは、太平洋に面し、砂丘があり、広大な土地が安く入手できたことや、東京・横浜に近いわりに交通が不便で秘密を保つための適地とみられたことが考えられます。昭和十六年(一九四一)より十八年にかけて、用地の買収がはじまり、約八〇〇ヘクタールという広大な土地が、約六〇〇戸の所有者から買い上げられたのです。建設工事には地元の人々などが参加し、鹿島実験場には二、000㎡の格納庫二棟と滑走路が造成されました。戦時中でもあり、具体的な研究内容は不明ですが、昭和二〇(一九四五)の三~四月頃に練習機が数回飛行した程度だったということです。終戦後の昭和二〇年一二月三一日で研究所は解散され、職員と用地・施設などはいったん鉄道技術研究所へ引き継がれますが、戦後の海外引揚者などのために緊急開拓事業がはじまり、広大な用地は入植者に解放され、大野原開拓がはじまります。息栖から溝口にかけての広大な実験場は、現在では鹿島開発を経てこのような町並に変わりました。一方、航空技術の開発から鉄道技術の新開発へと方向転換した技術者たちは、その成果を昭和三九年(一九六四)東海道新幹線の開通として完成させるのです。平成八年三月 神栖市教育委員会 神栖市歴史民俗資料館
「航空技術の世界制覇」、そして「高速の成層圏飛行機」。
なんとも壮大な目標を掲げていたのですね。
中央航空研究所は、昭和14年4月1日に逓信省の一本局として設立され、技術院の設置に伴い、昭和17年に内閣に移管されて内閣総理大臣が管理中に終戦となった。そして同院の廃止に伴い昭和20年9月運輸省に移管され、同年12月31日に廃止された。
その研究内容は、一般空気力学研究部門・高速空気力学研究部門・水力学研究部門・飛行実験研究部門・航空人体科学研究部門・工作その他研究部門・機体及びプロペラ研究部門・発動機研究部門・燃料および潤滑油研究部門・材料研究部門であった。
等が出ていました。
一応レシプロ機でも成層圏を飛ぶことは可能なのですが、町史の中で当施設についての記述があり、
「昭和十四年、東京の三鷹市に五年の歳月と5000万円の巨費を投じて設立された。第一次世界大戦後から航空機の重要性が各国で認識されはじめ、日本でも、高度一万1000メートル以上の成層圏で時速1000キロメートル以上の超スピードで飛行できる航空機を開発するための「大風洞」と「低温実験装置」を備えた本格的な研究機関が誕生したのである。この水上機用の実験部が横浜に、陸上機用の実験部が町城の木崎地区に建設されることになったのである。」
とありました。
高度11,000m以上で時速1,000km以上と具体的な数字が出ています。
これでジェット機開発を念頭に置いていたことがハッキリします。
非常にミステリアスな研究所ですが、当研究所については後日また別記事で。
(2014/8/9追記:続きの記事書きました。下記にリンク貼っておきます)
茨城県・内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地
内閣中央航空研究所鹿島実験場 データ設置管理者:逓信省
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県神栖市大野原四丁目8番5号
座 標:35°53'54.2"N 140°38'59.0"E
標 高:7m
面 積:800ha
実験場長:6,000mx1,300m?(不定形)
(座標、標高、長さはグーグルアースから)
沿革
1939年04月 内閣中央航空研究所設立
1941年 1943年にかけて 鹿島実験場用地買収
1942年 一応完成したとされる
1945年03月 4月頃にかけて練習機が数回飛行
12月 研究所解散。職員と用地・施設などは鉄道技術研究所へ引き継ぎ。後に入植地として解放
関連サイト:
旧内閣中央航空研究所に係る地歴情報について■
ブログ内関連記事■■(旅行記/続きの記事)
この記事の資料:
現地の説明版
町史
神之池航空基地跡地 [├空港]
2012年9月訪問 2021/7更新
撮影年月日1946/03/26(昭21)(USA M85-A-5VV 3)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県鹿嶋市のカシマサッカースタジアム南側に住友金属鹿島製鉄所の大工場があります。
ここはかつて「神之池航空基地」でした。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
白く輝く滑走路はすぐ見分けがつくのですが、それ以外の滑走路、誘導路と思しき線の取捨に随分迷いました。
恐らくこんな感じではないかと思うのですが。。。
前記事の北浦海軍航空隊の南東約11kmにあります。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:神ノ池 建設年:1944 飛行場長x幅 米:1,750x120 1,500x120x2本 コンクリート 主要機隊数:中型3.0 小型5.5 主任務:教育 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住9400平米 指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場 掩体:小型有蓋20 小型無蓋20 大型無蓋26 其ノ他記事:魚雷同時調整36本 格納庫180本
■「防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
には、「神ノ池(S19.2.15)(昭19建)」とありました。
工場西側の外周沿いに「桜花公園」という小さな公園があります(赤マーカー地点)。
公園の由来(全文) 太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登
ここで特攻兵器”櫻花”の訓練が行われていたのですね。
「神雷竜巻櫻花隊員錬成之地 櫻花」の碑。山岡荘八
裏面に碑文がありました。
(全文)太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。撰文 山田荘八 昭和五十三年三月吉日 建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子
あの山岡荘八は報道班員として神雷部隊と生活を共にしていたのでした。
公園の奥まった所に掩体壕が現存しており、
中に桜花が置かれています。
他に例を見ない一式陸攻、護衛の零戦、桜花による三機一組の訓練が続いたのだそうです。
訓練は日に2回から4回繰り返され、練習用の桜花に爆弾と同重量の水を載せ母機を離れると水を捨てて滑空し、
上陸用のソリで砂地を滑走路するという特殊なものでした。
桜花が着陸に失敗したり、零戦の緩降下訓練中の失速墜落等、死亡事故が続きました。
訓練開始から三日後、神雷部隊は連合艦隊の直属となり、12月中旬に予定されたフィリピン進攻に備えました。
これは、台湾の高雄基地からフィリピンのクラーク基地に進出し、レイテ湾内の大型艦に突入するという作戦でした。
そしてこの作戦を間近に控えた時期、 同基地には、11月23日に及川軍令部総長、12月1日に豊田連合艦隊司令長官、
同月3日には米内海軍大臣が訪れました。
海軍三首脳が一航空隊を訪問するというのは前代未聞のことであり、
海軍がこの桜花作戦に如何に大きな期待をかけているかを物語っています。
ところがその後、レイテ島への補給路が遮断され、桜花を積載した空母が撃沈され、予定変更を余儀なくされます。
台湾からフィリピンへの桜花攻撃は中止となり、台湾・南西諸島を中心とした本土周辺の迎撃を第一段階、
本土決戦を第二段階とする次期作戦計画が立てられました。
この作戦計画により神雷部隊は1945年1月、南九州方面の鹿屋、出水、築城、大分などの基地に向かいました。
神之池の残留部隊は「竜巻部隊」と称し、桜花搭乗員の訓練部隊となりました。
1945年3月、米機動部隊が宮崎県都井岬の地点まで南下し始め、これを迎撃するため、
同月21日に初めて神雷部隊に出撃の正式命令が下され、一式陸攻18機、桜花15機、援護戦闘機32機が出撃しました。
しか海上哨戒力の弱さ、援護戦闘機の不調事故などにより、わずか10分の戦闘で何の戦果もなく全滅したのでした。
その二日後、沖縄決戦が始まったため、沖縄周辺の艦船に対し、桜花隊員6名、陸攻隊員42名による
第二次攻撃が行われましたが、結果は陸攻1機が帰投しただけで、あとは全滅しました。
神之池基地を出発した桜花隊員は第三次攻撃後に70人に減り、第五次攻撃後には37人に激減していました。
その後第十次にわたる桜花攻撃が繰り返され、神雷部隊の出撃機数は553機、未帰還機数は402機、723人となりました。
戦績は、駆逐艦撃沈1、撃破5というものでした。
6月23日、沖縄本島陥落。
本土決戦のため、桜花隊は富高基地に移動しました。
一方神之池基地では、桜花の自走力を向上させるべく、強力な噴射ロケットを装備した桜花二二型の開発を目指し、
神之池の竜巻部隊はその実験部隊となりました。
飛行実験が何度か繰り返されましたが、いずれも成功しませんでした。
同時に、本土決戦用としてジェット噴射器を装備した桜花四三乙型の飛行実験が
神之池から滋賀航空隊に移動した第七二五航空隊で予定されており、
この飛行実験に先立ち、ジェット機橘花の飛行実験が木更津基地で行われました。
神之池基地の竜巻部隊から鹿屋基地に進出していた第三陣の爆戦隊は、6月8日に鹿屋基地が爆撃された際、
喜界島からの攻撃を命令され、同月10日、「第二神雷部隊」として同島に移動していました。
この「第二神雷部隊」に8月11日、沖縄泊基地艦船へ突入するよう命令が下され、
8月13日、5機が飛び立ちました。
これが神雷部隊の、そして敗戦前の沖縄特攻の最後のものとなりました。
この「第二神雷部隊」には、沖縄決戦が本土決戦に移行したこと、原子爆弾が投下されたこと、ポツダム宣言の放送、
米艦隊の正確な位置など、何一つ知らされていませんでした。
「海軍施設系技術官の記録」という本の289pに「五、神の池の実験」という項目があり、以下のように記されていました。
「滑走路、本物のトーチカ、指揮所、飛行機の掩体等を造って、実際に横須賀から編隊の飛行機が飛んできて爆撃した。又爆弾を地上に置いて静止爆発させ、生体に対する影響も調べたが、生体には豚が選ばれた。豚は皮下脂肪が厚く、鈍感なのでなかなか死ななかったが、死んだときは豚汁になって我々を悦ばせた。 神の池の実験は、元来は敵飛行場攻撃の為の実験であったが、金城会の諸君を案内した頃は、すっかり守備の為の資料になっていた。」
茨城県・神之池航空基地跡地
当地が「人間爆弾・桜花」の特攻訓練基地に設定されたのは、東京、横浜と至近距離にあり、しかも交通が不便で軍の機密保持に都合がよいこと、地質が砂土で飛行実験には最適であるという立地条件を備えていたからなのだそうです
神之池航空基地 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県鹿嶋市国末
座 標:35°55'55.4"N 140°40'16.3"E
標 高:9m
滑走路:東西1,400m、南北1,200mの大滑走路と4本の小滑走路。居切掘南側の砂地に桜花用第二飛行場
1,680mx80m(コンクリート)、1,500mx80m(コンクリート) 「日本海軍航空史」(終戦時)より
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1940年 この頃居切掘の北側一帯の民有地五百町歩が軍に買い上げられる
1941年06月 飛行場造成工事開始
1944年02月 15日、完成
04月 予科練卒業生の練習基地として開場
07月 桜花、特殊奇襲兵器として正式採用される
11月 桜花専用の特攻部隊「神雷部隊」発足。霞ヶ浦、百里が原航空隊を経て当飛行場が訓練基地となる
1945年01月 桜花隊第一陣が南九州の各基地に進出
02月 艦載機の空襲により壊滅的被害を受ける
03月 第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃。桜花出撃数15、戦死15名。以下8月13日まで出撃続き、
桜花隊による戦没者は55人
1993年12月 桜花公園開園
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この記事の資料:
現地の碑文
「海軍施設系技術官の記録」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調