帯広緑ヶ丘飛行場跡地 [├空港]
2010年6月訪問 2023/1更新
撮影年月日1944/08/15(M913 C1 15)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
北海道帯広市の「十勝飛行場」の北東側に緑ヶ丘公園があります。
1932年、当時の帯広町がここに「帯広緑ヶ丘飛行場」の建設を開始しました(帯広町は翌1933年に市制施行)。
いろいろ検索してみると、資料によってはこの「帯広緑ヶ丘飛行場」を、
現在の「帯広空港」や「帯広第一飛行場(現十勝飛行場)」の前身として扱っ ています。
どちらもアリな扱い方と思いますが、
「(指を指して)昔ここに滑走路があったぜよ!(キリッ)」というのが当ブログの趣旨ですので、
別々の飛行場として扱わせていただきます。
どうぞご了承くださいませ m(_ _)m
話を戻します。
この飛行場は情報が限られていて、(オイラが調べた範囲では)滑走路の位置を明示した資料がまったくありません。
滑走路の位置を明示した資料は見つからないのですが、
それでも当飛行場に触れているサイト様はわりとあり、その中から位置に関連した情報を拾い出してみると-
・緑ヶ丘公園の一部が飛行場跡である
・百年記念館(青マーカー)から公園東町方向/百年記念館横の辺りにあった
とありました(「公園東町」は緑ヶ丘公園の東側に広がっています)。
また当飛行場の運用については、
・札幌との定期便があった
・後に陸軍飛行場になった
とありますから、そこそこの規模であったはずです。
滑走路の長さについて具体的に、「1,100mx100mコンクリ」とするサイト様もあり、
すぐ南西にあった陸軍帯広第一飛行場の滑走路は終戦前後の航空写真にクッキリ映っているのですが、
1944年~1947年(末期~終戦直後)の航空写真を見ても、緑ヶ丘公園の周辺に、
コンクリ舗装の滑走路の地割を見つけることはできませんでした。
それでも、緑ヶ丘公園の周辺に、どこか滑走路らしきものはないかと航空写真を探して見つけたのが、
上に貼った矢印で囲った地割で、先頭のグーグルマップではその通りに線を引きました。
ということで先頭のグーグルマップの作図は、滑走路位置を示す資料がまったく見つからないため、
「航空写真ではここが滑走路っぽく見える」という、100%オイラの主観です。
情報お待ちしておりますm(_ _)m
サイト:帯広の公共施設いま・むかし 調べながら展 では、
48.帯広緑ヶ丘飛行場(昭和7年) という項目があり、
「昭和7年、帯広町は5,000円を投じて野球場、陸上競技場などがすでにあった土地およそ7万坪のところに囚人の労役で飛行場がつくられた。しかし、後に軍隊誘致のため寄付されることになる。」
とありました(下記リンク参照)。
1944年の航空写真から滑走路っぽく見える地割を作図して測ったら、
おおよそ1,300mx190mで、面積は24.5haでした。
7万坪=23.1ha なので、本当にここが滑走路なのかはともかく、大きさはこんな感じではないかと。
また、冒頭でも触れた南西約3kmにある十勝飛行場とは滑走路の向きがほぼ同じです(厳密には5.5°のズレ)。
滑走路の向きは、その土地の風向で決定されますから、これだけ近いと向きも同じになる可能性が高いと思います。
それから当時は帯広駅から十勝鉄道という軽便鉄道の線路が敷設されていたんですが、
上の作図通りだと、この線路も避けています。
また、
「飛行場は、野球場、陸上競技場などがすでにあった場所に建設された。戦後は跡地に再び市営球場が建設された」
という資料があるのですが、
1947年の航空写真で見ると、滑走路と思われる地割のほぼ中央に野球場が映っています。
現在その場所に野球場は無くなっており、
代りに「木立のある広場 パークゴルフコース」が整備されています(黄マーカー)。
撮影年月日1947/08/11(USA M408 95)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。現・パークゴルフコース付近に映っている野球場)
御親閲場址碑(赤マーカー地点)
写真の左側の面は空白になっていますが、残りの二面にはそれぞれ、
「昭和十一年九月二十九日御親閲碑受 題字 宮内大臣従二位勲一等松平恒雄閣下」
「昭和十三年九月二十九日建立 帯廣市長正六位勲五等渡部守治」
と彫られていました。
「昭和11年(1936年)9月29日から3日間、帯広市初の行幸があり、このことを記念して2年後にこの碑を建立した」。
ということのようです。
市史には「1936年の陸軍大演習の際、昭和天皇が帯広飛行場を会場に分列行進を親閲した。」とあるそうです。
ここに飛行場があったなんて、今では想像もつかないことかもしれませんが、
確かにここに飛行場があったことを示すものですね。
当「帯広緑ヶ丘飛行場」が完成したのが1933年。
1935年7月に北海タイムス所属飛行機が帯広~札幌間(夏季のみ月2回往復)の運航を開始しました。
1936年に緑ヶ丘飛行場は帯広市から軍用に転用され、行幸がありました。
1937年には、緑ヶ丘一帯が軍用地として接収されます。
行幸のあった1936年時点で道内で運用していた飛行場はここ以外に
女満別、根室、室蘭、千歳、札幌の5ヵ所のみでした(オイラ調べ)。
女満別は中央気象台の飛行場、根室は軍用飛行場、札幌(旧札幌)は新聞社と逓信省の飛行場で、
地元の人々が自分たちで使用するために造った飛行場は千歳と室蘭とここだけ。
また、すぐ北側には1929年に廃止された民間の音更飛行場がありましたし、
1939年には市設帯広飛行場が着工します。
いかにこの地域の民間飛行場建設が突出しているかよく分かりますね。
2014/9/9追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、帶廣中學校グライダー部・帶廣市東五條南二の一廳立帶廣中學校が当飛行場を使用したという記録があります。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
碑の前の通り(r216)。向かい側に交番があります。
帯広市・緑ヶ丘飛行場跡地
帯広緑ヶ丘飛行場 データ設置管理者:帯広町(市)→旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道帯広市緑ヶ丘
座 標:N42°54′30″E143°11′23″
滑走路:1,300mx190m? (1,100mx100mコンクリとする資料あり)
方 位:13/31?
(座標、方位は地理院から)
沿
革
1932年06月 野球場、陸上競技場などがすでにあった土地およそ7万坪の場所に町費5,000円を投じ建設
1933年 完成
1935年07月 北海タイムス所属飛行機が帯広~札幌間(夏季のみ月2回往復)を運航
10月 この頃、帶廣中學校グライダー部が当飛行場を使用していた
1936年 市から軍用に転用
09月 29日から3日間行幸。陸軍大演習の際、昭和天皇が帯広飛行場を会場に分列行進を親閲
1937年10月 隣接する帯広飛行場、陸軍飛行場への転用工事開始。これに伴い緑ヶ丘飛行場は閉鎖とする資料あり
関連サイト:
帯広の公共施設いま・むかし■
ブログ内関連記事■
>土地およそ7万坪の場所に町費5,000円を投じ建設
5千円ってのが時代を感じます!
by ハイマン (2010-09-12 08:40)
当時を知るのはかなり難しそうですね。
地元の人からすると、よくぞ来てくれました、ってところでしょうか。
by takechan (2010-09-12 10:12)
知ってる人のお家のすぐ近く...
この辺りにも飛行場あったのですね
by sak (2010-09-12 10:25)
帯広って確か従姉妹が住んでる…
って今思い出しました…
by まめ助の母 (2010-09-12 12:32)
暗くなってからも、その探求熱心さが伝わってきます(^^)v
by an-kazu (2010-09-12 15:24)
>(指を指して)昔ここに滑走路があったぜよ!(キリッ)
とりさんかっこいい。
キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!
by tooshiba (2010-09-12 15:43)
町費を投入してまで建設されたのですね。
by masa (2010-09-12 19:32)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■ハイマンさん
5,000円で飛行場できちゃうんですからね~。
■takechanさん
そうですね~。
地元で解明が進むことを期待します。
■sakさん
おお、そうでしたか!
この辺りは飛行場/跡地多いですね~。
■まめ助の母さん
まめ助の母さんもですか!
いい所にお住まいですね^^
■an-kazuさん
かなり暗く写ってますけど、実はこれ朝なんですよ。
■tooshibaさん
て、照れるぜよ!キリッ
■masaさん
この「地元の飛行場を!」という意思は凄いと思いました。
by とり (2010-09-13 06:24)
5,000円って凄い価格ですね!円より何銭の時代ですからぁ(^O^)千人針は十銭硬貨を縫いますから(^O^)家建ちますよ!あの広大な北海道なら、有り得る破格な安さなのかも(^O^)
by 鹿児島のこういち (2010-09-13 12:33)
■鹿児島のこういちさん
>十銭硬貨を縫
そうなんですか(@Д@)
本当に針を刺してるのかと思ってました。
by とり (2010-09-15 06:53)
針で縫いますよ(^O^)/千人の人に、一針、一針、縫ってもらって久遠無事などの文字などを書いてもらいます。
十銭硬貨は、九銭より高い、九銭を越える。苦戦を越えるって意味で、その千人針に縫い付けられるのです。また、五銭硬貨も四銭、死戦を越えるとの意味で縫い付けられたりします。
時たま、釣銭で、五銭や十銭が五円や十円と間違われて、手元にきたりします。が、僕の十銭は、うちのが間違えてスーパーで使いました。レジの姉さんも、しっかり受け取ったらしいです。
法律上、表面の価格価値しかないはずだから、9円90銭も、不足という事になるのでは(^O^)
by 鹿児島のこういち (2010-09-17 20:48)
前の米に追記です。
針で縫った糸で、久遠無事などの文字を書きます。
これだけ出征するときには無事でいてくれと願うのに、終戦で負けて引き上げてくると、辛い思いをした兵隊さんが多かったと聞きます。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
今だにこの日本には、そのような風潮が残っているように感じます。
by 鹿児島のこういち (2010-09-17 21:01)
■鹿児島のこういちさん
詳しい解説をありがとうございましたm(_ _)m
硬貨にもそういう願いを込めた意味が託されているのですね~。
>風潮
同感です。周辺国に気を遣うあまり、肩身の狭い思いをされている方が気の毒です。
by とり (2010-09-19 07:40)
うちのブログに出てくる友達のS川の家の近所ですww
>あったぜよ!(キリッ)というのが趣旨
~ぜよに笑いましたw
今年は帰省しなかったんですが、龍馬伝のおかげで土佐弁づくしでした^^
>月2回往復 これは採算取れたんでしょうかね?
最後は軍に寄付って、時代ですね
by コスト (2010-09-27 22:41)
■コストさん
おお! ご近所でしたか!
親近感沸きますね^^
>ぜよ!(キリッ)
これは一度使ってみたかったんです。
>月2回
今では考えられない感覚ですよね~。
採算は…どうなんでしょうか??
by とり (2010-09-28 21:25)
この公園、グリーンパークの名物は、長さが 400m のベンチがあること。戦前の軍用機ならそのくらいで離着陸できたのかな、、、? 空母の甲板よりは長いだろうから。
by 北極熊 (2016-06-01 15:13)
十年ほど前に亡くなった父親が、戦時中帯広の飛行場に配属されていたこと、またその基地の名前が緑が丘飛行場だったと聞いたことがあります。その父が敗戦後故郷である岩手県花巻市に戻り、旧陸軍兵舎のあった桜町地区(宮沢賢治の「アメニモマケズ」詩碑の近く)の一帯を「緑ヶ丘」と名付けたのは、どうやらそのゆかりのようです。そこは今、市営緑が丘住宅と名付けられ、入り口にその名の付いたバス停も立っています。緑が丘飛行場の航空写真については、1970年代の終わりごろに、戦記雑誌の「丸」に載っていたと記憶します。何故覚えているかと言うと、その写真を切り抜いて父親に送った記憶があるからです。
by 星野 (2021-08-15 14:33)
■北極熊さん
今更で申し訳ありませんが…
コメントありがとうございました。
by とり (2021-08-15 20:15)
■星野さん
貴重なコメントありがとうございました。
by とり (2021-08-15 20:16)