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桶川飛行学校跡地 [├場所]

   2010年6月訪問 2023/1更新  


無題9.png
撮影年月日1946/02/13(USA M44-A-5VT 14) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

埼玉県の熊谷飛行学校(現・空自熊谷基地)から南東約28キロのところに熊谷飛行学校の分教場がありました。

当「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」で、現在はホンダ・エアポートになっています。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」と、

■「防衛庁防衛研究所図書館資料・昭和18年4月」の中に当飛行場の地図と資料があり、

先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の情報を以下引用させて頂きます。

「桶川陸軍飛行場 埼玉県北足立郡川田谷村 35°58′5N 139°31′2E」

面積 北西-南東2,000米 北東-南西300米 
地面の状況 北西より南東に向け1/800の下り片勾配を為す
地表は細砂質の裸地にして硬度は普通なるも
降雨後一部に水溜を生ず
目標 川越市、荒川及入間川の合流点
障碍物 (記載なし) 
離着陸特殊操縦法 (記載なし) 
格納設備 木造格納庫(47x38米)1棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 (記載なし) 
観測設備 陸軍気象観測所あり、航空気象を観測す
給油設備 あり
修理設備 なし
宿泊設備 なし、川越市に旅館あり
地方風 9月-翌年4月間は北西風、5-8月間は南東風なり
地方特殊の気象 積雪日数12.5、霧日数10.2
最高気温38.4C°、最低気温零下11.6C°なり(原文ママ)
交通関係 桶川駅より「バス」の便あり
其の他 (記載なし) 
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  桶川
位 置   埼玉県北足立郡川田谷村
規 模   要図(1300)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有


戦時中、全国にはたくさんの軍用飛行場が建設された訳ですが、

滑走路(帯)と付帯施設がひとまとまりで建設されるのが一般的で、

特に陸軍の飛行場の場合、形は方形のものが多かったです。

ところがここ桶川飛行場は、滑走路は現在ホンダエアポートが使用している細長い河川敷内を使用していました。

このため川が増水すると、ヒコーキを本校の熊谷に避難させたりしたのだそうです。

標準的な飛行場に慣れた操縦士にとっては狭くて着陸が難しかったのだそうで、

終戦間際に不時着した海軍パイロットの、「グライダーの滑走路かと思った」という言葉が残っています。

一方、校舎は滑走路から800mほど上流の高台に離れて設置されました(グーグルマップ・オレンジ色のポリゴン)。

ここはつい最近まで当時の木造兵舎が非常に良好に保存されており、全国的にも稀有な場所でした。

広大な平地に建設された標準的な方形の飛行場ではなく、

河川敷内に建設された変則的な形の飛行場だったわけですが、

こうした特徴が結果的に、工業団地、公共施設に転用されず、木造の建物が奇跡的に残された要因となっています。

 

桶川飛行学校は昭和12年に開校しました。

操縦の初歩を教えるための訓練飛行場で、ここで飛行の基礎を学んだ後、更に他の基地で訓練を積んだのだそうです。

少し時代が進み状況が切迫してくると、「特操」という制度ができました。

学歴保持者をパイロットに養成するための制度なのですが、「理系を集めると国の技術レベルが落ちるから」。

という判断で、文系の学生が集められました。

当飛行場にも「特操」生がやって来て訓練が行われたのですが、

座学には飛行原理の物理や航空機の構造全般も含まれました。

文系の生徒が理系の教育を受けることになったわけで、畑違いの科目に苦しむことになりました。

 

こうして飛行の初歩を教える学校として運用が続き、そして終戦を迎えた-

これが一部の方を除き、つい最近までの桶川飛行学校についてのごく一般的な認識でした。

ところがひょんなことから転機が訪れます。

ある日近くの神社に特攻隊員の辞世の句を記した1枚の色紙が奉納されているのを氏子が発見。

 

           「なぜ訓練飛行場に死を覚悟した人がいたのか?」

 

氏の疑問がきっかけとなり、ここが単なる訓練飛行場ではなく、

後半は特攻隊の訓練基地だったことが明らかになりました。

これが「語り継ぐ会」創設のきっかけだそうです。

辞世の句が記されたこの色紙は、

特攻出撃命令を待ちながらこの飛行場で訓練をしていた隊員が飛行学校の看護婦に託したものでした。

特攻隊の待機部隊が訓練していたこと、実際に特攻隊が出発したことは、関係者、地元の方の一部が知るのみであり、

元整備員の方曰く、「今の人たちに話しても真意は理解してもらえないだろう」

と、そのまま黙っているつもりだったのだそうです。

しかしその後会の呼びかけと広範な調査の結果、

当時を知る方の証言1つ1つ、残された小さな資料の1つ1つがつなぎ合わさり、

これまでよく知られていなかった飛行学校の実態が明らかにされつつあります。

以下はここ数年で明らかになった(公になった)記録を含む、特攻訓練基地としての桶川飛行場の概要です。

 

昭和19年末、急上昇や旋回など、多様な飛行訓練をしていた赤とんぼが、

エンジンを全開にして垂直降下だけを繰り返し始めました。

「ああ、特攻の練習部隊が来ているのか」

付近の住民でさえ、赤とんぼの飛び方で、極秘だった部隊の存在を知ったのだそうです。

そして昭和20年2月、開校以来1,500~1,600名の航空兵を教育した飛行学校が閉校。 

これ以降、特攻隊の訓練基地としての運用が始まりました。

 

滑走路の近くに風向きを知らせる吹流しが立っていました(緑マーカー)。

特攻訓練機は高度800m、35度の角度で3機編隊がレバーを全開にし、この吹流しを目指して急降下します。

ここぞと言うところで今度は操縦桿をいっぱいに手前に引いて急上昇。

一瞬でも遅れれば地面に激突します。

「失敗は成功の基」という言葉がありますが、パイロットたちにこの言葉は通用しません。

訓練を受けていた特攻隊員は約20名と推測されるそうです。

猛訓練が続いた後の昭和20年4月5日、

選ばれた12機が陸軍特攻機の出撃地として有名な鹿児島県の知覧基地に移動することが決定しました。

出撃が決まった12機は訓練機であり、これは陸軍の特攻に使用する機体としては初のことだったそうです。

既に航空機が不足しており、敵機よりずっと性能の落ちる訓練機を使用せざるを得ませんでした。

近隣の川越市から塗装業者を呼び、訓練機に実戦機用の灰緑色の塗り替えが施されました。

鹿児島県知覧までは、途中岐阜県各務原飛行場、山口県小月飛行場で各一泊しながら行くことになり、

旧式の機体のため、整備要員6名が最終経由地である山口県小月飛行場まで同乗することになりました。

特攻隊が出発することなど秘密のはずだったのですが、

噂を聞きつけた大勢の老人男女が滑走路すぐ北にある太郎右衛門橋と堤防のところで、

二度とこの飛行場に戻らないヒコーキを見送りました。

経由地となる岐阜県の各務原飛行場から山口県小月飛行場に向かう途中、京都上空でここが故郷の一機が編隊を外れ、

高い煙突の上空で数度の旋回をした後、再び編隊に合流するという一幕がありました。

パイロットは何もしゃべりませんでしたが、同乗していた整備員は旋回の際何人かが日の丸を振るのを目撃しています。

この時同乗していた整備員の方は現在もご健在で、語り部として旧飛行学校を中心に活動しておられます。

その後知覧に到着した12機は4月16日、「第79振武隊」として沖縄沖に出撃しました。

桶川を後にし、同日揃って知覧から沖縄沖に飛び立った12機なのですが、

実はその中の1機は爆弾が落下したため帰還し、22日に再出撃しています。

そして、これとは別に1人だけ、「特攻隊員」として記録されなかった操縦士がいます。

出撃したものの攻撃を受けて小島に不時着し、知覧に戻ったのですが機体がなく再出撃の機会がありませんでした。

この操縦士はその後福岡へ移動(振武寮と思われる・下記リンク参照)したと記録が残されています。

 

当桶川飛行場から特攻隊が飛び立ったのは結局この1回きりだったようですが、

出撃命令を待つ3,4の特攻隊が各地からやって来て、厳しい訓練を続けていたようです。

訓練の真っ最中である昭和20年5月頃、

東京の有名な料亭による慰問があり屋台が出て、寿司、天麩羅、お汁粉などが振舞われたことがありました。

翌朝、特攻隊のうち1つの部隊が他の基地に向け飛び立って行きました。

他にも、東京の有名店から焼き鳥とビールが振舞われたことがあったそうです。

 

坂戸飛行場等、周辺の飛行場は末期の時期に空襲を受けたのですが、当桶川飛行場は最後まで空襲を受けませんでした。

ペンタゴンの資料には当飛行場付近の地名がローマ字でマークされており、所在は知られていたようなのですが、

用途が当初の「初等訓練用飛行場」のままで把握されており、

攻撃の必要が認められなかったのだろうと考えられるそうです。

戦後の9月、米軍が進駐してきました。

彼らがまず行ったのは、残存航空機をはじめとする周辺地域のあらゆる武器の破壊でした。

集められた武器が飛行場中央で爆破されました。

「爆破」と言っても粉々になったのではなく、かなり大きく形の残ったものもありましたが、

彼らの目的は使用不能にすることだったので、これで充分なのでした。

残骸を持ち帰る地元の人もありましたが、時経つ内に散逸してゆきました。

米兵は地元の子供たちとも、終戦処理業務に当たっていた日本兵とも友好的でした。

中には米軍兵舎への送電を意図的に止め、修理した風を装ってアメリカのタバコをせしめる猛者もいたのだそうです。

 

飛行学校にお邪魔しようと現地を訪れた際、

ホンダエアポート北側の「太郎右衛門橋」東側から分かりやすい案内板が続いてました。

以下、解体前の様子です。

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花崗岩の境界杭を旧兵舎に続く道沿いに何本も見ることができます。

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旧兵舎の手前にある「弾薬庫」。

この遺構の用途が判明したのはつい最近のことなのだそうです。

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奥に見えている建物が旧兵舎。

現在第1、第3日曜日 10時~15時に公開されていますが、他の休日でも会員がいる時には見学できるそうです。

実は最初にお邪魔した時は公開時間ではなくてチェーンが張られていました。

この後の内部の写真は後日公開日に再度お邪魔した時のものです。

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現存する旧兵舎。

右から医務室、下士官室として使用している部屋があり、

裏に抜ける通路部分をはさんで約20名のベッドが並べられる部屋が5つ並んでいました。

この兵舎と共に、この周辺に守衛所、車庫、便所、防火水槽、弾薬庫が現存しています。

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旧下士官室。右隣は旧医務室。

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裏に廊下があって、20名のベッドが置ける部屋が並んでいます。

実はこの旧兵舎、戦後大陸などからの引揚者が住居として使用しており、

つい数年前まで住人がおられました。

最後の住人が転出したのを機に、展示するための整備が進められました。

「旧飛行学校跡地」としてまだ本格的な活動が始まったばかりです。

現在準備中の部屋もありますが、各部屋に資料がたくさん展示されており、

説明員の方から丁寧な説明を受けることができます。

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この旧兵舎は、敷地は国の所有、建物は桶川市の所有で、

2010年3月で国との契約が切れるため、更地にして国に返還する約束になっていました。

もし本当にそうなってしまったら、施設を知覧に移設しようという考えもあったそうです。

会のメンバーの尽力により、2010年1月、市が国から土地を購入。

会としては、市、県に加えて国にも保存の働きかけを行うつもりでしたが、

その後政権交代、土地が正式に市に移ったことなどから、現在は国への交渉を見合わせているのだそうです。

とりあえず最悪の事態は免れたのですが、ここを今後どのように利用するかについて市は「現在検討中」としており、

「このまま建物を保存する」という確約は得られず、現在も予断を許さない微妙な状況のようです。

市側には土地活用についていくつかプランがあるようで、今後施設が本当に知覧に移る事態になるかもしれません。

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再現したものはない迫力がありました。 生々しいです。

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車庫跡。

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戦後住居となっていた名残でしょうか。

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守衛所。

車庫と守衛場は住居だった当時のままになっているそうです。

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旧本部兵舎を後にして太郎右衛門橋に移動しました(青マーカー地点)。

太郎右衛門橋は掛け替えがあり、飛行学校があった当時の位置は、現在より少しだけ滑走路から遠ざかるんですが、

本当に橋のすぐ手前まで陸軍飛行場滑走路でした。

特攻機出撃の際、この橋から見送る地元の方々がおられたのですね。


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ホンダ創業者本田宗一郎氏がこの場所に目をつけ、戦後25年の空白期を経て、ホンダエアポートがオープンしました。

オープン当初からフライングスクールが開設され、以来半世紀渡って多くのパイロットを輩出してきました。

戦中も戦後も、ここはそういう場所なんですね~。

戦中当地で訓練を受けた元操縦士の方々がここを数十年ぶりに訪れ、遊覧飛行を利用。ということもあるのだとか。

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滑走路は河川敷内にあるのですが、土手の外側にホンダ航空の立派な社屋と格納庫があります。

土手を越えて滑走路に続く道路があるのですが、土手の上が少し開けています(グーグルマップ・グレーのポリゴン)。

陸軍当時、上の写真の手前側に47mx38mの木造格納庫がありました。

かなり大きなものがあったんですね。

吹流しの左隣に何かありますね。

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ナゾの物体に接近してみました(赤マーカー)。

井型で荒い鉄筋コンクリート製。かなりデカイです。

説明員の方にお聞きしたところ、「給水塔基礎」なのだそうです。

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ホンダ航空社屋から滑走路に続く道に沿うように、途中まで横堤があります。

上の写真はその横堤に上ったところ(D地点)。画面奥に滑走路があります。

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で、その横堤の先の方にはこんなものが。

「固定ブロック」だそうです(黄色マーカー)。

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D20_0011.jpg

そして「固定ブロック」のさらに先には、 こんなものが(緑マーカー)。

「吹流塔の基礎」だそうです。

「固定ブロック」、用途が分からないのですが、吹流しの支持用のものでしょうか???

ここにあった吹き流しを目がけて特攻の訓練を繰り返していたのですね。

D20_0010.jpg

「吹流塔の基礎」のほぼ中央部分にある金属の丸。

ということで陸軍当時、河川敷内に滑走路を設け、土手のこの場所に格納庫がありました。

現在のホンダエアポートも滑走路は変わらず河川敷内にあり、

土手のこの部分にスロープを設け、土手を越えたところに格納庫と社屋があります。

時代を経て滑走路の基本的な使い方は当時のままでした。

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「吹流塔の基礎」部分を下から。

 

最後になりますが、桶川陸軍飛行場運用当時から近隣にお住まいだった方がオイラの得意先におられ、

何度か当時の様子についてお聞きする機会がありました。

資料等には出ていない部分だけ記させていただきます。

「風向きにより、飛行機の離陸する向きが変わった。

離陸する向きによって、自宅まで聞こえてくるエンジン音の大きさがかなり違っていたので、すぐに分かった。

ここから特攻機の出撃があったことは当時は知らなかった。

後にそのことを聞いて胸に迫るものがあった」

2017年に寝たきりになり、2018年にお亡くなりになったのですが、

オイラが飛行場について調べているとお伝えしてからは、

以来寝たきりになるまで数年に渡り、地方版に関連記事が出るとせっせと切り抜きをして、

オイラのことを待っていてくださったのでした。

この場をお借りして、心より御礼申し上げます。


      埼玉県・桶川飛行学校跡地      

桶川陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
所在地:埼玉県北足立郡川田谷村(現・桶川市川田谷字若宮2335)
標 点:N35°58′5″E139°31′2″
標  高:18m
面 積:94ha(滑走路部分・グーグルマップ計算)、0.96ha(分教場跡地として市が購入した面積)
滑走路:2,000m×300m
方 位:14/32

沿 革
1937年06月 3日 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場開校
1944年   この年末から特攻訓練が始まる
1945年02月 飛行学校閉校、この間に1,500~1,600名の航空兵を教育。これ以降、特攻隊の訓練基地となる
    03月 27日 12名の特攻隊員が決定される
    04月 5日 12機が鹿児島県の陸軍知覧基地へ出発。使用機は九九式高等練習機
       16日 第79振武特攻隊として出撃(記録では特攻隊員11名)
       1名は爆弾が落下してしまい一旦帰還。1名は攻撃を受け小島に不時着、
       22日 爆弾が落下した機が再出撃
    05月 桶川教育隊の基本操縦訓練場が札幌飛行場(丘珠飛行場)に移転(下記リンク参照)。
       教官と整備員の半数が移動した(米軍の空襲が関東地方に及び、訓練が困難となってきたための措置)。
       同じ頃、整備員3名が数名の飛行兵と共に福島県磐城飛行場に派遣。
1945年08月 終戦。進駐を経て、旧本部兵舎は通称「若宮寮」として大陸などからの引揚者の住居として使用される
        多い時で70戸、300人が居住
1970年12月 1日 ホンダエアポート供用開始
2005年06月 「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」発起人会結成
2007年03月 旧兵舎の最後の住民が転出。市は取り壊しを前提に建物調査を検討
2008年02月 会のメンバーが市長を訪問。旧本部兵舎保存などについての要望書を提出。
    10月 関係資料の展示を始める
2009年2月,3月 跡地保存の1万4千余名の署名と共に桶川市長と県知事に要望書を手渡す
    06月 国の登録文化財として埼玉県経由で国に申請するよう市に要望書提出
2010年01月 国所有の分教場跡地9,500㎡を桶川市が購入。土地、建物共に市の所有に。市は土地の使用法について検討        04月 市が光熱費の負担をするようになる
2014年08月 桶川市、保存活用計画作成
    09月 桶川市、旧若宮寮跡地整備基本計画を策定
2016年02月 桶川市、市有形文化財に指定
2017年03月 桶川市、解体調査実施
2020年08月 4日 桶川飛行学校平和祈念館開館

関連サイト:
NPO法人旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会  
桶川市/飛行学校 
桶川市/桶川飛行学校平和祈念館 
ブログ内関連記事
 ホンダエアポート 
 札幌飛行場     

この記事の資料:
読売新聞地方版特集記事(2014/11/9、2015/8/13、2016/4/29、7/26、11/20)
現地説明資料
旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」機関紙
「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
「防衛庁防衛研究所図書館資料・昭和18年4月」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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コメント 27

ジョルノ飛曹長

ここは入れる施設なんですね^^
今度是非行ってみようと思います。
特攻の訓練は基本的に急降下ですからね。
すぐにそれとわかります。悲しいことです。
by ジョルノ飛曹長 (2010-07-12 08:15) 

鹿児島のこういち

ここには、僕も行ってみたいです。
国や市の所有でさえ、使えないなとみるや、すぐ壊そうとする。歴史的資料の価値がわからないんだろうか?遺跡埋設物保護法だったけかな?あれですら、ここ最近やかましくなったけど笊法ですよね(-_-メ)
建物も下見板張りで、昭和初期って感じ!瓦や窓ガラスはどうでしたか?
瓦は明治、大正、昭和初期は素焼きの赤瓦だったりもします。有名処の瓦は高くて使えなかったと思います。
ガラスも割れたところの厚みがわかれば、戦前、戦中のガラスか、戦後のガラスかわかると思います。
しかし、この建物で残っているとは、凄いとしか、、
台風や地震にやられませんように(>_<)
by 鹿児島のこういち (2010-07-12 18:58) 

まめ助の母

ここは特攻隊の学校だったのですか?
なんだか今は
スカイダイビングの番組とかで
芸能人の方がダイブしたりとにぎわっているので

校舎が展示してあったりなんて知りもしませんでした
楽しい番組もいいけど
こういう事も番組でとりあげてほしいですね…
by まめ助の母 (2010-07-12 21:02) 

miffy

ホンダエアポートには何度も行ってるのにこういう施設が近くにある事知りませんでした。
歴史の証人としてこのままの状態で残して欲しいですね。
by miffy (2010-07-12 21:51) 

me-co

こんな使い勝手の悪そうな平屋に・・・
人が住んでいたなんてビックリしました@@;
(すみません、御訪問が遅れました。朝は苦手なので・・・)
by me-co (2010-07-13 01:28) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■ジョルノ飛曹長さん
ここは是非ジョルノ飛曹長さんに解説していただきたいです。

■鹿児島のこういちさん
>歴史的資料の価値
それは言えているかもしれませんね~。
>下見板張り
初めて知った言葉です。瓦やガラスのことも初めて知りました。
今度機会があったら見てみますね。

■まめ助の母さん
末期の時期だけ特攻訓練の場所になりました。
>こういう事も
まったく同感です。

■miffyさん
オイラも地元なのに、知ったのはほんの数年前です。
兵舎はまったく違う場所にありますからね。
このまま残っていて欲しいですね~。

■me-coさん
軍の施設だった場所につい最近まで人が住んでいたこと、オイラもビックリでした。
>遅
オイラなんて数日遅れでご訪問したりしてますから~^^;
by とり (2010-07-13 05:54) 

Takashi

こういったコンクリートの基礎とか固まりを見ると、グラントハイツを思い出します^^
by Takashi (2010-07-13 12:11) 

guchi

桶川のHONDAエアポートには一回しか行った事がありません。
なので、こんな歴史は全く知りませんでした。また訪れてみたいです。
特攻隊ストーリー紹介の各務原(現空自航空実験団)は近くに住み
小月(現海自教育航空群)は所属した事があるので随分身近に感じます。
<今はT5、その当時はKM2でした。>
今の平和な時代につくづく感謝です。
by guchi (2010-07-13 14:07) 

tooshiba

重い、生々しいお話でした。
負け戦に挑んだんだよなあー。。。
靖国は嫌いだが、間違いなく英霊なんだよなあー。。。苦悩
by tooshiba (2010-07-13 23:58) 

とり

■Takashiさん
あ~、Takashiさんはその頃のグラントハイツをご存じなのでしたね。

■guchiさん
ここはちょっとしたホンダ王国ですよね^^
>所属
Σ(゚Д゚;)衝撃の事実が!! guchiさんてそうだったんですか。

■tooshibaさん
>重
仰る通りですね。
この記事は書いてて辛くなりました。
by とり (2010-07-14 06:53) 

sak

すごい!!
そのまま残っているのですね
いつか絶対行ってみたいです
by sak (2010-07-14 11:20) 

an-kazu

ココにそういう歴史があったとはΦ(・_・)メモメモ
by an-kazu (2010-07-14 18:00) 

OILMAN

こんにちは。
ここは嫁さんの実家からすぐ近くなので今度行ってみようと思います。
歴史を残している所は大切にしていきたいですね。
by OILMAN (2010-07-14 20:26) 

とり

■sakさん
埼玉にお越しの際は是非^^

■an-kazuさん
ビックリですよね~。

■OILMANさん こんにちは。
>実家
あ、そうでしたね^^
埼玉にお越しの際は是非^^
by とり (2010-07-16 07:22) 

春分

危なく読み損ねるところでした。
赤とんぼのこと、なるほど。いろんなことが案外ばれていたわけでしょうね。
by 春分 (2010-07-17 17:43) 

とり

■春分さん
>いろんなこと
大勢の住民の強制退去がつきものの他の飛行場建設とは異なり、滑走路は河川敷、本部はそこからずっと離れた場所。
ということが関係しているのか、史料を見てみるとここは他の基地と比べて、基地と地元住民との距離が近いような気がしました。
仰る通り、記録には残らなくてもいろいろばれてたかもしれませんね。
by とり (2010-07-18 09:41) 

Azumino_Kaku

こんばんは、
コメントありがとうございました。
地元でいらしたのですね、大変失礼しました。
私が行ったときにはサイクリングついでだったので、あまりじっくりは見られなかったのですが、それでも、施設の歴史的意味はよくわかりました。
できれば、この地で、しっかりと保全できないのかと思いました。
荒川沿いはまた走りに行くと思うので、その節は立ち寄らせていただきたいと思います。
今後ともよろしくお願い致します。



by Azumino_Kaku (2011-09-19 00:16) 

とり

■Azumino_Kakuさん
仰る通りこの場所にずっと残して欲しいと願います。
こちらこそ今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
コメントありがとうございました。
by とり (2011-09-19 06:35) 

通りすがり

先日、行ってきました。
公開日が毎土日祝に増えていました。
車庫の中には劇映画の撮影で使ったセットをそのまま残し
展示していました。
桶川や千葉県で勤務し第79振武隊の99高練に小月まで同乗した
88歳の元軍属整備員の方の説明も少し聞くことができました。

by 通りすがり (2014-03-27 11:46) 

とり

■通りすがりさん
貴重な情報ありがとうございました。
by とり (2014-03-31 05:16) 

福岡もんです

始めまして。唐突にすみません。
今度東京に行くことになって、是非この施設を見てみたいと思っています。
そこで、ご説明の中に下記のような個所が有り、非常な興味を持ちまして、
是非、この神社にも参拝をしたいと思いました。
もし、ご存じであれば、場所をお教え願えないでしょうか。
宜しくお願いします。
-------------------------------------
ところがひょんなことから転機が訪れます。
ある日近くの神社に特攻隊員の辞世の句を記した1枚の色紙が奉納されているのを氏子が発見
by 福岡もんです (2014-10-20 20:59) 

とり

■福岡もんですさん いらっしゃいませ
所在地はオイラも知らないんですよ。すみません。
オイラは当施設の会員ですので、施設の開いている今週末に連絡して聞いてみて、
当コメント欄でお知らせするということで如何でしょうか?
もしそれで間に合わないようでしたら、施設で直接お尋ねになると良いと思います。
by とり (2014-10-21 05:43) 

福岡もんです

早速お返事を頂きありがとうございます。
お手数ですが、出来れば先に場所がわかれば予定が組みやすいので、
ご面倒ですが宜しくお願いします。
by 福岡もんです (2014-10-22 22:05) 

とり

■福岡もんですさん 
了解致しました~。
by とり (2014-10-23 17:35) 

とり

■福岡もんですさん 
お問い合わせの件ですが、
実は、施設に直接電話して聞けばいいと思っていたのですが、番号が分からず、
会報を見返してみたら神社名がちゃんと書いてありました。
川島町の三保谷(みほや)神社でした。

で、早速この神社を検索してみたのですが、見つかりませんでした。
現在「語り継ぐ会」にメールにて問い合わせ中です。
返信がありましたら、またここに書きます。
by とり (2014-10-26 15:34) 

福岡もんです

色々お世話になりました。10月25日土曜日に行ってまいりました。
桶川駅からバスで行こうと思ったのですが、バスは何か所から出ていそうなのですが、時刻が合わなかったり、バス停に表示されている時刻は丁度なのに、バスは来ていなかったり。バスの案内所もないので、タクシーで桶川飛行場跡迄、拝観に伺いました、
ボランテイアの方々に色々施設内を案内して頂きました。
そして、『散る桜 残るさくらも散る桜』(コピー)も拝見させて頂きました。
理事の天野様にお聞きして、奉納されていた神社迄行ってきました。
徒歩で行くには、かなりの距離でしたが、良い運動になりました。
見たいものが見る事が出来ました。本当にありがとうございました。

桶川飛行場跡 より、12号線を西方面へ行くと、和風レストランそうま(約40分 約2.8Km)へ、そこから西へ徒歩約10分で
宮原神社に着きました。 目指す三保谷神社は、宮原神社境内にありました。

和風レストラン そうま
埼玉県比企郡川島町表433-1
TEL:049-297-0276

を、西方向に 徒歩約10分 約650m

埼玉県比企郡川島町吉原401 宮原神社
宮原神社境内内 三保谷神社

本当に、色々とお手数をおかけ致しました。
ありがとうございました。
by 福岡もんです (2014-10-30 15:59) 

とり

■福岡もんですさん 
見たい箇所を見学することが出来て良かったですね。
結局何のお役にも立てず申し訳ありませんでしたm(_ _)m
by とり (2014-10-31 06:08) 

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