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洲崎(1号・塩浜)飛行場跡地・江東区 [├空港]

   2012年4月訪問 2021/1更新  


 

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撮影年月日1936/06/11(B4 C5 76) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 
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1937年測量 地図種別:旧1万地形図 リスト番号:o177、A002-1MA-0016 図名:洲﨑、新橋 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

東京都‎江東区‎にあった「洲崎(1号・塩浜)飛行場」。

同じ東京都の父島にも同名の飛行場跡地があり、「洲崎飛行場」で検索すると、父島の方が多くヒットします。

区別するためにこちらは、(1号・塩浜) をつけさせていただきました。

「洲崎飛行場」は、すぐ上に貼った地図の通り引っ越しを繰り返しています。

当記事は塩浜にあった、「初代・洲崎飛行場」についての記事です。

「報知年鑑 大正14年」に、民間飛行機操縦術練習所のページがあります(下記リンク参照)。

名称 小栗飛行学校
所在地 東京市洲崎埋立地
代表者 小栗常太郎

とありました。

また、「南国イカロス記 かごしま民間航空史」108p~にも、小栗飛行学校について記述がありました。

以下引用させて頂きます。

小栗飛行学校
小川三郎と別れた本田稲作は、大正十一年(一九二二年)一月、友人の横
口季則とともに上京し、小栗飛行学校に入学した。
 小栗飛行学校長・小栗常太郎(愛知県)は大正六年(一九一七年)アメリカのカーチス飛行学校を
卒業し、第九〇八号の万国飛行免状を取得した。大正七年(一九一八年)四月帰国するとき、カー
チス式JN-4型ジェニーの設計図と共に、発動機はじめ主要部品をもって帰って組み立て、小
栗式カーチス・ジェニーもしくは小栗式A-1号練習機と称し、大正八年(一九一九年)一二月十
六日洲崎埋立地で公開飛行をした。小栗飛行学校を洲崎で創設したのは、翌大正九年六月であっ
た。
 本田稲作が入学したとき、「操縦術教師」は小栗常太郎二等飛行機操縦士と安昌男(あん・しょ
うなん)三等飛行機操縦士の二人であった。小栗は一等飛行機操縦士試験のとき、調子の悪い発
動機に気をとられ過ぎて針路を誤り、所沢へ行くのを熊谷の方へ飛んで行ってしまったので、二
等に格下げの上、航空免状第11号(六月十八日付)を交付された。安昌男は朝鮮半島の京城府出身
で、三等飛行機操縦士第2号航空免状を公布されている。ただし安昌男は一年後に昇格試験を受
けて合格、大正十一年五月九日付で二等飛行機操縦士第57号を取得した。(中略)

小栗飛行学校の校則によると、主なものは次のように定められていた。
修業期限  普通飛行部   六時間 約四か月
      高等飛行部   三時間 二か月
学費(普通科)教授料     金七百円
      損害弁償保証金 金一百円
  
  (高等科)教授料     金三百五十円
      損害弁償保証金 金一百円

 本田稲作が入学したとき、七、八人の練習生が在学していた。飛行機は小栗式A-1号カーチ
ス九〇馬力練習機のほかに、伊藤飛行機研究所に発注して製作した伊藤式恵美第20型小栗号ル・
ローン八〇馬力練習機を所有していた。むろんいずれも堪航(たんこう)証明書を交付された機体
である。
 本田稲作にとって安昌男は師にあたるが、奇妙にウマがあって親友づき合いが続くようになる。
本田稲作は小栗式A-1号に八時間同上練習した後、初単独を許されるのだが、そのころ、つま
り大正十一年夏、安昌男が京城で郷土訪問飛行をすることになり、本田稲作の同行協力を依頼し
た。五月九日付で二等飛行機操縦士になったので、おそらくそれを祝っての訪問飛行であったろ
う。十八歳の本田稲作は、安昌男のために裏方役を引き受け、まめまめしく働いた。朝鮮半島出
身操縦士第1号ということで、朝鮮総督府や東亜日報社が積極的に応援してくれ、盛会であった。
(中略) 
小栗飛行学校の安昌男が、帝国飛行協会主催第四回懸賞飛行競技大会で
二等に入賞してから三か月後の大正十二年(一九二三年)九月一日、関東
大震災が発生した。東京、横浜は火炎に包まれ、人畜の被害がはなはだしかった。
 本田稲作が在籍する小栗飛行学校や、朝日新聞社・東西定期航空会の根拠地である洲崎埋立地
は、震災後津波に襲われて水浸しになったばかりか、真っ先に火の手がのびて焼け野が原になっ
てしまった。とはいいながら、安昌男の中島式5型機はほとんど無傷で生き残った。(中略)
二人で千葉県津田沼の伊藤音次郎を訪ねた。津田沼はほとんど震
災の被害はなかった。二人は伊藤飛行場の使用許可をもらいにいったのだ。伊藤音次郎はこころ
よく承知してくれたので、以後、安昌男の中島式5型で飛行訓練を続け、稲作は三等飛行機操縦
士の免状をもらうことが出来た。
 ある日、伊藤音次郎が、本田稲作が国分の実家にあずけてあるという横廠式ロ号水上偵察機と、
伊藤所有のアプロ式504K型機二機と交換してくれないかといい出した。伊藤門下の井上長一
が運航している堺大浜-四国・徳島間の定期航空に同型機を使っているので、その予備機として
ほしいというのだ。好条件なので、一も二もなく承知した。
 一方、安昌男は日本国粋団員と称する者から、朝鮮独立運動に関係しているだろう、とおどさ
れ、金品をゆすられるようになったので、安だけひそかに東京に帰って身をひそめた。そうする
うち、いつまでもこのまますませられないので、中島式5型機を処分して、京城へ帰りたいとい
い出した。

D20_0083.jpg

赤マーカー地点。

飛行場のほぼ中央だったであろう場所です。

2014/8/3追記:アギラさんから情報頂きました。当飛行場には、小栗飛行學校(小栗常太郎)、東京飛行學校(遠藤辰五郎)、亞細亞飛行学校(飯沼金太郎)、田中飛行学校(田中不二雄)などが開設され格納庫が建ち並んだのだそうです。
また、昭和15年現在、東京高工帆走飛行倶樂部・東京高等工學校、杉並工業學校航空部・東京市立杉並工業學校も当飛行場を使用していました。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


      東京都・洲崎飛行場跡地(1号・塩浜)      

洲崎飛行場(1号・塩浜) データ

種 別:陸上飛行場
所在地:東京市洲崎埋立地(現・東京都‎江東区‎塩浜‎2丁目‎)
座 標:N35°39′46″E139°48′21″
標 高:4m
面 積:7.6ha
飛行地区:360mx300m(不定形)
(座標、標高、面積、飛行地区長さはグーグルアースより)

沿革
1919年12月 16日 小栗常太郎、小栗式A-1号練習機による公開飛行実施
1920年04月 当飛行場を出発、城東練兵場上空で反転、東京に戻る東京~大阪無着陸往復競技会
     06月 小栗飛行学校創設
1923年01月 11日 大阪の城東練兵場との週1回定期運航開始
     09月 1日 関東大震災で飛行場は津波で水浸しとなり、格納庫、飛行機が焼かれる
     11月 25日 東西定期便は立川陸軍飛行場に移して再開
1925年   この頃小栗飛行学校があった

関連サイト:
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正14年(174コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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コメント 10

鹿児島のこういち

1920年 大正9年より前にはあったのですね。当時の飛行場はやはり、原っぱとか、締め固めただけとかなんですか?(^^ゞ
写真見て、片側四車線の標識の少ない道路だなと思ったのですが、歩道の標識は、歩行者と自転車の絵で、下に歩行者専用と書かれてないですか?携帯だとはっきりしないのですが(^^ゞ自転車は軽車両ですよね(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2012-08-03 11:12) 

まめ助の母

いろんな建物が建ってしまって
面影がないですね…
道はまっすぐですが、滑走路だったんでしょうか?
by まめ助の母 (2012-08-03 21:35) 

an-kazu

別な観点でも興味深いエリアなのはご存知ですよねきっと・・・
洲崎川や同パラダイスでググッて見て下さい(^^);
(もっと木場駅に近いトコロです)

私の通勤ルート(緑道公園)が出てきます(*^^)v
by an-kazu (2012-08-03 21:58) 

tooshiba

開設当時は、人家もなく広々としていた・・・あるいは埋立てが進んでいなくて海沿いだった・・・のでしょうか。
現存していたら東京駅にもほど近くて最高のロケーションでしたが・・・。
by tooshiba (2012-08-04 01:54) 

雅

当時はそんな競技会あったんですね。

by (2012-08-05 17:49) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
>原っぱとか、締め固めただけ
この飛行場についてハッキリしたことは不明なのですが、
当時の飛行場はそういうものが多いですよね。
ココも恐らくそうなのではないかと想像するのですが。。。
>歩道の標識
いつも携帯で閲覧いただきありがとうございます。
これは「歩行者優先」と書かれてます。
しかしよく気がつきましたね^^
「自転車も車両」というのはオイラも日々声を大にして言いたいことです。
先日自転車逆走おばさんがオイラの車に突っ込んできて逆切れられましたよ。

■まめ助の母さん
当時の滑走路が広場のようなものだったのか、
道路状のものなのか、どの位置に、どの方向を向いていたのか等、
資料が見つけられなくて、
まったく分からないんですよ。すみません。
なので滑走路っぽい場所を撮ってみました。

■an-kazuさん
>洲崎川パラダイス
ま、まったく知りませんでした。オイラお子様ですから^^
そんな時代もあったのですね~。
>通勤ルート
それじゃ、緑道公園で「an-kazuさん」という巨大プラカードを持って待ち構えていれば。。。
フフフ。

■tooshibaさん
仰るとおり今とは考えられない程広々とした場所だったのでしょうね。
ここに飛行場が残っていたら楽しいでしょうね~。

■雅さん
東京~大阪往復が競技になっちゃうんですからね。
ヒコーキの進歩は目覚しいものですね。
by とり (2012-08-10 07:59) 

井上

私の祖父は20年前に亡くなりましたが、この飛行場で練習し、その後教官になりました。東京大阪間の初飛行に搭乗しました。レーダーもありませんから、低空飛行して鉄道駅の駅名を見て現在地を確認したそうです。れにより、大阪で撮影された朝日新聞社の撮影済みフィルムは、飛行機で東京本社に輸送されたようです(それまでは伝書鳩に運ばせていた)。その後、平塚の相模川河口に航空灯台(標識)を設置しました。大阪から沿岸沿いに北上し、この航空灯台が見えたら北に進路を取ると東京(確か立川飛行場か)に着いたそうです。この航空灯台は老朽化のため十数年前に撤去されたようです。
by 井上 (2014-06-15 07:04) 

とり

■井上さん いらっしゃいませ
まだ国内に操縦士が極少数だった頃の御一人とお見受け致します。
平塚の相模川河口の航空灯台の位置にはきちんと必然があったのですね。
国内航空黎明期の貴重なお話を感謝致します。
by とり (2014-06-18 17:08) 

井上

東京~大阪間の初飛行に成功したあとは、初の海外旅客輸送に挑戦しました。大阪~中国大蓮です。オランダ製フォッカーサザンクロスという三発機で成功し、国内初の外国航路ができました。乗客は六人ほどしか乗れませんが、高貴な方々に利用されたようです。日本で初めての旅客機となります。
by 井上 (2014-06-23 13:58) 

とり

■井上さん 
飛べる事が実証できる事が航路開設に繋がる。
今からでは想像もつかないですが、まさに黎明期の様子ですね。
6人だけしか乗れない海外ですから、それはそれは高貴な乗客なのでしょうね。
ありがとうございました。
by とり (2014-06-24 05:37) 

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