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函館(赤川)飛行場跡地 [├空港]

   2010年6月訪問 2023/1更新  


無題d.png
撮影年月日1948/04/23(USA R250 63) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道函館市にあった陸軍の「函館(赤川)飛行場」。

延べ200万人を超える市民を動員し、4ヶ月に渡る工事の末、未完のまま終戦を迎えました。

先頭のグーグルマップは、上に貼った1948年の航空写真から作図しました。

■函館市史 亀田市編の中に「飛行場建設」の項目があり、詳しく当時の様子を伝えていました(下記リンク参照)。

一部抜粋して引用させて頂きます。

場所は亀田村役場から西へ長さ約一、九〇〇メートル、幅約二六〇メートルの広さにわたって面績約一五万三、七〇〇坪が使用された。(中略)弁当も各自持参であったが、食糧難の折から混ぜごはんにわずかなおかずが入っているような粗末なものであった。おなかのすいた人たちは、近所の農家から馬鈴薯をもらってきては生のまま、まるでりんごでもかじるように食べていたという。(中略)この飛行場からは、ついに日本の飛行機は一度も離着陸しなかったが、戦後間もなく米軍の飛行機が二回飛来し着陸した。一回目は男二名、二回目は男女各一名ずつ降りて来たが、間もなくまたどこかへ飛び去って行ったという。滑走路は赤土でしっかりと固められていたので、離着陸には全く支障がなかったそうである。

上に貼った航空写真には、滑走路っぽい地割が白く映っており、

この通りに線を引いたのが、グーグルマップのグレーのシェイプで、長さは約1,200mx65m です。

ところが上記史料には、1,900mx260mとあって大きさがかなり異なっており、

滑走路の位置について、「亀田村役場から西へ」向かって建設されたとあります。

この亀田村役場がドコにあったのか、検索しても分からなかったんですが、グレーで作図した滑走路の東端部分には、

ちょうど函館市亀田支所があります。

それで、この函館市亀田支所の辺りに亀田村役場があり、

ここから西に向かって1,900mの滑走路が計画されたのではないかと思いました。

亀田支所の東側200mには道道347号線が南北に走っており、1944年陸軍撮影の航空写真で見ると、

既に当時からこの道路はあるんですが、この道路を跨ぐようにして滑走路を建設しようとすると、

滑走路と道路の交差部には建物が結構並んでいます。

また、道道を越えた先には亀田川が流れています。

という訳で、東側に伸ばすのは難しいのではないかと。

一方、滑走路の東側は、先程の1944年陸軍の航空写真で見る限り、

現在の国道5号線までの間に特に目立った道路等、大きな障害となりそうなものはありません(田畑は広がっていますが…)。

滑走路の東西のこうした地理的な事情から、史料から裏付けはとれないものの、滑走路を建設するとしたら、

現在の函館市亀田支所から西に向かって1,900m滑走路が計画されたと考えるのが現実的ではないかと思います。

市史には、「面績約一五万三、七〇〇坪が使用された。」とありますが、

1,900mx260mの滑走路を作図したところ、面積は49.2haでした。

これは、14万8,830坪に相当します。

滑走路以外に付帯施設も作られましたから、まあこんなものではないかと。 

D20_0073.jpg

赤マーカー地点:「亀田中学校」。


      函館市・函館(赤川)飛行場跡地      

函館(赤川)飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道‎函館市‎美原‎
座 標:N41°49′05″E140°44′53″
面 積:50.72ha
標 高:28.0m
滑走路:1,900m×260m
方 位:13/31
(方位、座標はグーグルアース、標高は地理院から)

沿 革
1945年04月 着工
    08月 終戦のため工事終了

関連サイト:
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この記事の資料:
函館市/飛行場 


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コメント 11

sak

4ヵ月で工事が中止になってしまったのですね
飛行機が降りたことがってよかったのかな...
でも米軍機じゃ辛かっただろうなぁ
by sak (2010-10-27 08:33) 

鹿児島のこういち

写真見て、写真右下側の滑走路部分がまだ未完成って見たのですが、違うでしょうか?
4ヶ月で200万人のにんく数、1日、1万6千人強、まじですか?櫓を組んで転圧してたかな、お父ちゃんのためな~ら、え~んやこ~ら♪ヨイトマケ節ですな(^O^)
by 鹿児島のこういち (2010-10-27 12:39) 

ねじまき鳥

まさに人海作戦ですね。
重機もない時代に大変ですね。
軍部の力なのでしょうか。
by ねじまき鳥 (2010-10-27 20:13) 

an-kazu

またしても未完の施設・・・(;_;)
by an-kazu (2010-10-27 23:51) 

me-co

こんばんは
グランドのどこが名残なのか?
さっぱりわかりませんねー<平らにしたってことかな??
by me-co (2010-10-28 00:43) 

tooshiba

滑走路用に整地した部分を転用したとかでしょうか。>中学校のグラウンド
by tooshiba (2010-10-28 12:58) 

めぇ

うわ~~~懐かしい!!
亀田中学校は私の母校です。
このグラウンド、何も知らずに走ってたな~
by めぇ (2010-10-28 14:31) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■sakさん
こういう事例を見るにつけ、実際に作業に携わられた方、移転を余儀なくされた方、
心中いかばかりか、と思いますね。

■鹿児島のこういちさん
>右下側
オイラもそういう風に見えます。
迎撃機、特攻機用に左上側を優先したのでしょうか??
終戦から3年後の写真ですから、滑走路が崩され始めたところかもしれませんね。
>1万6千人強
Σ(゚Д゚;)確かに計算するとそうなりますね。すごいことですね。

■ねじまき鳥さん
仰る通り人海戦術ですね~。
>軍部の力
実際に体験していないので伝え聞くことで想像するしかありませんが、
きっとそういうことなのでしょうね。

■an-kazuさん
複雑な心境になりますね。

■me-coさん おはようございます。
>平ら
多分そういうことかなと思いました。
資料ではこの滑走路は転圧式なんですよ。
現在滑走路は産業道路になり、すっかり市街地化していて、これだけまとまった土の平面はここだけです。
当時の面影を一番よく残しているのではないかと思います。

■tooshibaさん
>転用
多分そういうことではないかと思います。
せめてもの活用ですね。。。

■めぇさん
(@Д@)なんと! 母校でしたか!!
どうもお邪魔しましたm(_ _)m
1948年当時の写真を持って見学したのですが、
当時とは見違えるほど立派な町並みになっていますね。
高いアンテナが印象的でした。
by とり (2010-10-29 07:02) 

koume

ここ、飛行場だったんですか!!
知らないで、しょっちゅう通ってましたよ^^;
亀中のグラウンドも一部だったなんて…
市民でも知らないかも(父に聞いてみようっと)

by koume (2010-10-29 09:14) 

春分

市民でしたが知りませんでした。
富岡あたりはよく歩いた場所でしたが、まあなんも知らなかったなぁ。
by 春分 (2010-10-30 10:12) 

とり

■koumeさん
koumeさんにとって懐かしの場所だったのですね。
どうもお邪魔致しました。m(_ _)m 「亀中」ですか^^

■春分さん
どうもお邪魔致しました。m(_ _)m
これで地元の方が3人もコメントくださったのですが、いずれもご存じなかったという結果になりました。
リンク先のサイトは市のものなのですが、以前は今ほどこういうことを知らせていなかった。ということなのでしょうか。
オイラの地元に似てるのかしらん。
by とり (2010-10-31 07:22) 

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