富士(田子浦)飛行場跡地 [├空港]
2010年5月訪問 2020/11更新
撮影年月日1946/05/22(USA M142-A-5No2 143)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
静岡県富士市、 駿河湾に注ぐ富士川河口付近にあった「富士(田子浦)飛行場」。
国道一号線の「道の駅富士」(赤マーカー)はこの飛行場跡地のほぼ中央に位置します。
先頭のグーグルマップは、上に貼った1946年の航空写真から作図しました。
滑走路の地割がハッキリしないのですが、
郷土誌の中で「滑走路は1,500mx100m 飛行場中央東よりにあり」という記述かありました。
航空写真で見える通りに作図したところ、1,330mx85mになったので、
郷土史の数字が正しいとしたら、作図した滑走路よりもう少し大きいと思います。
敷地北側のグレー線は飛行場に至る軍用道路です。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。
飛行場名 富士
位 置 静岡県富士郡富士町
規 模 要図(東西700 南北1800)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 三〇〇名分
格納施設 掩体中一五ヶ所
摘 要 施設軍有
大戦中、戦地と東京都の連絡に航空機を利用することが増えたのですが、
箱根山付近の気象条件によって立川、調布飛行場に達するのが困難なことがしばしば起こったのだそうです。
当時、箱根以西の飛行場は、陸軍は浜松、海軍は牧之ヶ原、静浜にあったのですが、
そこから車、鉄道で東京へ連絡するのは時間を多く要するため、箱根に近い所に飛行場建設が迫られました。
こうしたいきさつで当地に飛行場が建設されました。
箱根が難所なのは空の世界も同様だったのですね~。
■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で当飛行場について扱われていました。
以下抜粋して引用させて頂きます。
昭和18年12月中旬、陸軍航空本部付、村田大尉他2名が突然田子浦役場にきて、辻 哲助役にいった「私の言うことをメモしてはならぬ。秘密に付き他言してはならぬ」と忠告の後、「富士川左岸に飛行場をつくる。そのため地域内にある住宅の移転を、5月末日までに行うように配慮をたのむ。その他の細部の関係はそのたびに指示する」という命令を言い渡した。
子弟を戦地に送り老人、妻子のみの家庭、戦病死者の遺族などには、勤労奉仕隊員が家の取り壊し、荷物の運搬などに皆で手を貸した。
20年10月静岡県帰農対策要綱により、帰農申し入れを開始、478名が飛行場跡地に入植した。
静岡県・富士(田子浦)飛行場跡地
練習機に付けた吹流しに戦闘機が襲いかかる光景が見られたのだそうです
富士(田子浦)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:静岡県富士市五貫島
座 標:N35°07′58″E138°38′54″
敷 地:東西1,000m 南北1,800m
滑走路:1,500m×100m
方 位:15/33
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年12月 田子浦村役場に陸軍飛行場建設の話が秘密裏にもたらされ、1か月後には移転する地域決定
1944年02月 9日 議会承認
02月 23日 住民説明会「5月末日までに移転されたし」 →210戸移転
06月 着工
10月 明野教育飛行師団天竜富士分教場開設
12月 完成。30機の九七式戦闘機、四式練習機3機を配備。明野教育飛行団の戦技訓練
1945年01月 月末に富士宮上空で
B29が撃墜されたが、その頃には九七式は飛行場から離れた所に隠されていた
08月 終戦
10月 県帰農対策要綱により帰農申し入れ開始
1946年08月 31日 「元富士飛行場開拓組合」設立 土地返還が現実のものに
この記事の資料:
田子浦の郷土誌
富士市史下巻
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
箱根...
陸路だけでなく空も大変だったのですね
by sak (2011-02-07 08:35)
鹿児島に住んでいると、他県の事はよくわからず、箱根の坂道もよく理解してませんf^_^;ましてや、その上空の事はまったくわかりませんf^_^;風が渦巻いてるんでしょうか?
箱根の山は天下の険「箱根八里」にあるように、そのように雰囲気もあるのでしょうか?f^_^;
by 鹿児島のこういち (2011-02-08 00:05)
この飛行場は、戦記によく登場しますよねー(^◇^)
by ジョルノ飛曹長 (2011-02-08 01:06)
とりさん こんにちは
箱根は今も難所です。
冬は特にそう思います。
いつも安全走行を心がけています。
by yatoho (2011-02-08 09:41)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■sakさん
オイラも知りませんでした。
いろんな苦労があるものなんですね~。
■鹿児島のこういちさん
そう言われると、オイラも実は分かりません^^;
単に標高がすごく高いから。程度に思っていたのですが。。。
■ジョルノ飛曹長さん
そうなんですか!
それじゃ運用は結構あったのですね。
■yatohoさん こんにちは。
yatohoさんが仰ると重みがあります。
オイラは車で三回ほど通っただけですが、ブラインドコーナーが多く、標高も高いですから、
二輪は気を遣うでしょうね。
by とり (2011-02-08 18:54)
箱根、陸路が大変なのはわかりますけど、空路だったら大島方面に迂回すればいいと思うんですが、だめなんですかね?
by 雅 (2011-02-08 21:52)
富士山ではなく、箱根なのですね(゜-゜)
by an-kazu (2011-02-08 23:04)
>箱根が難所
とりさんご愛読の「カブのイサキ」でも、それに類する記述がありましたよね。
山は、平地と比べたら厄介なものなんでしょうね。気圧とかが変化して?
特に昔のプロペラ機であればなおさらだったと思います。
by tooshiba (2011-02-09 01:35)
■雅さん
「気象条件によっては」ってことなので、「もうちょっとで箱根越せるんだけどな~」という
ギリギリの状態なのだと思います。
箱根と富士山が手をつないでゆく手を塞ぐ格好ですから、雅さん仰る通り迂回するには海側に行く方が確実と思います。
しかしこれだと飛行距離が延びるので、ギリギリの状態だとどっちもどっちなんじゃないでしょうか。
と予想してみました。
■an-kazuさん
富士山は晴天でも風が吹き荒れてる場合があって、迂闊に寄り付けないですからね。
■tooshibaさん
>「カブのイサキ」
丁度出てましたね~^^
あの作者のヒコーキ愛は素晴らしいです。
by とり (2011-02-09 07:37)
1945年1月 B29撃墜時 この飛行場からも、一機迎撃発進しています。当時私は、富士小1年生で飛行場から1キロ東の富士市上横割に縁故疎開していました。銃撃音が多数聞こえ、次の瞬間B29が火球と化し、ややあって爆発音が響き渡たり、炎と化した機体がヒラヒラ落ちてき、そのあとに落下傘が3っフアフア浮かんでいたのを覚えています。また、45年8月17日早朝からこの飛行場で、強烈なエンジン音だけが長時間響きわたっていました。緑十字機との関連だと思います。
by kamiyokoT (2017-05-28 15:33)
■kamiyokoTさん
貴重なお話をご紹介頂き、感謝致します。
by とり (2017-05-29 05:46)