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赤羽飛行場(岸飛行場)跡地 [├空港]

  2010年4月、2021年10月訪問 2023/5更新  


2.png
1/25000「赤羽」大正6年測図「今昔マップ on the web」より作成

※2021/8/14追記:記事を全面的に修正しました。

大正期、東京都北区にあった「赤羽飛行場」。

岸博士が開設したことから「岸飛行場」とも呼ばれていました。

赤羽飛行場については、これまで飛行場のあった明確な位置を示す資料が見当たらず、

書籍、ネット情報から、「おおよそこんな範囲だったのではないか」

という推測で作図したものを載せておりました。

その後2021年6月に「北区の歴史を学ぶ会」本間孝夫様からお声がけ頂き、

今回の大修正となったのでした。


”定説”

【赤羽飛行場/岸飛行場】で検索すると、地元公式サイトを含むかなり沢山のサイト様がヒットします。

様々なサイト様で紹介されている情報としましては、

・現在の北清掃工場の辺りに位置しており、東西は京浜東北線から荒川まで
・面積は「18万坪」(若しくは「5万坪」)。


というのが”定説”になっています。

「京浜東北線から荒川まで」を長さ1,250mとすると、

1,250mx476mで、ちょうど18万坪になります。

滑走路の長さ(1,250m)は、規模としては現代でも特に珍しいものではないのですが、

幅(476m)を現代の滑走路と比較してみると―

調布飛行場:800mx30m
但馬空港:1,200mx30m
羽田空港(A):3,000mx60m

となっており、現代の滑走路の幅が長さの2~4%程度であるのに対し、

476mというのは長さの38%に達します。

現代と比較すると異様ともいえる太さなのですが、当時はこの太さもアリなのでした。


翼面荷重

「海軍施設系技官の記録」52p には大正期の飛行場事情に関して、

「当時の航空機は複葉機で、一般に重量も軽く、かつ離着陸時の風の影響が大きいため、一般に飛行場としては方形に近い芝生の平坦地が要求され(中略)」

とあります。

1909年、国内初の公式飛行に成功したファルマン機のエンジンは50馬力、

1917年、赤羽飛行場にて岸博士が開発したつるぎ号のエンジンは70馬力でした。

航空機用エンジンですから信頼性と共に小型軽量化にも注力したはずで、

お手本にしたルノーエンジンより軽量の160kgで済んだと記録にあるのですが、

その後の技術開発は凄まじく、例えば零戦のエンジンは(型にもよりますが)530kgで1,000馬力を発生しました。

重量3.3倍増に対して、馬力は14.3倍(パワーウェイトレシオ:0.44→1.89)ですから技術の進歩は凄いですね。

要するに誕生間もないエンジンは非力でとんでもなく重かったということで、

飛行中は常にエンジン全開の状態であったとする手記も残っています。

非力で重いエンジンで飛ぶためには、機体重量を極限まで落とし、翼面積を大きくするしかありません。

結果として、飛べはするものの、やたらと大きな主翼はふわふわと風に煽られやすく、

極めて横風に弱い機体となります。

尾輪式であることも相まって、離着陸滑走時、滑走面のギャップを拾ったり、

ちょっと横風に煽られたりすると、たちまち翼端を地面に叩きつけてクルリとスピンしてしまいます

(【グランドループ 飛行機】でググってみてください)。

「軽量」と「頑丈」は基本的にトレードオフの関係です。

なんとか飛び上がるために重量を極限まで落とした当時のヒコーキは、

結果として普通に飛ぶだけでもどこかしら破損してしまうというシロモノでした。

現代の全金属製のアクロバット機ですら、グランドループに陥ると翼端がグシャッと潰れてしまいますから、

木と布とワイヤでなんとか形を保っている当時のヒコーキなど、

滑走中に横風に煽られ、翼端を叩きつけてしまうとひとたまりもありません。

現代の飛行機は細長い滑走路で離着陸するのが普通ですが、

滑走路を使いますから離着陸の方向が限定されます。

このため、滑走路の方向と風向きが一致しない場合、当て舵で対応することになります。

ところが誕生間もないヒコーキの場合、「横風には当て舵で対応して離着陸」なんて無理をしようものなら、

たちまち風に翻弄されて機体破損、重大事故につながる恐れがあります。

そのため、だだっ広い方形の芝飛行場で、常に風上に向って離着陸するのが普通であり、

離着陸に必要な長さを直径とした円が描けるだけの平坦地が必要でした。


第二次大戦期の立派な滑走路を設けている飛行場でも、

「小型機は必ずしも滑走路を使う必要なし。芝張りの飛行地区で自由に滑走してよろしい」

としていた例が結構あります。

まるで鏡のように平滑な現代の舗装滑走路に見慣れていると、

芝張りの滑走路なんかに降りて大丈夫なんだろうか。と思ってしまうかもしれませんが、

極限まで軽くしたガラス細工のように繊細なヒコーキにとっては、

むしろ芝の方がドン着しても機体に優しい(壊れにくい)という利点があります。

航空黎明期には離着陸の場所として、練兵場が多用されたり、方形の着陸帯が多かったり、

滑走路にしても幅が異様に太かったのは、こうした事情によりました。

こうした事情を考慮すると、前出の「海軍施設系技官の記録」にある

「離着陸時の風の影響が大きいため、一般に飛行場としては方形に近い芝生の平坦地」

という簡潔な説明は、必要に迫られた切実な要求であったことが分かります。

赤羽飛行場でも南北方向に風が吹いている時は、南北方向に離着陸をしたはずで、

1,250mx476mというのは、必ずしも「無駄に太すぎる」ということにはなりません。

そんな訳で、18万坪、1,250mx476mという”定説”は、「当時ならまあ、アリだろう」と

特に疑問を感じることはなかったのでした。


飛鳥山博物館研究報告第23号

ということで、「ハッキリしないけど恐らくこんな感じだろう」

という18万坪の作図を当記事に載せていた折り、

「北区の歴史を学ぶ会」の本間氏からお声がけ頂きました。

なんと本間氏は、赤羽飛行場1/1,000平面図(青図)を東京都公文書館の収蔵資料の中から発掘されたのです。

後述しますが、実はこの平面図は赤羽飛行場の全体図ではありません。

そのため飛行場全体を解明するには、残る範囲を特定する必要があったのですが、

これに関しても本間氏は、出自の確かな資料を収集して考察を進め、

その他様々な資料から、当時の赤羽飛行場の実態について非常に詳細に解明し、

その研究成果を「飛鳥山博物館研究報告第23号」の中で、

「赤羽飛行機製作所飛行場に関する一考察 ―新資料による解明―」として発表されたのでした。

この論文からの引用について本間氏からご快諾頂き、

1/1,000平面図の作図については、この資料が東京都公文書館収蔵であることから、

北区飛鳥山博物館の学芸員様が間に入って使用許可を取り付けてくださいました。

先頭のグーグルマップの東側のグレーの部分が、飛行場平面図から作図したものです。

この平面図は大正6年8月と記された資料(許可証?)に添付されたものです。

現在跡地周辺はすっかり開発が進んでいるため、

百年以上昔の地割が果たしてどれだけ残っているだろうかと思っていたのですが、

平面図に描かれている道路も含めてレイヤにしてグーグルマップに重ねてみたところ、

飛行場を南北に貫く道の一部、そして飛行場北東側の道路の一部が今もそのまま残っており、

ピッタリ重なりました。

この平面図には、飛行機制作工場の長さが「77.3間」(≒140.5m)と記されています。

作図後長さを確認したところ、オイラの作図では「138m」と表示されました(小数点以下は出ない)。

2~3mの誤差(1.4~2.1%)が出てしまったため、

レイヤ全体をほんの少し拡大し、前述の道路となじむよう微調整しました。


「赤羽飛行場があったのは、現在の北清掃工場の辺り」というのが”定説”でしたが、

平面図から飛行場の正確な位置が確定したところで改めて見てみると、

北清掃工場の敷地は、飛行場跡地にほんの少しかかっているに過ぎないため、

「赤羽飛行場は北清掃工場のすぐ南側に広がっていた」といった表現の方が実態に近いと思います。


総面積

「赤羽飛行機製作所飛行場に関する一考察 ―新資料による解明―」から引用させて頂きます。

東京朝日新聞 大正6年9月4日の記事に「…新飛行場が近く成らんとして居る、場の総面積18(ママ)万坪で既に4万坪許りは地均しが出来上がって居る、残余の地積も秋の収穫を待って地均工事に着手することになって居るが…」とあることから飛行場は西側にも広がっており、この図面は飛行場初期に完成した全体の東半分と判断された。

グーグルマップで作図をすると、(編集画面に限ってですが)自動的に面積を計算して表示してくれます。

そして先頭のグーグルマップのうち、「1/1,000平面図」から作図したグレー部分は、

13.9ha(≒42,048坪)と表示されましたので、これが、先の東京朝日新聞にある

「大正6年9月時点で地均しが完了した4万坪許り」部分に該当すると思われます。


飛行場の残る部分の手がかりについてなのですが、

赤羽飛行場は大正6年に開場した後、大正10年に閉鎖しています。

そして本間氏は、王子電気軌道株式会社の社史から、

「赤羽所在岸飛行場跡6万坪」の土地所有者が、岸博士から王子電気軌道に移ったこと、

そして平面図の4万坪の土地の西側の土地が、

確かに王子電気軌道の所有する土地であることを当時の資料から突き止めておられます。

もう凄い!としか言いようがありません。

気になる飛行場の総面積についてなのですが、本間氏の調査によれば、

当時の新聞記事の中で3種類の数字が出てきます。

時事新報(大6.5.17)「5万坪」
都新聞(大6.7.8)「約5万坪を買入れ」
東京朝日(大6.9.4)「約18万坪で既に4万坪ばかりは地均しができて」
東京朝日(大6.12.2)「昨日開場式、 6万余坪」


とあり、18万坪が出てくるのは建設中の大6.9.4の東京朝日の記事のみで、

開場式翌日には6万余坪とあり、18万坪という数字はなくなっています。

前述の通り赤羽飛行場についてネットで検索すると、

面積については、18万坪と5万坪という2つの数字が出てくることが多いです。

どちらも当時の新聞に実際に登場した数字だったんですね。

本間氏は、開場式翌日の記事に6万余坪とあること、

王子電気軌道の社史に6万坪とあること、

更に、赤羽飛行場の総面積が約12万坪とする推定図が刊行物に掲載されたことがあるのですが、

地元の方から「自分の家は飛行場の中にはない」等多くのクレームが出てしまったのだそうで、

これらの点から、赤羽飛行場は「6万余坪」としておられます。


余談ですが、1930年の横浜の臨時飛行場に関して、

冷静に考えればあり得ない数字が”定説”として現代まで様々な媒体に登場しています。

これは当時の新聞の記載ミスが孫引きを繰り返してすっかり定着してしまったようです(下記リンク参照)。


先頭のグーグルマップの赤色のポリゴンは、

本間氏が王子電気軌道の所有する土地であることを突き止めた箇所を考慮に入れつつ、

「6万余坪」となるように作図したものです。

グレーと赤色合計で20.63ha(≒62,406坪)。

本間氏によれば地元古老の話として飛行場の範囲は「成立商高(現成立学園中学・高等学校/青マーカー)辺りまで」

とする証言があるのだそうで、恐らくこんな感じなのではないかと思います。

18万坪を前提とすると、飛行場長さは、1,250mx476mなのですが、

6万余坪とすると、離陸滑走に使用できる有効な長さは、東西1,000m、南北は150~200m程度となります。

では風向きが南北方向だった場合、たった150~200m程度で大丈夫だったのでしょうか。


ヒコーキの進化

9.png
「代々木練兵場使用の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06085048200、明治43年乾「貳大日記12月」(防衛省防衛研究所) 

前述の国内公式初飛行が実施されたのは、1909年12月19日、代々木練兵場でのことでした。

上に貼ったのはこの時の飛行略図です。

この図によればヒコーキは、研究会員、将校、新聞記者、来賓等の観覧席の目の前から離陸滑走を開始し、

反時計回りに旋回飛行して、再び観覧席に向って飛んできて着陸、観覧席目の前で停止することになっていました。

この資料にはこの一連の、

滑走開始→離陸→上昇→左旋回→降下→着陸→停止 が600mx350mの範囲内で完結することも記してあります。

こんな軽業のような飛行が可能なのは、前述の通り当時のヒコーキが非常に軽く、翼面積が大きいからで、

略図によれば、離陸滑走開始地点から100m少々のところでもう旋回が始まっていることから、

当時のヒコーキは、滑走距離が150mもあれば十分だったのではないかと思います。

それでは1,000mという長さは無駄かというと、決してそんなことはありません。

「150mもあれば云々」というのは黎明期の小型機に限った話であり、

エンジンの性能向上に伴い、機体が大型化、高速化するにつれて、

必要な滑走路の長さがどんどん伸びてゆくことは誰の目にも明白でした。


例えば戦史叢書97巻50pによれば、

赤羽飛行場発足から20年後の昭和12年11月、陸軍航空本部が飛行場の規格を示しており、

滑走路地区は、小型機用500x100m、中型機用700x150m、大型機用1,000x300mを基準としていました

(下記リンク参照)。

赤羽飛行場の大きさは、大正期にはその広さを持て余すほどでしたが、

昭和12年の規格だと、既に大型機は幅が基準に引っかかってしまいますね。

この頃はまだ複葉の戦闘機が飛び回っていた時代なのですが、

この時期飛行機の性能向上は本当に目覚ましく、それに伴って必要滑走距離はぐんぐん伸びてゆき、

昭和15年初飛行の鍾馗(戦闘機。重戦闘機に分類される)は、1,200m滑走路でも足りない程でした。

これは陸軍が「小型機用滑走路は500mあればよろしい」と規格を示してから僅か3年後のことです。

大戦後期には2,000m級滑走路が幾つも存在しており、3,000m級滑走路の建設計画もありました。

岸博士は将来の性能向上を見越して飛行場敷地を広く確保していたのではないでしょうか。


150m程度で十分だった当時から広大な土地を確保した理由としてもう一つ考えられるのは、

当飛行場でエンジン、ヒコーキの開発、製造の他、飛行学校も運用するつもりであったことが挙げられます。

各事業が軌道に乗れば、各種試験飛行、訓練飛行等、様々な用途でヒコーキが飛び交うことになります。

東西にこれだけ長ければ、東西に滑走路を分割しての使用も十分可能だったはずです。

実際に大戦期には訓練飛行のために方形の飛行場を分割し、訓練生がそれぞれの班に分かれて使用しましたし、

現在でも、例えば妻沼グライダー滑空場は河川敷を使用しているのですが、

細長い滑走路を分割して同時に運用することがあります。

このように、将来の飛行機の性能向上、様々な用途での運用を見越せば、

決して無駄に広過ぎるということにはなりません。


赤羽飛行場についての拙記事は以上となります。

いつもの通り多分に妄想を含むかなり偏った、しかも端折った内容になってしまい、

折角貴重な論文の使用を許可してくださった本間様には本当に申し訳ない限りです。

「飛鳥山博物館研究報告第23号 赤羽飛行機製作所飛行場に関する一考察 ―新資料による解明―」には、

拙記事など足元にも及ばない程、赤羽飛行場の全体像を解明する情報、考察が多数溢れています。

閲覧、入手方法につきましては、まとめて文末にてご紹介いたしましたので、

赤羽飛行場について興味を持たれた方は是非ご一読をお勧め致します。


最後になりますが、

今回数々の貴重な資料、情報を快くご提供頂きました「北区の歴史を学ぶ会」本間孝夫様、

北区飛鳥山博物館収蔵資料、東京都公文書館収蔵資料の使用許可を手配して頂き、

様々なアドバイスを頂きました北区飛鳥山博物館学芸員様、

貴重な資料の使用許可を頂きました東京都公文書館様に心より感謝申し上げます。

本当にありがとうございました。


(以下2023/5追記)

再び本間様から情報頂きましたので、こちらにまとめます。

登記簿情報から、先頭のグーグルマップの黄シェイプ部分は明治から私有地であり、

その南側の現都営アパートは岸氏名義であることが明らかになったとのことです。

つまり、黄シェイプ部分は飛行場ではない。その南部分は飛行場敷地であった。ということですね。

次に、「換地図」が発見されました。

前述の通り、赤羽飛行場閉鎖後、土地は王子電気軌道(株)が競売により入手しました。

今回、「神谷土地区画整理換地図」が発見され、

これにより王子電気の換地部分が明らかになりました(赤シェイプ部分)。

登記簿情報と換地情報、そして王電所有地(西端の灰シェイプ部分)を合わせ、

今回頂いた情報を元に飛行場西側の境界をかなり大規模に修正しました。

これにより、飛行場敷地西側の面積は19783.5坪となり、東側と合計で、61,831坪になりました。

資料に出てくる「6万坪」をちょっとオーバーしてしまいました。

これでもかなりシェイプアップしたんですけどね。

非常に貴重な情報を頂きました本間様に改めて心より感謝致します。


(以下2021/10撮影) 

ということで、貴重な情報を頂き飛行場跡地がハッキリしたため、改めて現地にお邪魔したのでした。

DSC_0027_00001.jpg

赤マーカー地点。

国道122号線「赤羽警察前」交差点。

南東方向に向って撮ってます。

この周辺は飛行機制作工場で、各種工場、格納庫等の施設が建ち並んでおり、まさに中枢区画でした。

ちょうど目の前に「鍛鉄工場」があったはずです。

DSC_0028_00001.jpg

同じく赤マーカー地点から北東方向。

飛行機制作工場の北側の空白地でした。

赤羽飛行場は南北に走る道路により、 飛行機制作工場側と、西側の広大な広場に分かれていました。

製作所で制作、修理等された飛行機を引き出したり、ちょっとした試運転等はこの辺りでやっていたのかも。

DSC_0030_00001.jpg

こちらも赤マーカー付近から西側(線路方向)を向いて撮りました。

当時はここからずっと先まで飛行場が続いてました。

DSC_0036_00001.jpg

黄マーカー地点。

北清掃工場が目立ってました。

清掃工場にちょっとかかるくらいまでが飛行場敷地でした。


      東京都・赤羽飛行場(岸飛行場)跡地      

赤羽飛行場 データ
設置管理者:岸一太
種 別:陸上飛行場
所在地:東京都北区神谷
座 標:35°46'26.5"N 139°43'52.3"E
標 高:6m
面 積:20.63ha?
着陸帯:1,000mx150~200m?(不定形)
(座標、標高、面積、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1915年01月 エンジン稼働に成功、公開
1916年   岸式つるぎ号(モーリス・ファルマン機が原型)を発表
1917年10月 赤羽飛行機製作所竣工
    12月 飛行場開所式
1919年   敷地内に溶鉱炉完成。従業員は200名を超える工場となる
1920年   資金繰り悪化から賃金不払い発生
1921年   赤羽飛行機製作所閉鎖。

関連サイト:
北区飛鳥山博物館 
東十条銀座商店街/岸飛行場 
戦史叢書97巻(36コマ) 
磯子埋立地 1,500mのナゾ 

この記事の資料:
飛鳥山博物館研究報告第23号 赤羽飛行機製作所飛行場に関する一考察 ―新資料による解明―
海軍施設系技官の記録
歴史の中の中島飛行機
東京史跡ガイド17 北区史跡散歩

飛鳥山博物館研究報告23号の閲覧、入手方法
研究報告23号は、国会図書館、都内市区町村公立図書館、道府県立図書館に送付済ですが、収蔵中止される場合もあるので、まずはお住まいの地区の図書館にお問い合わせください。とのことです。
また郵送での購入ご希望の場合は、飛鳥山博物館へ以下をお送り下さい。
 ①刊行物名『飛鳥山博物館研究報告』23号、冊数、送付先を記したメモ
 ②代金500円(1冊あたり)の郵便小為替
 ③郵送代310円(1冊の場合。複数冊ご希望の場合はお問い合わせください)の郵便切手
送り先 〒114-0002東京都北区王子1‐1‐3 北区飛鳥山博物館 管理運営係


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コメント 20

鹿児島のこういち

個人で所有の空港ですか?岸さんって人は、先祖代々の地主さんだったのでしょうか?土地持ってますね(^O^)
空を飛びたいって夢のある御仁だったのでしょうねo(^-^)o
by 鹿児島のこういち (2010-06-14 05:58) 

yatoho

とりさんさん おはようございます。

記念碑がありそうですけど、ないんですね。

by yatoho (2010-06-14 09:30) 

Takashi

前の勤務先が、清掃工場のそばでした。
今は住宅ばかりで、とても飛行場があったとは思えないですね。
by Takashi (2010-06-14 12:34) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
同感です。
よっぽどのお金がないと実現できませんよね。
資料には医者とありましたが・・・。

■yatohoさん
そうなんですよ~。
あってもいいとおもうんですけどね~。
ここはyatohoさんのお力で是非1つm(_ _)m

■Takashiさん
そうだったんですか(@Д@)
とても飛行場という雰囲気じゃないですね~。
by とり (2010-06-14 20:11) 

雅

個人でそれだけの飛行場を作ってしまうなんてすごいですよね。
夢とお金の両方をもっていたんでしょうけど、その夢を実現させてしまうなんて。
by (2010-06-14 23:48) 

me-co

しかし、ホントに医者だったのかな?というくらい本格的ですね@@;
でも、たった2年しかもたなかったとは、あまりにもあっけない!・・・夢を続けることは大変なことですT。T
by me-co (2010-06-15 00:16) 

tooshiba

一民間人(ご先祖様は旗本とか大名の重臣かもしれませんが)でも大きな仕事が出来た!昔は良かった・・・赤羽が原っぱだったんだもんなあ。
今は100億円持っていたって飛行機どころか空港すら作れませんものね(特に大都市近郊)。。。
夢がないですね。。。

ところで、遠征からお帰りになったのですか?( ̄ー+ ̄)キラーン
by tooshiba (2010-06-15 00:31) 

guchi

そうそう、とりさんお帰りの様子なので
北海道の土産話、乞うご期待ですね~
by guchi (2010-06-15 08:51) 

miffy

個人空港や飛行機を作ってしまうなんてスゴイですね~
自家用機を持ってる人はお医者さんが多いそうですが、昔も今もお医者さんが一番お金をもってるって事でしょうか・・・
by miffy (2010-06-15 16:12) 

seiren

医師が飛行場を作るとは凄いですね(@@)
規模も半端じゃないですね!
by seiren (2010-06-15 21:17) 

an-kazu

個人で!
こんなところに!!

今回もオドロキでした(^^)
by an-kazu (2010-06-15 21:17) 

春分

卵屋が飛行機会社を作るくらいだから、医者がつくったって・・・いいのか悪いのか。
それにしても、まったく存じませんでした。ときどき歴史には陽を当てないとなぁ。
by 春分 (2010-06-15 21:20) 

とり

■雅さん
>夢とお金の両方
すごい話ですよね~。

■me-coさん
本当に医者なの?? って感じ、確かにしますね^^;
当時の航空機メーカーにとって、顧客はほとんど軍に限られるわけで、
軍とどう付き合うか、軍からどう見なされるか、というのが非常に重要だったみたいです。
当飛行場の史料を見ていると、なんとなくその辺に経営不振の原因があるように感じます。

■tooshibaさん
>100億
隔世の感ですね~。(o ̄∇ ̄o)
戻ってまいりました<(`・ω・´)

■guchiさん
九月下旬から「北海道強化月間」の予定です^^

■miffyさん
>お医者さん
やっぱりそうなのですか(@Д@)
そういえば、以前自家用機に載せて頂いた時、何人かのパイロットさんとご一緒したのですが、
お医者さんいました。

■seirenさん
すごいですよね~。(@Д@)

■an-kazuさん
>個人で! こんなところに!!
同感です。オイラも初めて知った時には何かの間違いかと思いました。

■春分さん
>卵屋が
そう考えるとあまり違和感ないかもですね^^
by とり (2010-06-16 06:45) 

ジョルノ飛曹長

なんと!ここは飛行場があったんですね。^^;
仕事で何度か前を通りましたが・・・まったく気づかず・・・
by ジョルノ飛曹長 (2010-06-16 13:01) 

とり

■ジョルノ飛曹長さん
おお、仕事で通りましたか。
「こんなとこにあったのか!!」と驚くような場所ですよね。
by とり (2010-06-17 06:38) 

コスト

軍でも企業でもなくて、個人設置ってのはすごいですね。
23区の外れのほうとはいえ、5万坪ってすごい広さですよね(驚)
しかも、技術者でなくて医師ってのが謎ですねー
by コスト (2010-06-28 22:52) 

とり

■コストさん
本当にこの岸さんて方、ナゾです。
どんな医者だったんでしょう???
by とり (2010-06-29 18:41) 

岸 洋一

私は一太の孫です。一太の出生の地に住んでいます。私も一太の 事を調べています。
by 岸 洋一 (2011-03-16 13:53) 

とり

■岸 洋一さん
コメントありがとうございます。
偉大な祖父ですね。
どうぞ調査が進みますようにm(_ _)m
by とり (2011-03-17 05:54) 

とり

■岸 洋一さん
お尋ねさせて頂きたいことがあります。
もしこちらをご覧になりましたら、
お手数ではございますが、こちらまでご連絡頂ければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
rjttroah@gmail.com
by とり (2023-05-16 19:41) 

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