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三方原陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月、2016年6月訪問 2020/11更新  


 

無題5.png
撮影年月日 1946/05/22(昭21)(USA M142-A-5No3 21)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


静岡県‎浜松市、浜松基地のすぐ北東にあった「三方原陸軍飛行場」。

隊門、飛行場防衛用と見られるトーチカ跡、掩体壕が残っています。

運用開始がなんと大正時代という非常に歴史のある飛行場です。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、一部次のように記されていました。

1923年(大正12年)朝日新聞社は「東西定期航空会」設立、1月11日
から大阪・東京間に定期飛行便を飛ばし、一般から
荷物の託送を無賃で受け、空中輸送を毎週一回行う
ことになった。

当時の飛行機の航続距離では、一気に大阪~東京間
を飛ぶことはできない。そこで毎週水曜日午前8時、
東京、大阪両地から1機ずつ出発し、この三方原を
中継地にして、ここで搭載貨物の授受交換のうえ、
再び東京、または大阪の基地に帰る運航方法で、
東京は洲崎埋立地、大阪は城東練兵場が起点であった。

■防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」と、

■「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に当飛行場について、全く同じ地図と情報があり、

先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

資料内の情報を以下引用させて頂きます。

面積 南北1,800米、東西1,300米 
地面の状況 芝地、地盤は極めて堅硬なり
目標 浜松市、浜名湖、佐鳴湖
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 大格納庫(間口70米、奥行45米)2棟、其の他3棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 浜松陸軍飛行学校に気象観測所あり 毎日航空気象を観測す
給油設備 隊内にて補給可能
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 浜松駅より「バス」の便あり
其の他 本場は第7航空教育隊飛行場なり
 (昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  三方原
位 置   静岡県浜名郡三方原村
規 模   要図(かすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇〇名分
 格納施設 掩体大五〇ヶ所
摘 要   施設軍有

D20_0021.jpg

隊門。

上述の資料地図の中で、この門の内側は 「浜松演習庁舎」と記されています。

現在は自衛隊官舎。

D20_0025.jpg

トーチカ跡

県道はさんでエイデンの向かい側にあります。

説明板があり、一部こう書かれていました。

「太平洋戦争中、この舟岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名残が今もみられる。幸にもトーチカは使用されることはなく…」だそうです。

DSC_0031.jpg

飛行場跡地を南北に走る(貫かずに途中で曲がってる)国道257号線

 

■日本中央飛行学校について

日本航空史の中に「三方ヶ原に航空局事務官を最後に現役を退いた永淵三郎砲兵大尉が日本中央飛行学校を創設」

という記述があります。

いつからいつまであったのか不明なんですが、

「報知年鑑 大正14年」に、民間飛行機操縦術練習所のページがあり(下記リンク参照)、ここに同学校の記載があります。

同「報知年鑑 大正15年」「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」にも、

当飛行場についての情報がありました(下記リンク参照)。

管理人 永淵三郎
種類 陸上
位置 静岡県浜名郡富塚村三方原演習場
面積 370,000坪 

隣のページには、「本邦民間飛行機操縦術練習所〔大正14・8・1現在〕」がありました。

名称 日本中央飛行学校
所在地 静岡県浜松市
代表者 永潤三郎

また「民間飛行學校練習所其他」(航空年鑑昭和六年)の中でも、当飛行場の項目で同学校が出てきます(アギラさん情報)。

ということで、資料からは少なくとも1925年~1931年まで存在していたことになります。


      静岡県・三方原陸軍飛行場跡地     
三方原陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:静岡県浜名郡三方原村(現・浜松市‎東区‎半田山)
座 標:34°47′0N 137°44′2E
標 高:59m
飛行地区:1,800mx1,300m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1923年01月 11日、東西定期航空会、東京大阪間定期便開設。中継地となる
1925年   この頃日本中央飛行学校があった

関連サイト:
国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正14年(174コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 

この記事の資料:
現地の説明版
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(13)  トラックバック(0) 
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コメント 13

an-kazu

武田軍と徳川軍が一戦交えた地にも、飛行場があったのですね!
by an-kazu (2011-02-18 17:47) 

takechan

歴史によく登場する地名ですね。古戦場跡はないのかな、
by takechan (2011-02-18 21:59) 

鹿児島のこういち

とりさんが写した門柱以外にあと三本なかったですか?f^_^;
三方原教導飛行団は航空化学戦を任務として、毒ガス兵器を開発してましたってありましたw(゚o゚)w関東軍だけでなく、本土でも作ってたんですね。
滑走路は浜松飛行場と誘導路でつながってましたって事らしいので、次は浜松飛行場跡地でしょうか?f^_^;
by 鹿児島のこういち (2011-02-19 00:40) 

セバスちゃん

いらっしゃいませ、浜松。僕とニアミスしていたりして<笑>
遠く横浜から浜松基地に近い料理屋さんへ通ってした時代、
料理屋さんでよく自衛隊の方も来てましたね。
声をかけるなバリアを張ってましたけど。
大好きだった、この店も5〜6年前に閉店しました<涙>
by セバスちゃん (2011-02-19 10:12) 

コスト

この跡地のずっと東(右)にある遠鉄西ケ崎駅には、出張で毎回下車してるんで
おおーって思いました^^
トーチカはどれぐらいの大きさなんですかね?
今は自衛隊宿舎ってところになんだか関連性を感じます。
by コスト (2011-02-19 12:12) 

ジョルノ飛曹長

こういったトーチカや掩体壕は、きちんと残して欲しいですよね。(^◇^)
by ジョルノ飛曹長 (2011-02-19 17:00) 

sak

自衛官募集のポスターが気になります(^^
by sak (2011-02-19 23:45) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■an-kazuさん
>武田軍と徳川軍
そそそそそうなんですか。
学生時代歴史が苦手で苦手で。
おかげで「本当に日本人?」と真顔で問われるような有様でして。。。(///∇///)

■takechanさん
よく登場するのですか。とても有名な場所なんですね。(///∇///)

■鹿児島のこういちさん
>あと三本
残念ながら発見できませんでした。というか存在も知りませんでした。
>次は浜松飛行場跡地
ビンゴです!d( ̄∇ ̄*)

■セバスちゃんさん
お邪魔致しました。静岡は都合三回お邪魔しましたので、本当にどこかでニアミスしているかもしれないですね^^
こちらとはそんな長年のお付き合いがあったのですね。
自衛官さん、バリア張ってましたか^^;

■コストさん
この近くまで来られてたんですね(@Д@)
トーチカの大きさは、あまり記憶にないのですが、多分数メートルだったと思います。
普段見ている掩体壕からするとかなり小さかったです。

■ジョルノ飛曹長さん
そうですね~。
今後ますます貴重になりますからね。

■sakさん
入隊ですか?(o ̄∇ ̄o)
by とり (2011-02-20 08:46) 

春分

論点は「敗戦が幸いか」というところですか。
うーーーーん。本土決戦までやっていたら日本全土が沖縄のような様子かな。
北海道はロシアに取られ、今の人口も1割くらい少ないかな。
それでも案外「負けてよかった」とは口にしたくないが。
by 春分 (2011-02-21 22:11) 

越川隆文

昨年亡くなった父がこの地で幹部候補生で敗戦を迎えました。敗戦間近には、パイロットもおらず、整備兵が出撃し、整備兵も不足し、交戦する前に整備不良で墜落したそうです。化学戦の訓練も行われていたと、戦友の方の回顧録をいただきました。
by 越川隆文 (2013-11-21 22:28) 

とり

■越川隆文さん いらっしゃいませ
当時の状況を教えて下さりありがとうございました。
by とり (2013-11-22 07:43) 

山田 実

残りの3本の柱は、白柳式選果機の工場に沿ってあります。私の幼友達の家の工場です。中学ぐらいまで、このあたりでよく遊びました。この近くに、飛行場の宿舎が残されていて、市営住宅として貸されていました。私は、そこで生まれ、中一までその長屋に住んでいました。今は跡かたものこっていません。

by 山田 実 (2015-11-19 09:43) 

とり

■山田 実さん いらっしゃいませ
貴重な情報をありがとうございます。
縁深い場所なのですね。
次の機会に探してみます。
ありがとうございました。
by とり (2015-11-20 05:14) 

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