SSブログ

名古屋国際飛行場跡地 [├空港]

   2010年7月訪問 2023/1更新  


4.png
(昭和10年7月撮影)高度約1,000米 方位S 距離約2,300米
5.png
1938年(昭和13年)3月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
無題f.png
撮影年月日1945/04/05(97E5 C7 106) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

名古屋港にある潮凪町(名古屋港築港第十号地)。

かつてここに「名古屋国際飛行場」があり、ヒコーキが飛んでいました。

「国際空港」ですよ? 「中部国際空港」(セントレア)が開港する70年も前のことです。

 

1932年、名古屋市と名古屋商工会議所は民間飛行場建設に向けて協議を始めました。

そして飛行場候補地として、「名古屋港8,9号地連絡埋立地南方」が内々に選定されました。

そしてこの件で国にお伺いを立てたのですが、

国としても国防上の観点から名古屋近郊の飛行場建設は不可欠と考えていました。

飛行場建設に関して両者の思惑が一致したわけですが、政府としては飛行場の早期実現を目指しており、

逓信省航空官は「埋立てすら完了していない選定地では最低5年はかかる」との判断から、

期間を補う仮飛行場の建造を希望し、本飛行場とは別に土地選定を指示しました。

それで名古屋市と名古屋商工会議所は仮飛行場用地として、

既に埋立ての完了している当10号埋立地(グーグルマップのグレーで囲った部分)を選定。

逓信省代理(日本航空の重役)が選定地の視察を実施、「仮飛行場として問題なし」との判断を得ました。

こうして名古屋港10号埋立地を仮飛行場として暫定使用することになりました。

この仮飛行場には、日本航空の東京~大阪間の定期便のうち1往復が経由地とすることになりました。

更に、郵便専用機、飛行場出資者である愛知時計、三菱の試験機も使用しました。

地元では、この飛行場を大いに発展させようと意気込んでおり、

当時の地図にはこの飛行場のことが「国際飛行場」と記されているのだそうです。

ということで、本来の役割的には「名古屋仮飛行場」なのかもしれませんが、

いろいろ調べても特にこれが絶対正しいという名称に統一されていないようですので、

当時の人々の心意気から当記事でも、「名古屋国際飛行場」とさせていただきました。

 

仮飛行場が開港したのと同じ月に本来の名古屋飛行場も着工しました。

着工から7年後にやっと本命の名古屋飛行場が開港したのですが、

その前年には早々と仮飛行場の定期便は廃止、機能停止していました。

地元としてはなんとか新飛行場で定期便を再開させようとしたのですが、結局定期便は飛ばず、

愛知時計、三菱製の海軍機に使用されるのみでした。

戦後、「名古屋国際飛行場」は接収、返還を経て工業地帯となり、

昭和27年の民間定期便の再開は旧陸軍の小牧飛行場からなのでした。

 

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  名古屋飛行場
経営者  国際航空協会
所在地  名古屋市港区稲永新田池先第十號埋立地
水陸の別 陸、水
滑走区域 東西五五〇米 南北七五〇米
備 考  水上滑走区域は十號埋立地南東の水面一帯

D20_0119.jpg

赤マーカー地点。

トラックが行き交ってました。

広々とした真っ直ぐな道がかつての飛行場に見えなくもないような…。


      愛知県・名古屋国際飛行場跡地      

名古屋国際飛行場 データ

設置管理者:国際航空協会
種 別:公共用水陸両用飛行場
所在地:愛知県‎名古屋市‎港区稲永新田池先第十號埋立地(‎現・潮凪町‎)
座 標:N35°04′40″E136°51′37″
滑走区域:東西550mx南北750m(水上滑走区域は十號埋立地南東の水面一帯)
(座標はグーグルアースから。その他は国立公文書館デジタルアーカイブから)

沿 革
1932年    名古屋市と名古屋商工会議所は民間飛行場建設に向けて協議開始
1932年07月 名古屋港8,9号地連絡埋立地南方を飛行場用地に選定
1934年03月 逓信省、10号埋立地を仮飛行場用地に問題なしと判断
1934年10月 県知事、10号地使用許可、定期便開設
1940年    飛行場機能停止
1941年10月 名古屋飛行場開港


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 7

鹿児島のこういち

写真を見ると、写真上側にうっすらと滑走路のような形が残ってますね。
仮空港にしても、本空港にしても、戦時中、三菱の試験機が使っていたのですね。
日本海軍が航空機による作戦で今までの攻撃方法を大きく飛躍させたにも関わらず、アメリカに一方的に負けた原因のひとつに、この事が上げられています。
戦闘機や爆撃機など、世界に類のない優れた飛行機を作り出したにも関わらず開発した工場に付属する飛行場が、ほとんどなく、離れた飛行場へ、せっかく作った飛行機を分解して、牛車や馬車で整備されてないデコボコの砂利道をゆっくり運搬するありさまだったそうです。もちろん揺れる訳ですから精密機械にも破損するものもあったようです。
工場や飛行場は作ったものの、それをつなぐ道路などのインフラが追い付かず、アメリカの大量生産の前に屈した原因のひとつに上がってます。
by 鹿児島のこういち (2010-11-24 05:48) 

sak

東京~名古屋~大阪の飛行機があったって
不思議な感じ(^^
でもその頃だと時間かなりかかったのでしょうね
by sak (2010-11-24 09:51) 

tooshiba

>当時の人々の心意気から
とり兄さんは優しいなあ。

愛知県民?名古屋市民?歓喜することでしょう。
by tooshiba (2010-11-24 11:30) 

Takashi

写真の道、ここに飛行場があったことを知っていれば、滑走路に見えてしまいますね。
by Takashi (2010-11-24 12:44) 

masa

名古屋港に飛行場があったんですね。
初めて知りました・・・
by masa (2010-11-24 19:21) 

an-kazu

かまぼこ状の屋根、ハンガーに見えてきた(^^);
by an-kazu (2010-11-24 22:28) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
こんな解説をするサイトがありました。
「零戦の完成機は初期の大江工場から牛車→各務原ルートから大江工場→艀→港整備工場から飛行→鈴鹿に切り替えられています。」
また、馬は暴れることがあるので牛、それも種類を特定するなど工夫したこと、三菱の月産数からすると、それほどネックにはならなかっただろう。という意見もあります。
ttp://www.warbirds.jp/ansq/12/A2003717.html
まあいずれにせよ彼我の生産力の差は比べるべくもないですね。

■sakさん
新幹線などなかった当時はそれなりのメリットがあったのでしょうね~。

■tooshibaさん
当時の人々のヒコーキにかける思いには本当に頭が下がります。

■Takashiさん
やっぱりそういう風に見えますか^^

■masaさん
これはオイラもビックリでした。
地元の方でもご存じない方おられるかもしれませんね。

■an-kazuさん
あちらの世界にかなり入っておられますね(o ̄∇ ̄o)ニヤ
by とり (2010-11-29 20:15) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0