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相模(中津)飛行場跡地 [├空港]

   2010年5月、2016年1月訪問 2023/1更新  


無題i.png
撮影年月日1947/04/13(USA M200 45) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

神奈川県愛甲郡、 相模川と中津川の間に位置する中津工業団地。

かつてここは「陸軍相模(中津)飛行場」でした。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

当飛行場の情報がありました。

飛行場名  相模
位 置   神奈川県愛甲郡中津村
規 模   要図
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一三〇〇名分
 格納施設 掩体 大三〇ヶ所 小三〇ヶ所
摘 要   施設軍有

相模川を隔ててすぐ東隣には前記事のキャスナー飛行場があります。

熊谷飛行学校の分教場として開設され操縦訓練が行われましたが、

後に実戦基地となり、末期には特攻訓練が行われました。

舗装された滑走路はなく、広大な草原が広がっていました。

飛行場敷地南西側が膨らんでいますが、ここに格納庫はじめ、種々の基地機能が集中していました。

そして当時の遺構が多数現存しています。

以下、お邪魔して撮影して来た遺構をずらずらと。

場所情報は、ブログ:kanレポート「相模陸軍飛行場」 から頂きました。

kanさんどうもありがとうございましたm(_ _)m

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・A地点にある門柱。移設したものだそうです。

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・B地点にある門柱

*以下私有地にあるものは全て撮影許可を求め、快諾頂きました。どうもありがとうございましたm(_ _)m  

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・C地点。通信室なのだそうです。

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・D地点。中津工業団地第2公園内にあるこんもりとした物体。

これも格納庫跡だと言われています。

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同じく・D地点にある碑。

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「開墾記念碑」(全文) 中津村は古くから専ら養蚕を営み此の耕地の大半は桑林帯であったが支那事変が擴大し昭和十五年二月突如陸軍省は飛行場設置の為約三百町歩を買収した 農民は晴天の霹靂に呆然自失し職を失い業を轉ずるに到るも国家の危急に際し犠牲を忍び涙を呑んで耕地を提供したのである 昭和二十年八月終戦と同時に施設は解体せられ全用地の管理を中津村農業會に委託せられたが前年来未曾有の凶作が連続し極度の食糧飢餓となり農民すら食を草根に求むる惨状を呈した為農業會は国内混乱のさ中に在て上司の許可を待たず技術官を聘して測量を進め区画を整理し無耕地農民を優先とし労力を参酌し未復員者を考慮して配分し開墾せしめたのである 農家は直ちに実施を挙って鍬を揮い田匙を踏み堅土を起こし食を割いて種子とし乏しき肥料を施して作付したのであるが其悲壮なる努力は筆舌に絶し辛くも若干の収穫を得て命の糧としたのである かくして此の耕地は農民の手に復帰し本村の命脈とし幾多の生存の危惧を脱し茲に十年の星霜を閲し今や整然たる区画と豊穣の作況を現実に展望し往時を回想し専た感慨無量なり よって概況を誌し後世への記念とする 昭和三十一 年八月 中津村農業委員會 中津村農業共同組合 (ものすごく読み取りにくかったので誤字脱字あると思います。ご了承くださいませ)

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・E地点にある排水路橋

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飛行場から中津川へ廃水を流すためのものだそうです。

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・F地点。ここから排水路を見下ろすことが出来ます。コッチ側。

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アッチ側。

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・G地点。格納庫基礎

 

ここから少し離れた所に「神奈川県立あいかわ公園」があり、公園内に「愛川町郷土資料館」があります。

資料館で当飛行場についてかなり詳しく扱われていました。

一面桑畑だったところが突然買収され、飛行場となりました。

農地を失った人々の不満をなだめる為に、飛行場勤務の軍属募集が行われたのだそうです。

戦後再び開墾。更に現在では工業団地となりました。

時代と共にガラリとその姿を変え、今に至るのですね。


        神奈川県・相模(中津)飛行場跡地      


相模(中津)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:神奈川県愛甲郡内陸工業団地
座 標:N35°30′54″E139°20′52″
面 積:297.5ha
(座標はグーグルアースから)

沿革
1940年 2月 陸軍飛行場として買収
1941年 6月 熊谷陸軍飛行学校相模分教所開校。複葉機による訓練が始まる
1942年 戦闘機が配備され、出撃基地としての運用が始まる
1944年 7月 飛行学校閉鎖。実用機、戦闘機の基地となる。
       末期には特攻隊の訓練基地となり、南九州の特攻基地へ出撃
       (「愛川町郷土資料館」の資料によれば、1944年に疾風操縦者の訓練基地になったとあります)
1945年 飛行場初空襲
1946年 11月 この頃には敷地のほとんどが農地になる   

この記事の資料:
現地の碑文
愛川町郷土資料館
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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コメント 13

鹿児島のこういち

左下、確かにポコっと出てますねぇ(^O^)何があったのかな?
農地開墾も大変だったんですね、食料難を乗り切るため必死だろうから。
うちの両親も、芋のつるや木の根を食べて、芋や大根などの出来た作物は担いで町へ売りに出ていたそうです。もちろん米なんて食べられなかったそうですよ(>_<)
by 鹿児島のこういち (2010-08-06 08:50) 

sak

そんな歴史があるのですね
戦争のときとかって平気で土地持ってかれて...
でもとりあえず戻ってきたのですね
跡地の中だけまっすぐな道で綺麗に整備されてる(^^
by sak (2010-08-06 10:51) 

yatoho

とりさん こんばんは

とうとういらっしゃいましたか!
私たちは年中通っていますけど・・・・飛行場の位置まではこちらの囲みを見るまでわかっていませんでした。
その地図に見えるアイテック近辺で、厚木とキャンプ座間の花火(同日で厚木が終わると座間が始まります)がきれいに見えます。
by yatoho (2010-08-06 18:59) 

masa

ずいぶんと広い飛行場だったんですね。
by masa (2010-08-06 19:30) 

tooshiba

今回はとりさんレーダーでも、事前の情報収集が難しかったみたいですね。

しかし、この取材は何日がかりでやられたのですか?
さすがに一日で追浜から相模川まで寄り道しながらは来られないでしょう。

それから、空港探索・2を拝見していて思ったのですが、工業団地ってのは、飛行場の跡地にある場合が少なくないようですね。
まあ、大概は平地で地慣らしもしてあるし、広いし。国から払い下げられたあと、工場を建てるには都合が良かったのでしょうね。
by tooshiba (2010-08-06 20:14) 

miffy

見逃した現存してる跡地をまた探索に行かないとですね。
by miffy (2010-08-06 20:41) 

me-co

調べてから出動しているのに・・・
難しいものですね(ノ_・。)クスン
by me-co (2010-08-07 11:27) 

まめ助の母

またまた戦争のお勉強をする月間になりました…
(いえいえ特に8月にこだわってはいませんが)
特攻隊の訓練所ってたくさんあったんですね
でもきっとろくすっぽ訓練も受けられずに
出撃していったのでは?

哀しい事実もきちんと知らないといけないですね
by まめ助の母 (2010-08-07 17:14) 

an-kazu

件の掩体壕、確認してまいりました!
(近日公開予定)
by an-kazu (2010-08-07 21:55) 

雅

神奈川県だけでもたくさんあったんですね。
もっと他にすることあっただろうに、と思っちゃいます。
by (2010-08-07 21:56) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
>左下
なんなんでしょうか?? 当時の航空写真ではこの部分に細い方形のものが並んでいるのですが、
もしかしたら高射砲台?? と思いました。
>芋のつるや木の根
ご両親も大変な経験をされたのですね。
今は残さず食べると褒められる時代ですからね。豊かになったものです。

■sakさん
>平気で
そうなんですよね~。
サラリーマンの引っ越しとは比べ物にならない御苦労だったと思います。
神奈川県内の跡地でも、そのまま地元に戻されないケースも多々ありますから、
「戻ってきただけマシ」かもしれません。

■yatohoさん
どうもお邪魔しました^^
とりこぼしが多くて申し訳ないです^^;
>アイテック
おお、そんな場所なんですね。連動してるっていいですね~。

■masaさん
仰る通りで、実際にその場所に立ってみると、
「当時はここが全部飛行場だったのか~」と、その広さに圧倒されます。

■tooshibaさん
オイラのレーダーはポンコツですから~。_| ̄|○ il||li
実は神奈川県内は1日で回りました。
「おお、かなちゅう走ってる~! tooshibaさ~ん!!ヽ(*´ヮ`)ノ」
と感動しながら伊勢佐木町に到着したのが朝8時。そこからノンストップで動き続け(昼食も運転中におにぎり)、
最後に当相模(中津)飛行場を撮り終わったのが17時前。こんな感じでした。
>工業団地
確かにそういうパターン、おおいですね~。
そこまで読み取って頂けて嬉しいです(;´Д⊂)

■miffyさん
そうですね~。機会があったら寄るかもしれません^^
いつ行けるかな~。

■me-coさん
親身にありがとうございます。
出発直前にひととおりネットをチェックしてるんですけどね~。
現地に行って初めて知る情報で改めて検索すると、未知の情報が出てくるってことが
結構あるんですよ^^;

■まめ助の母さん
>ろくすっぽ
確かに当時の記録を見ると特に末期はそんな感じですね~。
15,6歳の少年に地上で模型等を使った説明をしただけで特攻機に乗せた。
なんていう、ちょっと信じられないような話もあったりします。

■an-kazuさん
おお、行きましたか!
>(近日公開予定)
楽しみな映画上映を待つ心境です^^

■雅さん
神奈川県は特定の地域に飛行場を集中して建設したのが特徴ですね。
オイラもこんなにあるとは知らず、ビックリでした。
by とり (2010-08-08 06:06) 

通りすがり

こんにちは。
先日、宮ケ瀬ダムへ行ったついでに郷土資料館と第2公園へも
寄ってみました。
資料館の1角には廃棄してあった四式戦の風防を平成になってから
発見したものが展示してありました。
「愛川町の近代遺産(愛川町教育委員会2001年)」誌の中には
23ページに亘り中津飛行場について書かれていました。
第2公園では掩体壕跡の様な小山を滑り台代わりにしているので
しょう、土が2か所削られていたのが気になりました。
by 通りすがり (2014-05-13 12:59) 

とり

■通りすがりさん
現地に行かれたのですね。
詳細な資料、展示物があるのですね。
貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2014-05-14 06:37) 

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