横芝陸軍(栗山、横芝栗山)飛行場跡地 [├空港]
2012年7月訪問 2020/10更新
撮影年月日
1947/11/12(昭22)(USA R535 7)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
千葉県山武郡横芝光町にあった、「横芝陸軍飛行場」。
前記事の「豊成飛行場」の北東約11kmに位置しており、
地元では地名から「栗山飛行場」、「横芝栗山飛行場」とも呼ばれていました。
■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に図があり、
先頭のグーグルマップはこの図と1947年の航空写真から作図しました。
図と航空写真が微妙に違っていて、
特に北側に張り出した格納庫等飛行場諸施設のあるエリア(赤マーカー)が随分違うのですが、
航空写真優先で作図したところ、こんな感じになりました。
先頭の航空写真、これまでは必ず敷地全体(もしくは滑走路全体)を載せていたのですが、
このサイズでそれをやってもなんかよく分からないため、
格納庫等諸施設が集まっている北側のエリアのみのアップとしました。
同資料に当飛行場についての情報がありましたので、以下引用させて頂きます。
■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、
「横芝陸軍飛行場 千葉県山武郡横芝町 35°38′5N 140°30′0E」として、以下全く同じ記載がありました)
面積 北西_南東1,350米 北東_南西870米
地面の状況 全面植芝、平坦なるも中央稍高く周囲に向け1/500の下り傾斜を為す、硬度は普通なるも西側地区幅200米の地域は排水不良にして軟弱なり
目標 (記載なし)
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は北北西を可とす
格納設備 木造格納庫(70x40米)1、(36x22米)3棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 宮川郵便局(電信及電話取扱)北方約2粁
観測設備 (記載なし)
給油設備 あり
修理設備 (記載なし)
宿泊設備 横芝町に旅館1(収容員数20)あり
地方風 全年を通じては北北西風多し 平均風速6.4米/秒
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数50.4、曇天日数149.5 降水日数159.2 降雪日数5.9霧日数28.2なり
交通関係 横芝駅(総武本線)北方約2粁、同駅より「バス」の便あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 横芝
位 置 千葉県山武群横芝町
規 模 要図(東西1300 南北950)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 八〇〇名分
格納施設 掩体 大三一ヶ所
摘 要 施設軍有
青マーカー地点にある栗山平和公園。
公園の一角に碑文がありました。
横芝飛行場之跡(全文)
横芝飛行場は、昭和13年に当時の陸軍航空本部により、旧横芝町から旧上堺村にまたがるこの周辺の土地、約170ヘクタール(約170町歩)を買収して建設されたものである。初めは、水戸陸軍飛行学校横芝分校であったが、後には、仙台飛行学校横芝教育隊となり、練習機を交え80機以上の航空機が置かれ、操縦学生や通信学生たちの教育に当たっていた。しかし、先の太平洋戦争末期には、この飛行場も標的となり、連日のように爆撃を受けるなど、激しい攻撃にさらされ、これに伴い、周辺地域を中心に本町住民も戦争の災禍を被り、暗い一時期を過ごすこととなった。以来、戦局は険しさの一途をたどり、ついに終戦を迎えるに至ったが、この飛行場は、ここで育まれた航空兵たちにとっては、終生忘れ得ぬ揺籃の地となり、町民としても、戦争と平和を語るとき、欠くことの出来ないところとなった。ついては、ここに未来永劫の平和を願い、横芝飛行場記念碑を建立し、歴史のあかしとして後世に伝えようとするものである。平成5年3月吉日 横芝町長 實川堅司郎
碑文にも当飛行場が激しい爆撃に遭ったと記されていますが、飛行場名無しさんからその時の様子についてコメント頂きました。詳しくは飛行場名無しさんのコメント欄をご覧くださいませ。飛行場名無しさんありがとうございましたm(_ _)m
千葉県・横芝飛行場跡地
横芝飛行場 データ設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県山武群横芝町(現・山武郡横芝光町栗山4476-1)
座 標:35°38′5N 140°30′0E
標 高:6m
面 積:170ha
着陸帯:1350m×870m
(標高はグーグルアースから)
沿革
1938年05月 陸軍航空本部、飛行場用地買収。建設
1941年06月 水戸陸軍飛行学校横芝分校となり飛行学校第2中隊配備
1943年 仙台飛行学校横芝教育隊
1945年02月 早朝米艦戦機42機が飛行場爆撃。以来郷土周辺でも空中戦が展開された
03月 20日から海軍攻撃254飛行隊が使用(ななしさんから情報頂きましたm(_ _)m)
この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
>未来永劫の平和を願い
昨日、海上自衛隊60周年の観艦式があったではないですか。総理の挨拶で我が国を取り巻く云々という発言からして、やっと認知したのかなって思いと、これから先どのような対処をするのだろうか?とちょっと不安になりつつあります。未来永劫の平和は、なかなか実現しづらいものなんでしょうね?
by 鹿児島のこういち (2012-10-15 09:59)
飛行場を作る=標的になるんですね。改めて実感しました。
by Takashi (2012-10-15 22:08)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■鹿児島のこういちさん
仰る通りですね。
平和な世の中になって欲しいものです。
■Takashiさん
そうなんですよね。
土地を接収され、建設、維持管理に駆り出され、重要目標にもされてしまうという。。。
率先して地元に誘致した人もいた訳で、胸中如何ばかりでしょうか。
by とり (2012-10-17 05:40)
こういう場所が近くにあると、民間人も被害が大きくなりますね。
大変だったでしょうね…当時は。
平和な時代に生まれて、幸せだと思います。
by koume (2012-10-17 21:25)
■koumeさん
平和な今の時代が有り難いことですね。
お返事が遅くなり申し訳ありません。
by とり (2013-03-09 18:32)
S20.3.20 より 海軍攻撃254飛行隊が使用と戦史にかいていました。
by ななし (2013-06-11 08:03)
■ななしさん いらっしゃいませ
記事に反映させて頂きました。
貴重な情報感謝致します。ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2013-06-18 20:35)
陸軍の飛行場であったが、大戦中は海軍艦上攻撃の訓練基地として使われていました。 その名も雷風雷撃隊、夜間の網訓練は海軍航空隊でも有名で、隊長は特攻隊として使われたくない一心で、夜間訓練に力を入れたそうです
by NO NAME (2016-02-16 00:59)
■NO NAMEさん
貴重な情報ありがとうございます。
「大戦中は海軍艦上攻撃の訓練基地として使われていた」とのことですが、
現地の碑文では陸軍系の教育隊が使用としか記されておらず、
一つ上のコメントでななしさんから、末期の時期に海軍攻撃254飛行隊が使用とご教授頂き、
これが特攻の訓練であったことについてはこちらでも確認がとれたのですが、
末期に限らず大戦中海軍が使用していたかどうかについては確認できませんでした。
恐れ入りますが、何か確認可能な資料等ありますでしょうか?
by とり (2016-02-17 05:26)
私は近くに住んでいました、戦後の3年たった23年生まれ今年70歳です、現地飛行場の後は畑になり、そこに少しですが、土地を国より購入して耕作しましたので、幼少ではありましたが、見聞きしてすこしは当時の状況が理解できます、終戦まじかのグラマン艦載機と装備の劣る我ら日の丸飛行機との空中戦、落ちるのは日本の飛行機、落とされ落下傘を開くもそれを狙って敵のグラマンは機銃掃射、飛行場の空の空中戦、今は亡き母親に聞きました、そして、畑に、土と混ざった防弾ガラスの破片、ヒロポン覚せい剤の空き瓶等
by 飛行場名無し (2018-06-01 17:33)
平和は大事です、私も戦争は嫌いです、しかしこちら側が戦う意思が無くても、相手が暴力攻撃してくれば、女房、子供、国家主権を守らなければいけない、それには、それなりの準備が必要です。横芝栗山飛行場を経由して知覧、沖縄、特攻隊の英霊先輩が飛び立って行きました、今中国日本侵略が始まったいま、平和をどうしたら守れるか考えたい。
by 飛行場名無し (2018-06-01 17:46)
■飛行場名無しさん
当時の状況、そして貴重なご意見を聞かせて下さり、感謝致します。
それから当飛行場の名前は「横芝」だけではなかったのですね。
記事に反映させて頂きました。
どうもありがとうございました。
by とり (2018-06-02 06:02)
とり様 今の日本の国内の環境に置いて、これ等の忘れてはならない貴重遺産を、勉強する事はとても良いことだと思います、私の現在住む、埼玉県の、桶川にも陸軍熊谷飛行学校桶川分教場があり、保存のために今閉鎖中です、ここからも、特攻隊の若人が飛び立っていきました。桶川分教場の事は保存会も出来ているみたいです、webで出ています、栗山飛行場も実家の近くなので、もう少し勉強して後世に残さねばとおもってます。
by 九十九里浜 (2018-06-03 22:42)
■九十九里浜様
桶川の情報ありがとうございます。
現在は埼玉にお住まいなんですね。
今後のご活躍応援しております。
by とり (2018-06-04 07:33)
私の父は戦争当時、仙台飛行学校配属になり、すぐこの横芝航空隊で訓練を受けていたようです。その後中国の興城航空隊に配属になり戦闘機に乗ってたらしいですが、生前はほとんど写真は残ってますが戦闘機の話はほとんどしませんでした。
by あっくん (2020-07-29 10:45)
■あっくんさん
そんなことがあったのですか。
貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2020-07-30 03:06)
はじめまして。
仕事でこの付近の土地を調査した事がありまして・・
飛行場跡地の外周西側や南側(水路の内側)に現在道路状の土地が一部残ってまして、そこに目隠しの木が飛行場の外周に植えられていたそうです。この土地は一部道路になっていますが、赤道ではなく内務省用地で現在も町では無く県の管理となっていました。(15年位前なので現在は不明です・・汗)
県庁の農水部の耕地課(だったかな?)に県内全ての軍用地払い下げ用地が載った詳細な地図と目録がありました。コピー下さいとは言えませんでしたが・・w
それから県道78号を横芝駅から海方面に走る千葉交通の路線バスの一部は飛行場跡を迂回するルートを通るバスも・・これも飛行場があった名残と言われていますが・・
by FD (2020-08-27 09:26)
■FDさん いらっしゃいませ
もの凄くディープな情報をありがとうございました(@Д@)
>県内全ての軍用地払い下げ用地
そんな資料が存在するのですね。
バス路線の話も非常に興味深いですね。
うーむ、深い。。。
by とり (2020-08-29 09:50)