読売飛行場跡地 [├空港]
2010年3月訪問 2023/1更新
撮影年月日
1941/07/08(昭16)(532 C3 76)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
東京都世田谷区、東急線二子玉川駅西側の多摩川河川敷の様子。
土手道ではサイクリングする人、ジョギング中の人、のんびりお散歩している人、そして九州弁で髪をのばしている人。
土手の下の芝が広がる河川敷広場からは歓声が聞こえてました。
「二子玉川緑地運動場」なのですが、かつてここに「読売飛行場」がありました。
■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、
当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
また、同資料に情報がありました。
以下引用させて頂きます。
第12 読売飛行場 (昭和18年2月調)
管理者 読売新聞社航空部(東京市京橋区銀座3丁目1番地)。
位置 東京市世田谷区大蔵町字伊勢宮地先多摩河原。
(二子橋の北西方約750米、北緯35°37′5、東経139°34′0)。
種別 非公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約26米。
広さ及形状
本場は総面積95,000平方米にして長さ西北西-東南東最大718米、幅北北
東-南南西227米の略東西に細長き半楕円形地域なり。
着陸地域は長さ西北西-東南東500米、幅15米の舗装滑走路を最適とす
るも風向等に依りては滑走路の北側幅10米迄の地区を使用するも支障な
し(付図参照)。
地表の土質
砂礫混りの細砂。
地面の状況
地表は凸凹起伏なき平坦地なるも北より南方河岸に向け極めて緩除なる下
り傾斜を為す・芝及雑草等疎らに発生するも概して禿地多く冬季強風の際
は風塵立ち昇る・滑走路は乳剤舗装にして平坦且堅硬なるも地表稍破損せ
る箇所あり・滑走路の北方外側幅約10米の地区は芝密生し軽戦車の通行
後滅込まざる程度の硬度を有し且排水良好なるを以て降雨直後と雖も使用
可能なり・其の他の地域は地盤軟弱なる未整地なり・場の南西端多摩川河
岸に長さ350米、高さ0.5米の護岸堤防及北側周囲に高さ8米の堤防あり
て一見極めて狭隘を感ぜしむ。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
滑走路方向(着陸は東南東よりするを通例とす)。
離着陸上注意すべき点
冬季北風強吹する際は着陸極めて困難なり・北側に沿い高さ8米の堤防
(堤防上に高さ5米の電線)及高さ10米の煙突、南東方約1,000米に高さ70
米の落下傘鉄塔、同方向約350米に高さ16米の樹林及二子橋上の架空電
線等の障碍物に注意を要す。
施設
格納庫(間口19米、奥行28米、高さ8米、収容機数小型7)1・飛行場事
務所(高さ8米)・修理工場1・油庫1・宿泊所1あり。
昼間標識 吹流(高さ8米)1・地名標識(滑走路上に白書す)「ヨミウ
リ」あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
樹林
滑走路西端の北側付近に高さ6米の松樹2本及北側堤防の外側に高さ約12
米の松樹林点在す・場の東及南東方付近に高さ20米程度の落葉樹林、兵庫
島及二子橋付近に7-16米の針葉樹密生す。
堤防
本場の北側場周に沿い高さ約8米、幅約5米の2段階を為す堤防あり又南
西端の多摩川河岸に長さ350米、高さ0.5米の「コンクリート」造の護岸
堤防構築しあり。
煙突及電線
滑走路の西端より北西方約150米に高さ10米の煙突、北側堤防上に高さ5
米の普通電線1條あり・西方約1,500米に多摩川を横断し略南北に架設せ
る高さ30米の高圧送電線鉄塔あり。
河川
場の南側に接して多摩川南流す又東側に町田川と称する同河の支流あり、
何れも砂利採取船の運航する程度なり。
建築物
場の東端に高さ8米の飛行場事務所(二階建)、北西方約100米に「わかも
と」製薬工場の諸建物あり又南東方約1,000米に高さ70米の読売落下傘塔
1基あり。
着目標
多摩川、二子橋、吹流、地名標識(滑走路上)「ヨミウリ」。
地方の状況
警察署及役場
世田谷警察署(世田谷区等々力町)約3粁、宮前駐在所(世田谷区大蔵町)
約300米・世田谷区役所(世田谷区若林町)約6粁。
医療
川崎市高津町(南東方約7粁)に病院3あり。
宿泊
場内に宿泊設備あるも収容員数は僅少なり・玉川町に旅館2(収容員数計
50)あり。
清水
場内に水質良好にして飲料に適する井水あり。
応急修理
場内に修理工場あるも極めて簡単なる破損修理程度なり。
航空需品
場内に少量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵す。
交通、運輸及通信
鐡道及電車
登戸駅(南武鐡道)南東方約1粁・二子読売園駅(東京急行電鐵)東方約
700米。
道路
本場より東京市内及神奈川県方面に通ずる良好なる道路あり。
車馬
場内に飛行場専用乗用自動車2あり・貨物自動車は付近より徴用し得。
電信及電話
玉川郵便局(電信及電話取扱)東方約400米・場内飛行場事務所に電話
(玉川372番)あり。
気象
測候所
飛行場気象観測所にて毎日3回(8時、12時、14時)地上気象を観測す。
天候及地方風
読売飛行場気象観測所に於ける昭和16、17年2箇年間の月別統計次の如し。
(以下月ごとのデータ省略)
其の他
1. 昭和17年10月陸軍戦闘機1機本場に着陸せるも何等支障なく離陸帰還せ
り、其の際東方より着陸、西方に向け離陸せりと言う。
2. 本場は昭和14年10月読売新聞社の設置に係り目下曳行用KR2型練習機
4機及滑空機を常備し滑空飛行実施中なり。
3. 昭和16年秋多摩川氾濫の際場内全面に浸水し全く河床となりたる為之が
復旧工事に約6箇月を要せりと言う、但し斯かる大出水は極めて稀にして
例年の出水期に於いては河水の侵入する程度にして減水後数日にして使用し
得るを通例とすと言う。
資料にも出てきますが、1940年読売新聞社はここに飛行場と落下傘塔を建設しました。
戦時中は一時陸軍が使用していましたが、戦後は再び読売新聞の飛行場になります。
そして1952年、読売新聞社は航空思想普及のため「全日本学生航空連盟」を結成。
当飛行場を練習場とし、当初はグライダー1機で活動していました。
また当飛行場では、戦後初の国産航空機、新立川 飛行機R-52練習機、純日本製ヘリコプター読売/東京機械工業Y-1等
珍しい機体の試験が行われています。
その後はグライダーと読売新聞、報知新聞の報道用ヘリコプターなどの運用に使われたのですが、
建設省は「周囲の公園,緑地化が進めば,一般大衆の来遊はいよいよ多くなり、危険が増大する」との観点から
飛行場としての使用を不許可にする方針でしたが、読売新聞社側の強い要請、
報道の公共性(当時ここに代わる場所が少なかった)という面もあり、
一部のみヘリポートとしてしばらく使用を認めることに。
しかしそのヘリポート部分も1972年3月末をもって利用を終了。
そして1973年7月18日以降、世田谷区の運動場として占用の許可となり今日に至っています。
2018/3/3追記:コージーさんから情報頂きました。1960年代にグライダー離着陸の横では「日曜日は数十人がラジコンやUコンのエンジン模型飛行機で遊んでい」た時期があったのだそうです。詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。コージーさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
東京都・読売飛行場跡地
読売飛行場 データ(主に水路部昭和18年2月調資料より)
設置管理者:読売新聞社航空部
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:東京市世田谷区大蔵町字伊勢宮地先多摩河原(現・世田谷区鎌田地先)
座 標:N35°37′5″E139°34′0″
標 高:26m
面 積:9.5ha
滑走路:500m×15m
方 位:12/30
(方位はグーグルアースより)
沿革
1939年10月 読売新聞社の設置に係り目下曳行用KR2型練習機4機、滑空機を常備し滑空飛行実施中
1940年11月 読売新聞社 飛行場と落下傘塔を建設、戦時中は一時陸軍が使用
1941年秋 多摩川が氾濫し場内全面に浸水
1942年10月 陸軍戦闘機の離着陸
1952年02月 全日本学生航空連盟結成。当飛行場が練習場に
1969年02月 二子玉川読売飛行場返還。学生航空連盟の練習は読売大利根滑空場に移転
1972年03月 ヘリポート部分の使用も終了
1973年07月 世田谷区の運動場として占用の許可
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」
関東強化期間・消え去った飛行場が次々と紹介されますね。
その昔の、のどかな風景見てみたいですね。
・・・九州弁で髪をのばしている人 !?
多摩川の堤防に欠かせない人みたいですね ^_^;
by guchi (2010-05-31 06:02)
■guchiさん
>欠かせない人
その切り返し、完璧です^^(ホントは荒川土手なんですけどね)
トップのコメントがこれなので、おかげでコメントがカオスにならずに済みます。
(^^)bGJ!
by とり (2010-05-31 06:31)
一瞬考えました・・・(^_^;)↑
guchiさんの切り返しコメント、゚+。(σ゚∀゚σ)⌒Nice♪です★
by ムク (2010-05-31 18:26)
読売新聞の飛行場があったのですね。
今現在は素敵な公園としてみなさまに愛されてますね!
by masa (2010-05-31 18:48)
九州弁で髪を伸ばしてる人って金八先生のことなんですね(笑)
by miffy (2010-05-31 20:50)
とりさん こんばんは
こんなところに飛行場があったとは・・・素人は絶対に気づきません!
by yatoho (2010-05-31 21:09)
多摩川に読売ですかf^_^;虎ファンの自分としては、やな場所ですねf^_^;
ここの河川敷って相当広い事が想像できます!
次はどこが出てくるんだろう(^O^)/
by 鹿児島のこういち (2010-05-31 22:02)
こんな場所にもあったんですね。
飛行機が小型だったからなのか、土地が余っていたからなのか、
今なら考えられないですね。
by takechan (2010-05-31 22:28)
川向こうにあったとは・・・
69年返還72年ヘリポートも終了じゃぁ
残念ながらまったく記憶がありません・・・
by NO NAME (2010-06-01 01:10)
今でこそニコタマなんて言ったらセレブが集うお上品なイメージですが、1950年代なら、田んぼや畑も残っていたのではないでしょうか?
渋谷からの足は玉電という路面電車でしたからね。
(名残が東急世田谷線です。地下線の新玉川線~現在は田園都市線に改称~が開業したのは、1977年。)
by tooshiba (2010-06-02 00:40)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■ムクさん
ムクさんも同じでしたか^^
■masaさん
そうなんです。
思い思いに楽しんでしまたよ^^
■miffyさん
そうたい。
■yatohoさん こんにちは。
仰る通り、今では痕跡がないですからね。
分からないです。
(本当は何か残ってたりして)
■鹿児島のこういちさん
鹿児島のこういちさんは虎ファンでしたか。
じゃあちょっとここは。^^;
都内の飛行場/跡地 あと7箇所アップ予定しております。
■takechanさん
すっかり公園になってる現状からはとても想像できませんね~。
■NO NAMEさん
川のこちら側にお住まいでしたか^^
■tooshibaさん
解説ありがとうございますm(_ _)m
以前はここにも路面電車が走ってたんですね~。
by とり (2010-06-02 05:45)
都会の河川敷なのでそんなに長くはないだろうと
思ってたら450mぐらいなんですね
それでも軍が使ってたんですね^^;
by コスト (2010-06-07 20:40)
■コストさん
周辺はホントに都会で、一通、渋滞が多くて近づくのにエライ苦労しました。
飛行場としては決して広くはないですけと、
都会でこれだけまとまったスペースは貴重ですよね。
by とり (2010-06-07 21:29)
こんばんは
戦後学生の初期滑空場はご指摘のようにここがやはりにおいますね。
それが二子玉の河川敷にあったとは、一時期よく行っておりました
のでまさかあそこが、という感じです。
この場所で飛んだという戦後初のR52の事も書かれておりましたが
その改良機、R53とR-HMの復元機
(共に耐空証明はないそうです)
2機が4月に立川で4日間公開された時はご覧になりましたか?
他の博物館等では今後公開はしないと係りの人が言っていました
ので次回はいつ一般公開されるのかはわかりません。
立川飛行機と言うと九九式高等練習機(キ55)を昔バンコクの
ドンムアン空港がメインに使われていた頃、
ターミナルの反対側にある空軍博物館で見たことがありました。
日本の陸軍機が展示してあると聞いたので昔ドンムアンに駐機して
いた1式戦の写真を見たことがあったので隼かな?
と思いながら行きましたが展示されていたのは99高練でした。
桶川から第79振武隊で出撃したのもこの機体だったそうですが
本によっては99高練ではなく九八式直接協同偵察機(キ36)
と書いて有るものもありました。
桶川では出撃前に偵察用カメラなどを外し塗装も塗り直したから
98直協ではなく九九高練なのだということでした。
僭越ながら私はそうかな~と思っています。
話がずれてしまいすみません。
by アギラ (2014-06-04 00:53)
■アギラさん
おはようございます。
昨日はコメントに気付かずスルーしてしまいました。
失礼致しましたm(_ _)m
ここも縁の場所だったのですね。
今となっては、こんな都心のど真ん中に…という感じですね。
>4日間公開
企画自体存じませんでしたΣ(゚Д゚;)
見たかった。。。
>空軍博物館
戦時中の日本軍機が展示してあるのですね~。
貴重なお話をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2014-06-05 06:13)
ふと思い出して読売飛行場で検索して辿り着きました。情報ありがとうございました。
中学生だったころ(1964~1966)Uコン(死語、現在はコントロールラインというらしい)の模型飛行機を飛ばしに行ってました。結構模型飛行機のメッカのようになっていて日曜日は数十人がラジコンやUコンのエンジン模型飛行機で遊んでいました。場所は滑走路より川寄りの草むらでした。
横ではグライダーが離発着していましたが、特に何も言われたり注意されることは無かったです。
一度、グライダーと模型のラジコン飛行機が接近したらしく、その時はさすがに厳重注意されていました。
by コージー (2018-03-02 14:57)
■コージーさん
そんな時期があったのですか(@Д@)
記事に追記させて頂きましたm(_ _)m
貴重な情報ありがとうございました。
コントロールラインに変わっていたことも知りませんでした。
by とり (2018-03-03 05:26)
もう記憶も薄れてきている歳になってきてしまいましたが、1960年頃、兵庫島に料亭があり、近くに住んでいた叔母に連れられて食事に行っていました。食事後は中学生であったし、飛行機に興味があった為、一人散歩をすると言って、この滑走路を見に行ってきました。ついでに、格納庫「戦前写真の右端中央あたり見える建物」に行って、中に格納してある骨組みと風防だけのようなヘリコプターを見せてもらいました。その後、国道246の橋ができるために飛行場は無くなってしまいました。記事にありました落下傘塔は、二子玉川駅の反対側にあった二子玉川遊園地の遊具で、落下傘は形だけの小さな開いたものに吊り下げられて上昇し、そのまま降りてくるというものであったと思います。ここでは防衛博覧会が開かれ、初めて実物の戦車「旧軍の四式中戦車」や練習機、99式小銃などを見ました。今のおしゃれな街も昔は郊外のリゾート地だったのでしょうね。
by hero-OK (2023-07-17 04:48)
■hero-OKさん
国産ヘリの揺籃期の目撃証人なのですね!!
資料からしか知り得ない情報だったのですが、
やってきた中学生にヘリを見せてくれたというエピソードに、
イメージが変わりました。
当時の貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2023-07-17 05:30)