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東北、茨城に行った話・1日目 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ大潟場外→Ⓒハイランド滑空場→Ⓓ観武ヶ原練兵場跡地→Ⓔ道の駅石鳥谷泊(車中泊)

 

9月初旬、東北と茨城を回ってきたのでした。

4:34 出発。

オイラがこうして飛行場を見て回る時にはよくあることなのですが、

前の週までお天気続きなのに、オイラがお邪魔する週から下り坂に。(;´Д⊂)

今回もそんなパターンでした。

9月初旬でまだまだ暑いので東北に行こうと思っていたのですが、

天気が悪いのならほかの地域に行こうかしらん。

とも考えたのですが、東北方面の方がまだマシでした。

まずは東北を回って、その後茨城か千葉に行く予定だったのですが、

その間残念ながら東北のみならず関東地方もお天気は曇ベースで、雨が降るかもしれない感じでした。

 

埼玉県鶴ヶ島IC→(関越道)→群馬県高崎JCT→(北関東道)→栃木県岩舟JCT→(東北道)→

岩手県北上JCT→(秋田道)→秋田県五城目八郎潟IC

ということで、前回同様今回も北関東道経由で秋田へ。

調べてみたら、関越道の鶴ヶ島JCT~東北道の久喜白岡JCT間は、

現在途中の11kmが「設計協議or工事中」という状況になっており、開通は平成26年度以降なのだそうです。

これが完成すると、東北道までたったの20分で繋がって非常に便利なのですが、

「設計協議」って。。。

どうなるんでしょうか。早く開通して欲しいのですが。。。

 

去年も9月末に東北回りをしたのですが、その時は福島以北の道路がうねっており、路肩はそこここで崩れていました。

1年弱経て再び走ってみたのですが、昼夜連続規制で本格復旧工事している箇所をしばしば目にしました。

「最大15分待ち」という箇所があったり、大規模工事のため、6kmを通過するのに50分もかかったりしたのですが、

昼だけ、夜だけという工事の仕方だと、完全復旧まで5年かかるところを、1年半で直すのだそうです(今年12月終了)。

去年は休憩で立ち寄ったPA/SAにはレスキュー隊、自衛隊の方々を必ず目にしたのですが、

今回の旅行中、少なくともオイラは一度も見ませんでした。

それでも行く先々で「救援ありがとうございます」という貼り紙を目にしました。

 

ということで昼過ぎにやっと秋田県の大潟場外離着陸場に到着。

ここは名前は以前から知っていたのですが、どこにあるかまったく分からず、最近になって

場所が分かったのでした。

現在は跡形もなくなっており、一面の畑の中、「多分ここ」という場所へ。

カーナビ画面と地図を何度も見比べたのでした。

 

次の同じ秋田県内のハイランド滑空場は去年もお邪魔したのですが、造成工事中だったため立ち入りできず、

今回またお邪魔しました。

直前にグーグルマップで確認したら、画像が更新されており、なんだか滑走路跡が薄くなったような気が。

来るのが遅かったかも。。。(´・ω・`)  と思いながらお邪魔したのでした。

これで秋田県内の予定地二ヵ所にお邪魔しました。

 

次はお隣岩手県の観武ヶ原練兵場跡地へ。

ここはてっきり初めてお邪魔する場所だと思っていたのですが、来てみたらなんだか見覚えがあります。

昨年お邪魔した「騎兵連隊滑走路跡地」のすぐ北側でした。

Σ(゚Д゚;)カブったか??

と思ったのですが、今回初めて拝見する碑など撮影。

ここでの撮影を終えると17:05。曇り空なのもあって薄暗くなり始めています。

今日はここまで。

 

去年の東北回りの時も初日は秋田を回り、翌日は青森県内に見学箇所が10ヵ所あったので

下北半島の道の駅まで移動しました。

今年は青森県に見学予定地はなく(というか場所特定が1つもできず)、

次お邪魔する予定なのは、同じ岩手県内の「第二滑空場跡地」。

その手前の道の駅まで移動することにしました。

18:30 岩手県の道の駅「石鳥谷」到着。

花巻空港のすぐ北です。

とんでもなく早い時間なのですが、昨晩は4時間しか寝てないためもう眠いです(XДX)

19:00 寝る。

おやすみなさい。

(続きます)

 

本日の走行距離:908km

 

D20_0010.jpg

ハイランド滑空場跡地にて。


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とりのまったり日記 [■ブログ]

D20_0012.jpg

先日某所にて店頭デモをやりました。

小心者のオイラにとっては苦行以外の何物でもないのですが、

終了後、某ドーナツ店のドーナツが1コ約40~50円の負担金で買いホーダイなのでした。

上の写真、その時のものなのですが、これだけでドコの何ていうドーナツか分かってしまう猛者っているのでしょうか。

 

というわけで千葉県強化月間終了致しました。

貴重な情報を教えて下さったマリオ・デ・ニ−ロさんan-kazuさんに改めて感謝致します m(_ _)m

次回から東北強化月刊です。

 

ほとんどひたすら跡地の記事ばかりなのに、いつも見に来てくださり、そしてコメントまで頂き、本当にありがとうございます。

内心、(よくコメントすることが見つかるな~)といつも感心しながら拝見してます。

コメントいただけるのは嬉しいですけど、無理しないでくださいね?

オイラなら、こんなにコメントできません(断言)。

それから、11月からしばらく月~金アップ致します。

早速明日から11月ですが。

怒涛の跡地記事続きとなります。

疲れますのでほどほどにお付き合いくださいませ~。

 

とり。 m(_ _)m


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下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2021/2更新  


無題5.png
撮影年月日1947/04/14(USA M223 68) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


千葉県‎八街市‎にあった「下志津陸軍飛行学校八街分教場」。

通称「八街飛行場」。成田空港34Lエンドの南西約9kmにあります。

まるで方眼紙のような地割の中に、それを無視するかのように滑走路が伸びており、

その跡が道路として残っています。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中に

当飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

地図の通りに飛行場の敷地を作図すると、薄紫の部分になります。

後述しますが、この地図添付資料には、「南北1,470米 東西1,370米」とあり、

これは薄紫の部分とピッタリの数字です。

滑走路が飛び出てしまうため、後に敷地の拡張工事をしたのだと思います。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「八街陸軍飛行場 千葉県印旛郡八街町 35°40′5N 140°20′0E」
面積 南北1,470米 東西1,370米 総面積200萬平方米 
地面の状況 概ね平坦にして一面に植芝密生す 硬度は普通なるも
降雨長期に亘る際は稍軟弱と為る
目標 八街町、総武本線
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)  
格納設備 格納庫(45x45米)1、(40x30米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 八街郵便局(電信及電話取扱)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 生徒舎あり
地方風 (記載なし) 
地方特殊の気象 (記載なし)  
交通関係 八街駅(総武本線)南西方1.7粁 
其の他 本場は下志津陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年1月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  八街
位 置   千葉県印旛郡八街町
規 模   要図(東西1375 南北1975)
舗 装   六〇〇×一五〇〇米 基礎砂利 表層コンクリート 八糎
付属施設
 収容施設 一一〇〇名分
 格納施設 掩体 大四〇ヶ所 有蓋九棟
摘 要   施設軍有

こちらの資料では、南北方向の長さが増えてますね。

D20_0206.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向。

D20_0207.jpg

青マーカー地点。

道路沿いに碑があります。

陸軍司令部偵察隊の碑(全文)
大室孟 謹書 世界の航空戦史に燦然たる功績を残した司令部偵察機諸隊は 主としてこの地で錬成され東亜の全戦域に雄飛し その多くは再び還らなかった

裏面にも碑文が掘られていました。

日華事変-太平洋戦争で活躍した司令部偵察機隊(一部抜粋)

司令部偵察機は、当時の世界に於ける最高性能機であり その高速と高空性能を活かして、単機よく広域の戦略偵察を行い、航空作戦の遂行に寄与した。又大戦末期には武装して対B-29戦闘 対地攻撃及び特別攻撃隊による艦船攻撃に任じたものもあった。まさに世界にその類例を見ない、陸軍航空独特の機種、用法であった。(以下、各飛行隊名が並ぶ)昭和60年5月大室 孟 鈴木素儀 ほかの旧軍関係者に地元八街町の有志も加わり460名に及ぶ協賛者により建立 施行 八街町(有)斉藤石材店

全国の飛行場跡地に設けられた碑文は、そこにあった飛行場のこと、そして敗戦に伴う犠牲について触れているという点で

内容は共通しているのですが、そこには必ず書いた人物の戦争観、死生観が反映され、文体には個性が出ます。

この碑文には「大室孟 謹書」と記されていますが、

この人物は当飛行場に駐屯した偵察隊の隊長をされていた方なのだそうで、そう聞けば納得の内容です。

 

戦後、八街飛行場は食糧増産のため農地として開放されました。

「開墾すれば、2町歩までは無償で与える」とのお達しが出たため、駐屯していた兵士のうち、

空襲で荒廃した郷里に戻ることを諦めた方などがこの地に帰農する決意をしました。

早速残存兵士による「帰農組合」が結成されましたが、八街町と富里村が協議した結果、

兵士以外の希望者も加えることとし、

復員者60名をはじめ、八街町長推薦者20名、富里村長推薦者10名、県知事推薦者10名

計100名を入植者として受け入れることが決まりました。

 

終戦から18年後の1963年9月、「新空港建設候補地に富里・八街」の新聞報道があり、

住民の間に大きな衝撃が走りました。

八街町民の間からは「農業が続けられなくな る」、「一度は八街飛行場建設で畑を提供させられ、国策の犠牲となった。

もう二度と犠牲になるのはゴメンだ」という声が湧き上がりました。

富里村民と連携して激しい空港反対運動をくり広げた結果、

1966年7月、「建設予定地を成田市三里塚に変更する」と閣議決定したのでした。 


      千葉県・下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地      

下志津陸軍飛行学校八街分教場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県印旛郡八街町(現・八街市‎朝日‎)
座 標:35°40′5N 140°20′0E
標 高:44m
面 積:200ha(昭和18年1月)→311ha(終戦時)
飛行地区:1,370mx1,470m(昭和18年1月)→1,375mx1,975m(終戦時)
滑走路:1,500m×60m(コンクリート)
方 位:03/21
(標高、方位、終戦時の面積と長さはグーグルアースから)

沿革
1939年    文違・古込地区を飛行場建設用地として買収。それに伴い軽便鉄道廃止
1941年04月 完成
1945年08月 終戦。食糧増産のため飛行場解放
1963年09月 「新空港建設候補地に富里・八街」との新聞報道
1966年07月 「建設予定地を成田市三里塚に変更する」と閣議決定

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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千葉県・銚子タカン(旧銚子ボルタック) [├場所]

   2012年7月、2022年2月訪問 2022/2更新  



千葉県‎銚子市‎上野町‎にある「銚子ボルタック」。

前記事の「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」敷地内西側にあります。

D20_0202.jpg

 

そのスジの方にとっては分かりきった話で恐縮なのですが、

この施設はヒコーキにここまでの方位と距離を示す電波航法装置で、

世界中から成田空港に飛来するパイロットにとって非常に重要なものです。

写真右側の巨大な丸皿みたいなのがVOR(VHF Omnidirectional Range)で、

これでここまでの方位を知ることができます。

左の巨大な人生ゲームのピンみたいのがTACAN(Tactical Air Navigation)で、

これで方向と距離の両方を知ることができます。

「これ一つで両方分かるのなら皿は要らないじゃん」と思ってしまいますが、

TACANは「戦術航法装置」と訳され、アメリカ軍で採用された軍用のものです。

民間機は距離を知るために利用するのだそうです。

VORとTACAN、2つ合わせて「ボルタック」と呼びます。

それで、ココはこれまで長いこと「銚子ボルタック」と呼ばれてきたのですが、

実は銚子VORは2015年3月運用停止となり、TACANのみ運用となりました。

このため現在は「銚子タカン」となっております。 

 

この装置のおかげで、洋上だろうが、たとえ地上が曇っていようが、夜で真っ暗だろうが、

ヒコーキはここまで真っ直ぐ飛んで来ることができますし、

ここまでの方位と距離が分かりますから、自機の位置を知ることができます。

そんな訳で非常に重要な施設であるため、24時間監視体制にあるのだそうです。

オイラがお邪魔した時にも施設内の車に人影がありました。

こちら に銚子ボルタック施設更新に伴う飛行コース変更について出ていました。

12~13年ごとに更新工事があるのだそうで、その間はこの施設が使えませんから、

代替施設が猿田に設けられ、それに伴って飛行コースが暫定的に変更されるとのことで、

その間どのように飛行コースが変更になるかもリンクが張られていました。

興味のある方は見てみてください。

DSC_0052_00001.jpg

ということで、VOR廃止後に再びお邪魔しました。

お皿も撤去したんですね。

DSC_0049_00001.jpg

DSC_0048_00001.jpg

以前は監視の目があって、ビビりなオイラは死角から離れてしか撮れなかったんですが、

今回は周囲をうろつくことができました。


      千葉県・銚子ボルタック     
外国のエアラインのクルーたちが見に来ることもあるのだそうです

銚子ボルタック データ
設置管理者:国土交通省
所在地:千葉県‎銚子市‎上野町‎
座 標:N35°43′35″E140°47′58″
標 高:53m
(座標、標高はグーグルアースから)

関連サイト:
Wiki/超短波全方向式無線標識   
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下志津陸軍飛行学校銚子分教場(銚子、三崎、春日台飛行場)跡地 [├空港]

   2012年7月、2022年2月訪問 2022/2更新  



無題1.png
撮影年月日 1947/11/12(昭22)(USA R535 165) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


千葉県‎銚子市‎春日台町。

ここに「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」がありました。

前記事の「香取飛行場」の東約18kmに位置しています。

非常に長々とした名称ですが、「銚子飛行場」とも、地元では「三崎飛行場」、「春日台飛行場」とも呼ばれていました。

本家「下志津陸軍飛行学校」は同じ千葉県にあり、現在は陸自の「下志津駐屯地」になっています。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に図があり、

先頭のグーグルマップはこの図から作図しました。

微妙に異なる部分は、1947年の航空写真を優先しております。

同資料に当飛行場の情報が記載されていましたので、以下引用させて頂きます。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、

「銚子陸軍飛行場 千葉県銚子市上野町」 として、以下全く同じ記載がありました

面積 南北1,200米 東西1,000米
地面の状況 平坦且堅硬なり、芝及雑草を生ず、排水概ね良好なるも霜解けの際は稍泥濘と為る
目標 銚子市、利根川河口
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫3棟
照明設備 建物屋上に障碍物標示燈あり
通信設備 (記載なし)
観測設備 銚子測候所(東方約6粁)にて航空気象を観測す
給油設備 完備す
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 冬季は北西風、夏季は南又は南南西風にして其の他は北北東風なり・偏北風は9月に始まり冬季中風強し
地方特殊の気象 海陸風の影響あり
交通関係 銚子駅(総武本線)東方約2.3粁 銚子駅より「バス」の便あり
其の他 本場は下志津陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  銚子
位 置   千葉県銚子市上野町
規 模   要図(北西-南東900 北東-南西800-1000)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 二五〇名分
 格納施設 記載無し
摘 要   施設軍有

D20_0197.jpg

青マーカー地点にある公園。

住宅密集地‎にポツンとある小さな公園で、碑が整備されています。

1947年の航空写真で確認すると、当時ここには飛行場の建物等諸施設が密集しており、中枢区画だった場所です。

碑文(全文)
 かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった 同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した 平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会

2014/9/8追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、当飛行場が銚子商業學校滑空部の滑空場として使用されたと記録されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


読売新聞(YOMIURI ONLINE)2015年06月26日 05時00分版に

当飛行場記事「飛行場 後に特攻隊出発」がありました。

以下抜粋させて頂きます。

当分飛行場は、偵察機の乗組員養成が目的だったのだそうで、銚子初の軍事施設でした。

そのため銚子の在郷軍人会は「久シク待望シテ得ラレザリシモノハ遂ニ来マシタ」という歓迎の声明を出しています。

周囲は境界石が置かれているだけで、地元住民も立ち入ることができました。

銚子高等女学校滑空部員だった方の回想として、滑空訓練のため当飛行場を利用していたこと、

分教場関係者から「(グライダーに)乗せてくれないか」と話しかけられたり、

誘われて飛行機の操縦席に座らせてもらったりしたこともあったのだそうです。

そんなある意味のんびりした雰囲気も感じられた飛行場でしたが、

末期の時期になると特攻隊「八紘石腸隊」が編成されました。


千葉日報オンライン 2013年8月16日 15:38版で、その特攻隊について取り上げられていました。

1944年11月、当分教場から20歳前後の特攻「八紘石腸隊」の18人が出撃し、

翌年1月に17人がフィリピン・レイテ沖で戦死しました。

1993年に有志が石碑を建立し、毎年終戦記念日に慰霊祭を行っています。

参列者の中には、同隊唯一の生存者の方も毎年おられるのだそうです。

DSC_0053_00001.jpg

赤マーカー地点。

銚子タカン前から飛行場方向。


      千葉県・下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地     
上のマップの赤マーカーの所に銚子タカンがあります。

下志津陸軍飛行学校銚子分教場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県銚子市上野町(現・銚子市‎春日台町‎9)
座 標:N35°43′32″E140°48′34″
標 高:50m
面 積:約40ha
飛行場:1,200m×1,000m(北西-南東900m 北東-南西800m-1,000m)
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1935年    銚子市民あげての招聘により建設決定
1936年12月 1日 下志津陸軍飛行学校銚子分教場開校
1940年    この頃銚子商業學校滑空部が滑空訓練に使用
1944年    中頃教導飛行団と改変
     11月 特別攻撃隊、八紘石腸隊が出撃
1993年11月 碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
千葉日報オンライン 2013年8月16日 15:38版
読売新聞(YOMIURI ONLINE)2015年06月26日 05時00分版
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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