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大潟場外離着陸場跡地 [├空港]

    2012年9月訪問 2021/7更新  



秋田県‎男鹿市‎。

広大な八郎潟干拓地が広がっており、ここにかつて「大潟場外離着陸場」がありました。

滑走路北東側に格納庫が隣接していたはずなのですが、現在は跡形もありません。

 

D20_0001.jpg

赤マーカー地点

ここから奥に向かって滑走路だったはず。


      秋田県・大潟場外離着陸場跡地      

大潟場外離着陸場 データ

種 別:場外離着陸場
所在地:秋田県‎男鹿市‎払戸‎
座 標:N39°56′16″E139°59′55″
標 高:-4m
滑走路:280m×90m
方 位:14/32
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

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下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2021/2更新  


無題5.png
撮影年月日1947/04/14(USA M223 68) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


千葉県‎八街市‎にあった「下志津陸軍飛行学校八街分教場」。

通称「八街飛行場」。成田空港34Lエンドの南西約9kmにあります。

まるで方眼紙のような地割の中に、それを無視するかのように滑走路が伸びており、

その跡が道路として残っています。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中に

当飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

地図の通りに飛行場の敷地を作図すると、薄紫の部分になります。

後述しますが、この地図添付資料には、「南北1,470米 東西1,370米」とあり、

これは薄紫の部分とピッタリの数字です。

滑走路が飛び出てしまうため、後に敷地の拡張工事をしたのだと思います。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「八街陸軍飛行場 千葉県印旛郡八街町 35°40′5N 140°20′0E」
面積 南北1,470米 東西1,370米 総面積200萬平方米 
地面の状況 概ね平坦にして一面に植芝密生す 硬度は普通なるも
降雨長期に亘る際は稍軟弱と為る
目標 八街町、総武本線
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)  
格納設備 格納庫(45x45米)1、(40x30米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 八街郵便局(電信及電話取扱)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 生徒舎あり
地方風 (記載なし) 
地方特殊の気象 (記載なし)  
交通関係 八街駅(総武本線)南西方1.7粁 
其の他 本場は下志津陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年1月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  八街
位 置   千葉県印旛郡八街町
規 模   要図(東西1375 南北1975)
舗 装   六〇〇×一五〇〇米 基礎砂利 表層コンクリート 八糎
付属施設
 収容施設 一一〇〇名分
 格納施設 掩体 大四〇ヶ所 有蓋九棟
摘 要   施設軍有

こちらの資料では、南北方向の長さが増えてますね。

D20_0206.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向。

D20_0207.jpg

青マーカー地点。

道路沿いに碑があります。

陸軍司令部偵察隊の碑(全文)
大室孟 謹書 世界の航空戦史に燦然たる功績を残した司令部偵察機諸隊は 主としてこの地で錬成され東亜の全戦域に雄飛し その多くは再び還らなかった

裏面にも碑文が掘られていました。

日華事変-太平洋戦争で活躍した司令部偵察機隊(一部抜粋)

司令部偵察機は、当時の世界に於ける最高性能機であり その高速と高空性能を活かして、単機よく広域の戦略偵察を行い、航空作戦の遂行に寄与した。又大戦末期には武装して対B-29戦闘 対地攻撃及び特別攻撃隊による艦船攻撃に任じたものもあった。まさに世界にその類例を見ない、陸軍航空独特の機種、用法であった。(以下、各飛行隊名が並ぶ)昭和60年5月大室 孟 鈴木素儀 ほかの旧軍関係者に地元八街町の有志も加わり460名に及ぶ協賛者により建立 施行 八街町(有)斉藤石材店

全国の飛行場跡地に設けられた碑文は、そこにあった飛行場のこと、そして敗戦に伴う犠牲について触れているという点で

内容は共通しているのですが、そこには必ず書いた人物の戦争観、死生観が反映され、文体には個性が出ます。

この碑文には「大室孟 謹書」と記されていますが、

この人物は当飛行場に駐屯した偵察隊の隊長をされていた方なのだそうで、そう聞けば納得の内容です。

 

戦後、八街飛行場は食糧増産のため農地として開放されました。

「開墾すれば、2町歩までは無償で与える」とのお達しが出たため、駐屯していた兵士のうち、

空襲で荒廃した郷里に戻ることを諦めた方などがこの地に帰農する決意をしました。

早速残存兵士による「帰農組合」が結成されましたが、八街町と富里村が協議した結果、

兵士以外の希望者も加えることとし、

復員者60名をはじめ、八街町長推薦者20名、富里村長推薦者10名、県知事推薦者10名

計100名を入植者として受け入れることが決まりました。

 

終戦から18年後の1963年9月、「新空港建設候補地に富里・八街」の新聞報道があり、

住民の間に大きな衝撃が走りました。

八街町民の間からは「農業が続けられなくな る」、「一度は八街飛行場建設で畑を提供させられ、国策の犠牲となった。

もう二度と犠牲になるのはゴメンだ」という声が湧き上がりました。

富里村民と連携して激しい空港反対運動をくり広げた結果、

1966年7月、「建設予定地を成田市三里塚に変更する」と閣議決定したのでした。 


      千葉県・下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地      

下志津陸軍飛行学校八街分教場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県印旛郡八街町(現・八街市‎朝日‎)
座 標:35°40′5N 140°20′0E
標 高:44m
面 積:200ha(昭和18年1月)→311ha(終戦時)
飛行地区:1,370mx1,470m(昭和18年1月)→1,375mx1,975m(終戦時)
滑走路:1,500m×60m(コンクリート)
方 位:03/21
(標高、方位、終戦時の面積と長さはグーグルアースから)

沿革
1939年    文違・古込地区を飛行場建設用地として買収。それに伴い軽便鉄道廃止
1941年04月 完成
1945年08月 終戦。食糧増産のため飛行場解放
1963年09月 「新空港建設候補地に富里・八街」との新聞報道
1966年07月 「建設予定地を成田市三里塚に変更する」と閣議決定

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この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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下志津陸軍飛行学校銚子分教場(銚子、三崎、春日台飛行場)跡地 [├空港]

   2012年7月、2022年2月訪問 2022/2更新  



無題1.png
撮影年月日 1947/11/12(昭22)(USA R535 165) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


千葉県‎銚子市‎春日台町。

ここに「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」がありました。

前記事の「香取飛行場」の東約18kmに位置しています。

非常に長々とした名称ですが、「銚子飛行場」とも、地元では「三崎飛行場」、「春日台飛行場」とも呼ばれていました。

本家「下志津陸軍飛行学校」は同じ千葉県にあり、現在は陸自の「下志津駐屯地」になっています。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に図があり、

先頭のグーグルマップはこの図から作図しました。

微妙に異なる部分は、1947年の航空写真を優先しております。

同資料に当飛行場の情報が記載されていましたので、以下引用させて頂きます。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、

「銚子陸軍飛行場 千葉県銚子市上野町」 として、以下全く同じ記載がありました

面積 南北1,200米 東西1,000米
地面の状況 平坦且堅硬なり、芝及雑草を生ず、排水概ね良好なるも霜解けの際は稍泥濘と為る
目標 銚子市、利根川河口
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫3棟
照明設備 建物屋上に障碍物標示燈あり
通信設備 (記載なし)
観測設備 銚子測候所(東方約6粁)にて航空気象を観測す
給油設備 完備す
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 冬季は北西風、夏季は南又は南南西風にして其の他は北北東風なり・偏北風は9月に始まり冬季中風強し
地方特殊の気象 海陸風の影響あり
交通関係 銚子駅(総武本線)東方約2.3粁 銚子駅より「バス」の便あり
其の他 本場は下志津陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  銚子
位 置   千葉県銚子市上野町
規 模   要図(北西-南東900 北東-南西800-1000)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 二五〇名分
 格納施設 記載無し
摘 要   施設軍有

D20_0197.jpg

青マーカー地点にある公園。

住宅密集地‎にポツンとある小さな公園で、碑が整備されています。

1947年の航空写真で確認すると、当時ここには飛行場の建物等諸施設が密集しており、中枢区画だった場所です。

碑文(全文)
 かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった 同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した 平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会

2014/9/8追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、当飛行場が銚子商業學校滑空部の滑空場として使用されたと記録されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


読売新聞(YOMIURI ONLINE)2015年06月26日 05時00分版に

当飛行場記事「飛行場 後に特攻隊出発」がありました。

以下抜粋させて頂きます。

当分飛行場は、偵察機の乗組員養成が目的だったのだそうで、銚子初の軍事施設でした。

そのため銚子の在郷軍人会は「久シク待望シテ得ラレザリシモノハ遂ニ来マシタ」という歓迎の声明を出しています。

周囲は境界石が置かれているだけで、地元住民も立ち入ることができました。

銚子高等女学校滑空部員だった方の回想として、滑空訓練のため当飛行場を利用していたこと、

分教場関係者から「(グライダーに)乗せてくれないか」と話しかけられたり、

誘われて飛行機の操縦席に座らせてもらったりしたこともあったのだそうです。

そんなある意味のんびりした雰囲気も感じられた飛行場でしたが、

末期の時期になると特攻隊「八紘石腸隊」が編成されました。


千葉日報オンライン 2013年8月16日 15:38版で、その特攻隊について取り上げられていました。

1944年11月、当分教場から20歳前後の特攻「八紘石腸隊」の18人が出撃し、

翌年1月に17人がフィリピン・レイテ沖で戦死しました。

1993年に有志が石碑を建立し、毎年終戦記念日に慰霊祭を行っています。

参列者の中には、同隊唯一の生存者の方も毎年おられるのだそうです。

DSC_0053_00001.jpg

赤マーカー地点。

銚子タカン前から飛行場方向。


      千葉県・下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地     
上のマップの赤マーカーの所に銚子タカンがあります。

下志津陸軍飛行学校銚子分教場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県銚子市上野町(現・銚子市‎春日台町‎9)
座 標:N35°43′32″E140°48′34″
標 高:50m
面 積:約40ha
飛行場:1,200m×1,000m(北西-南東900m 北東-南西800m-1,000m)
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1935年    銚子市民あげての招聘により建設決定
1936年12月 1日 下志津陸軍飛行学校銚子分教場開校
1940年    この頃銚子商業學校滑空部が滑空訓練に使用
1944年    中頃教導飛行団と改変
     11月 特別攻撃隊、八紘石腸隊が出撃
1993年11月 碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
千葉日報オンライン 2013年8月16日 15:38版
読売新聞(YOMIURI ONLINE)2015年06月26日 05時00分版
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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香取航空基地(干潟の飛行場)跡地 [├空港]

   2012年7月、2018年6月訪問 2021/2更新  

無題n.png
1946年2月(USA M44-A-5VV 298) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県‎旭市‎鎌数にあった「香取航空基地」。

地元では「干潟の飛行場」とも呼ばれていました。

十字に交差した2本の滑走路を持つ飛行場で、前記事の「横芝飛行場」の北東約13kmに位置しています。

現在は滑走路の1本がテストコースになっています。

当飛行場については、地元の方から貴重なお話を頂きました。

詳しくは九さんのコメント(2014-08-14 19:59)(2014-08-15 10:58)をご覧ください。

九さんどうもありがとうございましたm(_ _)m

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:香取 建設年:1943 飛行場長x幅 米:1400x100 1500x100コンクリート 主要機隊数:小型2.0 中型4.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:小型有蓋25 小型無蓋76 中型無蓋35 其ノ他記事:魚雷同時調整18本 格納庫144本

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調には、


「香取空開隊(S19.2.1)(昭18建)」とありました。

D20_0190.jpg

青マーカー地点。

二つの掩体壕が並んでいます。

D20_0186.jpg

緑マーカー地点。

旭緑地公園

公園内東側には海上自衛隊で使用していた練習機が展示されています。

ノースアメリカン・ T-6テキサン練習機。

説明版には、 「米国からのMAP供与品 SNJ-6198」と記されていました。

海軍型SNJが海上自衛隊に48機引き渡されたのだそうで、その中の1機なのだと思います。

DSC_0172.jpg

同じく公園内西側には慰霊碑があります。

画面右奥に碑文が彫られています。

(全文)この地は昭和十八年太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地の跡なり慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は御霊よ永遠に安かれ と祈り又 将来の平和の礎たれ と念じ互いに力を合わせこの碑を建立し 謹みて碑内に零璽簿を納む 昭和五十一年十一月二十三日 慰霊碑建設期成会 慰霊題字 源田實

D20_0180.jpg

テストコースとして残る滑走路跡。

ご覧の通りで高い緑の壁に阻まれ滑走路を視認することはできません。

D20_0192.jpg

紫マーカー地点。

大きな掩体壕が残っています。説明版が設置されていました。

旧香取海軍航空基地『掩体壕』(全文)
 昭和十三年、このあたり共和村(現在旭市)鎌数を中心とした地に海軍航空基地の建設が始まり、昭和十六年、太平洋戦争勃発と共にアメリカ航空機の来襲によって被害も多くなった。海軍では航空機を空襲から護るために、基地周辺に強固なコンクリート製掩体壕が約二十五基築造し、空襲と同時に航空機を避難させていた。戦後、その多くは取り壊され、現在旭市に残るのはこの一基のみである。多くの人命、財産が失われた悲惨な戦争を風化させず、平和の尊さを永く語り伝えていくために、戦争の遺物の一つとして、所有者の協力を得て表示した。平成十一年三月 旭市教育委員会

DSC_0169.jpg

赤マーカー地点


      千葉県・香取航空基地跡地      

香取航空基地 データ

設置管理者:海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:千葉県‎旭市‎鎌数‎
座 標:N35°43′45″E140°36′39″
標 高:6m
面 積:440ha
滑走路:1,500m×100m(コンクリート 04/22)、1,400m×100m(コンクリート 13/31)
  「日本海軍航空史」(終戦時)より。(テストコースになっているのは1,400mの方だと思われる)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年03月 共和村八軒町、谷町、飛行場建設用地に決定と通達
1939年春頃  第一次土地買収
1940年   この頃着工。周辺住民も動員される
1942年   第二次土地買収
    04月 ドーリットル空襲を受ける
1943年09月 完成
1944年02月 1日、香取空開隊
1945年10月 接収。返還後払い下げられ、圃場となる

関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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横芝陸軍(栗山、横芝栗山)飛行場跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2020/10更新  


 

無題.png
撮影年月日 1947/11/12(昭22)(USA R535 7) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県‎山武郡‎横芝光町にあった、「横芝陸軍飛行場」。

前記事の「豊成飛行場」の北東約11kmに位置しており、

地元では地名から「栗山飛行場」、「横芝栗山飛行場」とも呼ばれていました。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に図があり、

先頭のグーグルマップはこの図と1947年の航空写真から作図しました。

図と航空写真が微妙に違っていて、

特に北側に張り出した格納庫等飛行場諸施設のあるエリア(赤マーカー)が随分違うのですが、

航空写真優先で作図したところ、こんな感じになりました。

先頭の航空写真、これまでは必ず敷地全体(もしくは滑走路全体)を載せていたのですが、

このサイズでそれをやってもなんかよく分からないため、

格納庫等諸施設が集まっている北側のエリアのみのアップとしました。

同資料に当飛行場についての情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、

「横芝陸軍飛行場 千葉県山武郡横芝町 35°38′5N 140°30′0E」として、以下全く同じ記載がありました)

面積 北西_南東1,350米 北東_南西870米
地面の状況 全面植芝、平坦なるも中央稍高く周囲に向け1/500の下り傾斜を為す、硬度は普通なるも西側地区幅200米の地域は排水不良にして軟弱なり
目標 (記載なし)
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は北北西を可とす
格納設備 木造格納庫(70x40米)1、(36x22米)3棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 宮川郵便局(電信及電話取扱)北方約2粁
観測設備 (記載なし)
給油設備 あり
修理設備 (記載なし)
宿泊設備 横芝町に旅館1(収容員数20)あり
地方風 全年を通じては北北西風多し 平均風速6.4米/秒
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数50.4、曇天日数149.5 降水日数159.2 降雪日数5.9霧日数28.2なり
交通関係 横芝駅(総武本線)北方約2粁、同駅より「バス」の便あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  横芝
位 置   千葉県山武群横芝町
規 模   要図(東西1300 南北950)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 八〇〇名分
 格納施設 掩体 大三一ヶ所
摘 要   施設軍有

D20_0179.jpg

青マーカー地点にある栗山平和公園。

公園の一角に碑文がありました。

横芝飛行場之跡(全文)
 横芝飛行場は、昭和13年に当時の陸軍航空本部により、旧横芝町から旧上堺村にまたがるこの周辺の土地、約170ヘクタール(約170町歩)を買収して建設されたものである。初めは、水戸陸軍飛行学校横芝分校であったが、後には、仙台飛行学校横芝教育隊となり、練習機を交え80機以上の航空機が置かれ、操縦学生や通信学生たちの教育に当たっていた。しかし、先の太平洋戦争末期には、この飛行場も標的となり、連日のように爆撃を受けるなど、激しい攻撃にさらされ、これに伴い、周辺地域を中心に本町住民も戦争の災禍を被り、暗い一時期を過ごすこととなった。以来、戦局は険しさの一途をたどり、ついに終戦を迎えるに至ったが、この飛行場は、ここで育まれた航空兵たちにとっては、終生忘れ得ぬ揺籃の地となり、町民としても、戦争と平和を語るとき、欠くことの出来ないところとなった。ついては、ここに未来永劫の平和を願い、横芝飛行場記念碑を建立し、歴史のあかしとして後世に伝えようとするものである。平成5年3月吉日 横芝町長 實川堅司郎

碑文にも当飛行場が激しい爆撃に遭ったと記されていますが、飛行場名無しさんからその時の様子についてコメント頂きました。詳しくは飛行場名無しさんのコメント欄をご覧くださいませ。飛行場名無しさんありがとうございましたm(_ _)m 


      千葉県・横芝飛行場跡地      

横芝飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県山武群横芝町(現・山武郡‎横芝光町‎栗山‎4476-1)
座 標:35°38′5N 140°30′0E
標 高:6m
面 積:170ha
着陸帯:1350m×870m
(標高はグーグルアースから)

沿革
1938年05月 陸軍航空本部、飛行場用地買収。建設
1941年06月 水戸陸軍飛行学校横芝分校となり飛行学校第2中隊配備
1943年    仙台飛行学校横芝教育隊
1945年02月 早朝米艦戦機42機が飛行場爆撃。以来郷土周辺でも空中戦が展開された
    03月 20日から海軍攻撃254飛行隊が使用(ななしさんから情報頂きましたm(_ _)m)

関連サイト:
山武市の歴史(昭和)  
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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