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霧ヶ峰滑空場 [├空港]

   2010年5月訪問 2020/7更新  



長野県諏訪市にある「霧ヶ峰滑空場」。

国内グライダー発祥の地です。

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諏訪市霧ケ峰グライダーふれあい館 開館時間午前9時~午後5時 入館無料

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ガラス越しにグライダー等見ることができます。

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グライダーふれあい館から滑走路に登っていく途中にある「日本グライダーの父 藤原咲平記念碑」


       長野県・霧が峰滑空場     
「グライダーミュージアム」を建設し、貴重な機体を展示する計画があるそうです

霧ヶ峰滑空場 データ
空港種別:滑空場
運用期間:4月~11月
所在地:長野県諏訪市上諏訪
座 標:N36°05′34″E138°09′42″
滑走路:1,650m×100m?
方 位:07/25
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1932年11月 10日 霧ヶ峰グライダー研究会発足(日本グライダーの発祥)
1933年08月 23日 初飛行
       30日 開場式
1936年09月 第一回全日本グライダー大会開催
       戦時中は軍事使用され、訓練、 機体の研究試作が行われた
       終戦時、機体、施設すべてが破棄される
1952年   日本学生航空連盟、各団体による練習再開
1997年   グライダーふれあい館建設

関連サイト:
霧ヶ峰とグライダー 
諏訪市/霧ヶ峰とグライダー  


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伊那飛行場跡地 [├空港]

    2010年5月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/09/22(USA R198 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

長野県伊那市にあった「陸軍伊那飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  伊那
位 置   長野県上伊那郡伊那町
規 模   要図(かすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 六〇〇名分
 格納施設 掩体 大一〇ヶ所
摘 要   施設軍有

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赤マーカー地点。

第二格納庫コンクリート製の土台と案内板。

■案内板には「旧陸軍 伊那飛行場について」と題する詳しい説明がありました。

旧陸軍伊那飛行場と格納庫(全文) ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

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現在の飛行場跡地

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、

「各務原陸軍航空工廠伊奈出張所となる 中島飛行機から運ばれてくる機体に機銃、計器、落下タンク等を装備した」

とありました。

2014/8/23追記:第二伊那飛行場計画がありました。詳しくはアギラさんのコメントをご覧ください。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m  


       長野県・伊那飛行場跡地     
周辺には今も施設の基礎部分などの遺構が数カ所残っているのだそうです

伊那飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市上の原他)
座 標:N35°50′44″E137°59′12″
標 高:650m~700m
面 積:150ha
滑走路:1,300m×80m(芝)
方 位:02/20?
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年08月 接収(着工から1年で完成)
    11月  上伊那各地の住民による勤労奉仕実施
1944年    春、周辺の学徒勤労動員実施
    02月 熊谷陸軍飛行学校伊那分教場開設
1945年02月 各務原航空工廠(こうしょう)の戦闘機製造工場となる
     08月 敗戦、閉鎖
1946年    開墾始まる

この記事の資料:
現地の説明版
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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富草防空監視哨跡 [├場所]

    2010年5月訪問 2020/7更新  



戦時中、富長野県下伊那郡に設けられた「富草防空監視哨」。

終戦までの約5年間、連日24時間体制で航空機の監視を行っていました。

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国道151号沿いにこんな標識があります。

プレハブの建物のすぐ後ろに監視哨跡への登り口がありました。

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5分足らずで到着。

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案内板の当時の監視哨の様子のアップと、「富草防空監視哨」(全文) この地に第二次世界大戦中、敵味方の航空機の動向を地上から知るための防空監視哨があり、敵機襲来に備え、各家庭等の燈火管制のはじまった頃、昭和十五年(一九四〇年)設置され、責任者の哨長若しくは副哨長と徴兵前(終戦までは徴兵制度あり)の若者六人の二十四時間勤務で勤務形態は二人若しくは三人の交代勤務。 日米開戦後は緊急時の訓練勤務と隔週勤務であり、更に米軍機の本土初爆撃のあった昭和十七年四月以降は殆ど連日勤務となり、昭和十九年七月サイパン攻略後は米新鋭機B29の本土爆撃の情報連絡が中心で十二月十三日の名古屋大空襲(B29九十機による)はここからも望見できた。半世紀前の大戦の遺跡といえる監視哨を想起しながら永久平和を願うものである。平成五年十一月 阿南町

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図によりますと、「深さ2.5m」となっていますが、現在はご覧の通り埋められています。

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屋根はこんな感じ。


        長野県・富草防空監視哨跡       

富草防空監視哨 データ
所在地:長野県下伊那郡阿南町富草
座 標:N35°21′25″E137°47′59″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1940年 設置


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新潟紀行 [■旅行記]

ということで静岡県強化月間終了致しました。次から長野県強化月間です。

ところで二月某日、新潟に行ってきました。

例によって朝5時出発。R254→R17→R8と、埼玉から新潟まで国道で行きます。

新潟県は前日雪、本日は高気圧に覆われて終日快晴という空模様でした。

 

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8時、群馬県月夜野IC近くの情報ターミナルでトイレ休憩。

この先山岳道路になるので、いつもここを利用しております。

気温は-9℃でした。南国仕様のオイラはちょっと考えられない寒さです。

テガ!! 早々に車内へ避難。

道路情報では、「この先路面は全線圧雪、シャーベット状」とのことでした。

ここ数年まともに雪道運転してないからカンを取り戻さないと。

群馬県と新潟県の県境になっている三国峠はなんと-14℃!!(☆Д☆)

それでも路面は全面ウエットなのですが、不思議なことに凍結箇所はありませんでした。

水が流れている箇所もあります。-14℃なのになぜでしょう。凍結防止剤の威力なんでしょうか??

結局、圧雪箇所はほとんどなく、所々シャーベット状になっている程度でした。

慎重に走行する関東ナンバーの車を尻目に新潟ナンバー車がすごい勢いで走っていきます。

元ローリング族の血が騒ぎ、関東ナンバーの車を次々抜くオイラ。

「わはははっ、ザクとは違うのだよ! ザクとは!」(でも新潟ナンバーは抜けない)

…と思ったら調子に乗り過ぎてしまい、シャーベット状のコーナーの途中で、ずるー とリアが出てしまいました。

1回お釣りをもらって立て直し。あうぅ、は、はずかしい (///∇///)

その後は安全運転を心掛けて13時、新潟空港到着。

 

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新潟空港はほとんど雪残ってませんでした。

 

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エンブラエル170 

オイラにとってはまだまだ馴染みのないヒコーキです。

現在開発中の三菱MRJと同クラスなのですが、 どうなるでしょうか。

 

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R/W28エンドに移動。 

 

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新日本海フェリーターミナルに行ってみたのですが、船がなかったのでそのまま高速で帰ることに。

 

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途中のPAで雪と夕日の撮影。

 

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ということで自宅に戻ったのでした。

おわし。


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エアーパーク 航空自衛隊 浜松広報館 [├場所]

   2010年11月訪問 2020/7更新  

 

航空自衛隊浜松基地内にある「エアーパーク」に行って来たのでした。

実はココずっと無料だったのですが、 なんでも事業仕分けの対象となったらしく、

昨年の11月から有料になったのでした。(;´Д⊂)

某an-kazuさんはギリギリで無料の時期に見学しておられたのですが、

オイラがお邪魔したのは11月5日…。(〃´o`)=3

このへんは日頃の行いの差と言えましょう。

まあこういう施設が存続してくれるんなら払わせてもらいますよ。。。

2015/4/11追記:再び無料に戻ってましたヽ(*´ヮ`)ノ

(an-kazuさんの記事で当施設のことが非常に詳しく紹介されてますので興味のある方は見てみるとよいです。

 最後にリンク貼ってあります。an-kazuさん、リンク許可ありがとうございましたm(_ _)m)

 

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      静岡県・エアーパーク     
「施設には左折で入場してください」となっていたので、きちんと左折で入場するように途中でわざわざUターンまでしたのですが、業者っぽい車が普通に右折で入ってましたΣ(゚Д゚;)  道路はガラガラだったので支障はまったくなかったですけども

エアーパーク データ
所在地:静岡県浜松市西区西山町 無番地
座 標:N34°44′51″E137°42′42″
休館日:毎週月曜日(祝日又は国民の休日の場合はその翌日)
     毎月最終火曜日、3月第2週の火曜日~木曜日、年末年始、施設検査など臨時閉館あり
開館時間:9:00~16:00
駐車場:一般乗用車 約146台 バス17台
ペット:施設内へは入れません
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
公式サイト    
an-kazuさんの記事:「浜松エアーパークと事業仕分け」      


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航空自衛隊浜松基地(浜松陸軍飛行場) [├空港]

   2010年11月訪問 2022/1更新  


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濱松陸軍飛行学校飛行場(昭和9年8月撮影)高度1,200米 方位NE 距離3,500米
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1934年(昭和9年)7月調査資料添付地図
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
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撮影年月日1946/05/22(USA M142-A-5No3 20) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

 

前記事の三方原飛行場跡地のすぐ南西に位置する「航空自衛隊浜松基地」。

旧陸軍の飛行場として長い歴史があり、戦後ブルーインパルスが発足した基地でもあります。 

先頭のグーグルマップについてですが、まず非常に独特な形状のグレーの地割はすぐ下に貼りましたが、

■アジ歴資料(航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場)から作図しました。

一見これが本当に飛行場なのか。と思ってしまうのですが、

上の丸は「飛行第7聯隊飛行場」、下の四角が「濱松陸軍飛行學校飛行場」。

そして薄紫の地割の方は、

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」から作図しました。

地図に滑走路は描かれておらず、これは上に貼った航空写真からです。

この滑走路の東側を延伸したのが現行の航空自衛隊基地の滑走路かと思っていたんですが、違いました。

現在の滑走路は、当時の滑走路の北方向400mに新設されたものです。

敷地は10年の間に大きく拡張したんですね。

地図には、飛行場敷地東側に南北に走る浜松鉄道(後に合併して遠州鉄道奥山線・1964年廃止)が描かれており、

第百三十部隊正門跡のすぐ東側に「ひかうれんたいまへ」駅がありました。

陸軍飛行場だった敷地の中央部分は空自基地として残され、北側部分は現在びっしりと住宅地となり、

北東部分、ちょうど「飛行第105教育戦隊」の建物等のあった辺りに本田技研トランスミッション製造部があります。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「浜松陸軍飛行場 静岡県浜名郡吉野村」

面積 東西3,000米、南北3,000米のL字型
地面の状況 堅硬にして一面に良好なる芝密生す
目標 浜松市、浜名湖
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 浜松陸軍飛行学校格納庫8棟 陸軍航空廠浜松分廠格納庫9棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 陸軍気象観測所あり、毎日航空気象を観測す
給油設備 燃料補給可能
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 恒風は北西風
地方特殊の気象 冬季は気流一般に悪し
交通関係 浜松駅より「バス」の便あり
其の他 本場は飛行第105教育戦隊、浜松陸軍飛行学校にて共用しつつあり
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  浜松
位 置   静岡県浜名郡神久呂村
規 模   要図(北東-南西2,200)
舗 装   一〇〇×一四〇〇米
      下層コンクリート
      (一.四八)一二糎
      細粒?式
      アスファルトコンクリート四糎
付属施設
 収容施設 二二五〇名分
 格納施設 掩体大五〇ヶ所
摘 要   施設軍有

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エアーパーク内から。


      静岡県・航空自衛隊浜松基地     
・浜松陸軍飛行場 データ
滑走路:1,400mx100m
方 位:09/27

・航空自衛隊浜松基地 データ
設置管理者:防衛大臣
4レター:RJNH
空港種別:非公共用
所在地:静岡県浜松市西区西山町無番地
座 標:N34°45′01″E137°42′08″
面 積:313ha
滑走路:2,550m×60m
磁方位:09/27
(座標はグーグルアースから)

沿革
1926年10月 陸軍飛行第7聯隊、立川から移駐
1933年08月 浜松陸軍飛行学校設立
1945年09月 米空軍不時着飛行場として使用
1952年10月 保安隊航空学校設置(昭和30年11月明野へ移動)
1954年07月 航空自衛隊発足、操縦学校編成(昭和31年3月小月へ移動)
1960月08月 ブルーインパルス(空中機動研究班)新設(浜松北基地)
1981年12月 ブルーインパルス(戦技研究班)、松島基地へ移駐
1999年04月 航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)開館

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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三方原陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月、2016年6月訪問 2020/11更新  


 

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撮影年月日 1946/05/22(昭21)(USA M142-A-5No3 21)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


静岡県‎浜松市、浜松基地のすぐ北東にあった「三方原陸軍飛行場」。

隊門、飛行場防衛用と見られるトーチカ跡、掩体壕が残っています。

運用開始がなんと大正時代という非常に歴史のある飛行場です。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、一部次のように記されていました。

1923年(大正12年)朝日新聞社は「東西定期航空会」設立、1月11日
から大阪・東京間に定期飛行便を飛ばし、一般から
荷物の託送を無賃で受け、空中輸送を毎週一回行う
ことになった。

当時の飛行機の航続距離では、一気に大阪~東京間
を飛ぶことはできない。そこで毎週水曜日午前8時、
東京、大阪両地から1機ずつ出発し、この三方原を
中継地にして、ここで搭載貨物の授受交換のうえ、
再び東京、または大阪の基地に帰る運航方法で、
東京は洲崎埋立地、大阪は城東練兵場が起点であった。

■防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」と、

■「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に当飛行場について、全く同じ地図と情報があり、

先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

資料内の情報を以下引用させて頂きます。

面積 南北1,800米、東西1,300米 
地面の状況 芝地、地盤は極めて堅硬なり
目標 浜松市、浜名湖、佐鳴湖
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 大格納庫(間口70米、奥行45米)2棟、其の他3棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 浜松陸軍飛行学校に気象観測所あり 毎日航空気象を観測す
給油設備 隊内にて補給可能
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 浜松駅より「バス」の便あり
其の他 本場は第7航空教育隊飛行場なり
 (昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  三方原
位 置   静岡県浜名郡三方原村
規 模   要図(かすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇〇名分
 格納施設 掩体大五〇ヶ所
摘 要   施設軍有

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隊門。

上述の資料地図の中で、この門の内側は 「浜松演習庁舎」と記されています。

現在は自衛隊官舎。

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トーチカ跡

県道はさんでエイデンの向かい側にあります。

説明板があり、一部こう書かれていました。

「太平洋戦争中、この舟岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名残が今もみられる。幸にもトーチカは使用されることはなく…」だそうです。

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飛行場跡地を南北に走る(貫かずに途中で曲がってる)国道257号線

 

■日本中央飛行学校について

日本航空史の中に「三方ヶ原に航空局事務官を最後に現役を退いた永淵三郎砲兵大尉が日本中央飛行学校を創設」

という記述があります。

いつからいつまであったのか不明なんですが、

「報知年鑑 大正14年」に、民間飛行機操縦術練習所のページがあり(下記リンク参照)、ここに同学校の記載があります。

同「報知年鑑 大正15年」「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」にも、

当飛行場についての情報がありました(下記リンク参照)。

管理人 永淵三郎
種類 陸上
位置 静岡県浜名郡富塚村三方原演習場
面積 370,000坪 

隣のページには、「本邦民間飛行機操縦術練習所〔大正14・8・1現在〕」がありました。

名称 日本中央飛行学校
所在地 静岡県浜松市
代表者 永潤三郎

また「民間飛行學校練習所其他」(航空年鑑昭和六年)の中でも、当飛行場の項目で同学校が出てきます(アギラさん情報)。

ということで、資料からは少なくとも1925年~1931年まで存在していたことになります。


      静岡県・三方原陸軍飛行場跡地     
三方原陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:静岡県浜名郡三方原村(現・浜松市‎東区‎半田山)
座 標:34°47′0N 137°44′2E
標 高:59m
飛行地区:1,800mx1,300m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1923年01月 11日、東西定期航空会、東京大阪間定期便開設。中継地となる
1925年   この頃日本中央飛行学校があった

関連サイト:
国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正14年(174コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 

この記事の資料:
現地の説明版
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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天龍陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月,2015年9月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1946/05/22(USA M142-A-5No3 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

静岡県磐田市にあった「天龍陸軍飛行場」。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中に地図があり、

先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「天龍陸軍飛行場 静岡県磐田郡袖浦村」

面積 北北西-南南東1,200米 北北東-南南西1,350米 総面積170萬平方米 
地面の状況 植芝密生する平坦地なり、地盤は概ね堅硬
目標 天龍川河口
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口60米、奥行40米)1棟 (間口30米、奥行40米)1棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 陸軍無線電信所あり
観測設備 (記載なし)
給油設備 あり
修理設備 (記載なし)
宿泊設備 (記載なし)
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 (記載なし)
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  天龍
位 置   静岡県磐田郡神浦村
規 模   要図(東西1500 南北1200)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

当飛行場は滑走路の正確な位置が不明だったんですが、清水市の図書館で資料探しをしていた際、

「明野陸軍飛行場 天竜分教所 天竜町郷土研究会」29pに滑走路を明示した地図を見つけたのでした。

資料によりますと、滑走路といっても舗装もなく、土を転圧して多少高めの程度であったのだそうです。

夜間訓練のために目標灯等が敷設されていました。


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赤マーカー地点

第一滑走路はここから伸びていたはずです。 

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黄色マーカー地点

第二滑走路。

西を向いて撮ってます。

ここは工業団地で滑走路端はどちらも「一面の壁」という絵になってしまうため、途中から撮りました。

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青マーカー地点

「袖浦公園」が整備されており、戦闘機と格納庫の一部を見ることができます。

説明板が立っていました。

明野陸軍飛行学校 天竜分教場跡(全文) 戦争が拡大するにつれて、陸軍は多数のパイロットが必要となり、天竜分教場はその養成のための飛行場として造られました。昭和十四年(十九三九)に工事が始められ、約二百ヘクタールの耕地や池などを埋め立て、四つの格納庫と東西約千六百メートルの滑走路二本、射撃場、兵舎が建設されました。練習機(二人乗り)や九七式戦闘機、一式戦(隼)などの飛行機を使い、実戦に参加できる訓練が行われました。戦争末期には、アメリカ軍の攻撃を受け、近隣の家も大きな被害を受けました。戦後、天竜分教場跡は開拓され、現在は公園内に格納庫の一部が残るのみです。 平成一九年三月 磐田市教育委員会文化財課

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戦闘機にも説明板があり、「F-86F 昼間戦闘機」と紹介されていました。

昼間戦闘機…。時代を感じる表現ですね。昭和32年製造だそうです。


      静岡県・天竜陸軍飛行場跡地      

天竜陸軍飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:静岡県磐田郡神浦村(現・磐田市‎飛平松‎)
座 標:N34°39′50″E137°49′35″
標 高:5m
飛行地区: 北北西-南南東1,200米 北北東-南南西1,350米
面 積:約198ha
第一滑走路:960m(08/26)
第二滑走路:1,130m(08/26) 
(座標、標高はグーグルアースから。他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1939年    着工
1942年01月 完成。明野陸軍飛行学校 天竜分教場として訓練が行われる
        末期には米軍の攻撃を受ける
1945年08月 分教場廃止。戦後開拓される

関連サイト:
磐田のお宝見聞帳  

この記事の資料:
現地の説明版
明野陸軍飛行場 天竜分教所 天竜町郷土研究会
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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第二大井(吉岡)飛行場跡地 [├空港]

   2014年6月訪問 2022/1更新  


無題3.png
撮影年月日1946/05/22(USA M142-A-5No3 97) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

静岡県掛川市にあった「第二大井(吉岡)飛行場」。

遠州灘に米艦隊が現れたら特攻するという目的で末期に建設されました。

上図は1946年の航空写真(下記リンク参照)を元に作図しました。

灰色の部分はサカタのタネです。周辺は美しい茶畑が広がっていました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:吉岡 建設年:1945 飛行場長x幅 米:900x60方向NNW 主要機隊数:小型 主任務:避退場 隧道竝ニ地下施設:工事中 掩体:工事中

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について、次のように記されていました。

掛川海軍航空隊
小笠郡和田岡村・原谷村/周智郡字刈村
掛川市和田岡・原谷/袋井市字刈
海軍練習航空隊
900x60(?)
1機で23回練習したが未開場(?)
大井海軍航空隊分遣隊
茶園
掛川市教育委員会社会教育課の調査資料りによれば、
大井海軍航空隊の退院たちは原谷小学校等に駐屯して、飛行場造りに従事。
飛行を2,3回試みたという。
掛川駅北西約6km

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  横須賀
牧場  吉岡(第二大井)
滑走路 六〇×八〇〇NNW
縣郡村 静岡県 □□ 和田岡村 
記事  既成

higさんという地元の方から情報頂きました。

サカタのタネの北端に手掘りのトンネル群があること、

もともとこの地域には手掘りのトンネルが多くあり、それを軍が利用したとのことです。

と教えて頂きました。

また、昭和20年7月29日、遠州灘沖に8隻の軍艦が現れ、70分に渡り、2,000発もの艦砲射撃があり、

多くの犠牲者が出たのだそうです。

詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。

higさん貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m 

D20_0046.jpg

赤マーカー地点。


      静岡県・第二大井(吉岡)飛行場跡地     
完成して1機だけ着陸したという記録が残っています

第二大井(吉岡)飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:静岡県‎掛川市‎吉岡
座 標:N34°47′48″E137°56′37″
滑走路:1,000m?(1,200m×250m,900mx60mという資料もあり)
方 位:14/32
(座標、方位、滑走路長はグーグルアースから)

沿革
1945年06月 「大井の第二飛行場を作れ」と命令下る
     07月 31日 1番機が着陸(使用はこの1機のみだったらしい)

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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板妻飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2022/1更新  

無題8.png
国土地理院 1947年9月(USA M476 96)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
0.png
昭和3年7月撮影 高度300米 方位W 距離1,000米
1.png
1934年(昭和9年)7月調査資料添付地図
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

富士山東側の麓にある静岡県御殿場市板妻。

かつてここに「板妻飛行場」がありました。

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19.6 水路部」の中に、

当飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

実は同地図では、飛行場敷地はもっと南北方向に幅広に描かれているのですが、

航空写真の地割を優先しました(赤矢印)。

また同地図ではマップ青マーカーのところに「格納庫」が描かれています。

航空写真でも同じような位置にいかにもなものが映っており(黄色矢印)、コレかもしれません。

同資料の情報を引用させて頂きます。

第1 板妻着陸場(昭和17年10月調)

管理者 富士裾野陸軍演習場主管。
位置 静岡県駿東郡原里村大字板妻
(御殿場町の西方約5粁、35°17′3N、138°52′8E)。
種別 不時着陸場。

本場は富士裾野陸軍演習場の一部を着陸場とする目的を以て整地工事を施せる
ものにして従前飛行演習等に際しては専ら小型機の飛行基地として使用しあり
しも昭和10年以後は単なる不時着陸場として維持し居れり・目下静岡県下中
等学校に開放し滑空機の練習場として主用せられつつあり。

着陸場の情況
高さ
 平均水面上約560米。
広さ及形状
 着陸時要は長さ北西-南東550米、幅180米及北西-南西400米、幅300米
の両滑走地区が互に直交する略丁字形地なり。
着陸地域は西側格納庫の全面に於いて北東-南西400米、幅100米の地区を
最適とす(付図参照)。
地表の土質
 砂礫を混ずる尋常土。
地面の情況
 起伏なき平坦地なるも北西より南東に向け4/100の下り片勾配を成す・一般
に北西部は地盤高く且平坦なるも南東部は凸凹せる箇所あり・地表は概ね
堅硬にして殆ど一面に良好なる芝発生す、但し南東部は流土の為発生不充
分なり・排水は自然排水にして北西部は概ね良好なるも南東部は極めて不
良にして降雨後水溜を生ず・豪雨の際は地面傾斜せる為土壌を洗い去り且
諸處に條溝又は凹窪を生ずることありと言う。
場内の障碍物
 南西隅に高さ7米の格納庫1棟、南東部に凸凹せる箇所あり。
適当なる離着陸方向
 着陸は北東より南西に、離陸は北西より南東に向け行うを可とす。
離着陸上注意すべき點
 北西より着陸の際は北方の杉林(高さ10米)と北東方に在る警戒標識柱と
の中間より進入するを可とす・滑走距離狭小なるを以て定着後直に「スイ
ッチ」を断とし「ブレーキ」を使用するを要す。
施設
 格納庫(間口18米、奥行23米、高さ7米)1あり、大型1機、練習機
3機収容し得。

周囲の状況
山岳
 東方は地勢概ね広濶にして殊に久保川の河流南北両方向は特に平坦なり・
 西及南西方は上り傾斜を成す山地にして地貌極めて起伏に富む・南西方約
 12粁に愛鷹山(高さ約1,200米)あり、西方は約15粁にして富士山頂(高
さ約3,800米)に達す。
樹林
 周囲は一般に樹林多く何れも高さ6-7米のものなるも北方約200米付近
 の杉森は高さ10米、東方約250米付近の樹林は高さ12米内外なり。
建築物
 南西隅に高さ7米の格納庫、北東方約250米に高さ7米の警戒標識柱あり。
電線
 北方約80米に南西-北東方向に架設せる高さ7米の普通電線1條あり。
着目標
 御殿場町、板妻陸軍庁舎、格納庫(白色)。

地方の状況
憲兵
 富士裾野憲兵分遣隊(駿東郡原里村大字川島田)東方約4.3粁。
警察署及役場
 御殿場警察署(御殿場町)北東方約7.3粁、原里村駐在所(原里村大字保
土澤)北東方約2.5粁・印野村役場(印野村大字印野)西方約1.5粁。
演習場主管事務所
 東方約1.5粁の板妻陸軍庁舎前(原里村大字板妻)に富士裾野陸軍演習場
 主管事務所あり。
医療
 御殿場町に病院1、医院3あり。
宿泊
 御殿場町に旅館10(収容員数計約150)あり。
清水
 西方約1粁の堀金村落に水質良好なる井戸多数あり。
応急修理
 付近に修理設備なし。
航空需品
 燃料及潤滑油等の補給不可能なり。

交通、運輸及通信
鐡道
 御殿場駅(御殿場線)東方約5.5粁。
乗合自動車
 御殿場駅より須山に至る定期乗合自動車便あり、最寄り停留所は板妻庁舎前
 (東方約1.5粁)なり。
道路
 南東方約1粁に前記乗合自動車の運行する道路あり、本場より村道に依り
 連絡す。
運送店
 御殿場町に合同運送店あり、同町に貨物自動車20台、乗用自動車2台あ
 り・原里村大字板妻に荷馬車あり。
電信及電話
 原里村郵便局(電信及電話取扱)東方約1.5粁・富士裾野陸軍演習場主管
 事務所に電話あり。

気象
測候所
 御殿場町字新橋に中央気象台富士山頂観測所御殿場事務所(電話261番)
 あり。
地方風
 全年を通じ南西風多し、但し午前中は南風にして午後より南西風と為るを
 常とす。
地方特殊の気象
 富士山に依り生ずる回転風の影響を受け気流は一般に不良なり・6,7月頃
 雷雨あり・6-8月間は濃霧の来襲多し・天候は全年を通じ不定なり。

其の他
昭和17年9月岐阜陸軍飛行学校所属機本場に不時着せる際何等の支障なかり
しと言う。


当飛行場についてネットでは、学生の滑空訓練に使用した様子ばかり出ていたので、

なんとなく牧歌的なイメージだったんですが、

なんとここは富士裾野陸軍演習場の一部であり、演習場主管が管理者だったんですね。

運用面についても、演習時の飛行基地として使用していたものが、昭和10年以降は単なる不時着陸場となり、

学生の滑空訓練が主用とあります。

地元の図書館で御殿場市史を調べたのですが、

ハッキリ「板妻飛行場」について記している箇所を見つけることができませんでした。

唯一近い記述が、「1916年(大正5年)、所沢航空隊が高塚付近に飛行場を設け、約一週間航空演習をする」

というものでした。

こおろぎさん、ばかちんさんから教えて頂いたんですが、当飛行場からほんの2km先に現在も演習場があり、

この演習場に「高塚」という地名があり、当飛行場も「高塚」です。

当飛行場がいつ開設したのかは不明なんですが、市史の記述はことはじめが記述されるケースが多いこともあり、

もしかしたら御殿場市史に出てくるこの記述は、当飛行場を開設した時のことなのかもしれません(憶測ですけど)。

そう仮定して、明らかになっている部分を繫げると、

1916年(大正5年)、演習場内に飛行場を設け、約一週間航空演習を実施。

この後も演習時に小型機の基地として使用していたが、1935年(昭和10年)以降は不時着陸場となり、

学生の滑空訓練の使用が主となった。

となります。

Wikiによりますと、この演習場は明治時代に設けられたので、辻褄は一応合ってます。

また、板妻庁舎(現・板妻駐屯地)も明治時代に開設しているんですが、位置関係としては、

現演習場-板妻飛行場-板妻駐屯地 となり、飛行場がはさまれています。

ばかちんさんからいただいたコメントによりますと、

30年位前は滑走路の跡などありましたが、整備により道路になったのだそうです。

見たかったー!

D20_0067.jpg


      静岡県・板妻飛行場跡地     
板妻飛行場について触れたサイトでは、当飛行場で中等学校によるグライダー訓練が昭和13年夏から始まったことが記されていました。当時の飛行場は広々とした草原が広がっていたのだそうです

板妻飛行場 データ(主に水路部昭和17年10月調資料から)
設置管理者:富士裾野陸軍演習場主管
種 別:不時着陸場
所在地:静岡県駿東郡原里村大字板妻(現・御殿場市‎板妻‎)富士裾野陸軍演習場の一部を着陸場として使用
標 点:N35°17′3″E138°52′8″
標 高:560m
着陸帯: 550mx180m  400mx300m

沿革
1916年 所沢航空隊が高塚付近に飛行場を設け、約一週間航空演習を実施
1935年 飛行演習等の際、飛行基地として使用していたが、この年以降不時着陸場として維持
1938年 中等学校によるグライダー訓練始まる。学生の滑空訓練が主となる
1942年 9月 岐阜陸軍飛行学校所属機不時着

この記事の資料:
防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」


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