二宮忠八とライト兄弟・1 [├雑談]
(2020/9更新)
■二宮忠八の飛行器開発
1889年、23歳の二宮忠八は香川県仲多度郡まんのう町で滑空するカラスを見て飛行原理を発見しました。
当時彼は陸軍に入隊していたのですが、空を飛ぶことの研究に没頭、休みのたびに研究を重ねます。
そして1年半後の1891年、25歳の時に「カラス型模型飛行器」(飛行"器"は二宮氏の造語)を完成させます。
その名の通りカラスを模しているため、今売られているゴム動力のヒコーキと見た目は異なるのですが、
「ゴム動力でプロペラを回し、キャンパーの付いた主翼で揚力を発生させて飛ぶ」という理屈はまったく同じです。
今でこそ普通に売っているなんてことない玩具ですが、オリジナルでこれを作ってしまうのがすごいです。
この「カラス型模型飛行器」は見事飛行に成功。飛行距離は30mほどだったそうです。
「このときの愉快を忘るることあたわず、今なお眼底に彷徨せり」
と後年書き残しています。
余談ですが、「ゴム動力の飛行機」は忠八より20年早い1871年にフランスのペノーが造っています。
「プラノフォア」と呼ばれるもので、オーパーツかと思うほど恐ろしく洗練された形状をしており、
インテリアとして飾っておきたい位オシャレなヒコーキです。
「カラス型模型飛行器」の成功から2年後の1893年、27歳の時に今度は「玉虫型飛行器」の模型を完成させます。
これは2mほどもある大きなものでした。
1894年、28歳の時、まだ軍隊にいた彼は偵察等の観点から「玉虫型飛行器」の設計図に上申書を添え、
上官を通じて当時の参謀長である長岡大佐に提出。
軍のバックアップを得て人が乗れる飛行器を作ろうとしたのですが、この上申書、
1897年までに三度提出して三度とも却下されてしまいました。
このため1898年、32歳の時に独力で開発することを決意。退役します。
この上申書の却下の一件については、
「上官に先見の明がなかったため軍で飛行器開発が実現できなかった」
「上官が長岡氏でなければ今頃…」
という論調の資料が散見されます。
しかし、「ダメ元でどんどんやらせればいいじゃん」と単に応援するだけなら話は簡単なのですが、
開発を認めるということは、「軍の予算と人員を割くだけの価値がある研究である」と認めた。ということです。
忠八が造ろうとしていたのは、この世に未だ存在しないもの、この先実現するとはとても思えないシロモノです。
モノがモノだけに失敗した場合、忠八のみならず上官に対しても、
「こんな奇天烈なものを裁可し、軍の貴重な予算を浪費した愚者」
という汚名が付いて回ることになり、
「とても通りそうもない上申書でもあの人に頼めばなんでも通るぞ」なんて言われてしまったり、
何某かの責任を問われることになるかもしれません。
次の記事で登場しますが、アメリカ航空界のパイオニアの1人であるサミュエル・ラングレーは、
軍から5万ドルの予算を得て有人飛行機の製作を試みたのですが失敗し、実際に強い非難を浴びています。
こういうリスクを覚悟の上で了承できるほど先見の明のある軍の上官て、当時どの位いたのでしょう?
一方忠八は「飛行器の独力完成準備金として1万円の資金を作らせてください」という願かけをし、
製薬会社に入社して手腕を発揮。見事1万円の貯金を得ることができました。
こうして退役から4年後の1902年、36歳の時に飛行器開発を本格的に再開することができました。
■忠八の挫折と国内開発
ところで彼が開発再開した翌年の1903年にはライト兄弟が初飛行に成功しています。
二宮忠八がこの報に接した時期には諸説あり、1907年か、1909だろうと言われています。
現在の感覚だと、こんな大ニュースが達するのに4年も6年もかかるの?? と不思議な気がしますが、
当時は情報伝達が未発達だったことに加え、
「名もない自転車屋」の偉業の価値を認めることができず、ライト兄弟の地元でも小さな記事が載っただけなのでした。
ライト兄弟の報を聞いた忠八は、枠組の出来上がった飛行器にハンマーを打ち振り開発を断念。
以降飛行機の急速な発展を見守り続け、自身が開発を行うことはありませんでした。
一方、外国の飛行実験成功の報に刺激を受けた日本政府は1909年、
国内で航空機開発を行うための公的機関、「臨時軍用気球研究会」を発足。
そしてその最高責任者に、さる陸軍中将を据えたのですが、
この人物こそ、忠八の上申書を三度にわたって却下した長岡氏その人なのでした。
15年前に国内開発の芽を潰した人物が、一転その育成促進のトップになるという。。。
きっと部下に対して威勢のいい言葉を発していたはずです。
「ちゃんと飛べた!」ということを知った後なら、そりゃ手のひら返しになるのも分かりますけども。
仮に忠八の上申書提出のタイミングがこの時であったら、もしかすると反応は違っていたのかもしれません。
後に長岡氏は自身の非を認め、忠八に対して個人的にも公式にも謝罪し、2人は和解しています。
「臨時軍用気球研究会」発会の翌年(1910年)には、代々木練兵場でフランス製、ドイツ製の飛行機が国内初飛行、
さらにその翌年には、初の国産飛行機が飛行に成功します。
「日本国内で飛行機が初飛行をしたのは、1910年である。」
これまでのオイラはこう聞いて、「ライト兄弟からたった7年後か。早いなぁ」と思っていました。
ところがこれは、二宮忠八が長岡氏に初めて上申書を提出してから16年も後のことです。
忠八が研究を続けていたら、国内初飛行はもっと早まっていたかもしれません。
軍が航空機の有用性を認めてからは、以来、欧米を範とし模倣する時代が続くことになります。
「ライト兄弟に先を越された!」と知った忠八はそこで開発を止めてしまったわけですが、
世界初の栄誉は逃しても、国産機開発のために研究を続ければよかったのに。
なんと勿体ない…。などと個人的には考えてしまいます。
しかし、仮に忠八が飛行成功の報に接したのが1909年だったとすれば、
全精力を注ぎ、絶対に実現させるぞと、これからまさに情熱を燃やそうとしている夢が
6年も前に既に実現していた。ということになります。
彼がライト兄弟の初飛行について、そしてヒコーキがその後どれほど目覚ましい発展を遂げたかについて、
どの程度の情報を得たのか不明ですが、
その内容は、知れば知るほど自身の現状との落差を痛感させるものであったはずです。
加えて上申書を却下し続けた長岡氏を長とする会発足とも時期が重なっていますから、
研究を続行することに嫌気が差してしまったのかもしれません。
結局忠八が実際に飛ばしたのは小さな「カラス型模型飛行器」だけだったのですが、
高い所から ぽいっ と放り投げたらフラフラ落ちたのを「飛んだ!」と言い張った。とかでなく、
車輪付きで、自力滑走→離陸 という飛び方に成功しています。
このテのヒコーキを自作した経験のある方ならご存知の通り、これは手で放り投げるよりずっと難易度高い飛ばし方です。
小さいとはいえ、飛行の理に適っていなければ絶対にこういう飛び方はできません。
小さいもので見事成功し、次はいよいよ人が乗れるものを! という矢先の中断ですから惜しいことをしたものです。
■忠八の飛行器は飛べたのか
さて。時は流れ1991年、玉虫型飛行器の復元改造機が作られ、人を乗せて高度1m、距離15mの飛行に成功しました。
もっともこの機体、「復元改造機」というその名の通り、
操縦安定を得るために、オリジナルには無い尾翼が付けられており、厳密には忠八の設計と異なる外観をしています。
「現代の技術で空力上の改善をして飛べるようにした」。と言った方が正確でしょう。
そして2004年、今度は忠八オリジナルデザインの「無尾翼型」のラジコンが飛行に成功しました。
ただしこの飛行器、外観こそオリジナルと同じく無尾翼なのですが、
操縦安定を得るためにこちらもオリジナルを少しずつ変更しており、飛べるようにするため様々な工夫が必要でした。
忠八の玉虫型飛行器は残念ながらオリジナルのままでは飛べなかったのです。
しかしこの事実をもって、「忠八は有人飛行器を造る能力がなかった」と断言するのは早計です。
なにしろ、最終的に飛行に成功したライト兄弟も、実現までには試行錯誤の繰り返しであり、
特に初飛行に成功する僅か2年前の1901年には、様々な壁にぶつかっていました。
そのためライト兄は、
「人類はこれから1000年たっても飛ぶことはできないだろう。。。><」
などと弱気発言を漏らしている位ですから。
忠八が実際に飛行テストの段階まで漕ぎ着けたなら、「このままでは飛べない」という問題はすぐ明らかになり、
すぐさま改良に取り掛かっていたはずです。
このラジコンの製作過程、実際に飛び回っている動画は、製作者ご本人のサイトに詳しく取り上げられています。
また、どこに問題があったかについても非常に具体的に分かりやすく出ています。
「玉虫型飛行器ラジコン」 で簡単にヒットしますので興味のある方は検索してみてください。
■ただ鳥の羽ばたきを真似ても飛べない
ところで話はガラッと変わりますが。
もしも大きな翼を渡されて、「これで飛ぼうとしてみてください」と言われたら、翼をどう動かすでしょうか?
「大空を飛びたい」と真剣に考えた先人たちの多くは、鳥の羽ばたきをマネて失敗しました。
鳥の翼は、打ち上げから打ち下ろしの一連の動作の中で、揚力と推力の両方を発生させています。
鳥がプロペラ無しでも自在に飛び回れるのはそのためです。
その翼の動かし方は、うちわで斜め後ろに煽いで風を送るような単純なものではありません。
前方に切るような動作によって、羽ばたきの中で翼の滑空状態を作り出すという非常に高度なもので、
その理屈はヒコーキの翼と同じです。
更に、 翼の形状を刻々変化させることにより、最小のロスで最大の揚力と推力を生み出すようになっています。
大きな翼を与えられた人がそれをバサバサ振るのと鳥の羽ばたきとでは、次元が全く異なるのです。
人が飛ぶために鳥の羽ばたきを真似しようとする場合、以前の記事にも書きましたが、
「二乗三乗の法則」の問題■ もあります。
これは、「大きさを変えると、面積は二乗、重さは三乗に比例して変化する」。というもので、
鳥の体重と翼面積の比をそのまま人間に置き換え、人の重さに見合った翼面積の翼を作ろうとした場合、
鳥と比べて人間は重いですから、うんと大きな翼にしないといけないのはすぐ分かるとして、
仮に翼の長さを4倍にしたとすると、翼面積は16倍、そして翼の重さは64倍になります。
翼そのものが三乗倍に比例して重くなるため、その分を補うためにさらに大きな翼が必要になり、
結局すんごい大きさの翼にしないとならなくなるのです。
人が如何に上半身を鍛えようと、ある程度の速さで動かすことのできる翼の大きさには限度があります。
鳥が非常に高度で複雑な羽ばたきであの翼面積に切り詰めていることも相まって、
単に翼面積の比を人間に移し替え、巨大な翼を必死にバタつかせた程度で飛べるわけがないのです。
創造主の意図をきちんと理解せずに形だけ模しても駄目ということです。
■分離か羽ばたきか
上述の通り、空を飛ぶことを夢見た先人たちの多くは鳥と同じように羽ばたいて飛ぼうとしました。
この発想自体は非常に自然なもので、オイラが当時の人間なら、オイラもきっと必死にバサバサしたはずです。
しかしそこに大きな落とし穴がありました。
どんなに鳥の羽ばたきをマネしても、どんなに鳥の翼っぽく形を工夫してもちっとも飛ぶことができないため、
しまいには、「鳥の羽には何か不思議な力があるのではないか」と考え、
オカルト方向に迷い込んでしまった人もいたのだとか。
それとは対照的に、世界で飛行実験に成功した人たちも、そして忠八も、
鳥が羽ばたかずに滑空している瞬間に着目しました。
「羽ばたかなくても飛んでいる」ということに気が付いた彼らは、前進するための機構を別に考えることにします。
そして忠八はカラス型模型飛行器で最初から、揚力は翼で発生、推力はプロペラで発生、と分離を行いました。
実は羽ばたき機の実験は小規模ながら今日に至るまで続いており、かなり大きな羽ばたき機の模型が離陸したり、
昨年にはカナダトロント大学の航空宇宙研究所が人力の羽ばたき機の飛行に極めて限定的ではありますが成功しています。
実際にこうした例がありますので、羽ばたき機の可能性を否定するつもりはありませんが、
これは羽ばたきのメカニズムの解明、軽くて丈夫な素材の開発、設計、加工技術がずっと進んだ現代だからこその話で、
当時の技術レベルでは推力にプロペラを使った方がよっぽど簡単に飛行を実現できました。
当時飛行に成功したのはいずれも忠八と同じくこの分離方式でした。
これは実に画期的な事で、翼は羽ばたかずに済むことになり、揚力の発生だけに専念すればよくなります。
一度知ってしまえばコロンブスの卵ですが、「羽ばたかなくても飛んでいる」という部分に着目し、
多くの先人たちがつまずいてしまったところを回避したのはすごいことだと思います。
■玉虫型飛行器の翼の問題
しかし、翼を固定して揚力だけを発生させることにしたまではよかったのですが、
カラス型の成功を受け、続けて製作した玉虫型飛行器の方は、形を模すのにこだわり過ぎたせいなのか、
その羽は正面から見ると大きく波打っています。
この形状は揚力を発生させるのに大きなロスになってしまいます。
効率の悪い翼で必要な揚力を発生させるには、その分速度を上げるか、速度を犠牲にして迎え角を大きくとるか、
なのですが、いずれにしろ出力が余計に必要です。
忠八はライト兄弟初飛行から4年後か6年後に開発を断念したと考えられるのですが、
断念した時点でその機体は枠組だけで、エンジンは強力なガソリンエンジンを自作しよう。という構想止まりでした。
忠八は必要馬力を12馬力と算出しており、この値は奇しくもライト兄弟のフライヤーと同じです。
実はライト兄弟飛行百周年を記念してフライヤーの復元機が作られたのですが、復元機は離陸すらできず、
これは出力不足が原因だと言われています。
そのためライト兄弟が飛行に成功したのは当日の強風と、
それをものともしない兄弟の操縦技術のおかげだという見解もあるのだそうです。
フライヤーの翼は風洞実験を繰り返し、極めて科学的な手法で効率の良い翼形を追及したものです。
それでも12馬力ではギリギリやっと飛んだ。という状態でした。
とすると、効率の悪い翼の玉虫型飛行器に仮に12馬力のエンジンを付けることができたとしても、
その飛行が容易ならざるものになるであろうことは想像に難くありません。
同じ12馬力を発生させるにしても、航空機用エンジンは信頼性と軽量が厳しく求められるのですが、
当時の日本はエンジン分野でも欧米と比べて大きく立ち遅れていました。
忠八は飛行器が偵察機として活用できることを軍にアピールするつもりだったようですが、
偵察機なら敵地まで飛んで(そこで降りることなく)、きちんとUターンして戻ってこれなくてはなりません。
旋回するためには更に余分な出力が必要ですから、やっぱり少々飛び上がれる程度ではダメなのです。
1903年ライト兄弟初飛行の時点で、そして忠八が開発を中止してしまった時点で、
忠八の飛行器がとても飛べるものでなかったのは事実です。
エンジンはありませんでしたし、仮にエンジンがあったとしても、後の復元機から明らかな通り、
空力的に飛べるものではありませんでした。当然飛行訓練もしていません。
それでも、忠八の研究が卓抜したものであったことには変わりなく、
1964年には英国王室航空協会から、「ライト兄弟よりも早く飛行原理を発見した」と認められました。
ライト兄弟の兄ウィルバーは1867年4月産まれ。忠八は1866年6月産まれ。
遠く離れた東洋の島国で自分と年齢の似通った人物が独力で飛行機開発を行っていたことを知ったら、
ライト兄弟はどう感じたのでしょうか。
(続きます)
この記事の資料
ライト兄弟のひみつ
二宮忠八小伝
よくわかるヒコーキ学入門