詫間海軍航空隊跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/9更新
撮影年月日1948/03/31(USA M874 144)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
2013/8/26追記:詫間電波高校(当航空隊跡にできた学校)昭和33年卒のきんさんという方からこちら■ の記事にコメント頂きました。
「同級生が昨年母校を訪ねて記念碑を発見したこと そして 今夏 航空隊基地の取材記事がテレビ放送されたとのことで写真と手紙をくれました(中略)学校も寮も軍隊式で古臭くいい思い出はありませんが軍隊の航空基地だったことだけは わかっていました 入学当時 滑走路に降りてトンツーの練習したり上級生のシゴキを受けたり思い出いイッパイです なお 一昨年(2011年4月)高松市において五十数年ぶりの同窓会を開きまして百二十人中70人が集まり血気盛んおおいに盛り上がりました」
きんさん 貴重なお話ありがとうございました。
香川県三豊市詫間町にあった詫間海軍航空隊。
水上機の実用機教育隊として発足しました。
1944年9月、沖縄攻防戦に備えて横浜海軍航空隊から主力機がここ詫間に移り、
大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になりました。
末期には特攻機の訓練、出撃も行われました。
現在基地跡は学校と工場になっており、スリップ(滑走台)が4つ残っています。
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:詫間(水上基地) 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:100x50 3基 150x80コンクリート 主要機隊数:艇3.0 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(2.300㎡)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型隠蔽20 小型無蓋17
また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「詫間空開隊(S18.6.1)(昭18建)」とありました。
赤マーカー地点。
跡地を見下ろす場所に碑、銘板と駐車場が整備されています。
詫間海軍航空隊跡(全文)
詫間海軍航空隊の建設は昭和十六年十一月に発表された。香田・和田内地域の突然の土地買収は住民にとって死活問題であった。また新浜に呉海軍軍需部詫間補給所が建設され、三地区で合計百三十六戸(買収面積約三十七町歩)が立ち退くことになった。移転にともなう労苦は筆舌に尽くし難いものであった。建設工事は呉海軍施設部が担当し、地元の勤労奉仕隊員を加えて官民一体で行われた。詫間空は昭和十八年六月一日に開隊され、水上機の実用機教育を担当した。主要配備機は九四式水上偵察機、二式飛行艇等であり、各地から二千余名の兵員が着任し、連日猛訓練が展開された。昭和十九年九月、横浜海軍航空隊は沖縄攻防戦に備えて主力を詫間に移すことになった。この時点で、ここ詫間は大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になった。昭和二十年四月二十五日、第五航空艦隊は決戦体制を整えるために、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊詫間海軍航空隊を編成した。詫間空配備の二式飛行艇は高速性能のうえ大型レーダーを装備しており、米軍戦闘機と死闘を繰り返しながら、終戦の日まで第五航空艦隊の目となって活躍した。銀河爆撃機で米軍機動部隊をウルシー泊地に強襲した第二次及び第三次丹作戦では、長駆進撃路の天候偵察や特攻機隊の誘導で活躍した。これら作戦で二式飛行艇二十七機と二百五十名の精鋭を失った。昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空では、水上偵察機による神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。同時期、茨城県北浦・鹿島両海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊魁隊が詫間空に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前線基地として沖縄周辺の艦船に体当たり攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。四月二十八日以降四次にわたる出撃で二十五機が米軍艦船に突入し五十七名の若者が沖縄の空に散華した。これら詫間空の戦闘を強力に支援したのは、第十一海軍航空廠詫間工場である。昭和十九年十月から詫間補給所の施設を利用して修理工場を建設し、基幹技術者に徴用工員・増川女子挺身隊員・女子年少工・観音寺商業と善通寺高女の動員学徒等を加えた約八百名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽くした。被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いで業務に邁進した若い力が、二式飛行艇を決戦の空へ飛ばし続けたのである。戦後五十有余年、詫間海軍航空隊跡地は国立電波高専と民間工場等に、十一空廠跡地は詫間中学校に転用され、わずかに水際四箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。我が国今日の繁栄は祖国の防衛に殉じた将兵や多くの人々の犠牲に負うことを銘記し、再び戦争の惨禍が起こることのないよう、恒久の平和を念願して、詫間海軍航空隊跡を詫間町の史跡に指定する。平成十二年(西暦二千年)十一月 詫間町教育委員会
道路をはさんで向かい側にある防空壕と碑。
黄マーカー地点。
スリップ(滑走台)に下りてみました。
香川県・詫間海軍航空隊跡地
終戦当時、残っていた二式大艇は167機中わずか4機。そのうちの1機がここから横浜の根岸飛行場を経由してアメリカに送られ、後日船の科学館を経て鹿屋に戻ってきました。(根岸飛行場、鹿屋については下記リンク参照)
詫間海軍航空隊 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:水上機飛行場
所在地:香川県三豊市詫間町香田
滑走台:150mx50m,(50mx50m)x3 「日本海軍航空史」(終戦時)より
座 標:N34°14′12″E133°38′14″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1941年11月 建設発表
1943年06月 建設。1日、詫間空開隊
1944年09月 横浜海軍航空隊から主力機移駐
関連サイト:
Wiki/詫間海軍航空隊■
ブログ内関連記事
根岸飛行場■
鹿屋航空基地資料館■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調