SSブログ

長野市滑空場 [├空港]

    2010年5月訪問 2020/7更新  



D20_0047.jpg

長野市千曲川右岸にある「長野市滑空場」。

屋島橋から。

 

D20_0050.jpg

 

D20_0053.jpg


       長野県・長野市滑空場     
1974年設立の長野市グライダー協会が本拠地にしており、ほぼ年間通して祝日、週末を中心に活動しています。体験飛行可^^

長野市滑空場 データ
設置管理者:長野県航空協会
運用期間:ほぼ年間通して飛行
所在地:長野県長野市若穂線内地先 千曲川河川敷右岸
標 点:N36°37′55″E138°15′12″
標 高:338m
滑走路:450m×15m(舗装)  850m×80m(草地)  
方 位:04/22

飛行援助用無線局
長野フライトサービス 130.650 

沿革
1974年04月 長野市滑空場開設

関連サイト:
長野市グライダー協会    


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長野飛行場跡地 [├空港]

    2010年5月訪問 2022/6更新  


9.png
1938年(昭和13年)3月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)無題4.png
1947年9月(USA R221 53)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

長野県長野市にあった「長野飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19年6月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

また同資料内に当飛行場に関する情報がありました。

以下引用させて頂きます。

第11 愛国長野飛行場(昭和18年2月調)

管理者 長野市。
位置 長野県長野市大字川合新田、同市大字稻葉、上水内郡大豆島
   村
 (長野市の南東方約4粁、36°37′3N,138°12′8E)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約347米。
広さ及形状
 本場は長さ東西600米、南北600米及北東-南西850米、幅最小200米
(総面積24萬平米)のL字形地域なり。
着陸地域は概ね図示の北東-南西625米、幅30米の舗装滑走路を最適と
認むるも風向等に依りては植芝全地域を使用するを可とす(付図参照)。
地表の土質
 砂を混ずる尋常土。
地面の状況
 場内は凸凹及起伏なく極めて平坦なるも全般的に西より東へ1/400の下り片
勾配を成す・地表は6頓「ローラー」を以て転圧せる堅硬地なり・殆ど一
面に良好なる植芝及雑草を生ずるも諸處に土砂を露出せる禿地あり・梅雨
後は雑草の繁茂著しきを以て一応注意を要す・排水施設としては地下に盲
暗渠及場周に排水溝あるも降雨後は滑走路上に水溜を生ずることあり。
滑走路は厚さ12糎の「コンクリート」舗装にして季節に因る影響なく極
めて平滑なり・滑走路と芝地との接合點は双曲を成すを以て横断滑走の際
と雖も聊も衝撃を感ずることなし。
東側格納庫前の整備場より前記滑走路に連絡する幅15米の「コンクリー
ト」舗装の誘導路1條あり、西風の際は離陸滑走に兼用し得と言う。
場内の障碍物
 東側に吹流鉄塔(高さ21米)、気象観測所鉄塔(高さ16米)、格納庫等あ
り。
適当なる着陸方向
 北東を可とするも風向等に依りては東又は西及南又は北。
離着陸上注意すべき点
 諸處に土砂を露出せる箇所あるを以て地上滑走に充分注意し且降雨時は滑
走路上に水溜を生ずるを以て芝地のみ使用するを可とす。
施設
 格納庫(間口25米、奥行18米、高さ12米)1・航空局事務所・油庫・
倉庫・物置・気象観測所(人員配置なし)、同観測用鉄塔(高さ16米)・
「コンクリート」舗装滑走路及誘導滑走路・場周排水溝等あり。
航空標識 晝間は吹流、夜間照明設備なし。

周囲の状況
山岳
 本場は善光寺平と称する犀川及千曲川に依り形成せられたる沖積平野の略
 中央に位し長野都心へ3.8粁に在り・周囲は主に水田及畠地等の地貌平坦
 なる耕作地にして四周4粁以内に障碍と為る丘陵及山岳等なし、特に信濃
 川、千曲川の両河流方向即ち北東及南西の2方向は極めて廣濶なる平野を
 成す・山岳は遥か長野市の西側及東方千曲川の対岸に比高200-300米の
 連山あり之より両外方は次第に標高を増し1,500-1,900米内外の高山囲繞
 す。
樹林
 北東方約100米に在る神社境内に高さ20米内外の濶葉樹林及西方約100
 米に高さ9-16米の針葉樹あり。
堤防
 南方約150米の犀川北岸に沿い高さ3-5米、幅7米の護岸堤防存在す。
河川
 南方約300米に東流する犀川あり、南東方約2.5粁付近にて北東流する千
曲川と合流す、斯くて此の2川を合して信濃川となり善光寺平を北東流し
て日本海に注ぐ。
建築物
 北東及北西方各約100米に松岡及川合新田の両村落あり、民家は何れも低
 く障碍とならず。
電線
 西方約1粁に略南北方向に架設せる高さ40米の高圧送電線鉄塔あるを以
 て注意を要す。
着目標
 犀川、千曲川合流點、長野市、丹波島橋。

地方の状況
警察署及役場
 長野警察署(長野市西鶴賀町)北西方約3.8粁、大豆島駐在所(大豆島村)
 北東方約1.5粁・長野市役所(長野市若松町)北西方約5粁。
医療
長野市内に赤十字病院及其の他の病院7あり・大豆島村に医院7あり。
宿泊
 長野市内に旅館92(収容員数計約1,200)あり。
清水
 場内に水質良好なる井戸あり。
応急修理
 場内に修理設備なし・長野市南石堂町の前田鉄工場にて応急修理可能な
 り。
航空需品
 付近より航空用燃料を需め得ず。

交通、運輸及通信
鐡道
 長野駅(信越本線)北西方約3粁。
乗合自動車
 長野市内より場の北方道路を経て東方綿内方面に至る乗合自動車便あり、
 最寄停留所は松岡(北東方約300米)なり。
道路
 場の東側より前記道路に連絡する幅員11米の飛行場専用道路あり。
運送店
 長野市内に運送店5、貨物自動車約39輌あり。
電信及電話
 長野郵便局(電信及電話取扱)北西方約4粁・場内航空局事務所に電話
 (長野4055番)あり。

気象
測候所
 長野測候所(長野市城山)北西方約4粁・場内に気象観測所あるも現在人
員の配置なし。
地方風
 長野測候所に於ける2549-2600年52箇年間の月別統計次の如し
(以下月ごとのデータ省略)
天候
 同上52箇年間の月別統計次の如し(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 7,8月頃雷雨屡来襲す、進行方向は概ね南より北に向うを常とす・霧は毎
 年9月より翌年2月間に多し。
気象予察の俚諺
 本場の南西方約23粁に在る聖山に雲の懸るときは雨となる。

其の他
本場は昭和14年3月長野市の設置に係る公共用飛行場にして大日本航空株式
会社経営の東京-新潟間定期航空路の中継飛行場として使用されつつありしも
同年10月以来同航空路の運航休止せられたる為現在は飛行場を維持する傍滑
空機の練習場として使用しつつあり。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6,7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新潟
区間 東京-長野間 毎日一往復
   長野-新潟間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-長野
区間 大阪-金沢間 毎日一往復
   富山-長野間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  長野
位 置   長野市川合新田
規 模   要図
舗 装   四〇×六〇〇米
      基礎玉石地形
      表層コンクリート一二糎
付属施設
 収容施設 五〇〇名分 工事中
 格納施設 掩体 小五〇ヶ所
摘 要   (記載無し)


D20_0038.jpg

画青マーカー地点。

面左右にコンクリートの大きな塊があります。

格納庫跡地らしいです。

D20_0039.jpg

赤マーカー地点。 

ターニングパッドの円内に市営団地が建っています。

D20_0043.jpg

円形の駐車スペース。

D20_0046.jpg

紫マーカー地点。

飛行場の碑がありました。

左 「長野飛行場 NAGANO AIRPORT 跡地」
右 「長野飛行場のあゆみ 昭和12年8月事業認可 昭和13年10月竣工 平成2年6月閉鎖 平成4年3月記念碑建立」

この長野飛行場、 昭和13年10月に長野市営の民間飛行場として開港したのですが、

その後陸軍の飛行場となり、接収を経て再び民間飛行場となっています。

詳しくは下記「沿革」をご参照ください。


       長野県・長野飛行場跡地      

長野飛行場 データ
設置管理者:長野市→旧陸軍→長野市
 (市議会が逓信省に献納を決定してから三年半後の昭和18年2月調の水路部資料では、管理者が長野市になっている)
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県長野市稲葉
標 点:N36°37′3″E138°12′8″
面 積:24.8ha(市営飛行場当時)
標 高:347m
滑走路:625m×30m
方 位:03/21
(方位はグーグルアースから)

沿革
1937年08月 逓信省より事業認可を受ける
    10月 着工
1938年10月 18日 竣工
1939年03月 長野市営の「愛国長野飛行場」として逓信省より使用許可
     07月 長野飛行場開港。開戦までの2年間、羽田―長野―新潟便、羽田―長野―富山―大阪便運航
        飛行場を逓信省に献納することを長野市議会が決定
        陸軍の飛行訓練や民間のグライダー訓練に使用される
1944年08月 松代大本営関連で陸軍により滑走路北側が拡張される
        西風間方面、藤興寺の北側まで滑走路を延長(2000m×150m?)
1945年   30以上の掩体壕が作られる
     08月 長野空襲により被災
     11月 市と大豆島村が元地主を中心に「長野飛行場土地耕作組合」をつくる。掩体壕を崩して開墾
1947年06月 飛行場の接収解除。長野市に返還される
1948年04月 滑走路、格納庫等残して、他の用地全部が開放農地として売却される
1953年    民間飛行場として復活(滑走路は市営飛行場時代の長さに戻る)。その後日本ヘリコプター会社の運営下へ
1983年    滑走路上に市営団地建設
1990年06月 飛行場閉鎖
1991年04月 元滑走路を含む飛行場跡地に犀陵中学校開校
1992年03月 記念碑建立

この記事の資料:
防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(13)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大町防空監視哨跡 [├場所]

    2010年05月訪問 2020/7更新  



D20_0034.jpg

長野県大町市にある「防空監視哨跡」。

an-kazuさんに教えて頂いて初めて存在を知った監視哨です(下記リンク参照)。

古くからある市街地の外れで、田畑が広がる風光明媚な所です。

 

D20_0035.jpg

説明版から。

これまでにお邪魔した監視哨は未だ数か所なのですが、すべて聴音壕とセットになっていました。

こちらは特に洞穴っぽいものは作らなかったみたいですね。

現存するコンクリの塊は、少しでも高い場所から見張るためのステージのようなものでしょうか。

「大町防空監視哨跡」(全文)この地には、第二次世界大戦中の昭和十五年頃、敵味方の航空機の動向を地上から確認し、敵機来襲をいち早く関係機関に通報するために、防空監視哨が設けられていました。各家庭等の燈火管制が始まったのもこの頃です。当時この地は、周囲一km以内には、ほとんど人家がなく、静寂な地でありました。防空監視の任務に従事した人は、哨長と班長が予備役の元軍人、他の哨員は、大町市内及び近隣町村の若者達でした。各班八名の五班が編成され、二十四時間体制で、二名若しくは三名の交代勤務で監視にあたっていました。昭和十七年以降は、空爆が激化しはじめ、監視哨の役割はより重要なものとなりましたが、昭和二十年、ついに終戦を迎え、監視哨もその役目を終えました。この監視哨を戦争の悲劇を伝える数少ない名残として、永久の平和を願いたいものです。平成七年三月 大町市教育委員会


       長野県・大町防空監視哨跡      

大町防空監視哨 データ
所在地:長野県大町市大字大町不二塚町
座 標:N36°30′37″E137°51′02″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1940年 この頃設置
1942年 空爆激化
1945年 終戦により廃止

関連サイト:
an-kazuさんのブログ:8月15日の長野(その3)    


コメント(12)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

松本(長谷川、笹部)飛行場跡地 [├空港]

    2010年05月、2018年5月訪問 2022/1更新  

無題.png
測量年1931(25000 89-3-2-4 松本)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
8.png
1938年(昭和13年)4月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)

松本空港の北北東約5.3kmにあった「松本(長谷川、笹部)飛行場」。

アジ歴「航空路資料 第4 其ノ2 昭14-2 中部地方飛行場及不時著陸場」の中に当飛行場の資料がありました。

一部ですが以下引用させて頂きます(オイラ訳なので間違えてたらゴメンナサイ)。

松本飛行場(1938年4月調)
長野県松本市笹部
(松本市の南4km)

高さ 600m
広さ及形状 飛行場は楕円で、長さ(南北)350m、幅(東西)180m(総面積66,400㎡)。
飛行地区は160m(東西)310m(南北)
1924年6月出資者が集められ、民間飛行士長谷川清登に敬意を表して当飛行場が設立された
施設が使用されたが、後に運営上の問題があり、飛行場は松本市に譲渡された
現在は市の管轄下にある
1934年、暴風により3棟の格納庫と飛行機が破壊された

先頭のグーグルマップは、同資料内の図から作図しました(下記リンク参照)。

「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について扱われていました。

「旧松本練兵場(中略)畜産組合の経営する競馬場と並置、年2回の競馬に使用することが条件である」

先頭のグーグルマップの奇怪な形状はそういうことだったんですね。


国立国会図書館デジタルコレクションに「報知年鑑.大正16年」があり、

この中に、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕として27の民間飛行場の一覧がありました。

当飛行場関係箇所を引用させていただきます(下記リンク参照)。

使用者 長谷川清登
種類 陸上
位置 長野縣東筑摩郡松本村笹部
面積 記載無し

ということでアジ歴資料内にも登場しますが、

「長谷川 清登(はせがわ けさと)氏」という人物抜きにこの飛行場は語れません。

氏は国内初の一等飛行機操縦士の資格を取得し、

航空学校卒業後は埼玉県所沢陸軍飛行学校(旧航空学校)の教官として2年間勤めました。

除隊後は民間飛行家として航空思想の普及に尽力しました。

1924年4月12日、陸軍払い下げの偵察機サルムソン二A二型を操縦し、

各務原飛行場から出生地である豊科上空経由で松本まで飛行しました。

同年、「長谷川飛行士後援会」が発足。

松本市は同市の笹部に飛行場用地を買い上げ、氏に使用させました。

これが国内初の「個人飛行場」なのだそうです。

氏は長野県近県を飛行し、航空機時代の到来を講演して歩くとともに、飛行機の平和利用の普及に尽力しました。

ところが1934年の室戸台風で格納庫と飛行機を失い、長谷川飛行場は閉鎖してしまいます。

その後氏は家業の経営に専念しました。

上の地図、1931年測量のものです。

件の室戸台風で壊滅する3年前の地図ですから、「飛行場」が現役当時のはずなんですが、

矢印部分にあったはずの飛行場部分がほぼ白抜きで何の記載もありません。

発行が1947年で、発行された年にはもうなかったから、敢えて記載しなかったんでしょうか??

ところで長野県で月1回発行の「千曲時報」、1938年発行の第98号の中で、

「航空思想の普及のため県下中等学校生の希望者を対象に

今夏三週間の日程で笹部飛行場にてグライダーの実地指導を行う」

という記事が載せられていました。

「長野県学務部が帝国飛行協会の協力で行う」と記されており、

帝国飛行協会による格納庫の寄付、講師派遣も内定していると書かれています。

これは上述の「飛行場閉鎖」から4年後の記事です。

この飛行場用地は元々松本市が買い上げたものでしたから、

長谷川氏が家業経営で飛行場から手を引いた後、同じ場所を復旧させたのかもしれません。

この飛行場についてはこれ以上の情報がなく、この夏だけのことだったのか、それともしばらく続いたのか不明です。

 

DSC_0009.jpg
 
現在飛行場跡地の北半分は松本駐屯地になっています。


       長野県・松本(長谷川、笹部)飛行場跡地     
松本市丸の内7-39にある「松本館旧館」に長谷川氏所有機のプロペラが飾られているのだそうです。「民間飛行學校練習所其他」(航空年鑑昭和六年)の中で、「長谷川飛行機研究所(飛行場:松本市外笹部 事務所:松本市大柳町)」として当飛行場が登場しています。アギラさんから情報頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m 

松本(長谷川、笹部)飛行場 データ
設置管理者:長谷川清登→松本市
空港種別:個人飛行場→市営飛行場
所在地:長野縣東筑摩郡松本村笹部(現・松本市石芝)
座 標:N36°12′21″E137°57′05″
標 高: 600m
面 積:6.64ha
着陸帯: 310mx160m
方 位:02/20
(座標、方位はグーグルマップから)

沿革
1925年 7月 開設、後に松本市に譲渡
1934年 室戸台風により壊滅的被害
1938年 中学生対象に滑空訓練

関連サイト:
アジ歴「航空路資料 第4 其ノ2 昭14-2 中部地方飛行場及不時著陸場」  
安曇野市ゆかりの先人たち/長谷川 清登    
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 
千曲時報第九十八號■(リンク切れ)   

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(13)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

陸軍松本飛行場(笹賀の飛行場)跡地 [├場所]

    2010年5月訪問 2020/11更新  


無題c.png
撮影年月日1948/02/18(USA R1022 5) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

長野県松本市にある「信州まつもと空港」。

その北側部分は戦時中「陸軍松本飛行場」でした。

飛行場敷地東側には誘導路と格納庫が並んでいましたが、現在でも地割がかなり残っており、

基礎と見受けられる箇所も随分あります。

2012年8月にグーグルマップ青マーカー地点にて碑の除幕式がありました。

先頭のグーグルマップは、この碑の図と上に貼った航空写真から作図しました。

線が拾いきれていない箇所もありますが(特に敷地南側の誘導路)、おおよそこんな感じと思います。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  松本
位 置   長野県東筑摩郡里山辺村
規 模   要図(東西1300)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分 一〇〇〇名分工事中
 格納施設 掩体 大三〇ヶ所
摘 要   施設軍有

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

「昭和18年10月、突然陸軍省から今井、笹賀、神林の当局者に切図を以て集合するよう、命令があり、並べられた切図の上にその場で引かれた線によって、飛行場設置が一瞬のうちに決定された。戦後飛行場跡地は農地法第41条により、前記3カ村(東筑摩郡今井村、笹賀村、神林村)の関係耕作者に売り渡された。米軍接収から講和成立直前までは、西側部分の草地滑走路がジェット機の発着に使われた。」

D20_0026.jpg

赤マーカー地点。

旧飛行場外周道路。画面右側が飛行場敷地です


       長野県・陸軍松本飛行場跡地     
地元では「笹賀の飛行場」とも呼ばれていたそうです

陸軍松本飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県東筑摩郡里山辺村(現・長野県松本市今井)
座 標:N36°10′34″E137°55′14″
標 高:650m
面 積:169ha
着陸帯:1,300m×1,300m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1943年    建設開始
1945年08月 完成
        戦後進駐した米軍により、試験飛行が行われていたキ83の性能試験実施
1965年07月 松本空港供用開始

関連サイト:
ブログ内関連記事(信州まつもと空港)

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー