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長野飛行場跡地 [├空港]

    2010年5月訪問 2022/6更新  


9.png
1938年(昭和13年)3月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)無題4.png
1947年9月(USA R221 53)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

長野県長野市にあった「長野飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19年6月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

また同資料内に当飛行場に関する情報がありました。

以下引用させて頂きます。

第11 愛国長野飛行場(昭和18年2月調)

管理者 長野市。
位置 長野県長野市大字川合新田、同市大字稻葉、上水内郡大豆島
   村
 (長野市の南東方約4粁、36°37′3N,138°12′8E)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約347米。
広さ及形状
 本場は長さ東西600米、南北600米及北東-南西850米、幅最小200米
(総面積24萬平米)のL字形地域なり。
着陸地域は概ね図示の北東-南西625米、幅30米の舗装滑走路を最適と
認むるも風向等に依りては植芝全地域を使用するを可とす(付図参照)。
地表の土質
 砂を混ずる尋常土。
地面の状況
 場内は凸凹及起伏なく極めて平坦なるも全般的に西より東へ1/400の下り片
勾配を成す・地表は6頓「ローラー」を以て転圧せる堅硬地なり・殆ど一
面に良好なる植芝及雑草を生ずるも諸處に土砂を露出せる禿地あり・梅雨
後は雑草の繁茂著しきを以て一応注意を要す・排水施設としては地下に盲
暗渠及場周に排水溝あるも降雨後は滑走路上に水溜を生ずることあり。
滑走路は厚さ12糎の「コンクリート」舗装にして季節に因る影響なく極
めて平滑なり・滑走路と芝地との接合點は双曲を成すを以て横断滑走の際
と雖も聊も衝撃を感ずることなし。
東側格納庫前の整備場より前記滑走路に連絡する幅15米の「コンクリー
ト」舗装の誘導路1條あり、西風の際は離陸滑走に兼用し得と言う。
場内の障碍物
 東側に吹流鉄塔(高さ21米)、気象観測所鉄塔(高さ16米)、格納庫等あ
り。
適当なる着陸方向
 北東を可とするも風向等に依りては東又は西及南又は北。
離着陸上注意すべき点
 諸處に土砂を露出せる箇所あるを以て地上滑走に充分注意し且降雨時は滑
走路上に水溜を生ずるを以て芝地のみ使用するを可とす。
施設
 格納庫(間口25米、奥行18米、高さ12米)1・航空局事務所・油庫・
倉庫・物置・気象観測所(人員配置なし)、同観測用鉄塔(高さ16米)・
「コンクリート」舗装滑走路及誘導滑走路・場周排水溝等あり。
航空標識 晝間は吹流、夜間照明設備なし。

周囲の状況
山岳
 本場は善光寺平と称する犀川及千曲川に依り形成せられたる沖積平野の略
 中央に位し長野都心へ3.8粁に在り・周囲は主に水田及畠地等の地貌平坦
 なる耕作地にして四周4粁以内に障碍と為る丘陵及山岳等なし、特に信濃
 川、千曲川の両河流方向即ち北東及南西の2方向は極めて廣濶なる平野を
 成す・山岳は遥か長野市の西側及東方千曲川の対岸に比高200-300米の
 連山あり之より両外方は次第に標高を増し1,500-1,900米内外の高山囲繞
 す。
樹林
 北東方約100米に在る神社境内に高さ20米内外の濶葉樹林及西方約100
 米に高さ9-16米の針葉樹あり。
堤防
 南方約150米の犀川北岸に沿い高さ3-5米、幅7米の護岸堤防存在す。
河川
 南方約300米に東流する犀川あり、南東方約2.5粁付近にて北東流する千
曲川と合流す、斯くて此の2川を合して信濃川となり善光寺平を北東流し
て日本海に注ぐ。
建築物
 北東及北西方各約100米に松岡及川合新田の両村落あり、民家は何れも低
 く障碍とならず。
電線
 西方約1粁に略南北方向に架設せる高さ40米の高圧送電線鉄塔あるを以
 て注意を要す。
着目標
 犀川、千曲川合流點、長野市、丹波島橋。

地方の状況
警察署及役場
 長野警察署(長野市西鶴賀町)北西方約3.8粁、大豆島駐在所(大豆島村)
 北東方約1.5粁・長野市役所(長野市若松町)北西方約5粁。
医療
長野市内に赤十字病院及其の他の病院7あり・大豆島村に医院7あり。
宿泊
 長野市内に旅館92(収容員数計約1,200)あり。
清水
 場内に水質良好なる井戸あり。
応急修理
 場内に修理設備なし・長野市南石堂町の前田鉄工場にて応急修理可能な
 り。
航空需品
 付近より航空用燃料を需め得ず。

交通、運輸及通信
鐡道
 長野駅(信越本線)北西方約3粁。
乗合自動車
 長野市内より場の北方道路を経て東方綿内方面に至る乗合自動車便あり、
 最寄停留所は松岡(北東方約300米)なり。
道路
 場の東側より前記道路に連絡する幅員11米の飛行場専用道路あり。
運送店
 長野市内に運送店5、貨物自動車約39輌あり。
電信及電話
 長野郵便局(電信及電話取扱)北西方約4粁・場内航空局事務所に電話
 (長野4055番)あり。

気象
測候所
 長野測候所(長野市城山)北西方約4粁・場内に気象観測所あるも現在人
員の配置なし。
地方風
 長野測候所に於ける2549-2600年52箇年間の月別統計次の如し
(以下月ごとのデータ省略)
天候
 同上52箇年間の月別統計次の如し(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 7,8月頃雷雨屡来襲す、進行方向は概ね南より北に向うを常とす・霧は毎
 年9月より翌年2月間に多し。
気象予察の俚諺
 本場の南西方約23粁に在る聖山に雲の懸るときは雨となる。

其の他
本場は昭和14年3月長野市の設置に係る公共用飛行場にして大日本航空株式
会社経営の東京-新潟間定期航空路の中継飛行場として使用されつつありしも
同年10月以来同航空路の運航休止せられたる為現在は飛行場を維持する傍滑
空機の練習場として使用しつつあり。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6,7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新潟
区間 東京-長野間 毎日一往復
   長野-新潟間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-長野
区間 大阪-金沢間 毎日一往復
   富山-長野間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  長野
位 置   長野市川合新田
規 模   要図
舗 装   四〇×六〇〇米
      基礎玉石地形
      表層コンクリート一二糎
付属施設
 収容施設 五〇〇名分 工事中
 格納施設 掩体 小五〇ヶ所
摘 要   (記載無し)


D20_0038.jpg

画青マーカー地点。

面左右にコンクリートの大きな塊があります。

格納庫跡地らしいです。

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赤マーカー地点。 

ターニングパッドの円内に市営団地が建っています。

D20_0043.jpg

円形の駐車スペース。

D20_0046.jpg

紫マーカー地点。

飛行場の碑がありました。

左 「長野飛行場 NAGANO AIRPORT 跡地」
右 「長野飛行場のあゆみ 昭和12年8月事業認可 昭和13年10月竣工 平成2年6月閉鎖 平成4年3月記念碑建立」

この長野飛行場、 昭和13年10月に長野市営の民間飛行場として開港したのですが、

その後陸軍の飛行場となり、接収を経て再び民間飛行場となっています。

詳しくは下記「沿革」をご参照ください。


       長野県・長野飛行場跡地      

長野飛行場 データ
設置管理者:長野市→旧陸軍→長野市
 (市議会が逓信省に献納を決定してから三年半後の昭和18年2月調の水路部資料では、管理者が長野市になっている)
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県長野市稲葉
標 点:N36°37′3″E138°12′8″
面 積:24.8ha(市営飛行場当時)
標 高:347m
滑走路:625m×30m
方 位:03/21
(方位はグーグルアースから)

沿革
1937年08月 逓信省より事業認可を受ける
    10月 着工
1938年10月 18日 竣工
1939年03月 長野市営の「愛国長野飛行場」として逓信省より使用許可
     07月 長野飛行場開港。開戦までの2年間、羽田―長野―新潟便、羽田―長野―富山―大阪便運航
        飛行場を逓信省に献納することを長野市議会が決定
        陸軍の飛行訓練や民間のグライダー訓練に使用される
1944年08月 松代大本営関連で陸軍により滑走路北側が拡張される
        西風間方面、藤興寺の北側まで滑走路を延長(2000m×150m?)
1945年   30以上の掩体壕が作られる
     08月 長野空襲により被災
     11月 市と大豆島村が元地主を中心に「長野飛行場土地耕作組合」をつくる。掩体壕を崩して開墾
1947年06月 飛行場の接収解除。長野市に返還される
1948年04月 滑走路、格納庫等残して、他の用地全部が開放農地として売却される
1953年    民間飛行場として復活(滑走路は市営飛行場時代の長さに戻る)。その後日本ヘリコプター会社の運営下へ
1983年    滑走路上に市営団地建設
1990年06月 飛行場閉鎖
1991年04月 元滑走路を含む飛行場跡地に犀陵中学校開校
1992年03月 記念碑建立

この記事の資料:
防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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