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三重航空隊野辺山派遣隊 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



長野県‎‎野辺山‎にある「野辺山電波天文台」。

北東にある丸山はかつて「三重航空隊野辺山派遣隊」のグライダー練習場でした。

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紫マーカー地点。

野辺山電波天文台見学受付と見学コース挟んですぐ向かい側にあります。

裏側に碑文が。

碑文(全文) 昭和十七年 三重海軍航空隊が三重県に創設され幾多の少年航空兵を錬成して戦場に送り輝かしい功績を残したが 昭和二十年五月 太平洋戦争の激化により わが国で初めて開発されたロケット型戦闘機秋水の搭乗員を養成するためこの地に野辺山派遣隊を設営し 一一九六名の海軍飛行予科練習生を派遣した 隊員たちは幕舎に起居しグライダーにより連日猛烈な操縦滑空訓練に励んでいたが 同年八月十五日の戦争終結により解隊された 戦後 元隊員たちは社会人としてわが国復興の中核となって活躍し 昭和六十三年八月 史実を後世に伝え平和を祈念するため 三重空野辺山若草会を結成し野辺山駅前に予科練之碑を建立した 戦後五十年を機に南牧村ご当局及び関係部落各位のご厚意を得て 同隊の栄誉とその跡地を記念してこの碑を建てる 平成七年八月 三重空野辺山若草会 

ロケット型戦闘機秋水の搭乗員養成場という非常に特殊な滑空場だったのですね。

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赤マーカー地点。

正面に見えているのが丸山(青マーカー)。

グライダー練習をした山とのことだったのですが、思ったより小さかったです。

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グレーマーカー地点。

電波天文台の少し北側に野辺山駅があるのですが、駅前にも碑がありました。

碑文(全文) 昭和五年 航空機搭乗員の養成は若き俊才の特別教育によるとの方針により少年航空兵制度が設けられ 全国の十六歳前後の志願者より厳選のうえ採用されて以来昭和二十年八月の終戦に至るまで 鉄石の豫科練訓練を受けて巣立った二十萬余の若鷲たちは 名実共に日本海軍航空戦力の主軸として世界にその名を馳せたが 太平洋戦争末期には戦局利あらず その多くが祖国の危急を救おうとの一念に燃えて自ら身命を惜しまず 愛機もろとも体当り攻撃を敢行し尊い命を国に捧げていったのである 因に豫科練とは海軍飛行豫科練習生の愛称である  かかる戦局の中 敵機は連日わが国の主要都市を爆撃し 戦雲更に急を告げる昭和二十年春 三重 土浦 鹿児島 松山 浦戸 美保 滋賀 小松の八航空隊より選抜され三重海軍航空隊特一部として編成された乙二十期及び甲十四期の豫科練一、一九六名と教官を含む基地要員約百名は 当時迎撃用に開発された新鋭ロケット式局地戦闘機”秋水”の搭乗員となるため 秀峰八ヶ岳を仰ぐ野辺山基地に派遣され 丸山を中心として連日グライダーによる操縦訓練を行い ついには鎮目教官の殉職を招くほどに訓練は激烈を極めたが 教程終了を目前に八月十五日の終戦により解隊されるに至った  顧みれば 豫科練の歴史は僅か十五年余りにすぎないが 戦いを好むに非ずひたすら愛国心に燃え 未曽有の国難に殉じようと決意して精進を重ねた若人たちの至誠と犠牲的精神は わが国の繁栄と世界の恒久平和への礎となることを哀心より祈念し 地元南牧村当局のご厚意を得て 旧訓練所の地野辺山にこの碑を建つ 平成元年八月 三重空野辺山若草會 撰文 右代表 溝口源三郎 由井龍鳳書

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参集した八航空隊が刻まれていました。

Wiki:「野辺山高原」によれば、「1941年(昭和16年)に文部省の学校連合訓練所が(中略)開設され、1945年 (昭和20年)には学校連合訓練所が三重海軍航空隊の特攻隊訓練に使われるなど軍事色が強まった。」とあります。

滑空史保存協会「滑翔の灯」昭和17年5月~8月の頁にこんな記述がありました。

「(大空の故郷、文部省野辺山訓練所)の建設工事が着同と進められている。文部省では理想的な大滑空道場を建設して、これを学徒の「大空の故郷」とする計画を立て、昨年長野県の大高原に地を卜し、工事を進めてきたが、この6月から高校や専門学校の生徒が集団勤労をして建設を助成することになり、8月末には一応完成の運びになるようだ。本滑空場の所在地は、八ヶ岳の山麓が、ゆるく東方に裾を引いている大平原で、東西2km、南北1kmにわたる50万坪の広大なものである。標高1,300余メートルの高原で、文部省ではこの滑空場を「文部省野辺山訓練所」と呼んでいる。野辺山駅に近いのでこの名がついた。」

「本滑空場の所在地は、八ヶ岳の山麓が、ゆるく東方に裾を引いている大平原」
「標高1,300余メートル」
「野辺山駅に近い」

これは全て三重航空隊野辺山派遣隊が使用した丸山に当てはまります。

文部省が計画した「文部省野辺山訓練所」と「丸山」を直接結びつけるものは現在の所確認出来ないのですが、

ネットでいろいろ検索してみても、戦時中この地域に建設された施設として名前が挙がるのは、

上記二つ以外に陸軍の演習場位です。

また、昭和17年頃の出来事として、「八ヶ岳の野辺山滑空場」で各学校の合同訓練が行われた。という記述があります。

それで、「三重航空隊野辺山派遣隊」が使用していた滑空場=「野辺山滑空場」ではないかと思います。


      長野県・三重航空隊野辺山派遣隊跡地      

三重航空隊野辺山派遣隊 データ

設置管理者:海軍
種 別:滑空場
所在地:長野県‎南佐久郡‎南牧村‎野辺山‎
座 標:N35°56′41″E138°28′26″
標 高:1,350m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1945年05月 野辺山派遣隊設営。秋水の搭乗員養成
    08月 終戦により解隊

関連サイト:
滑空史保存協会(2020/12閲覧できず)
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この記事の資料:
現地の碑文


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赤穂防空監視哨跡地の碑 [├場所]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



長野県‎駒ヶ根市にあるすずらん公園。

「赤穂防空監視哨跡地の碑」があります。

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碑の裏に銘板がありました。

昭和十六年四月十一日から太平洋戦争終結の日まで、東部軍司令部と県警察部により、この地に、赤穂防空監視哨が設立された。伊藤喜一郎氏を哨長に、県知事任命の青少年五十余名が、ここで、厳寒酷暑の風雪をしのぎ、昼夜の別なく気力を集中して、爆音の聴取と機影発見に努め、国土防空の重責を担った。戦後五十年にあたり、当時の勤務者有志相計り、平和の森と変わった跡地に、記念碑を建立し、恒久の平和を深く祈念する。(以下34名の氏名省略) 平成七年十二月吉日建立之

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すずらん公園内


      長野県・赤穂防空監視哨跡地の碑      

赤穂防空監視哨 データ

設置管理者:東部軍司令部と県警察部?
運用時間:24時間
所在地:長野県‎駒ヶ根市‎上穂栄町‎
座 標:N35°44′07″E137°55′43″
標 高:695m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1941年04月 防空監視哨設立
1995年07月 碑建立

関連サイト:
赤穂防空監視哨跡地の碑    
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
現地の碑文 


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中部・近畿旅行・5 [■旅行記]


Ⓐ恵那峡SA→Ⓑ赤穂防空監視哨跡地の碑→Ⓒ岡谷市の防空監視哨跡→Ⓓ三重航空隊野辺山派遣隊跡地→Ⓔ自宅

5日目

5:00 起床。

5:30 恵那峡SA出発。

7:00 長野県駒ケ根市のすずらん公園にある防空監視哨跡の碑見学。

7:30 コンビニでおにぎり朝食。

平日の朝で店内は混雑していてレジにも行列ができていたのですが、レジに並んでいたおじーさんが自分の番になった時、

ざざーと1円~10円の山を出して数え始めたのでした。。。 ^^; 

8:30 岡谷市の防空監視哨跡到着。

ここの跡地は山の中にあり、「徒歩20~35分」とサイトに出ていました。

車を止めてイザ登ろうとしたら、「森林整備のため12/9まで立ち入り禁止」になってました。。。残念。

悔しいので周辺の写真を撮ってやりました。

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11:00 野辺山駅到着。

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「国立天文台野辺山観測所」。

なんでこんな所に来たかといいますと、ここにもヒコーキにちなんだ場所があるのです。

詳しくは後日記事でアップ致します。

天文台はサッサとスルーするつもりだったのですが、結構見入ってしまいました。

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受付でも携帯持ってないか確認されました。

ここで携帯使ったらどうなるんでしょう?

絵文字が観測されちゃったりするのかしらん。

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三菱製です。

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宇宙からの電波を集めているのだそうです。

オイラも大の字に寝転がって目を閉じ、1時間ほど受信を試みたのですが、何のデンパもキャッチできませんでした(嘘)

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昼食。駒ケ根名物ソースかつ丼。

12:20 野辺山出発。

本当は群馬県太田市の資料館にも寄りたかったのですが、今日中にお得意先に行かないといけない用事があり、

時間的に無理なので自宅へ。

仕事用に身支度を整えて事務所に寄り、お得意先へ向かったのでした。

これで中部・近畿旅行記は終わりです。

長々とお付き合い、ありがとうございました。

 

本日の走行距離:367km

総計:2,178km    21.4km/L


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潮岬(イサデ)飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2022/1更新  


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(昭和9年5月撮影)高度250米 方位N 距離1,500米
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1934年(昭和9年)10月調査資料添付地図 Translation No. 31, 12 March 1945, Airways data: Kinki Chiho (A). Report No. 3-d(29), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

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撮影年月日 1947/08/16(昭22)(USA M413 15)     
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

和歌山県の南端潮岬にあった「潮岬(イサデ)飛行場」。

2011年6月12日にアップした「串本水上機基地跡地」という記事(下記リンク参照)の中で、

「1933年(昭和8年)8月11日付の大阪朝日新聞に『潮岬の海軍のかなり小さな飛行場がある』という記事がありました。」

と書いたのですが、どう調べてもそれ以上のことは分かりませんでした。

その後ひめひじきさんから、この「小さな飛行場」とは、和歌山県‎東牟婁郡‎串本町の「イサデ飛行場」

だということと場所を教えて頂き、今回お邪魔することができました。

ひめひじきさん どうもありがとうございましたm(_ _)m

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第5 昭10-4 近畿地方不時著陸場」に地図があり、

先頭のグーグルマップは、この地図と上に貼った航空写真から作図しました。

地図の北西部分、航空写真と大きく異なっており、特にこの部分は本当に目見当です。

ご了承くださいませ。

赤丸は、水路部の地図に記載のあった着陸地点、青丸は離陸開始地点です。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:潮岬 
建設ノ年:1933 
飛行場 長x幅 米:292.907㎡ 
主要機隊数:小型 
主任務:着陸場 
掩体: 
其ノ他記事:不時着程度ニ使用
 

■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)」の中も当飛行場の図がありました。

ここで示されている飛行場の図は、前述の「航空路資料 第5 昭10-4 近畿地方不時著陸場」の図とはかなり異なっており、

北東~南西方向の滑走路(500mx70m)と、西北西~東南東方向の滑走路(550mx70~130m)がL字形になっています。

西北西~東南東方向の滑走路は凸凹して複雑な形をしています。

先頭のグーグルマップに作図した方の図は昭和10年のものなので、

恐らく後に後者の資料の飛行場に変化したのだと思うのですが。。。

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現地にお邪魔した際、できるだけ飛行場っぽい場所を。ということで撮った「潮岬中学校」。


      和歌山県・潮岬(イサデ)飛行場跡地      

潮岬(イサデ)飛行場 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:和歌山県‎東牟婁郡‎串本町‎潮岬‎
座 標:N33°26′56″E135°45′13″
標 高:54m
面 積:0.029ha
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1933年 建設
1945年 終戦

関連サイト:
和歌山大学/紀伊潮岬 イサデ芝飛行場(2020/12閲覧できず)   
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第5 昭10-4 近畿地方不時著陸場」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)」


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三重海軍航空隊(香良洲飛行場)跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


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撮影年月日1947/04/26(昭22)(USA M265 146) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

三重県一志郡香良洲町の雲出川河口デルタを埋め立てて造成した「三重海軍航空隊」。

海軍飛行予科練習生(予科練)教育隊として開隊しました。

「西の三重、東の霞ヶ浦」と称されるほど、ここ三重空は多くの航空兵を輩出しました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:三重 
建設年:1941 
飛行場長x幅 米:滑空場700x500 
主要機隊数:予科練習生 
主任務:教育 
隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 
其ノ他記事:演習場

■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」

には、「三重空開隊(S17.8.1)(昭16建)」とありました。 

■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)別表 航空基地施設史実調査資料表」には、

基地名 三重(予科練)
所在地 三重県一志郡香良洲町
最寄駅 関西急行電鉄香良洲駅
主要機種 小型、練習機
其の他の主要施設 舟溜、桟橋、射爆場、演習場、隧道等

とありました。

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飛行地区だった辺り。

周辺は立派なお屋敷が建ち並んでいました。なのでレンズ下向きです。

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赤マーカー地点。

歴史資料館があり、ここに三重海軍航空隊の貴重な資料がたくさんある。ということだったのですが。。。

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平成24年2月13日まで耐震補強その他工事中。ということで、タイミング悪く入れませんでした。

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      三重県・三重海軍航空隊(香良洲飛行場)跡地     
元々は地名から「香良洲(からす)飛行場」として建設が始まったのですが、「軍用飛行場にカラスでは勇ましくない」ということで、「三重海軍航空隊」になったのだそうです

三重海軍航空隊 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:三重県‎津市‎香良洲町‎小松‎
座 標:N34°40′17″E136°28′46″
標 高:3m
面 積:130ha
滑空場:700mx500m 
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1941年    建設
1942年08月 1日 三重空/海軍飛行予科練習生(予科練)教育隊として開隊
1945年08月 終戦、解隊

関連サイト:
歴史の情報誌/三重海軍航空隊  
ブログ内関連記事
    

この記事の資料: 
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)


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八日市陸軍(沖野ヶ原)飛行場跡地 [├空港]

    2011年10月、2018年5月、2023年10月訪問 2023/10更新  


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1/25000「八日市」大正9年測図「今昔マップ on the web」から作成 
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(昭和7年7月撮影)高度500米 方位ESE 距離1,500米
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1934年(昭和9年)10月調査資料添付地図 Translation No. 31, 12 March 1945, Airways data: Kinki Chiho (A). Report No. 3-d(29), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

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撮影年月日 1946/07/16(昭21)(USA M197-A-3No1 53)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

滋賀県‎東近江市にあった「八日市陸軍飛行場」。

■防衛研究所資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に要図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました

同資料内に飛行場情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも

「八日市陸軍飛行場 滋賀県神崎郡御園村 35°5′6N 136°13′0E」として、以下全く同じ記載がありました。

面積 南北1,450米、東西1,000米 総面積158萬平方米
地面の状況 芝地にして平坦且堅硬なり、1,2月は積雪120乃至200糎に達す 格納庫前面に長さ470米、幅40米の舗装せる整備場あり
目標 八日市町、愛知川
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口25米、奥行60米)3棟、其の他5棟あり
照明設備 障碍物標示燈あり
通信設備 場内に陸軍航空無線通信所あり
観測設備 場内に陸軍気象観測所あり 毎日航空気象を観測す
給油設備 場内にて補給可能
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 夏季は南風、其の他は概ね北風
地方特殊の気象 晩秋より冬季に亘る間は天候屢急變し降雨又は降雪を見ることあり
交通関係 八日市町より電車及「バス」の便あり
其の他 本場は飛行第104教育戦隊、第8航空教育隊及陸軍航空廠八日市支廠にて共用す
(昭和18年4月調) 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  八日市
位 置   滋賀県神崎郡御園村
規 模   要図(東西1100 南北1400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一一〇〇名分
 格納施設 飛行機庫 七棟
      三〇〇〇平方米二棟
      二六〇〇平方米一棟
      一六〇〇平方米三棟
摘 要   施設軍有

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赤マーカー地点。

飛行場敷地内は現在こんな感じ。

住宅地がかなりの割合を占めています。

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黄マーカー地点。

玉園中学前に設置されている碑。

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碑の裏側。

沿革(説明部分のみ) 昭和十二年十二月十日第八飛行団隷下で 旧満州國牡丹江省海浪 飛行第十六連隊より 部隊編成に依り(第八飛行教育隊)が設立され 昭和十二年徴収兵を第一期とし 飛行兵としての特業 基礎教育が実施され 昭和十六年二月九日改正に依り 中部第九十八部隊(第八航空教育隊)として 滋賀県神崎郡御園村に移駐 昭和二十年八月十五日 終戰に至る迄 此の地に於いて幾萬の兵士が 航空機の技術を修得し護國の念に燃え 南溟又北満の戰場に飛び立って行った土地である。(以下芳名録省略)

滋賀県平和祈念館で頂いたパンフレットに従って掩体壕を見学させて頂きました。

DSC_0187.jpg

Pマーカー地点。

ここは頂いたパンフレットに駐車場として記載されていました。

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青マーカー地点。

まずは駐車場から遠い方の掩体壕。

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飛行機「掩体壕」(全文)
 この掩体壕は、大戦中の昭和19年(1944)米軍による日本本土空襲が激しくなることが必至と見られるにいたり、軍部では、飛行機を空襲から守るために、各航空基地の周辺に急いで作られたものです。この掩体壕は小型機用のもので、八日市市には現在この他もう一ヶ所残っており、八日市飛行場の語りべとして貴重な存在です。

注釈
 掩体壕は至近弾の破片は防ぎましたが、爆弾の直撃には耐えられませんでした。一方上空から隠蔽(隠す)する目的もあったので壕の上部は土で覆い、草木が植えられてありました。飛行場からこの掩体壕までは、応急の道路が作られましたが、
地盤が軟弱な箇所ではタイヤがめり込んで大変でした。それで軟弱なところへは栗石を大量に投入したり丸太を敷き詰めて
急場を凌ぎました。また、警戒警報が発令されると、総出で飛行機を掩体壕まで押していき、警報が解除されると再び飛行機を飛行場へ戻す作業が毎日繰り返されたのでした。現在、大阪の八尾飛行場の付近にもこれとほぼ同規格の掩体壕が残されています。八日市市 生活環境課

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紫マーカー地点。

こちらは駐車場から近い方の掩体壕。

説明板(全文) 飛行機 掩体壕 この掩体壕は、大戦中の昭和19年(1944年)米軍による日本本土空襲が激しくなることが必至と見られるにいたり、軍部では飛行機を空襲から守るために、各航空基地の周辺に急いで作られたものです。この掩体壕は小型機用のもので、八日市市には現在この他もう1個所残っており、八日市飛行場の語り部として貴重な存在です。
注釈 掩体壕は至近弾の破片は防ぎましたが、爆弾の直撃には耐えられませんでした。一方、上空から隠蔽(隠す)する目的もあったので壕の上部は土で覆い、草木が植えられてありました。応急の道路が作られましたが、地盤が軟弱な箇所ではタイヤがめり込んで大変でした。それで軟弱な所へは栗石を大量に投入したり丸太を敷き詰めて急場を凌ぎました。また警戒警報が発令されると、総出で飛行機を掩体壕まで押していき、警報が解除されると再び飛行機を飛行場へ戻す作業が毎日繰り返されたのでした。現在、大阪の八尾飛行場の付近にもこれとほぼ同規格の掩体壕が残されています。八日市市

両方の説明版はほぼ同一のものですね。

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赤マーカー地点。

八日市飛行場の沿革(全文)
 大正三年十月二十二日、当時、フランスで『万国飛行免状』を取得した愛知郡泰荘町出身の荻田常三郎氏が、フランスからモラーヌ・ソルニエーと呼ぶ飛行機を持ち帰り郷土訪問飛行を敢行、故郷に錦を飾ったその時、飛行場として使用したのが古くから大凧揚げの場として知られていた八日市の冲之原であった。
 飛行に大成功した後の祝賀会で、荻田氏は『冲之原は飛行場として、地質も気象条件も最適である』と言明し、将来は飛行士を養成する『飛行学校の設立を期している』旨の決意を述べた。
 これを契機に、当時の横畑耕夫八日市町長を委員長とし、篤志家・熊木九兵衛氏の協力の下に、町会議員全員で『八日市飛行場設立委員会』を組織、直ちに八日市飛行場実現に向けての行動を始めた。
 その後、名称を『滋賀県八日市飛行場期成同盟会』と改め、総事業費三万円の大半を篤志に求めて、大正四年四月十九日、冲之原において地鎮祭を挙行、八日市飛行場造成工事に着手した。今から七十八年前のことである。
 同年六月末には早くも四万三千坪(約十四ヘクタール)の飛行場が完成し、これがわが国民間飛行場の草分けとなった。同時にこの位置(修交館・後に公会堂となった)に『翦風飛行学校』が創設された。
 八日市飛行場が完成すると、チャールス・ナイルス、アート・スミス、フランク・チャンピオン等、著名な外国人飛行家が八日市を訪れ、飛行技術の妙技を披露した。また大正五年には、中華民国の革命家、孫文の依頼で中国の青年義勇飛行士の養成訓練が行われ、八日市飛行場は一躍国際的な名声を博するに至った。さらに大正十年には、飛行場を拡張、陸軍飛行場として寄付採納され、岐阜県各務原の陸軍航空第三大隊が移駐し同隊は間もなく飛行第三聯隊に昇格した。その後も飛行場は拡張を重ね、昭和二十年には、その規模も実に五十万坪(百七十ヘクタール)兵員三千名を超える大航空基地となったが、同年八月、終戦によって総てが潰え去った。
 然しながら、この飛行場建設に際しては、当時の小学生が一人二十銭、県立中学生が五十銭、大人が一円(当時の一円は、今の三千百二十九円程度・滋賀銀行調べ・米相場から)と文字通り当時の八日市町民を挙げての浄財の篤志と、募金活動の先頭にたった先覚者たちの進取性と実行力に、限りない敬意と感謝の念を禁じ得ない。そしてその偉業が今、ふるさと八日市を、わが国の『民間飛行場発祥の地』とした誇り高い歴史を永遠に伝えると共に、飛行場建設に際して献身的な努力と、多額の浄財を寄せた先人の遺徳を偲び、謹んでこの記念碑を建立する。
 平成四年八月吉日 八日市市長 望田宇三郎* 八日市市観光協会長 久保謹吾


八日市市長のお名前、「宇」は本当はうかんむりの下は于じゃなくて、一+丁(IMEパッドで出ない)。

民間飛行場から始まったのですね。


      滋賀県・八日市陸軍飛行場跡地      

八日市陸軍飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:滋賀県神崎郡御園村(現・東近江市‎尻無町‎)
座 標:35°5′6N 136°13′0E
標 高:139m
面 積:158ha
着陸帯:1,450m×1,000m
(標高はグーグルアースから)

沿革
1914年09月 荻田常三郎氏、八日市町の沖野ヶ原を整地した臨時の飛行場にて「飛行会」を開催
       (現地説明板には同年10月22日とあり)
1915年04月 19日 地鎮祭。八日市町、飛行場の造成に着手
     06月 「沖野ヶ原飛行場」完成。14ha。翦風飛行学校創設。利用がほとんどなく、軍を誘致することに
1916年     中国の青年義勇飛行士の養成訓練
1921年     拡張、陸軍飛行場として寄付採納
1922年01月  陸軍の「八日市飛行場」に改称、航空第3大隊の開隊式が行われる
       その後部隊の変遷、敷地の拡張が続く
1945年07月 米軍機との戦闘が行われる
     08月 終戦、接収後一部は地主に返還、 外地からの引揚者に農地として払い下げられる
1992年08月  民間飛行場発祥地碑建立


関連サイト:
八日市飛行場      
ブログ内関連記事     

この記事の資料:
現地の碑文、説明版
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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近江八幡ULP飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


無題d.png
撮影年月日1995/05/27(平7)(KK952X C19 7) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

滋賀県‎近江八幡市‎にあった「近江八幡ULP飛行場」。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

航空写真からすると、250mx250mの敷地をX形に使っていたように見えます。

D20_0052.jpg

赤マーカー地点。


      滋賀県・近江八幡ULP飛行場跡地      

近江八幡ULP飛行場 データ
種 別:場外離着陸場
所在地:滋賀県‎近江八幡市‎南津田町‎
座 標:N35°09′06″E136°04′37″
標 高:88m
滑走路:160mx2本?(02/20)、(11/29)
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
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中部・近畿旅行・4 [■旅行記]


Ⓐ竜王かがみの里→Ⓑ近江八幡ULP飛行場→Ⓒ八日市陸軍飛行場跡地→Ⓓ三重海軍航空隊跡地→Ⓔ潮岬飛行場跡地→Ⓕ恵那峡SA(車中泊)

4日目

5:00 起床。

5:35 出発。

11km先のULP飛行場跡地へ。

その後、「八日市飛行場跡地」の掩体壕見学。

ULP飛行場跡地、八日市飛行場跡地、共に以前お邪魔していたのですが、

その時には情報が不確できちんと写真が撮れず、またお邪魔したのでした。

この2ヵ所は道の駅の近くだったのですぐに見終わり、次に三重県の「香良洲飛行場跡地」へ。

ここも前回お邪魔したのですが、ハッキリしないことが多かったので記事をアップせずにいたのですが、

その後、跡地に「歴史資料館」があり、飛行場関連の展示が充実していることを知ったので、

再訪することにしたのでした。

DSCN0063.jpg

途中ガストで朝食。

9時に香良洲飛行場の歴史資料館に到着してみると、「耐震工事のため休館中」という看板が。がーん。

戻ってからネットで調べてみましたが、上位にきている当館のサイトには休館のお知らせが出てません。

市の関連サイトでやっと休館の告知を見つけたのでした(;´Д⊂)

仕方ないので外に展示してある史料など見学しました。

次の目的地は203km先の和歌山県潮岬にある「イサデ飛行場跡地」。

実は1年前に「串本水上機基地跡地」見学ですぐ近くまで来ていたのですが、

その時には「イサデ飛行場跡地」の場所が分からず、またお邪魔することにしたのでした。

和歌山県の突端目指して国道42号をひたすら南下。

途中、お握りの昼食と給油。

初日からここまで秋晴れのいいお天気に恵まれたのですが、

本日オイラが向かう先は、「曇り、午後から雨」の予報でした。

そして昼前からザーザー振りの雨に。

今日はこの後、ここしか予定がないからまあいいや。

三重県内で給油の際、スタンドのおぢさんから「おおきにどーもー」と言われました。

「おおきに」って京都の言葉だと思っていたんですが、三重県でも使うのでしょうか。

14:00 「イサデ飛行場跡」到着。激しい雨の中撮影。

次の見学地は長野県駒ケ根市にある「防空監視哨の碑」なのですが、

もう高速を使っても今日中に近くまで辿り着くのは時間的にも体力的にも難しいです。

どこまで行けるか分かりませんが、とにかく長野を目指すことに。

今日はお風呂に入りたかったのですが、高速にのってしまうともう今日は入れないので、

15:10 某ホテルの風呂に入ることに。

ところがフロントの方に、「さっき火を入れたばかりなので、16時からしか入れないんですよ~^^;」

と言われてしまいました。

実はココ、行きに目を付けておいた、通常1,000円の入浴料が500円になっているところだったのです。

残念ですが仕方ありません。

高速に乗るまでに他の温泉に入ればいいや。と思ったのですが、結局その後温泉は現れませんでした。

このホテルの手前には結構営業中の温泉があったのですが。。。

17:00 三重県の道の駅・海山にてお握り夕食。

18:00 紀勢大内山ICから紀勢伊自動車道に乗りました。

18:30 頃に香良洲を通過。 9:18 に香良洲の歴史資料館を出発し、潮岬で1カ所だけ見学してとんぼ返り、

9時間かかってやっと香良洲に戻ったことになります。

その後愛知県に入って中央道に乗り、岐阜県に入ったあたりでもーダウン気味に。

21:18 恵那峡SA到着。肉うどんの夜食。

このSAは何度か利用しているのですが、車中泊で利用するのは初めてです。

こういう大きなSAだと、一晩中トラックの出入りがあって、音が気になったりするのですが、

奥の方に普通車専用の駐車スペースがあり、静かで利用しやすかったです。

22:00 寝る。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:676km

(続きます)


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長田野離着陸場 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



京都府‎福知山市にある「長田野演習場」。

敷地内に「長田野離着陸場」があります。

D20_0032.jpg

なんとか滑走路が見えないものかと県道525号線をウロウロしたのですが結局見つかりませんでした。

D20_0034.jpg


      京都府・長田野離着陸場      

長田野離着陸場 データ

設置管理者:防衛省
種 別:離着陸場
所在地:京都府‎福知山市‎長田野町‎3丁目
座 標:N35°17′07″E135°10′53″
標 高:79m
滑走路:600mx20m?
方 位:17/35
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

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舞鶴非常用滑走路跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


無題c.png
撮影年月日1947/11/01(昭22)(USA M628-2 402) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

京都府‎舞鶴市を走る国道27号線。戦時中は非常用滑走路でした。

名称不明のため、当記事では便宜的に「舞鶴非常用滑走路」とさせていただきました。

この直線道路の具体的にどこからどこまでが滑走路として設定されていたか不明のため、

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真からオイラの主観で線を引いています。

片側2車線で、グーグルで測ったところ、約950mに渡って直線でした。

D20_0029.jpg


      京都府・舞鶴非常用滑走路跡地      

舞鶴非常用滑走路 データ

種 別:非常用滑走路
所在地:京都府‎舞鶴市‎余部上‎
座 標:N35°28′14″E135°21′56″
標 高:13m
滑走路:950m?
方 位:02/20
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
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