沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト、浦添)飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
①撮影年月日1945/01/03(USAokinawa 5M3B 9)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも)
②撮影年月日1945/12/10(USA M22 41)■
沖縄県浦添市にあった「沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト、浦添)飛行場」。
現在は米海兵隊の「キャンプキンザー」になっています。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」の中に、
「沖縄南飛行場構成(進捗状況)計画要図」があり、
先頭のグーグルマップは、この「要図」から作図しました。
「要図」がおおまかなもののため、①の航空写真の地割を優先して作図しました。
おおよそこんな感じと思います。
「要図」には 滑走路部分について、「舗装既成」とあり、1350M 50m と書かれていました。
「要図」に書き加えられている情報を以下引用させていただきます。
判決
沖縄南飛行場は飛行場の骨幹を既成せるのみなるを以て
更に補備増強を行と目的に鑑み飛行場構成に関し検討し決
定するを要す
元々この飛行場は旧日本陸軍の小型特攻機用飛行場として建設されたのですが、
結局日本軍が使用することはありませんでした。
①の航空写真は1945年1月撮影、日本軍当時の飛行場の様子です。
沿革にも書きましたが、上陸した米軍は、1945年6月から僅か7週間で駐機場を含めて拡張整備しました。
②は1945年12月撮影なので、整備拡張開始から半年後の様子です。
滑走路両サイドの充実ぶりが凄いです。
また滑走路自体は、南側もそうですが、北側に大きく延長しましたね。
米軍はこの飛行場を、「マチナト飛行場」、「マチナト・ポイント飛行場」と呼んだのですが、
これは飛行場北側にある「牧港」からきているようです。
「牧港」は、「まきみなと」とも「まちなと」とも呼ばれています。
前記事の地図でも少し描きましたが、沖縄には日本軍が建設計画した飛行場がたくさんあり、
島民も多数動員されたのですが、それらは結局有効に活用されることなく放棄されてしまいました。
どうしてこんなことになってしまったのか、「沖縄戦研究Ⅱ」という資料にその経緯が書かれていました。
少し長くなってしまいますが内容をかいつまんで書いてみます。
資料によりますと、当「牧港飛行場」の工事が始まった時、既に伊江島、読谷、嘉手納の大規模飛行場建設が始まっており、
それに加えて陸軍は前記事の「石嶺飛行場」、「西原飛行場」を小型特攻機用の発進基地として新設建設計画に追加しており、
海軍も「与根飛行場」を計画していましたた。
沖縄本島の中南部地域で陸海軍合わせて7カ所の飛行場建設が同時並行して進められることになり、
未曽有の工事ラッシュとなりました。
当飛行場と前記事の西原飛行場はセットで建設されたようです。
工事に従事する労働力は、地元浦添村を中心とする中頭郡から労務者を徴用して充当しました。
当初の予定では両飛行場に各3,000人の基準で割り当てられたのですが、
既に各飛行場の作業に大勢の人が徴用された後であり、実際には1,000人から2,000人程度しか確保できませんでした。
給食は他の飛行場と同様に、主食は県から特別配給を受け、野菜や肉などの副食物は地元農家に供出が割り当てられました。
このため管区の牛、馬、豚はすべて部隊に登録され、農家各戸に割り当てて公定価格で供出させました。
飛行場は特攻用の小型機を発進させるのに必要な1,500mx200m規模の南北に伸びる単線滑走路が計画されたのですが、
緊急建設であるため工期を二期に分けて行い、第一期は5月中に1,500mx50m規模の中央滑走路を既成し、
第二期の6月~7月に幅員を200mまで拡幅して完成させる計画で、滑走路の中核部分は地元の国場組が請け負いました。
しかし、計画通りに機材や労働力が確保できず、工事は計画通りに進めることが困難でした。
そのため中頭郡内から動員された石工や徴用労務者の他に
婦人会、青年学校、国民学校、役場などの勤労奉仕隊も作業に参加しました。
近在者は道具と弁当を持参して通勤し、遠距離の者は寝具を持参して学校や民家に宿泊して1日11時間の重労働に従事しました。
食事は芋ご飯とみそ汁という粗末なもので戦時下の物資不足はいよいよ底をついた感があり、
軍直営の工事であるため作業は監督将校の監視の下で進められ、規則違反者には厳しい体罰が加えられました。
土木機器は、軍のトラック2台と嘉手納の製糖工場から供出されたトロッコの他には、
荷馬車と鍬、ツルハシ、スコップ、モッコなどの原始的な道具しかなく、
老幼男女の民間人と軍人が混在しての人海戦術で作業は進められました。
このため部隊は軍の規律保持と防諜対策に神経を尖らせ、将兵と地元住民の間にしばしば摩擦が生じ
対立的感情がただようこともあったようですが、一般に住民は「郷土防衛」という意気に燃えて積極的に軍に協力しました。
各家庭では兵役や徴用などで男手が引き抜かれた後に、さらに飛行場建設と陣地構築に労務徴用が課せられ、
さらに用地の接収、食糧供出、資材供出などが相次ぎ、各自の農業は夜間の星明りを利用して行う状態が続き、
このため戦時食糧の生産や貯蔵が滞り、疎開準備などに支障をきたすなど、文字通りの滅私奉公を強いられ、
結果として米艦隊が包囲する孤島に数十万人の一般住民が閉じ込められることになりました。
6月下旬、絶対国防圏の防壁をなすサイパン島が米軍の攻撃を受けました。
このサイパン戦の教訓から、来たるべき航空作戦を遂行するためには、
米軍の猛烈な砲爆撃に耐え得る飛行場の建設が不可欠であるとの判断が下されました。
第19航空地区司令部は先行している伊江島、読谷、嘉手納に緊急に補強工事を施すべく、
従来の分散並行方式を中止し、3飛行場に労力を集中させて一挙に航空要塞を完成させるべく方針を変更しました。
6月29日、地区司令官は「牧港飛行場」と「西原飛行場」の工事に従事している第3飛行中隊の設営隊に
伊江島、読谷、嘉手納への移動を命じました。このため浦添と西原の工事は一時中断となりました。
中核の3飛行場に労力と機材を集中して緊急工事が実施され、
既設の滑走路に誘導路、掩体壕、燃料集積所、弾薬集積所などが設営されました。
集中工事中の7月7日、焦点のサイパン島が陥落。
大本営は台湾、南西諸島の防備を緊急強化する必要に迫られ、さらに作戦方針を大転換し、
7月24日付けで航空決戦を中軸とする「捷号作戦計画」が決定されました。
これに基づき大本営は専門将校を沖縄に派遣して飛行場建設の状況を視察させたのですが、
全般的に工事は遅れがちで目下の戦局状況に対応できる状況ではありませんでした。
大本営は第32軍に工事の促進を督促しました。
このため軍司令部は6月下旬以降続々配備された第9,24,28,62の各師団等の地上戦闘部隊を
飛行場建設に投入するという非常手段を決行しました。
これら戦闘部隊はそれぞれの区処で地域住民を動員して突貫工事で陣地構築に取り組んでいる最中だったのですが、
軍司令部の命令により飛行場の整備に振り向けられたのでした。
軍は中止していた牧港飛行場に第62師団の主力を投入し、第3飛行中隊と共同して工事を再開させました。
9月22日から工事は再開され、不眠不休の突貫工事によって9月30日、牧港飛行場は一応の完成をみました。
しかし、飛行場建設の途中から戦局はいよいよ悪化し、
沖縄本島への航空部隊の配置も見込めないままに米軍上陸が必死の状況となりました。
牧港飛行場の緊急工事に配置されていた第62師団はそのまま浦添一帯に駐屯し、
地上作戦に向けた陣地を構築しなければならず、飛行場の強化工事は二義的となりました。
1945年4月1日、米軍は北谷海岸に上陸、その主力は首里城の沖縄守備本部を目指して南進して来ました。
日本軍の航空作戦は不発に終わり、牧港飛行場は使用されることなく放置され、
代わりに第62師団が地下陣地を構える浦添丘陵地帯で一進一退の激戦が40日以上も続くことになったのでした。
1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、
「沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」(下記リンク参照)にこんな一節がありました。
「南(仲西)飛行場は、8時30分に機銃掃射を受け、3人の兵隊が死傷、午後になると爆弾が投下された。」
また同12コマ目にはこうありました。
「第32軍は、3月10日には伊江島飛行場の破壊を命令、さらに3月30日には読谷・嘉手納飛行場が米軍攻撃で使用不能になり特攻配備が絶望となるや浦添飛行場滑走路の破壊を命令した。このように心血を注いで建設された飛行場は当初の目的に使用されることはなかった。」
赤マーカー地点。
滑走路方向。
青マーカー地点。
沖縄県・沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト)飛行場跡地
沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍→米軍
種 別:小型特攻機用飛行場→日本本土爆撃用飛行場
所在地:沖縄県浦添市宮城
座 標:N26°15′18″E127°42′00″
標 高:25m
滑走路:1,350m→2,130m
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年05月 旧日本陸軍飛行場設定隊起工式
09月 完成
10月 十・十空襲。8時30分の機銃掃射により3人の兵隊が死傷。午後に爆弾投下
1945年06月 1日 米軍による拡張整備着工、7週間で完成。本土爆撃に使用される。
関連サイト:
沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (7コマ目)
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この記事の資料:
「沖縄戦研究Ⅱ」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」